櫻ノ海
-弐章-
開示-かいじ-
第弐話
能-紅葉狩り-。
皆川からメールが着ていることに気が付いたのは朝食を終え、Webサーフィンでもしようかと思いディスプレイを除いた時だった。
メールには短く、『【戸隠村】・【鬼無里村】について調べておいて欲しい、ついでに能の【紅葉狩り】の伝承についても調べて置いてくれると在り難い』と在った。
まったく、面倒臭いな。しかし、メールを無視するともっと面倒臭いことになるので渋々ながら情報を探ることにする。
と、言っても【戸隠村】・【鬼無里村】については観光地でもあるのでそれなりに本が出ている。これはわざわざネットで調べなくても本でも購入なりすれば問題がなさそうだ。
【能】と言われてもピンと来ないので先ずは【能】と【紅葉狩り】とやらについて調べる事にした。
検索エンジンを立ち上げ、『能 紅葉狩り』と打ち込み検索する。サクっと検索出来てしまい、拍子抜けだ。
彼是(あれこれ)調べてもどうも端折(はしょ)られているので《Wikipedia》にて検索をかける。
精密かつ事実に即した情報を得るのであればそれに準じた資料を手に入れることが先決なんだろうけど、なにぶん今回は時間がない。いつも時間が無いって言う突っ込みは勘弁して欲しいわけだが…。
さて、短時間のうちに情報収集を行わなければいけないわけだが、能である【紅葉狩】に関して手に入れた情報を簡単にまとめ皆川にメールする。コピーアンドペイストで楽したって事は此処だけの秘密。
『皆川へ。
さっきのメールの件について検索を掛けた。
【鬼無里村】に関しては観光地にもなっているのでそれなりに書籍が出ていると思うので調べるのを端折る。つか、それくらい僕に調べさせずに自分でなんとかしれ。
能の紅葉狩りについて簡単に内容をまとめてメールする。
能・【紅葉狩】
登場人物(Wikipediaより抜粋)
シテ:紅葉見物の上臈(じょうろう)で本性は鬼。
ツレ:紅葉見物の美女の一行
ワキ:平維茂(たいらのこれもち)
ワキヅレ:平維茂一行
アイ:美女一行の共者
アイ:八幡宮の神
という事を念頭に置いて、本編を読んでくれ。残念ながら眠気に襲われている僕には話の内容は理解出来なかった。
能・【紅葉狩】話。
場面は信濃国戸隠。前シテ一行の道行きで幕開けとなる。
若い美女が数人連れ立って紅葉見物にやってきた。絶景の中、地揺前に幕を巡らし宴会となる。
次いで馬に乗り供の者を従えたワキが登場する。鹿狩りにやってきた平維茂の一行である。
橋懸りでの道行きの後、楽しげな宴会が開かれているのを発見した維茂は、供の者に様子を見てこさせる。
アイとの問答があるが、美女一行は素性を明かさない。
そこで維茂は馬を降り通り過ぎようとするが、シテが現れ、どうかお出でになって、一緒に紅葉と酒を楽しみましょうと誘惑する。
無下に断ることもできず宴に参加した維茂であったが、美女の舞と酒のために不覚にも前後を忘れてしまう。
シテの舞う美しい中ノ舞は突如激し急ノ舞となり、美女の本性を覗かせるが、維茂は眠ったままである。
女達は目を覚ますなよと言い捨てて消える。
ここで場面は夜となり、アイによる八幡宮の神が現れ維茂の夢中に、美女に化けた鬼を討ち果たすべしと告げ、神剣を授ける。
覚醒した維茂は鬼を退治すべく身構え、嵐と共に炎を吐きつつ現れた後シテ『面は顰(しかみ-獅噛と昔は書いた。)または般若(はんにゃ)』と丁々発止(ちょうちょうはっし-刀などで激しく切り合う音やその様を表す言葉。)、激しい攻防の末ついに鬼を切り伏せることに成功する。
…と言う事らしい。
要約すると、戸隠やら鬼無里で鬼女-紅葉と言うのと朝廷側の人間である平維茂とか言うのが戦って、朝廷側の鬼退治話として現在まで伝わってるってところか?
まぁ、異説も在ったりして奥は深い話なのかもしれないが、検索の限界だ。コレくらいで勘弁してくれ。と言うか、自分で調べてから出かけろ。
補足説明として戸隠山について調べておいた。何かの参考にすると良い。
標高は1904m、信州百名山及び、北新五岳のひとつである。
位置は長野市から北西に約20㎞の場所にある。
天照大神(アマテラスオオミカミ)が高天原(タカマガハラ)の天の岩戸に隠れたときに店手刀雄命(タジカラヲノミコト)が、その岩戸を戸隠の地まで投げ飛ばし、世に光を取り戻した伝説に由来している。
尚、戸隠村は長野市に合併されるまでは上水内郡戸隠村であった。先程の能にも出てきたが、鬼女紅葉の伝説でも戸隠山は名高い。
古くから修験道場や戸隠流忍者の里とされ、周辺は蕎麦の名産地としても知られている。スキー場があることでも有名。
中腹には戸隠神社(奥院)があり、修験道場として有名な飯縄山が東南東へ直線約10kmの場所にある。
忍者だの修験道場だの何気に昔から栄えていたのかもしれないな。埋蔵金の一つや二つ出てくるかもしれないね。では、そういう事で。僕は寝る』
コピーアンドペーストで切り貼り、継ぎ接ぎの手抜きメールを打ち終えると、力を抜いて椅子に沈み込んだ。睡魔が襲い掛かってくる。
「皆川の欲しがっている情報とはかけ離れているかもしれないけど。情報は情報だよな…」誰に言い訳するわけでもなく呟くと、さっき暖めてきたミルクを一口啜る。口の中に甘ったるい味が広がって、消えた。若干だが眠気が引く、しかしここ数日睡眠時間を削っているので、そろそろ活動限界。
若干意識が飛んで、目を見張るとディスプレイはいつの間にかスクリーンセイバーが起動していて、幾何学模様が幾度となく描かれては消えていった。
それからまぶたの間から窓の外に雄大に広がる青空を恨めしく睨みつけた。
「何だって、こんなに晴れているんだよ…」
三枝から届いたメールはいつもの如くやる気の無い内容だった。しかしながら、情報をまったく持っていなかった俺にとってはそれなりに有益なメールとなる。「紅葉狩りって人狩りが語源なのかよ…」【紅葉狩り】件(くだり)を送られてきたメールで確認していて、何故かゾッとした。
ま、【能】とは言えど、所詮は伝説や伝承の類だから事実からかけ離れている事は当たり前なわけだ。別段、表立った伝説、伝承が残されていないことに少なからずがっかりしながらも、役に立ちそうにないメールを一応、保存した。
地図を見れば戸隠・鬼無里付近には曰くのありそうな地名がゴロゴロしているのだが、郷土資料館などに赴いてみないことには地名の源について詳しい伝説や伝承を聞けそうに無い。
やっぱり、こういう伝説や伝承は自分の足で稼がないとしっかりとした情報を得られないわけで、それを不便と感じることがもう既に《インターネット》と言う文明の利器に汚染されてしまっている証拠であろう。
はてさて、何度か実際の伝説や伝承が伝わっている地域で話を聞く機会があり、そこで聞いた情報と《インターネット》世界に鏤められた情報との軋轢の中にネット社会に汚染された日常・世界が如何に非リアリティで成り立っているという事実を実感させてくれた。
《インターネット》に転がっている情報はあくまで可能性の一つとして捕らえておくのがセオリーだ。しかし、多数決の原則と言うか、妄信するものが多くなれば例えその情報が間違いであっても事実になりかねない。
俺の場合は実体験したことしか信じられないので、あくまで外から仕入れる情報は参考程度としてしか捉えない。しかしながら世間一般の連中は視覚的に吸収した情報を体験したこととして脳内補完するわけで…。そういった莫迦共が多過ぎるのが本当にウザい。
実体験しか信じられない性格に育ててくれた両親に感謝しつつも自分の性格が少数派だと言う事実に戸惑いを覚えつつ、少しはその他大勢の人達のように信じる心を持ちたいなと言うジレンマに陥ったりもする。
実体験-経験する事の大切さを知っていて良かったと単純に俺は思った。 外に出れば風はあるし、空気の重みや日光の暖かさ、心を安らげる花の香り、または胸糞悪くなる汚臭、良い事も悪い事も入り混じっている。そもそも良し悪しなんて人間的な、自己中心的な考え方で、いつの間にかそういう考え方に侵されてしまっている自分に苦笑する。
なにはどうであれ、《インターネット》と言う思念無き情報の奔流なんて所詮は1と0の集合体で説明がついてしまう。俺が欲しいのはそんなくそつまらないものではない。情報として、文字や式で片付けられない志向性の在る何かだ。
だから俺は今回のネタを実行しようと思った。体験し自分の魂にその記憶を刻む為に。自分の考え方をもう一度見直す為に。感覚で感じられる本物の何かがそこに存在していると思ったから。
事の発端となった【かごめかごめ】と言う童歌なのだが、その研究は結構昔からされている。
色々な人間が説を打ち立て、誰も事実に辿り着けていない。しかし、謎って言うものは解き明かすだけが目的ではない。仮説を立て、思考し、楽しむことが大切なのだ。俺も今回の旅で自説を練ろうと考えている。
そうでもしないと繰り返されるだけのくそ詰まらない世界に自分の意志が埋もれて見えなくなってしまうような錯覚に陥ったからだ。
時間に追われ、正しくなくても正しいと言わないと先に進めない世界、そんな世界に飼い慣らされ俺は俺が見えなくなっている。
-昔は違った。少しでも興味を持ったならそれをとことんまで調べてみなければならない性質だった。過去の自分を取り戻す為。今回の旅の目的はそれで良いじゃないか。ただ、旅の終わりに出す結論が何処か明後日の方向を向いていそうな気もするが。それはそれだろう?
