ledcannon’s diary

美作古書店

自分と素人

昨今、ハイアマチュアな日本人が多くて良い時代になったなぁと思いながら、現在ハマっている趣味のカメラ界隈でアマチュアとプロの差を色々と考える。

正直、お金を積めば良い機材を購入出来るし、お金を積めばプロから良い指導を受けられる良い時代になっている。

時間がない人は本を読めば知識を得られるしと、暗い話題はなさそうに思えるのだが。

プロとアマチュアに差がなくなっていくような錯覚をきっとアマチュアはしてしまうのだろう。そして、アマチュアがアマチュアである折角のチャンスをプロ顔負けの成果物で自ら潰してしまっているように思えて仕方ない。

自分はアマチュアである事に誇りを持っている。技術や経験を積んだとしてもプロに絶対にならないぞ、という気概を持って生きている。

この想いは中々理解され難いところだろうと思う。

自分くらいの技術であれば機材を揃えてもそこまで凄い成果物を作る事が出来ない事はわかっているし、敢えて高い機材を買おうと思わない。デジモノの製品寿命が短い事を深く理解しているし、流行り廃りに関しても「流行」を生み出す側に立っていた事もあるので理解してしまっているからだ。

では、自分がどんなアプローチで今写真に取り組んでいるか、というと。古い機材を中心にしてどこか懐かしさがあるモノを切り取りたいという想いで「追憶」をテーマに日々を撮り続けている。

無論、プロではないので撮り零しや仕事の兼ね合いでシャッターチャンスを逃す事が多いが、其れは心のカメラで記憶に留めておく。似たようなシチュエーションでちゃんと写真を撮れるようにね。

心に撮った写真は機材を通して撮った写真との比較対象になるし、フィルムでもデジタルでも成果物といつも比較している。有難い事に今まで心の写真と現実の写真に酷い乖離がないので、ある意味この手法は自分の技術として今後も続けていこうと思っている。

自分の使用機材は以前に書いたかもしれないがNikonが其の殆どを占めている。何故かの理由はこれまた以前に書いたと思うが、初めて手に取って使ったカメラが妻の所有していたD40で、自分以外の家族がCanon党だからという単純なモノだ。

あとは現像前の撮って出しの状態で自分の目を通して見た風景に近い絵が出てくる事もNikonを選んでいる重要なファクターの一つである。

Canonは大袈裟なんだよね。5D等々を父が持っているので試写した事があるんだけれども自分の好みの絵が出てこなかった。綺麗ではあるけどただ綺麗なだけの写真が吐き出されてくる。これには参った。一般的に綺麗な写真の方がウケは良いんだろうけど、根っからの捻くれ者であり、他人が言うには芸術家気質の自分には紛い物に見えてしまったのだ。

自分の目を通してみた風景と現像前とはいえ出てきた写真との乖離が酷過ぎて、翻訳ソフトを使って小説を書いているような違和感があったわけ。これは道具としてダメだろうと、思ったように描けない筆で絵を描く人は先ずいないだろう。そう言う事である。

自分の追憶の為に写真を撮るのだから、自分の見た情景と差があったら違和感しかないんだ。そうなると、Canonは選択肢から外れてしまった。

勿論、こうやって語るからにはPentaxやFuji、Olympusも試したし、Panasonicも父が持っていたので試してみている。PentaxとFujiはかなり自分好みだったが、投資金額に見合わない事が理由で機材は購入しなかった。

結局、NikonのF2、EL、Df、D40、D3400、A900というラインナップで自分の機材は固定された。この機材選びにも自分なりの拘りがあって、全て非Aiのレンズが使用出来るという縛りの中で選んだ機材である。一時、D5600を保有していたが、自分の用途に合わず、友人に譲りD3400を購入したのだ。

日本人はなんでも一つの機材で出来る事に利便性を感じる国民性だが、自分は何かに特化した機材に魅力を感じる性癖なので、フィルムカメラは全く以って使用していても苦痛にならないし、使えば使うほど自分の手足の延長線になっていく感覚が気に入っている。デジタルも一部の機材はそうなのだが、オートメーションは良し悪しがあって、現時点での自分の用途に全く合わないので、デジモノの高級品に手を出す事はしばらくなさそうである。

表題の「自分と素人」だが、あくまで自分は素人だ。プロではない。不特定多数の人間に自分の成果物を売って生計を立てようなんて更々思っていない。だからこそ、自分が嘘偽りなく納得できる成果物を生み出したい訳だ。

其れ故に機材に拘りがあるし、そう、例えば、「絶対に」この道具を使って、この表現を出す!なんて事を思って写真を撮っている。勿論、無理なところもあるのだが、無理と判断するのは突き詰めて突き詰めてどうしようも行かなくなった時で良い。其れがアマチュアの良いところだと思うのだ。

プロはそうは行かない。納期がある。色々試すなんて時間もない現場だってある。そこで自分の知識と経験と機材とを一つにして成果を絶対に出さなければいけない。自分には無理だ。大多数の人にとっても無理だろう。だからプロはプロなのだ。

マチュアはそういう制約が少ないわけで。自由に写真を撮れる。失敗しても困るのは自分だけだろう。クライアントがあるわけでもない。プレッシャーもないだろう。そんなアマチュアとプロには大きな隔たりがある。

無論、アマチュアの自由さでプロよりも良い写真が撮れるだろう。でも、其の良い写真が撮れる確率はプロに比べると奇跡のような確率なんじゃないだろうか。

自分は絶対にプロにはならない。誰かの為に写真を撮りたいと思わないから。自分の為の写真を撮り続ける。

万が一、自分の写真が人に評価されたとしても、其れは奇跡だよ。そして、嬉しくない。小説を自分の為に書いていた時、人に評価された作品があった。でも、嬉しくなかったし、結局人のために書いているような気になって筆を置いた。捻くれ者だから。

そんなこんなで自分は素人であり続けようと思う。