ledcannon’s diary

美作古書店

自分の未来

38年の時を過ごしてきた。

ここ10数年ずっと自分を取り戻したいと思い過去の事を思い出そうとしたり、色々な刺激を得る為に読書をしたりしている。

然し、この1年間困った事に何も見つけられない上に今まで在ったモノが無くなっていく感覚が増え、喪失感と焦燥感だけが心の奥底で燻り続けている。

バイクに乗り始めた2013年。既に5年経過してしまった。特にこれといった使用もなく、このザマだ。まあ、家族が2人増えたと言うこともあるが、友人達の乗りっぷりを見ていると良いなと思う事もある。

また、Magic The Gathering も復帰したものの半引退状況である。やりたい事をやり始めたものの、環境に引っ張られて継続が難しくなってしまっている。難しいものだ。

更にライフワークと迄していたモノ書きすら時間的に出来ず、こうしてブログに逃げ込んでいる始末。

情けないやら悔しいやら。

結局はカメラに逃げ込んできたという。何度も書いてきたけど、カメラというか写真は性に合っている。撮りたい絵を見つけてシャッターを押せば作品になるのだから。

こんなにも自分の中で時間を掛けずに仕上げられる創作活動はない。

そう言うと色んな方面から叩かれそうだが、創作は主観が無ければダメだろう。自分の内面に潜って、この現実世界との交錯した所を浮き出させる作業が創作だろう。自分とは何かを問い続け、時折浮かび上がる自分の断片を拾って世に問う。

絵も文章も写真も工業製品だってそうだろう。

自己確認の結果が作品となって顕される。

商活動に於いてはマーケティングと言うバイアスがかかるから、創作が商活動になっている、所では突き抜けた一部の人間しか叶わぬ夢なのだけども。

マチュアの世界は商活動ではない。商活動にしたい人間は、他人の意見に左右されながら迷えば良い。自分は自己表現の先を見たいだけだ。だから、人気を出したいって事も思わないし他人に褒められたいと言う事もない。

ただ、コレが自分の見ている世間なのだ、と言う事を世に伝えたいだけだ。

自分には世界がこう見えているんだって事を只々、顕したいだけなのだ。

世と迎合はしたくない。自分を殺して趣味を続ける意味があるのか。他人の評価によって自分の人生の価値が変わるのか。自分の人生に価値を持たせるのは自分だけだし、評価出来るのも自分の人生を生きている自分だけだ。

他人にとやかく言われたら生きている意味などない。

生きるとは自分であり続ける事。世と軋轢を生みながらも前進し続けるからこその人生だ。誰かの言葉に動かされて、行動を変えてしまったら、其れは自分の人生であり得るのか。ずっと考え続けているが、答えは出ない。

色んな雑音が自分を惑わせ、迷路に迷い込んだ。迷路は日を重ねる毎に大きさを増し、今では迷宮になった。抜け出すことが出来るのか。自分は自分を取り戻せるのだろうか。

自分とは何か。

今こうしてブログを書いている自分は自分であり得るのか。

未来の自分は、自分を取り戻しているのだろうか。

嗚呼、休日が終わっていく。やりたい事の1割も出来ずに。