情報を探るうちに【かごめかごめ】以外にもなにやらきな臭い伝承の存在を知り、それを調べようと三枝に下調べを依頼したわけだが、その結果は予想通り、失敗に終わった。
まぁ、現地にて調べなければどうにもならないことも分かりきっているので、今日、5月2日14時に戸隠神社奥院に集合する旨を三枝と高塚にメールした。
日本書紀や古事記のネタが三枝の手で引っ張り出されるなんて思いもしなかった。まったく持って現実は俺の貧弱な想像の範疇を超えている。コレだから『現実』ってものは面白いのだ。
はてさて、沈思しているうちに頼んでいた野菜サラダが出来上がってきた。呉葉がものすごい勢いでテーブルに置かれたサラダの皿を平らげていく。「おいしいか?」俺は携帯を片手に呉葉に尋ねる。
「むぐっ、うぐっ」と声にならない声を上げながら頭を上下させる。おいしいのだろう。きっと。
サラダが全て消失する前に俺は残り少なくなったサラダを皿に取り、シャキシャキした食感を味わいながらブランチを楽しむ。流石にファミレスで食事というのも冴えなかったので、ご飯がおいしそうな店に入ることにした。
言っておくが、あくまで『おいしそうな』だ。
結果、おいしかったのでなんら文句は無い。
「結構、手の込んだサラダだな」俺は野菜サラダ\480、とメニューに書かれていたものを頼んだのだが、出てきたものは\600くらいとってもいいようなヴォリュームのある野菜の盛り合わせだった。
「おいしいねー」満面の笑みで呉葉は笑う。
「確かにおいしいね」本当に新鮮なんだろうな、サラダに盛り付けられたレタスや厚切りのキュウリもシャキシャキとした歯応えで本当に食欲を加速度的に増進させる。
「呉葉、早速で悪いんだけど。午後から戸隠神社に行くから」俺はサラダの半分を平らげて話を切り出した。
「うん」呉葉はそう言うと、既に了承済みですよーといった感じで頷いた。
「俺の他に三枝と高塚って言う奴も来るから、一応、お前のことは彼女と言う事で紹介するわ」
「ぶっ」飲んでいた水をレトロな表現で吹き出す呉葉。結構芸人なのかもしれない。
「ま、いいけど」呉葉は仕方なさそうな目で俺を見た。
「そんな目をするなよ。悪いようにはしないからさ」俺はにっこり笑った。
テーブルの上の携帯電話が振動し、メールが来た事を告げるメロディが鳴り響く。「誰だ?」と思いながらも携帯を手に取りメールを確認する。
『【咎隠村】の件について』短く件名が書かれている。送信者は『三国 良太』中国にいるはずの良太からなんでメールが来るのか戸惑ったが、メールを展開し、内容の確認をする。
『継寛から【咎隠村】の件を聞いたが、相変わらず突拍子も無いことをしているようなので俺の調べたデータと情報を提供しようと思う。
と言ってもネットや雑誌から引っ張れる類の情報源なのであまり期待しないでくれ。
先ずは推測交じりの話からいくが【咎隠村】は【戸隠村】と【鬼無里】の合併編入の歴史に埋もれた村だ。と言っても【咎隠村】と付けられたのは昭和年代に入ってからとの説もある。
まぁ、部落の類であることには間違いないだろう。
『村』として合併・編入できる規模であれば何らかの情報が現在まで残っているものだ。今回の件に関しては情報があまりにも少な過ぎると言うどこか違和感を感じざるを得ない部分がある。
通常、どんな村であっても県や地域の歴史書を紐解けば大体の概要が載っているものだ。
しかしながら、咎隠村という村名は郷土史にも載っていない。こういう場合は地域の陰名と考えるのが妥当だろう。別に何かの真名があると思われる。
俺の調べた水内郡の合併・編入の歴史を載せておくので参照にしてくれるといい。皆川も知っているだろうが、戸隠村と鬼無里は何度か合併編入を繰り返し、現在の形になっている。【明治の大合併】や【昭和の大合併】でかなりの村を合併吸収している。
歴史を振り返ると、戸隠村地区では1873年(明治5年)2月17日に水内郡戸隠村が宝光社村と中社村。2つの村を編入している。
補足だが、『編入』の意味は、合併しようとする複数の市町村のうち、1個を存続法人とし、それ以外の市町村を廃止して境界を変更する合併方法で、廃止される市町村の首長と議員は失職する(議員については編入した自治体の議員になることも特例として可能)。
首長選挙や議員選挙は、存続市町村で合併直後に任期満了になった場合のみ行われる。合併する市町村の大きさが大きく異なる場合に行われることが多い。編入合併ともいう。
1876年(明治9年)5月30日に水内郡戸隠村が上楠川村を編入。水内郡下楠川村、上野村、日照田村の3村が合併し水内郡豊岡村となる。それから、水内郡上祖山村、下祖村山が合併し水内郡祖山村になる。
ここでも補足。
ここで言う合併は『合体』の意味合いが大きい。『合体』とは合併しようとする市町村のすべてを廃止し、新たに法人を設立する合併方法である。合併に関る全ての市町村の首長と議員は失職し、首長と議員の選挙が行われる。
ただし、議員については最長で2年まで新しい市町村の議員となることも可能。同じ位の大きさの市町村同士の合併で行われることが多い。新設合併ともいう。
1879年(明治12年)上水内郡制施行。戸隠村、豊岡村、栃原村、祖山村が上水内郡に属することになる。
1889年(明治22年)4月1日市町村制施行。上水内郡戸隠村が豊岡村を編入し発足。上水内郡栃原村と祖山村が合併し柵村(しがらみむら)が発足する。
1957年(昭和32年)8月1日上水内郡戸隠村が柵村を編入。
次に、旧・鬼無里地区の歴史だが。
1879年(明治12年)に上水内郡制が施行される。コレは戸隠村と時は同じだ。そして、水内郡鬼無里村となり隣接する、日陰村は上水内郡に属することとなる。
1889年(明治22年)4月1日市町村制の施行、上水内郡鬼無里村は日陰村を編入して発足する。
1955年(昭和30年)2月1日この日、栄村と合併して中条村となった。中条村はこのとき上水内郡日里村の祖山地区を編入する。
現在では戸隠村・鬼無里村が平成17年1月1日に長野市に編入された。
と言う感じだ。つまり、【咎隠村】は位置関係から考えるとやはり【戸隠村】と【鬼無里村】の境に位置すると推察していいと思う。
つまりは戸隠連峰山中に在るもしくは【鬼女紅葉の伝説】終焉の地である【荒倉山】近辺のルートかもしれない。
皆川の事だから戸隠山のルートを選ぶんじゃないかと思うんだが、一応、アドヴァイスとして通常ルートで行けば、戸隠神社・奥社から登山道に入るルートを選べば問題ないと思う。
【荒倉山】ルートに関しては調べてから連絡する。
では、5月3日に俺も継寛と一緒に合流するつもりだから、三枝さんと高塚さんによろしく伝えておいてくれ。
「あらら、もう2人増えるみたいだな」俺はランチのご飯を慣れないナイフとフォークで食べながら呟いた。
「結構、大人数になるんだね。女の子は1人も参加しないの?」呉葉は大して気にも留めた様子も無く俺の呟きにコメントをくれた。
「女の子の参加はわからない。もしかしたら男だけかもしれないな」俺の発言にまったく表情を変えない呉葉。肝が据わっているというか何と言うか。そのポーカーフェイスに俺は少し驚いて、「全然気にしてないって感じだなぁ、呉葉は男に紛れて行動するなんて不安になったりしないのか?」と尋ねてみた。
「そう?別にとって喰われるわけじゃあるまいし。『毒を喰わば皿まで』ってやつよ。焦ってもうろたえても仕方ないし」呉葉はそう言うと残っていたランチの皿の群れを平らげていくのであった。
「まー、人生なるようにしかならないからなぁ」呉葉が最後の一皿を平らげるところを見届けると俺はタバコに火を点けた。ゆっくりと紫煙が立ち昇り天窓から漏れる陽光に照らし出され幾何学的な紋様を中空に描き出すのだった。
「それにしてもゆたかってタバコ好きねぇ」半ば呆れた、と言った表情で呉ははタバコを燻らせている俺を見た。
「そうでもない。吸うときは吸うし、吸わないときは吸わない」タバコなんて別に吸わなくても何の禁断症状も出ないのだが、こう、雰囲気を楽しむ為に俺はタバコを吸っている。
例えば今のような場面。ご飯を食べ終わって談笑、じゃ様にならないから、タバコと言うアクセントを一つ置く。そのことによって場面に彩を持たせることが出来るのだ。
「しかし、次から次へとよく吸うわね」灰皿に溜まるタバコの本数を数えながら、呆れた表情で呉葉は俺の吸っているタバコを取り上げ、銜えた。そして、一気に吸う。タバコの先端が真っ赤に光り、じりじりと音を立てて短くなった。
「チェイン・スモーカーと言うらしいぞ」どこかの雑誌かどこかのサイトで見た単語を口にする。継ぎ目無く鎖の様に連ねてタバコを吸うことからそういう風に呼ばれるようになったらしい。正しいかどうかは知らないが。
「へぇ。まぁ、その言葉、ゆたかには当たってるね」にっこり笑って呉葉は俺のタバコを全部取り上げた。
「何するのかな?」俺は呉葉の手首を掴む。
「ゆたかの健康を思っての行動だよ」そう言いつつも箱からタバコを取り出し銜え、火を点ける。
「お前の健康はどうなるんだよ?」俺はジト目で呉葉を見た。
「そゆのは気にしない方向で」呉葉は頬杖をして俺を眺めた。
-まぁ、たまにはこういうのも良いかもナ。
唐突に揺れる携帯電話がメールを受信したことを告げる。ベッドサイドから携帯電話を引き摺り寄せ、送信者とメールの内容を確認する。
結構な音が鳴り響いたわけだが、隣で千秋は平然と寝息を立てていた。メールの送信者は『皆川 裕』。こいつは…まったく持って無粋な男だ。朝っぱらから何の用かと。折角の休日のまどろみが台無しじゃないか。
もう一度眠りにつこうかと考えたが、メールの内容が気になるので仕方なくベッドから這い出し、メールの確認をする事にした。
『13時に戸隠神社・奥院に集合』と件名だけ入っている。
相変わらずこいつからのメールは唐突かつ簡潔過ぎる。まー、間に合う時間で指定してきているんだろうな?
