ledcannon’s diary

美作古書店

自分と機械

はてさて。

自分と言うモノの境界が虚に感じる様に成って半年以上が経過したが、未だに自分を取り戻せていない。

会社に居続けて得られるモノは既に無いと判りながらも、日々の生活費の為に自分を切り売りするしかない歯牙無い創作者と思えてくる。

消費財は単純に消費されていき、色んな所から生み出した通過は其の宿命の通りに流れていく。

何とか自分を自分に繋ぎ止めてくれているのは最早、カメラと其れで生み出す写真だけの状態であり、小説を書く時間もなく、其の他の創作活動は自分の血肉に成らず、もがき続けるだけの日々、酒に逃げてフリーのゲームに興じて、時間を垂れ流し続けている。

此れは生きているのかと、自分に問い掛けるも、返答も無く。

余財を捏ねくり回して、つまらない機材を買い集める。

モノに執着する傾向が自分に在るのは判っている。

蒐集は自分のライフワークだから。

色んなモノを使い、色んな経験をして、其れを自分の作品にフィードバックさせる事。

創作こそが自分の生きられる場所とも判っている。

不慮の事故にて買って半年もしないコンデジの外装を破壊してしまい、予定外の出費が発生する事が判っているし、其れを直して何になると言う自問自答も在るのだが、其れは自分の中で新品で買った道具なので、出来れば綺麗な外装の儘死なせてやりたいと言うエゴの現れと自己分析もしてしまう位。

D40の買い増し以来。

D40にレンズを買い足して以来。

SX−710SHを買い、D5600を買い、D3400を買い、Dfを買い、F2に行き着いて、A900を日常のスナップ用に購入した。

其の間、F2は4台にまで増え、D40も3台に増えている。

ELなんて使い勝手に困るモノも3台在れば、SUN & CLOUDなんてトイカメラも買っている。

過去の遺物と失笑を買いそうなコンデジなんかもジャンクで拾って来ては試し撮りして防湿庫へ放り投げている。

嗚呼。

自分の方向性が今、判らない。

何処へ進むべきか判らない。

判っているのだろうけれども、進みたい方向へ進めないもどかしさが精神を絞り上げていくのだ。

消耗している。

フィルムカメラの限界が判っているが、また、限界に対して可能性を見出している。

デジタルカメラでは自分の欲求を満たせない。

お手軽なのは間違いなく、撮りたい時に撮りたいモノを撮れる利便性も判っている。

でも、其れだけなのだ。

フィルムカメラのフィルムを装填する行為、シャッターの空打、フィルム送り、状況に応じて絞りを決めて、シャッタースピードを選び、ピントを合わせて、シャッターボタンを押す。

煩雑で、面倒な此の行為に自分は写真を撮る、と言う意味があるのだと感じるのだ。

写真は結果で。

自分の選んだ刹那を世界から切り離す為に、自分が何を思い、何を感じ、何を願って、シャッターを押すまでの儀式を行うのかが、自分にとって大切なのだ。

其の為に写真を撮っていると言っても過言ではない。

コンセントレーション。

其の行為に自分は自分との対話をする。

便利になるのは良い事なのか。

いや、便利とは抑何の事を指すのか。

全て自動で行われるモノに対して、自分は便利さを感じられない。

文章を書く行為に関しても、コンピュータやワープロを使うよりも手書きの方が便利だとすら思う事も在る。

其れこそ、手書きであれば、字に其の時の感情を込める事だって容易なのだから。

今、写真にはまっているからこそ。

デジタルカメラの性能の凄さは良く判っているが、オートの部分に関しては不便さを感じてしまう。

ピントや絞りを自動で合わせてくれて、ISO感度を自動で調整してくれて、連写だって自動だもの。

とても便利なモノだとは思う。

でも、一枚一枚に感動を覚えられないんだ。

自分の執念で撮った一枚と胸を張って言える絵が出てくる事がないから。

例え、其れがマニュアルフォーカスのマニュアル露出だったとしても。

何か、自分の意図しない異物が間に在るのを感じてしまうから。

だから、自分は出来るだけ意思を持たない道具に愛着を覚えるんだ。

機械式。

操者の意図を顕現してくれる道具を。