僕は機械が好きだ。
電子制御されていない機械の動きが好きなのだ。
デジタルに支配されつつある世界にあって、僕は抵抗し続けている。
カメラは正直、僕が生まれた頃には電子化されつつあって、ものごころついた時には電子化された製品しか触れる機会がなかった。
家族の写真は「バカチョン」カメラで撮るのが通例で、その「バカチョン」カメラは母のタンスの最上段に仕舞われていた。
所謂、コンパクトカメラで、フィルム送りも自動。極当たり前に僕でも使えたことを覚えている。
電子化が進む時代の中、「マトモな」機械に触れず育ってきたせいか、今頃になって機械式の道具に魅力を感じている。
人間が楽するために、標準化するために作られた道具に異存はない。
寧ろ、楽して標準化すべきところはそうすべきであると僕も思うが、趣味の世界では、苦労こそが楽しく、個性こそが大切なのだ。
苦労なく使える道具で、誰もが当たり前のことをして出てくる作品に感動はない。
アーティスティックに写真をいじり倒した作品は「そういう」カテゴリで見れば魅力はあるが、写真としての魅力は、残念ながら僕は感じ取れない。
撮ったままの写真。
それが、僕に撮って一番魅力的で、魅惑的なものなんだ。
だから、デジタルカメラから入った僕は、今機械式カメラで写真を撮っている。
フィルム関係のコストがものすごくかかって酷い目にあっているが、お陰様で、禁煙が捗りそうである。
デジタルカメラでも良い絵は作れるけれども、フィルムカメラで撮った写真は、唯一無二だと感じてしまう。
例え失敗した写真でも、何故かそれは捨てられず失敗写真だけを集めたアルバムに入れてしまう。
デジタルカメラでは、きっと消してしまう写真にも愛着が湧き、その時の情景を思い出す。
そうこうしているうちに、デジタルカメラの失敗写真を消せなくなってしまった。
ボタン一つで消滅するデータにも、世界が凝縮されている。そのことを忘れないように今後も写真を撮ろう。
電子化された、機械式カメラよりも若いカメラが僕の加齢とともに壊れて行ったとしても、機械式カメラを整備して、直して、僕はフィルムで撮り続けよう。
壊れたカメラを捨てずに取っておこう。また、壊さないように使用頻度を抑えるべく機材を増やそう。
機械を保持して子供達に譲ろう。
君たちの生まれるはるか昔の機械をその手に取らせよう。
機械は人よりも長寿だ。
壊れなければ。
いや、壊れたとしても、再生できる。
日本人として、八百万の神が住まう国の民として、僕の道具、機械式のカメラや時計に付喪神が宿るまで、僕は機械を使い続けるよ。
直す技術を、部品を作る技術を好みに刻むよ。