間に合わない時間だったら罠だろ。現在の時間を確認をする、時刻は10時を少し回ったところだ。まぁ、間に合うだろう。
取り敢えずシャワーでも浴びて目を覚ますとするか。俺は包まっていたタオルケットを剥ぐと、バスルームに移動する。
若干熱めの設定にして蛇口を捻る。水音とともに湯気が昇り立つ。
下着を脱ぎ、バスルームに入る。
「!?」異様な湯気と熱気。まるで某有名SFCサウンドノベルの様だ。
「うお!?」水の調整を誤ったのか、熱湯がバスルームを満たしていた。
「ったく、なんだよ」冷たい設定にしてみるが、熱湯のままお湯がシャワーから降り注いでいる。
「あれ?」蛇口を捻り、お湯を緩めてみる。出てくる勢いはなくなったがそれでも出ているのは熱湯だ。
「壊れてるのか…?」熱湯を浴びても熱いだけだし、我慢して浴びても痛いだけだし、俺はシャワーを浴びるのを諦める。備え付けてあったバスローブを羽織ると、ベッドルームに戻りフロントに電話する。
「シャワーの温度調節が出来ないんだけど?」フロントは謝罪の旨を継げた後、部屋の変更手続きをしてくれた。
「と言うわけで、起きようね?」俺は未だまどろみの中を彷徨い続ける千秋を揺すって現実に引き戻した。
「ん…、おはよ。こー君」目を擦りながら、起き上がる。毛布が身体からずり落ち、豊満な胸を露わにする。普段しっかりしている人間のこういう無防備な姿はなかなかそそるものがある。
「服、着ようぜ?」俺は千秋に服を投げてよこした。
「ほいほい…」毛布の中から這い出してきた千秋の姿は少年誌では表現し難く、青年誌では物足りない微妙なエロさを醸し出していた。
「てぇか、下も履いてなかったのかよ」俺は四つん這いになって猫のように背伸びをしている千秋がどうしてこうも無防備なんだろうと、不思議に思った。
「んー。昨日そのまま寝たからでしょ」にやっと口元に笑みを浮かべながら上目遣いで俺を見上げる。
「…」こーゆー時の女って卑怯だと思う、ホント。
部屋を移動し、本懐であるバスルームで寝汗を流し、皆川の指定の時間に間に合うように戸隠神社の奥院とやらに向かう-。
…向うまでにちょっとした情事があったわけだ。それでも直ぐに動ける俺は結構タフなのかもしれない。
戸隠神社と言うものはそれなりに有名な場所であるから地図は不要だと思っていたのが間違いの元だった。何度か道を間違え、挙句の果てに何処か遠くへ旅立ちそうになる。いい加減、カーナビゲーションシステムの購入を検討しようと本気で考えた。
「ふぁ…」助手席の千秋が欠伸を噛み殺す。
「運転、代わってやろうか?」俺は退屈そうに目尻に涙を浮かべている千秋に声を掛けた。
「ほいきた」まるで怪獣映画の怪獣が目からビームを出すような、そんな目の輝きで千秋は俺の提案を即時に受け入れた。
「ホント、運転が好きだねぇ、千秋?」俺は自分の回りに音符マークを飛ばし、意気揚々とFitのステアリングを握る千秋が可愛く思えた。
「好きだよー、日頃溜まったストレスを思いっきり発散できるじゃん」迫り来るコーナーをまるで皆川の運転のようなコーナリングで抜けていく。
「まるで、何処かの莫迦のような運転をするな…」俺は両足を踏ん張りながら左右から波のように襲い掛かる横Gに耐えた。
「何処かの莫迦って、例のこー君のお友達?」結構ハードな運転の割には普通に会話をしてくる千秋。ちなみに車中は横G・縦Gの嵐になっている。
「そうそう、変な奴だよ。よくよく考えれば、もう6年の付き合いになるのか。割と長く続いているなぁ」俺は皆川との出会いを思い出した。
確か、あれはクソ暑い7月の終わりだったような気がする。何をするでもなくバイトとゲーセン通いを繰り返していた退廃していた頃。
あいつが何処ぞのゲーム屋でバイトをしていて、皆川と共通の友人から皆川を紹介された。俺は客としてあいつのバイト先に行ったのだ。
かったるそうにカウンターに頬杖をついて子供相手にカードゲームをしている皆川がそこには居た。職務怠慢だぞ、とか思いながらカウンターへ進む。
「いらっしゃいませ」俺の姿を見て如何にも『取り敢えず』といった、取って付けたような挨拶をした。
「え、と。此処に皆川って人は…?」俺が言葉を切るよりも早く皆川は「ああ、高塚さん?尾崎から聞いてるよ」と頬杖を止め、立ち上がった。身長は俺より若干高い程度…大体170cm前後だろう。中肉中背の普通の男だったが、眼光だけは何か尋常ならざるものを湛えていた。
「ああ、お兄さんが皆川さんか?えと、俺、【高塚 浩志】。皆川さんに言えば色々と得することがあるって聞いてきたんだけど」俺は尾崎に聴いた通りに話した。
「ああ、何が欲しいのさ?言ってくれれば大体のモノは仕入れ値で横流しするぞ」皆川はサラッと普通言わないような事を言い放つ。
「…ああ」面食らった。皆川と言う男はざっくばらんな男でそれでいて色々と知略を張り巡らしている。尾崎の言う通り、侮れない男だった。
「さてと、少年。このデュエルは俺の勝ちだな?アンティは頂くぞ」先程から皆川と子供がプレイしていたカードゲームが終了し、二人はゲームに使うカードを賭けていたらしい。
「で、高塚さん、自己紹介遅れましたが。【皆川 裕】です。一応、大学生なんて職業を営んでおります」眼光はそのままで、にっこりと柔和な笑みを浮かべ、皆川は右手を差し出した。
「ああ…、よろしく」俺は躊躇わず、皆川の右手を握り返す。
「で、何が欲しいのさ?」皆川は俺の用事をさっさと終わらせてゲームの続きをしたいらしい。
「ええと」俺はピックアップしてきたゲームのリストを皆川に手渡す。
「ああ、コレなら買わずとも貸してやるよ。コピーくらい出来るだろ?」俺は無言で頷く「了解」手をひらひらと振りながら、皆川は気だるそうに店の奥へと消えていく。しばらくして、俺の指定したゲームを両手に抱えて現われた。
「ほれ、とっとと焼いて来い」すげぇ適当にソフトを手渡され、戸惑いつつも「ありがと」と間抜けな返事をして俺はゲームを借り出した。
それから皆川の店に週1回は行くようにした。
「よー、高塚」いつものように小学生相手にカードゲームをしている皆川。
「よう」軽く右手を挙げ、会釈をする。
「今日はどうしたのさ?」皆川はゲームをさっさと片付けると俺の隣までやってきた。
「特になんでもないんだけど、近くに寄ったからさ」俺はそう言って皆川にいつものようにリストを渡す。
「ほー、エロいな~。流石は高塚さんだ」にやっと笑って俺の指定したゲームを用意してくる。
「サンクス」それら18禁ゲームを手持ちのナップサックに仕舞い込んだ。
「ってか高塚さんっていくつなんですか?」妙に腰を低くして、以外にも皆川はそう尋ねてきた。
「皆川さんこそいくつなんです?」俺は聞き返した。
「ん、20ですよ」
「は?」
「だから20歳です」
「ええええええ!?」コレは予想だにしなかった。
「年上だと思ってた」俺が言うとすごく胡散臭そうな顔をして「え?高塚さん僕より下なんですか?」と尋ねてきた。
「いや、タメだ」
「1979年生まれ?」
「そう」
「意外だな」失敬なことを皆川はさらりと言う。
「年上かと思った」とハモって笑い合った。
はじめて会った時から昔からの友人のように話が出来たこいつは将来的に長い付き合いになるだろうと、俺は直感した。
まぁ、この時点で普通の友人くらいにランクしておけばその後事ある度に巻き込まれなくて済んだのにな。忌々しい事に藤宮や三枝とも皆川は交流があり、顔を合わす機会が多かったのでどうしようもないな…。
「って、具合だ」Gがハードに掛かる車内で、前後左右に揺さ振られながら、俺の運命を両手で握る千秋に皆川との出会い話をした。
「ふぅん」軽く流すと、千秋はさっきよりもスピードを乗せてコーナリングに突入した。
ガッと千秋が気前よくブレーキを踏み付ける。前方向に急にGが掛かり俺はつんのめる。タイミングを合わせてサイドブレーキを引き、後輪をロックさせスライド状態にさせる。暴力的な横Gが俺の身体を襲う。
それからフルアクセルと落ち着いたステアリング操作でスキール音を盛大に上げながら俺のFitはコーナーを抜けていく。本当、何処かの誰かと同じような運転だな、まったく。
「お兄ちゃん、まだ?」真夜に急かされて、僕は出かける準備をはじめた。
いつの間に用意したのか真夜の準備は整っていて、僕が遅れる形になった。
腑に落ちない。
「お兄ちゃん、まだ?早くしないと?」何度目かの『まだ?』を繰り返すと真夜は僕の部屋の入り口に仁王立ちになって僕の準備を促す。幾ら急かされても人間には限界って言うものが存在しているんだから…。
「大丈夫だって、ちゃんと間に合うよ」僕は着替えを数着と、携帯電話、デジタルカメラ、缶詰の食料、レトルト食品、チャッカマン、ノートパソコン等を大きめのリュックサックに詰め込んだ。取り敢えずの準備は整った。
「さぁ、そろそろ出かけようか」部屋の時計を見れば、丁度11時を指し示したところだった。
「まったく、女の子じゃあるまいし、どれだけ時間掛かってるのよ」脹れっ面をして僕の前を歩く。
「ってか、何でお前まで来るんだよ」僕は真夜に突っ込みを入れる。
「決まってるじゃない。面白そうだから」一言で片付けられてしまった。兄の面目がまったく無い…。
「ってか、皆に迷惑だけは掛けるんじゃないぞ」僕は親父から貰ったレガシィに皆川から頼まれ、追加した荷物を詰め込み、運転席に座った。
「お兄ちゃんこそ、いつも迷惑かけてるんじゃないの?」真夜は口に手を当てて上品そうに笑う…くそっ口の減らない妹だ。
「失敬な、僕はいつも巻き込まれているだけだ」レガシィを発進させる。カーナビをセットし、目的地を戸隠神社の奥社に取る。
街を外れれば『田舎』と言う言葉でしか表すことの出来ないような長閑な風景が広がる。
まったくもって何故、【咎隠村】なんて探そうと思ったんだろうか、皆川は。あいつの思考回路はオリジナルだからな。
皆川と高塚がつるむといつだってろくな事にならない。分かりきった事実ではあるが抗えない自分がここに居る。
「ねぇ、おにいちゃん?」真夜が僕の顔を覗き込む。
「どした?」僕は前方を見ながら横目で真夜を見た。
「もう一人来る、高塚さんってどんな人なの?」そう言えば真夜と高塚は面識が無かったか。
「高塚は皆川に比べると『まとも』だよ。多かれ伝説を打建ててるけど」僕は高塚の事を少し話してやることにする。
今から10年程前かな、僕の友人連中が集まってゲームセンターやファミレスにたむろしていた時期があったわけだ。中学生の時代から駅前のゲーセンに出入りしていて、高校時代にそこで高塚や藤宮と出会った。
高塚も藤宮もそこのゲーセンではかなり名の知れた人間で、割と直ぐに仲良くなったと記憶している。
…皆川に出会ったのはもっと後の事だ。確か、藤宮の幼馴染で高塚も一目置いた存在として紹介されたような気がする。まぁ、インパクトのある奴なのだが、インパクトのある出会いではなかったと思う。
草原もこの頃は身が自由で、よく僕と草原、高塚、藤宮、尾崎、そして皆川と集まっては莫迦な事をしていた。
いつだったか、ゲーセンの帰りにファミレスに寄る事になり、尾崎の白色のダサいサニーでファミレスに向かっている途中の出来事だった。
理由は忘れたが、何かで高塚が皆川の策略に嵌められて、全員にご飯を奢ることになった。あの頃の高塚の金の使いっぷりは壊れていて、国道沿いの『機械のお友達』から金をよく借りていたのはかなり有名な話だ。
あの時も高塚はゲーセンで金を使い果たしていて、約束の通りに僕達に飯を奢る事も困難だった。
何を思い立ったか、高塚は尾崎に場所を指示し、『機械のお友達』が沢山居るところまで行く事となった。
夕焼けに染まる街並み。
道路を見れば家路を急ぐ車の群れ。
昼間の酷暑を少しだけ和らげるように街並みを吹き抜けていく夕暮れ時のやわらかい風。
僕達は立ち並ぶ高塚のお友達の前に車を停め、高塚の行動を見守る事になった。皆川が不機嫌そうに「こんな所でクルマ停めてるとなんだか惨めな気分になってくるな」とア○ムの自動借り入れ機を見てぼやいた。
「と言うか、視線が痛いんだけど…」信号でクルマの群れが停まる度に尾崎の中に居る僕達に向けられる視線が痛い。
「確かにそれはありますね」皆川の弟分の尾崎は相槌を打ち、タバコを吸い始めた。タバコの煙が夕焼けに染まって儚く消える。
「それにしても羞恥心ってモノが無いのかね」皆川は高塚を覗き込んだ。無言でその顔を叩くと、「好き勝手言いやがって」と、クルマのドアを開け、背伸びをして夕日を背にしてから。
「じゃぁ、俺、ちょっと金下ろしてくるわ」
と爽やかに言った。
バタム、とドアを閉め颯爽と『機会のお友達』に向かう高塚。
僕は思考が停止し、隣を見ると皆川が肘掛を叩き、今にも死にそうなくらいの勢いで笑いを堪えていた。
「ど、どうした?」僕は思わず引きながら皆川に尋ねる。
「あはははははははははははははは………はぁ、はぁ、はぁ…っぷ」堰を切ったように笑い出し、ひとしきり呼吸を整えると。
「聞いたかよ、おい?」と声を笑いで震わせ、高塚の背中を指差しながら僕達に問いかけた。
「?」僕も尾崎も皆川が何故、ここまで笑い転げているのか理解出来なかった。気が狂ったのかと思うくらいの勢いだ。
「金、『下ろしてくる』って。お前の金じゃねーっての。あはははははは」自分の言葉でもう一度笑い出す、なんと言うか始末が悪い。
「ひぃ、ひぃ…」肩で息をしながら「しかも、あんなに爽やかに言われてもさ。…ぷぷっ」どうやら皆川は高塚の台詞とシチュエーションにウケたらしい。
「でも、確かに金を下ろしてくるって…言ってましたね。あははは」皆川の笑いが伝播したのか尾崎も笑い始める。
確かに高利貸しに金を借りるのにあたかも自分のものであるかのような表現は相応しくない。そして、更に追い討ちをかけるように爽やかかつ、颯爽と金を借りに行かれても…。
冷静に考えれば考えるほど笑いが込み上げてきた。
クルマの中は僕ら3人の笑いでいっぱいになり、そしてこの「金下ろしてくるわ」事件をきっかけに『金を下ろす』=『金を借りる』と言う方程式が僕達の間で確立されたのだった。
哀れにも高塚はあれから6年経った今でも皆川によってその伝説を語り継がれていく事になるのであった。…南無。
「うわぁ、おにいちゃんの友達って個性派揃いなんだねぇ」絶対に貶して(けなして)いるとしか取れない真夜の言葉で僕の昔話は打ち切りになった。
937年(承平7年)。子供に恵まれなかった会津の夫婦が第六天魔王に祈った甲斐があり、女児を授かった。
女児は才色兼備で豪農の息子に強引に婚姻を迫られた。女児は秘術によって自分そっくりの美女を生み出し、これを身代わりに嫁がせた。偽者の美女と豪農の息子はしばらくは睦まじく暮らしたが、ある日偽者の美女は糸の雲に乗って消え、その時既に美女の家族も逃亡していた。
美女と両親は京に上り、紅葉と名を変えた。初め琴を教えていたが、源経基の目にとまり、腰元となりやがて局となった。紅葉は経基の子供を妊娠するが、その頃御台所が懸かっていた病の原因が紅葉の呪いであると比叡山の高僧に看破され、結局経基は紅葉を信州戸隠に追放することにした。
956年(天暦10年)秋、まさに『紅葉』の時期に、紅葉は水無瀬(鬼無里)に辿り着いた。経基の子を宿し京の文物に通じ、しかも美人である紅葉は村人達に尊ばれはしたものの、やはり恋しいのは都の暮らしである。経基に因んで息子に経若丸と名付け、また村人も村の各所に京にゆかりの地名を付けた。これらの地名は現在でも鬼無里の地に残っている。だが、我が身を思うと京での栄華は遥かに遠い。このため次第に紅葉の心は荒み、京に上るための軍資金を集めようと、一党を率いて戸隠山に籠り、夜な夜な他の村を荒らしに出るようになる。この噂は戸隠の鬼女として京にまで伝わった。
ここに平維茂が鬼女討伐を任ぜられ、笹平(ささだいら)に陣を構え出撃したものの、紅葉の妖術に阻まれ散々な目にあう。かくなる上は神仏に縋る(すがる)他なしと、観音に参る事17日、ついに夢枕に現れた白髪の老僧から降魔の剣を授かる。今度こそ鬼女を伐つべしと意気上がる維茂軍の前に、流石の紅葉も敗れ、維茂が振る神剣の一撃に首を跳ねられることとなった。紅葉33歳の晩秋であった。
「これが鬼女伝説ってヤツだな」俺は取り敢えず、現地に行く前にその地域に纏わる伝承を調べていた。どうせ、あいつはこんな事調べてなんて居ないだろうからな。
「諸説は在るようだが、大筋は今の資料で問題無さそうだな」俺は継寛に聞こえるように言った。
「何か良いネタはあったのか?」継寛は俺のディスプレイを覗き込んできた。
「特に、皆川が欲しがっているネタは無いね。皆川の事だから、さっさと『適当な』情報を仕入れていると思うしね」俺はブラウザを閉じ、背伸びをした。
「さて、そろそろバイトに行って来る」継寛はそう言うと手に持っていた本を在った場所に押し戻し、腰からぶら提げたキィの束をカチャカチャ言わせながら俺の部屋を出て行った。
「さてと、もうしばらくデータの収集と行きますか」俺は明日、長野に向かう前までにある程度の資料を集めようと思っていた。
戸隠は何度か行った事があるので、そんなに気合を入れて準備をするでもなかったが、今回の目的は【咎隠村】とかいう『廃村』の探索ということだから、装備の内容もある程度充実させて置いたほうがいいのも知れない。
片手間で編集した鬼女伝説に関する情報を皆川にメールする。まぁ、特に皆川にとって必要ないかもしれないけど、役立ててもらえれば幸いだ。
それにしてもメンバーは何人来るんだろうか?ふと、メールを送った際に気になったが、こういう時はなるようにしかならないから一先ず忘れる事にした。
Webサーフィンを続ける。そう言えば咎は科とも書いたはずだ。昔何かの本で読んだ拙い(つたない)記憶を手繰り寄せ、【科隠村】で検索をかける。検索ヒット数は2件。
まぁ該当するページがありませんでしたと表示されるよりも検索に引っかかってくれたほうがいくらかマシだ。
検索結果の2件の内1件はたいした情報も無く都市伝説をまとめた単純なサイトだった。そのサイトで気になった点は、『【科隠村】は元より外部交流を持つ村ではなかった。そして【科隠村】は忌み嫌われており、村に行こうと思う人間もいなかったのだろう。』と書かれていた点だ。
外部に交流を持たずして村が成り立つのだろうか?
海も山も近い村であれば食料品の調達等は簡単に出来る。
しかしながら、【科隠村】は山奥の閉ざされた村だ。【科隠村】単独で自給自足出来るとは考え難い。そんな村がどう成り立っていたのか、非常に興味をそそるネタである。
2件検索できたサイトのもう1件は『神宿りの島』といった廃墟探索系のサイトだった。トップページには廃墟探索を楽しむ管理人『カムイ』のプロフィールが書かれており、サイト案内と言う項目には『カムイ』と彼の数人の友人の写真が目線入りで掲載されていた。内容を読むと、彼等の全国漫遊記、といった感じのサイトとして紹介されていた。
何個か項目が縦に並んでおり、『廃墟・廃屋・廃村~棄てられた夢~』と言う項目を発見し、クリックする。
黒い壁紙に一列に建造物名や地名が白や赤の文字で連ねられたページにジャンプし、僕は目を瞠った(みはった)。
南は軍艦島から始まり北海道まで全国津々浦々の廃墟が書かれており、内容はかなり充実していた。
その中に【科隠村】の項目を発見するのにさほど時間は掛からなかった。
しかし、文字ブラックアウトしており、『工事中』と斜めにイラスト文字が貼り付けられていた。
「ほぅ、これか」僕は【咎隠村】の項目にカーソルを持っていくと外部リンクが張られている事に気が付いた。
「リンクがあるのか…工事中なのに?」違和感を感じつつも俺はリンクの外し忘れかと思い、【咎隠村】の文字をクリックしてみた。
手の込んだエフェクトがかかり、貧弱な俺のPCは悲鳴を上げる。そして、ジャンプした先は、緑豊かな田舎の風景が壁紙に選ばれており、俺は何処にでもあるような山奥の集落をイメージした。
油絵風に編集されたその風景ではあったが、送電線に電信柱、車が何台か写り込んでいるのを確認できた。
「過疎はそんなに進んでいない村だな」俺は写真に写り込んでいる車種にミニバンやクーペタイプのものが多数あったので、多からず若者の居る地域だと判断した。これは戸隠村かもしれない。
ページを読み進む。
【科隠村】-とがくしむら。
長野県上水内郡戸隠村にある戸隠連邦の戸隠山、山中にあるその廃村はあくまで【戸隠村】ではなく【科隠村】である。私はこの村の存在を長野県在住の廃墟マニアの知人から聞き及び、村の探索を決意した。
ビットマップイメージで描かれた簡単な手書きの地図、それから戸隠連峰の写真、【戸隠村】のほうの写真が別のリンクで数枚貼り付けられており、それぞれに詳細なコメントが書いてある。書かれているコメントから、カムイの温和な人柄が窺えた。
写真とコメントのみで構成されたそのページは何処か違和感を感じるページ構成になっていた。先程感じた違和感といい、妙な雰囲気が在るページだ。
『感じた違和感の存在が一体、なんなのか?』と、疑問が残るが。とにかく俺はそのページをくまなく調べてみた。
常套手段である、マウスを左クリックしながらページの一番上から一番下まで下げていくという手法で隠しリンクを探してみる。
これで何も見つからなければ俺のカンが鈍ったと言う事だろう。
結論から言おう、俺はリンクが貼り付けられたアンダーバーをページの下部で発見し、クリックした。
『CAUTION』と赤字で大きく書かれた黒い壁紙のページに飛ぶ。
下にスクロールしていくと、
『このページを見つけてしまった方へ。
ここから先は《覚悟》と《責任》をもって閲覧して頂くよう、よろしくお願い致します。
なお、このページを参考に、何かを行われたとしても、管理人は一切の責任を負いませんので。
2003年7月某日 管理人』
黒い壁紙に、赤い文字でそれは淡々と書かれていた。
1998年5月1日。
ゴールデンウィークの始まり。
私も世間様に見習ってカレンダー通りの休日を取得する事にした。というのも、予てより計画していた【科隠村】の探索を実行すべく、長らくの愛車、TOYOTAのMark2を駆り私は長野県に向かう。
残業続きの毎日で、久し振りの早起き(4時起き)だったので頭の中は少し靄がかかっていたが心地良い朝の日差しの中で段々と思考がはっきりしてきた。
朝から晴天で、山登りには絶好の日だった。
戸隠連峰の登山口のある戸隠神社の奥社の手前左にある登山道から峰に登り、【科隠村】を目指すはずであった。
しかし、情報量があまりない上に【科隠村】の存在を教えてくれた友人が1週間前から音信不通になり、連絡が取れなくなっていた。
今日は長野までの旅の疲れも在るのと、もう一度【科隠】を知っている友人に連絡を取るべく宿を取って休息をすることにした。
1998年5月2日。
目覚めれば陰鬱な鉛色の空が広がっており、昨日の晴天とうって変わっていた。相変わらず、長野の友人と連絡は付かなかったわけだが、何か自分の手で出来る事は無いかと、書店に出かけていって地域絡みの書籍を買い漁る。書籍ではタイムリーな情報が無いので、自分の足で稼ぐ事にする。
取り敢えず、何か伝承はないものかと、まばらに散らばる集落を虱潰しに回ることにした。友人2人と手分けして畑仕事に精を出す老人達や役場、果ては別の町や村の資料館などに【科隠村】の事を尋ねて歩く。
長閑な風景が視界いっぱいに広がる。取り敢えず諦めずに聞き込みを続けることにしよう。
1998年5月4日。
丸々2日費やしたが、一向に【科隠村】の存在を肯定する言葉は返ってこない。焦りと苛立ちが募る。
結局のところ、この年、私達は村を発見する事は出来なかった。
ただ、地域ぐるみで村を隠蔽しようとする動きがあるように感じられた。
「まるで出来の悪いMMRだな」俺は他にリンクは無いか確認をする。
スクロールはまだ下方に続いているが、現段階で隠しリンクはなかった。読み進めて行くと、2年目、3年目、4年目はまったく成果を上げる事が出来なかったらしい。5年目になる2003年に彼らは【科隠村】を発見した。
2003年5月5日。
私達4人は戸隠連峰、その山中にとうとう【科隠村】と思しき廃村を発見する事が出来た。村と言うよりは集落と呼んだほうがしっくり来るその小さな村は名状し難い風景をもって私達の前に姿を顕した。
一面の薄紅色。それが桜の写真だと気付くまで暫くの時間を要した。それほどまで、そこに貼り付けされた写真は薄紅色で埋め尽くされていた。
登山道から離れ、道無き道を行くこと3時間、突然視界が開ける。そこには視界一面を覆い尽くす桜が咲き乱れていて禍々しく、私達を迎え入れてくれた。どれほどの桜がそこに在ったのか皆目検討もつかないが、並みの数ではなかった。数百本は在るだろう桜が家々を取り囲むように植えられていた。
家々、と言っても既に原型を留めているものは無く、家々が建っていたであろうその場所は基礎と呼ぶべきか疑わしいが、一段高く土を盛り上げてあった。私達の見つけた土地には合計11戸の基礎の後が残っていた。
-村の配置図がこちらもビットマップで図解してある。それは手書きで、1戸を取り囲むように10戸の家が配置され、それぞれ家の周りに桜の木を植えてある事を示していた。
それに加えて写真が4枚、基礎の跡と、桜、それぞれ2点。カムイが村に侵入した経路と、【櫻ノ杜】と書かれた鳥居マーク。
【櫻ノ杜】の写真は『撮れなかった』と書かれている。
「【櫻ノ杜】?なんだ、それ」俺は【櫻ノ杜】について検索をかけた。膨大な検索結果に半ば呆然としつつ、検索に引っかかったデータをクリックしてみた。大半がPCゲームタイトルで、一瞬、カムイに馬鹿にされているのかと思ったが、先程の桜の写真を見る限り、この地域にそう言った社が在ったとしても何ら不思議ではない。妙に納得してしまった。
長い年月で風雨や土砂崩れ、その他要因に加え、桜の根に基礎が侵食され、かつてそこに村が在ったと言う痕跡は消えかかっている。
伝承に在る、【櫻ノ杜】への階段は見つけれたものの、管理されなくなってから、幾度となく土砂崩れがあったのだろう。階段は途中で途切れ倒木と生い茂る草で【櫻ノ杜】に辿り着く道を見つける事は出来なかった。
ただ、【櫻ノ杜】へ続くと思われる山道の途中に【地蔵憑き】に使われたと思われる地蔵がごろごろと転がっていた。
詳しい数はわからないが、生い茂る草の上からも見て取れるくらいの量が転がっているので尋常な量では無さそうだ。
数十から百体を超える地蔵の残骸が山道の脇に転がっている風景はもはや狂気と言わずしてなんと言うべきか。
山腹から村を見下ろした時、あたかもそこに薄紅色をした絨毯が敷き詰められている錯覚を覚えた。
来た道を戻り、村の中心にあったと思われる家の基礎にテントを張り、忍び寄る宵闇に備えた。
一緒にここまでやってきた友人2人も私と同じようにテントを張り、キャンプの準備をはじめた。
携帯電話は無論、圏外。
仕事の電話に邪魔されずに済みそうだ。
リュックサックから飯盒(はんごう)を取り出し、ご飯を炊く準備をする。
夕食を食べ、晩酌をはじめる。
どれくらいの時間を談笑したのか、酔いも回り、各々のテントに潜り込む。しばらく静寂の中に2人分の鼾が混じり始める。意識が途絶えた。
時間の経ち方が異常だ。
どん、という鈍い音、それからクチャクチャと言う租借音、2人のうちどちらかが腹でも減って外に出たのかもしれない。それから夕食の残りを漁り、今腹の中に納めているところかもしれない。
ザクザク、と地面を踏みしめる音、隣のテントで何やら鈍い音、再びクチャクチャクチャクチャ、と耳に残る咀嚼音、私は急に恐ろしくなったので寝袋に完全に身を埋め、隠し持っていたヴォイスレコーダーのスウィッチを入れ、息を殺した。
ザクザクザッザッザッザッザ…早足で私のテントにソレは近付いてきた。
ジィィィィィィィィィィィィィっと妙に間延びしてジッパーが開けられる。
ハァハァハァと息遣いの音、入口から風に乗って鼻腔をつく生臭い臭い。
そして、そこから先の記憶はまるでテレビの電源を落とした時のようにプツッと消えている。
朝になって、私は【科隠村】からはるかに離れたとある山中で山菜狩りに来ていた老夫婦に発見される。発見された時は意識を失う前の服装で、身に付けていたカメラとリュックサックが無くなっていた。
財布や身分証明、2人に隠して持ってきたヴォイスレコーダーは手元に残った。
意識を失ってからの時間経過は3日。
3日間の記憶がまるで無い。友人2人の消息はあの日を境にわからなくなってしまった。警察に捜索願を出してはあるが、果たして警察は2人を見つけ出すことができるのだろうか?
「3流恐怖小説か…。良く出来た話だな」俺は恐怖小説のような演出をしているこのページを読むと感想を述べた。
一応、行方不明者…と言うか事件を検索してみた。残念ながら類似した事件や話は検索できなかった。取り敢えずのところ、身の安全を確保するモノを用意しなければならないと言う事と、クルマの乗り入れが不可能である事がわかっただけでも儲けモノとしよう。
何気に下方にまだスクロールする余地がある。ためらいも無く俺はスクロールする。
この探索の最後になるが、私の所持していたヴォイスレコーダーには『さくら…り……。もののふ…り……。わざ…い』と私でなければ友人達の声でもない、第三者の声が残されていた。
誰の声か判別できないくらい声は遠かった。
そして、どさっという鈍い音。
咀嚼音は聞こえなかった。
暫く息遣いを残し、来た時と同じようにしてザッザッザッザッザッザと言う音を残してそれは去っていった。
取り敢えず、意思を持って行動する『何か』にカムイは襲われたのだろう。但し、作り話やカムイ自身の幻覚や幻聴の類でなければ、の話だ。
時々、山間の村では大地からのガスや、植物の発する香りや花粉等の要因で幻覚や幻聴を見ることもある。そういう類ではないのかどうか、植物の群生地図等の資料が少ないし、何より歴史上表に出ていない地域だ未知の危険を多量に抱え込んだ地域である事に間違い無さそうだ。
ガスマスクくらい用意していくかな。なんとなく、ね。
お気に入りに登録しようと思い、カムイのページ『神宿りの島』のトップに戻る。よく見れば、トップページの隅っこには何処にでもいる人柄の良さそうな若者の目線入りの写真が載っていた。他に何か面白い情報が無いかと、下方にスクロールする。
『更新履歴。2006年5月1日【科隠村】』とあった。それを見て若干の驚きを隠せなかったのは否めない。
「更新、昨日かよ」何故だか、俺は妙な違和感を感じた。何にだろう?
放置されていたであろうページが何故か昨日付けで更新されている。更新された部分がわからないが、確かに更新されたのだろう。それは良い。時間に余裕が出来たから更新したのかもしれない。でも、この違和感はそんなところから来るものではない。直感が告げる。
じゃぁ、何処から来るのだろうか、この違和感は。寧ろ、これを事実と受け止めないほうが健全でいられるのかもしれない。
「三国と菅沼が後から参加するわ」俺は三枝に電話をかけた。
「ほう、三国って今中国に居るんじゃなかったっけ?」
「何か知らんが、菅沼に来いって電話した後に三国からメールが来た」俺はビートのステアリングを握りながら事の次第を三枝に伝える。
「ほむ。三国が来るのなら心強いんでないか?」
「まぁな。奴等アウトドアメンバーだから、こういうネタには向いていると思う」隣の呉葉は詰まらなさそうにただ流れていく風景を眺めていた。
「つうか、枝さん」
「ん?」
「ちゃんと間に合えよ?」
「…うむ」簡単に段取りをつけ、電話を切る。
「ねぇ、ゆたか」電話を切ったと同時に呉葉が喋り出す。
「どうした?」俺はコーナーで軽くビートを滑らせながら呉葉の問いを待つ。
「本当に【咎隠村】って存在してると思う?」妙な問いだな、と思ったものの「それはわからない。俺自身が見ていないし、行ってもいないから」俺は自分の考え方を告げた。
「あはは、それを言うとゆたかの背中は無いって事になるよ。」呉葉はひとしきり笑い終えて「んとね、【咎隠村】は在るよ」と、道の先を見ながら、呟くように言った。
「ほう?」呉葉の意外な言葉に俺は興味をそそられた。視線をやや呉葉に向けつつ「何処に在るんだよ?」と俺は軽快にビートを走らせながら尋ねる。
「【荒倉山】に鬼女紅葉が葬られていると言う伝説は知ってるよね?」
「知らない」俺はさらりと答える。
「あのねぇ…なんの予備知識も持たずに【咎隠村】に行こうって言うの?」呆れ顔で俺を見る呉葉。
「俺の行動はいつも突発的だぞ」自信を持って呉葉に答えた。
「まぁ、いいわ。鬼女紅葉の伝説は知ってるの?」呉葉は完全にそんな俺をスルーして、話を続けた。
ああ、そう言えば【紅葉狩り】について三枝に調べさせていたな…。
「ああ、なんだかこの地域の伝承らしいな」俺は呉葉が何を言いたいのか、その意図を掴めなかった。
「実はね、鬼女紅葉は『本当』にあった話なのよ」興味深い事をハッキリと言い放った。伝承として語り継がれている話は事実である可能性が非常に高い。
「へぇ、それで…?鬼女紅葉が隠れ住んでいた場所が【咎隠村】だとでも言いたいのか?」
「そうよ」間髪いれず呉葉が返す。
「それじゃ、【咎隠村】に行くには、【戸隠神社】の奥社から【戸隠山】に登るルートで合っているのか?」俺は地図から割り出した【咎隠村】へのルートを思い浮かべて尋ねた。
「それはそれであっているわ」納得のいかない返事をする。
「それはそれ?」俺は聞き返す。
「行けばわかると思うわ」ダークブラウンの瞳に僕は引き込まれそうになりながらも思考を廻らせていた。
何故、呉葉は【咎隠村】を知っているのか。
そもそも、俺は呉葉について何も知らない。
呉葉の素性、性格、出身…俺は何もわかっていない。
ただ勢いで隣に座る女を道連れにし、危険ともわからない廃村に向かっているのだ。ほぼ白紙の情報を手にして。
昨晩の一件も既に記憶の彼方に沈もうとしている。
頭の中の警笛が鳴らない。感覚では危険だと『わかっている』のに何故、こんなにも危機感が無いのだろうか。
三国のメールにあった鬼女なのかもしれないな、この女は。自分の思考に吹き出してしまう。
この科学のご時世に鬼か。笑えるな、本当。
「急に、思い出し笑い?」呉葉は俺の顔を覗き込む。
「いや、ちょっと」ビートのアクセルを開け、呉葉の問いを誤魔化した。
ズボンのポケットに押し込んだ携帯電話が振動し、遅れてメロディが鳴る。
「もしもし?」俺は着信相手の確認をせずに電話に出た。
「あ、俺」声からして電話の相手は多分高塚だろう。
「俺?」俺は取り敢えず聞き返してみる。
「俺だよ、俺」しつこいな、この男。
「俺だよ、俺、俺」俺も負けじと俺俺詐欺風に返す。
「だから俺だって、俺」段々と腹が立ってきた。
「俺も俺だよ、俺?」もはや、何がなんだかわからない。
「あー、もう。俺だ、高塚だ」向こうも痺れを切らしたらしい。
「ああ、わかってる。どうした?」
「そろそろ戸隠神社・奥社の駐車場に着くんだけど、お前は今、何処だ?」若干キレたような語彙で俺に尋ねる。
「もうすぐ着くと思うぞ。多分」
「そうか。じゃ、着いたら電話してくれ」
「ういよ」高塚との電話を切り、俺は運転に専念する。隣の呉葉は瞼を閉じていた。眠り落ちているのか、何かを考えているのか。…どうでもいいや。
しばらくクルマを走らせ、戸隠神社の駐車場に到着した。停車している黄色い物体を発見しその横にクルマを滑り込ませた。ドアを開け、クルマを降り、大きく背伸びをする。呉葉もビートの隣に立って、俺と同じように背伸びをしていた。
「おつかれ」呉葉のハスキーヴォイスが心地良い。
「サンキュ。気持ち良いな」空に向かって手を思い切り伸ばす。小春日和の温かな日差しが降り注いでいる。
「気持ち良いね。これからどうするの?」呉葉は俺の隣に立ち、俺の顔を覗き込む。一つ一つの動作が女の子をしていて可愛い。
「先ずは、そこの黄色い物体の持ち主に電話しないと」俺はシートに転がった携帯電話を取ると、高塚に電話をかけた。一応、黄色い物体の中を覗くが、蛻の殻で、何故か布団と毛布が綺麗に折り畳んで置いてあった。
「あー?どうした?」コール音が止み、不機嫌そうに高塚は電話に出る。
「こっちも今到着したんだけど、お前、何処だ?」俺はビートのボンネットに腰を下ろし、辺りに高塚の姿はないか、と探す。
「ああ、俺達はもう神社に向かって歩いてる」ごく自然に高塚が言う。
「なにぃ!?もう直ぐ着くって言ったじゃないか」
「待ってるとは言っていない」間髪居れず反論される。
「へいへい、わかったよ。じゃー、俺も神社に向かうわ」俺は呉葉に目配せして、戸隠神社の奥社に続く道に向かって歩き出した。
「まぁ、普通の神社だぞ。今度は待っててやるから早く来い」
「わかったよ、んじゃ、後で」そう言って俺は電話を切った。
駐車場から奥社までの道は一直線になっているらしい。取り敢えず虚ろな記憶を引き摺り起こすと、ひたすらに杉の巨木が立ち並ぶ杉並木を歩く。
しばらく道なりに歩いていくと荘厳な随神門が目の前に現れた。
「すげぇな、コレ」俺は随神門を潜る(くぐる)前に見上げてみた。随神門の屋根は苔生し、幼生の木までも背負っていた。
「幾星霜を重ねたのかしら」呉葉も俺の隣で一緒になって門を見上げた。
自然と一体化し、自然に還る日を待ち続けているかのような門を潜った時、重ねた歴史の重圧に押し潰されるんじゃないのかなんて、思う自分が居る。
随神門は神気を放ち、その厳格な面持ちでただ其処に在った。
「さっきの電話、ゆたかの友達?」暫しの無言を断ち切って、呉葉は俺の斜め後ろを歩きながら尋ねた。
「そうそう」俺は随神門を潜り道の先に高塚の姿を探して歩く。
「…よぉ」真後ろから聞き慣れた声。
すげぇびびった。
声の主の隣で呉葉は平然としている。俺は「もしかして、気付いてた?」と尋ねて呉葉をジト目で見た。悪びれた素振りも無く、こくこく、と頷いて呉葉は「こんにちは」と絶妙のスマイルで高塚に会釈をした。
「こんちわ」高塚が少しはにかみながら会釈した。正直、高塚と言う男を知っている俺にとってこのはにかみはすげぇ、気持ち悪い。
「気持ち悪いぞ…お前」俺は高塚をジト目で見た。
「うるせー。で、この娘、誰?」興味有りげに呉葉を指差した。
「んー、街で拾った」呉葉を後ろから抱き締めて、さらりと言ってみた。
「拾われた」呉葉も胸の前で組まれた俺の腕に手を絡ませ、ノってきた。
「あれあれ、こー君。この子達、だぁれ?」高塚を後ろから羽交い絞めにするようにしてその女は現れた。高塚には似合いそうも無い綺麗系の女で、慎重は160台前半くらいか、スタイルはそれなりに良さそうだ。むう、いつの間にこんな良い女とオシリアイになってるんだろ。
「こー君、コレ誰?」俺はさりげなく『こー君』と言いながらその女を指差した。
「誰がこー君じゃ!」ビシィッと俺を指差し高塚が抗議する。
「こー君」
「お前」
「…」
現れた女、俺、呉葉の三人から指差される高塚。非常に哀れだ。頭を抱えて蹲る高塚、背中に哀愁の二文字を背負っているのがよく見える。
「あー、ええと。こいつが皆川、そしてその女は知らん」女の質問に高塚はぶっきらぼうに答えた。
「はじめまして、皆川君、あと、知らない人」にっこりと高塚の彼女と思しき女は妙な挨拶した。綺麗系だけど頭は弱いのかもしれない。
「ああ、はじめまして。ええと…?」
「むぅ、名無しの権兵衛じゃぁ、気分が悪いから自己紹介するね」いつの間にか腕組みして気合を充実させている呉葉が話し始める。
「あたしは【神崎 呉葉】。一応【鬼無里村】出身です。良くわからないうちに、ゆたかに拉致られて此処にきたの。不束者ですが、よろしくお願いします」ペラペラと高速で話した後、満面の笑みでお辞儀をした。
「呉葉ちゃんかぁ。可愛い名前だね」金川は高塚を突き飛ばすと、呉葉に抱き付いた。哀れだな、高塚。お前、やっぱりそういうキャラでいいんだよ。
「抱き付き魔か」金川を指差して、俺は高塚に尋ねた。
「まぁ、そんなところだ」苦笑しながら、高塚は「枝さんはまだかよ?」と尋ねてきた。
「あ、まだだな。電話してみよう」俺はポケットから携帯電話を引き摺り出すと三枝の電話番号をコールした。
「んぁ。もしもし?」相変わらずの間抜けな声が聞こえる。
「よう、枝さん。今何処にいるんだ?」電話をしながら3人を横目で見る。いつの間に意気投合したのか、3人が、なんだかじゃれている。すげぇ胡散臭い。高塚が女とじゃれているのが、もう目も当てられないくらいに胡散臭い。
『胡散臭い、ああ胡散臭い、胡散臭い』一句詠んでしまえるくらいの勢いだ。
「もうすぐ着くところだー」枝さんの声で現実に帰る。
「ほう、じゃー気を付けて来い」
「シャラポアFit発見」どうやら黄色い物体を発見したようだ。
「んじゃ、俺ら随神門から戻るから。とっとと合流しようぜ」
「らじゃらじゃ」そう言うと電話を切る。
「もう着いたみたいだ」俺は3人を振り返って枝さんが付いたことを告げる。
「さて、どうしようかね?」俺は3人に意見を求める。
「まぁ、こっちに来ると言うなら待っていればいいんじゃね?」高塚が当たり前のように答えた。というか、お前が女に囲まれている風景は異様だぞ。
「今度は三枝君?」再び高塚の首に腕を回して金川が俺と高塚の会話に乱入してくる。
「ん?知ってるの?高塚の彼女様」俺は金川に尋ねる。
「うんうん、知ってる知ってる」金川がにっこり笑う。それからマジ顔で「皆川君、『高塚の彼女様』って呼ぶのやめてョ。金川、で良いよ」俺を諭すように金川は言った。
「はいはい、金川さんな?ヨロシクね」俺は右手を上下にパタパタしながら金川の注文に答えてやった。
「ゆ~た~か~」呉葉が金川を真似てか、俺の背中に飛び付き、首に腕を巻きつける。胸の弾力が背中越しに伝わる。結構気持ちの良いものだ。
「何だ、呉葉?」俺は呉葉の言葉を待つ。
「あたしはどうすれば良いのかな?」
「ん?」
「ゆたか達と一緒に行っても良いの?」不思議な事を聞く奴だ。
「良いに決まってるだろ」俺は出来るだけの笑顔で呉葉の問いに答え、頭を撫でてやった。「良かった」呉葉は俺の身体をギュッと抱き締め何故か安堵の言葉を漏らした。
「お、枝さん来たぞ」高塚が随神門の遥か向こうにフワフワと足取りの覚束無い白いシャツで黒いパンツを穿いた男を指差した。
「よぉ、枝さんおせぇぞ」俺は呉葉を首に巻きつけたまま歩き出す。
「すまんすまん」いつものように悪びれた様子も無く三枝が歩いてくる。そしてその後ろに見た事の無い女が着いてきた。
「枝さん、何それ」俺は三枝の後ろにいる女を指差した。
「ん、うちの妹だよ」そう言うと三枝の後ろに居る女が俺達に会釈した。
「へぇ、枝さん妹居たんだ」高塚が少し驚いたように妹を見る。
「というか、お主等、新種の襟巻きか」俺と高塚に取り付いている2人を三枝は指差した。
「俺のは違うな」俺は呉葉を振り解くと、ポケットからタバコを取り出す。
「あー、ゆたか。ひどいなぁ」残念そうに俺を見る。
「さて、じゃー、準備して向かうとするか」俺が言うと。
「何!?」
「おい、今からかよ」
「えー」
「マジ?」等ざわめきが起こったが「時間ねーもん」と言う俺の一言で決行することが決定した。
駐車場に戻り、各々が準備してきたものをクルマから下ろす。
戸隠山で泊り込むなんて事は無いだろうが、【咎隠村】でキャンプすることを想定して、三枝に大きめのテントを2組頼んでおいた。男と女で分かれて寝れば問題ないだろう。
テントを俺と高塚が背負う、そして三枝がその他のキャンプグッズを背負うことになった。
時間的に一周ルートだとパーティーの技量によるが、7時間くらいで踏破できるルートになっているらしい。何処かのサイトで読んだ情報だけど。
そもそも、一周するつもりも無いので、戸隠山から『一不動非難小屋』を経由し五地蔵岳を越えて高妻山に向かい、来た道を通り帰る、と言うプランも考えた。先ずは、出発するのが先決だろう。
現在、時計は13時30分を指し示している。此処から7時間かかると考えるとただ歩いて戻るだけで20時30分。それでは目的のは果たされないわけで、やはりどこかでキャンプする必要性があるということだ。
駐車場から一直線になっている道をひたすら進む。結局さっき通った道を引き返す形になるわけなのだが。
随神門を潜り奥社を目指す。
登山口で登山届けを出し、鎖場や『蟻の戸渡』の説明を聞く。それからルートの説明図を受け取る。
「割と説明を聞くと疲れそうだな」高塚が地図を見ながら言う。
「難所は『蟻の塔渡』だけらしいが…」俺は先程の登山口で聞いた通りの情報を皆に話した。
「ほむ。それにしても鎖場ってどうなんだ?」三枝が不安そうに地図を覗き込む。
「大丈夫だろ、老人でも此処、来れるらしいから。若者である俺達が行けないわけ無い」俺は胸を張って言った。
「それにして服まで用意してあるなんて都合がいいわね…」金川が着替え終わって、俺のほうを疑惑の目で見る。確かに登山用の服が何着か用意されていて俺も驚いたわけだが。そんな目で見られても用意したのは俺じゃないわけで。
「ん?枝さんの妹が用意してきたんだろ?」俺は三枝・妹を見た。
「うん。本当は自分の着替えなんだけどね」
「でも、この量多過ぎないか…」三枝の妹はリュック一杯に服を詰め込んできていた、それを指摘する三枝、見事に踵で爪先を踏み付けられた。哀れ。
「じゃぁ、進もうか」
奥社からいきなり急な上り坂になる、ブナ等の自然林に囲まれ、普段の忙しい(せわしい)俗世を忘れさせてくれる。そして、みるみるうちに下の樹海が低くなっていく。意外にも女性陣は元気に登ってくる。この辺りの地面は土で、岩場はまだ出てこない。とりあえず、最初の鎖場で休憩を取る。
「そんなに大した事は無いな」高塚が息を切らせながら説得力の無い台詞を吐く。
「それにしても、呉葉ちゃん、すごく慣れてるね」金川が岩に腰をかけて汗を拭いている。
「まぁ、何回か登ってるから。それに地元だし」呉葉は俺のリュックから500mlのスポーツドリンクを引っ張り出しゴクゴク、と腰に腕を当て、気持ちの良い飲みっぷりで半分くらいを飲み干した。
「それにしても枝さんの妹が此処まで元気だと言うのも意外だな」三枝の妹も呉葉と仲良く肩を組んで金川に写真を撮ってもらっていた。
「あのー、一応、遅れましたけど。【三枝 真夜】です。兄がいつもお世話になっています」三枝・妹がペコりとお辞儀をする。
「あー、こちらこそ。俺は皆川。ってか、枝さんこんな可愛い妹居るとは…」若干の殺意を秘めた視線で三枝を射る。
「あー、俺は高塚、そしてこっちが彼女の金川」高塚が自分と彼女の紹介をしている。
ああ、こんな瞬間が来るなんてな。
ああ、世も末だな。
そんな事を頭の中で考えていた。
「金川さんとはここまで来る間に話してました」にっこりと金川に微笑みかける、三枝・妹。何て言うか男だとこうも仲良くなれねーよな、とか思ったり。10分ほど休憩を取って、再び歩き出す。
徐々に岩場が多くなってくる。『五十間長屋』と言う岩場まで歩き通す。高塚と三枝以外は話しながら平然と歩き続けている。やはり、背負った荷物が多過ぎるのか、2人とも歩くペースが落ちつつあった。
さて、『五十間長屋』と言うのは戸隠山の険しい岩場の基部になっている場所で、此処から左に巻くと『百間長屋』と言う岩場になる。普段、アスファルトで舗装された道を歩きなれている所為かこういった岩場を歩くと体力がガリガリと削られていく。
『百間長屋』を通り『西窟』を抜けると本格的な鎖場が現れる。かなりの斜度を持った部分もあるが、慎重に登っていけば問題はない。
何箇所目か忘れたが、鎖場を越えた辺りで、高塚の息が上がってきていたので、再び休憩を取る。地図を確認するともう少しで胸突き岩』、そして難所『蟻の塔渡』だ。
「バテたな、おっさん」俺は高塚の隣に腰を下ろすとタバコを取り出し、火を点けた。
「うるせー、似たようなもんだろ」高塚は俺の体力も結構磨り減っていることに気付いているようだ。
「女性陣は大丈夫か?」俺は呉葉に尋ねる。
「それなりに疲れてきてるけど、まだ歩けるよ」呉葉は周りの景色を見ながら平然と言った。
「あたしも大丈夫だよ」金川も平気そうだ。
「あたしも大丈夫」三枝・妹も平気そうだ。
「あー、もーだめー」三枝が情けないことに地べたに這い蹲っている。
「何してるんだよ、おっさん」俺は三枝に声をかける。
「いやぁ、昨日寝不足でさぁ」普段の生活以外でも寝不足になる、この男の神経が知りたい。
「…。んー、何してたんだ、お前?」一応、理由はなんとなく分かりきっているんだけど、聞いてみる。人間、対話は大事だよね。無言で言葉で解決できれば暴力なんて要らないもんね?
「Webサーフィン」ああ、やっぱり。こいつ此処で殺しておくか。
「死ね」軽くチョップを三枝の頭頂に当てる。
「ぐふ」三枝は完全に地面に突っ伏した。
「おにいちゃん、今日、此処に来ること分かっていながら寝てなかったの?」呆れ顔で三枝・妹が兄に食って掛かる。
「寝てなかったんじゃなくて、寝れなかったんだよー」取り敢えず、立ち上がり、衣服に付いた砂埃を払う三枝。
「Webサーフィンで?」ああ、痛いところを突くね、妹君。
「あはははは」軽い笑いが山に響く。
「まぁ、迷惑かけないようにしなよ?」三枝・妹はそう言うと自分の飲んでいたペットボトルのお茶を三枝に渡した。
「さんきゅ」三枝はペットボトルを受け取るとすごい勢いで飲み干した。
時計は15時30分を指している。赤の領域が青の領域を侵食し始める。5月初めだとまだ、夕暮れの時間も早い。
せめて一不動の非難小屋までは行きたい。というか、あそこまで行かないとキャンプも出来ない。
何組かのパーティーが俺達を追い越していく。大学生くらいの男女で4人のパーティーに声をかけられた。
「どちらまで行かれるんですか?」
「んっと、高妻山まで行って、それから帰ろうかと」パーティーのリーダーらしき男が「それはお勧めできませんね。今来た道を戻るとなると、鎖場を下ることになりますから。それだけの荷物を持ってでは厳しいかもしれませんよ」と言いながら俺と目を合わせてからに女性陣のほうに視線を向けた。
「なるほど、ご忠告ありがとうございます。この山は初めてなもので」にっこりと笑って彼の言う事を受け入れることにした。
「それじゃ、がんばって」彼と彼のパーティーは俺達に手を振ると蟻の塔渡へ向かっていった。
「4人パーティーか」高塚が俺に声を掛けてきた。
「ん?何かあったのか?」俺は高塚を見る。
「何でもない」高塚は俺に声をかけてきたリーダーを睨む様に見つめていた。「知り合いか?」俺は高塚に近付き、小声で話しかけた。
「いや、そう言うわけではないんだけど。どこかで見たような?」
「デジャヴュじゃね?」
「だと良いな」何か腑に落ちない。
「ゆたか。アレ、あたしもどこかで見たことあるかもしれない」呉葉まで奇妙な事を言う。
「有名人か?」俺は残りの3人に尋ねる。
「知らない」
「知りません」
「知らないのう」誰も知らないみたいだ。
「まぁ、すげぇ気にはなるのだが…。俺達も進むか」俺達は蟻の塔渡まで歩を進めた。
「あのさぁ、帰って良いか?」三枝がソレを見た瞬間クルリと振り返ろうとした。
「ダメ」三枝・妹が兄の襟首を掴んだ。ナイス、妹!俺は心の中で叫ぶ。
『蟻の塔渡』というのは両側がスッパリ切れ落ちたナイフリッジである。眼前にある登山道は幅50cmほどしかなく、両側は切り立った崖になっている。
恐る恐る、崖下を覗き込むと高さ約30mほどだが、落ちたら確実に死ぬだろう。取っ付きに鎖はあるのだが、相当気合を入れないと、此処を渡ることなんて不可能だろ。特に三枝は高所恐怖症だしな。
北アルプスに行けばこれ以上の高度差があり足場も数cmといった岩場も存在するが、一番の違いは蟻の塔渡には手でホールドする物がない。つまり足を踏み外したらそのとたん真逆さまに落ちてしまうって事だろう。
この蟻の塔渡を迂回して進む、捲きルートも存在しているが、剣の刃渡と呼ばれる数十cmのナイフリッジは必ず通過せねばならない。
どちらにしても、馬乗りになり這って通過するのが最も理に適った通過方法だと俺には思えた。命の保障をしなければ歩いて渡ればいいが、普通の神経で考えれば這って渡るだろう。
俺たちの後から、やってきた登山者の中にも、ここまで来て蟻の戸渡を見て帰って行く連中も居た。
「まぁ、格好は気にせずに安全に渡ろうぜ」俺は馬乗りで這い蹲って渡ることを皆に薦めた。
「誰が一番手で行くよ?」高塚は皆に尋ねる。
「んー、じゃぁ、あたし」呉葉はすっと俺の前に出ると蟻の塔渡を平均台でも渡るかの様に両手を伸ばして歩き出した。
「お、おい」眼下にはごつごつとした岩場が広がっている。呉葉の黒髪を風が凪ぐ。しかし、呉葉の身体は揺らがない。その姿は神々しくもあり禍々しくもある。
「大丈夫、慣れてるから」呉葉はそのままスタスタと蟻の塔渡を渡りきった。俺達5人は呉葉の姿に見とれていて、渡り切るまで無言だった。
「すげぇな」高塚が珍しく人を褒めた。
「確かにすげぇ」俺もただ凄い、と言う他無かった。
「さて、どういう順番で渡りますかね?」金川がずずいっと俺と高塚の間に割って入ってきた。
「ん、渡りたい人から」俺は素っ気無く答える。
「あたし、一番最後で良い?」金川がそう言った。
「構わないよ」皆、口を揃えて言った。
「まぁ、枝さんから渡れよ」高塚が三枝に先を行かせる。
「うむ」神妙な面持ちで峰に馬乗りになって、三枝が這って進み始めた。
「下、見るなよ」ボソッと言ってやる。俺の言葉につられて、下を見る三枝。
「うお…」一言の後、沈黙。それでも何とか進もうとしている。がんばれ、三枝。
「さて、次は誰が行くよ?」とりあえず高塚と三枝・妹に尋ねる。
「あたし、行きます」ささっと、峰に跨る。
「頑張れよー」と、三枝・妹を見送る。兄よりも飲み込みが早いのか、段々と兄に近付いていく。
「さて、次は俺が行くとするかね」俺はそう言うと峰に跨る。
「ほいほい、んじゃ、俺らも続くわ」こうして、俺と高塚、金川が渡り始める。イメージしていたよりも厳しい。と言うか、前進しようとするとリュックサックの底が擦れて上手く前進できない。
しかたないので跨って進むことを諦めて、四つん這いになり前進することにする。
しかし、四つん這いにもかなり問題があった、手足を動かすたびに背中のリュックサックが横揺れし、安定しないのだ。リュックサックにつられて俺まで落ちかねない。-はっきりいって怖い。
一般開放されている山なので、そこそこの安全は確保してあるのだろうが、それでも怖い。少しずつ、確実に先に進む。
「まったく、三枝のように渡ってたら、股間が痛くなりそうだ」前方を見て、少し後悔する。まだまだ蟻の塔渡は続く、なんとか半分は過ぎた。
「ゆたかー、がんばれー」暮葉が手を振っている、気楽なものだ。落ちないようにして前に進む、必死になって進む。
ふにっと、なにやら柔らかいものに触れる。何かと顔を上げると三枝・妹の尻が目の前にある。ああ、ヤベ。触れた事に気付かなかったのか、三枝・妹は何事も無かったかのように前進する。妙な誤解を招かずに済んだ、良かった良かった。まぁ、感触だけは忘れないようにしよう。
何とかして全員無事に蟻の塔渡を渡り終えることが出来た。
「取り敢えず、難所はクリアしたな」俺は全員の無事を確認してタバコを取り出した。
「また、タバコかよ」高塚が呆れ顔で俺を見る。
「いいじゃん、好きなんだもん」俺はニッカリと笑うとタバコに火を点ける。
「このまま、高妻山まで進むのか?」三枝がスポーツドリンクを飲みながら尋ねる。
「いや、俺達のパーティーだと『一不動避難小屋』ってところで泊まったほうが安全だと思う」俺は時刻の確認をする。時計は17時近くを指し、秒針は今なお流れていく時間を追っている。辺りは宵闇に侵食されつつあり、このまま高妻山まで突き進んでも、【咎隠村】の探索は出来そうに無い。
「此処からどれくらいかかるの?」心配そうに金川が尋ねる。
「20分くらいじゃないか?そんなにかからないはず」俺は適当に答えた。
「それなら大丈夫ね」三枝・妹も安心したように頷いた。
「まぁ、そろそろ先に進もうよ」呉葉が退屈を持て余して俺達を急かす。
「ほいほい、じゃぁ行こうか」三枝が重い腰を上げる。
「張り切ってるな…」無駄にテンションが高い。
「もう少しで睡眠を取れるー」三枝はふらふらとした足取りで歩き出す。身体は精神に追いついていないようだ。
「さて、俺達も行こうぜ」高塚が俺を急かす。
「なんだよ、ゆっくりタバコ吸わせろって」俺はタバコを銜えながら立ち上がる。
「お兄さん、ポイ捨てはやめろよ」高塚がボソッと言う。ああ、ムカつく男だ。俺は携帯用灰皿に吸殻を放り込んだ。
時間はそんなにもかからずに一不動の非難小屋に辿り着いた。
何組かのパーティーが夕食を摂っていた。
「お、さっきの人達」俺は鎖場で追い抜いていった大学生くらいのパーティのリーダーらしき人に声をかけられた。
「ああ、さっきの…。ええと?」
「藤堂…と申します。早稲田大学の登山部の部長をしています」藤堂は山焼けして浅黒く日焼けした顔で柔和に笑い、自己紹介した。
「俺は皆川…一応、会社員だ。富山から来てる」
「今日は此処で泊まりですか?」藤堂は俺に缶コーヒーを手渡してくれた。
「あ、有難う」俺は藤堂から缶コーヒーを受け取った。
「こんにちは」高塚が話しに加わってきた。
「はじめまして。藤堂、です」
「高塚です。よろしく」話してみると藤堂は気さくで、他にもパーティーは居たが俺達のパーティーと彼のパーティーは年齢が近い事もあり、短い時間で打ち解けた。藤堂のパーティーは藤堂本人と、竹中という副部長で藤堂の親友、そして、加藤・加持と言う二人の女子部員で構成されれたいた。
男は男同士で盛り上がり、女は女同士で盛り上がった。途中から酒も入り、段々と皆酔い潰れていく。
最後に俺と呉葉だけが残った。
「ねぇ、本当に【咎隠村】行くの?」静寂の中で呉葉が俺の背に身を預けた。
「どうして?」俺は呉葉の体温と鼓動を感じながら呉葉の質問に着いて考えた。
「危ないから」短く呉葉は言った。
「それでも、行きたいから行くさ」タバコを燻ら(くゆら)せた。
「そう、じゃあ。【咎隠村】は高妻山と戸隠山の間に位置しているわ。ただ、【櫻ノ海】には行かない事ね。【櫻ノ海】には亡霊が出るから」『亡霊』、と言う非現実な響きが山深い小屋の中ではあたかも現実に『亡霊』存在しているような錯覚を覚えるのだ。俺は「なんだよ、【櫻ノ海】って?」と初めて聞く呉葉が口にしたその名詞について聞き返した。
「それは、深い深い森の中にあるの。それは、忘れられた祭壇。それは、血塗られた過去を持っている」謡うように呉葉が話す。
「ね、一本。頂戴」呉葉にタバコを渡す。キンッ、シュガッ呉葉は俺のZippoで火を点ける。幾筋の紫煙が立ち昇る。
多分、これ以上の事を聞いたところで的を得た答えは返ってきそうにない。俺は半ば諦めて「さて、寝ようか」と呉葉に声をかけた。
「そうね」呉葉はタバコを一気に吸うと俺の隣にゴロン、と寝転がった。
「ありがとう」呉葉は短く礼を言うと俺の渡したシュラフに潜り込んだ。
「おやすみ」
「おやすみ」こうして5月2日はなんとか無事に過ぎていった。