ledcannon’s diary

美作古書店

櫻ノ海 三章

櫻ノ海

 

―参章―

 

胎動-たいどう-

 

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第参話

 

追跡-櫻の海へ-。

 

 

濃霧。

 

辺りは一面、白いヴェールに包まれている。

運良く、昨日の酒は残らず、スッキリとした目覚めだ。

ただ、目覚めたばかりで頭の置くが目の前と同じで霞んでいる。

 

となりのシュラフを見ると蛻の殻で、誰が寝ていたかを思い出すまで多少時間がかかってしまった。

「あ!?」思わず声を上げてしまう。呉葉が居ない。シュラフに手を突っ込む、温もりがまだ残っている。

「呉葉?」俺は取り敢えず、白いヴェールに向かって声をかけた。

「何?」即答で答えが返ってきた。

「何処行ったのかと思ったぞ」俺は霧の向こうに見えるシルエットに話し掛けた。

「ちょっと、トイレに起きただけよ」照れたような上ずった声が返ってきた。時計を見ると5時30分、何時に眠ったかさっぱり覚えていないので、どれくらい寝たのか検討もつかない。

まぁ、自然に『目覚める』ということはそれなりに眠れたのだろう。

「用足しは出来たのか?」さらっと聞いてみた。

「とっくに」シルエットは段々と輪郭を露わにし、それが呉葉だときちんと認識出来るのには5m程の距離に近付いてからだった。

「おはよ」呉葉が弛んだ顔で両手を天高く伸ばしつつ、眠さをアピールしながら右手をひらひらと振った。

「おう、おはよ。瞼、閉じかかってるぞ」笑いながら、ひらひらと左手を振る。

「うー、眠いんだよぉ」目を擦って、欠伸をする。それは狙ってやっているんだろうか?無用心にもほどがあるぞ。

「それはそうと、気持ちよく排便は出来たか」この付近にトイレが無いのを知っていたので、ニヤッと笑ってやった。

「排便って、何言ってんの!そんなことしてません!」呉葉は目を擦っていた手を頭の上に挙げて振り回した。

「冗談だ」真面目な顔をして呉葉を嗜め(たしなめ)た。

「さて、昼間には【咎隠村】に到着出来るかな?」俺は呉葉に尋ねる。

「そうね、余裕で着けると思うわ」霧が晴れればもう少し気分も乗ってくるのだろうが、現状、俺の気分は暗澹としていた。何かこう、虫の知らせっぽい不吉な予感が心の中を渦巻いるのだった。

「じゃぁ、高妻山から先は呉葉に道案内をお願いしようかな」俺はおどけて言ってみた。

「えー、良いけど。ゆたかだけならって制限つけるよ?」意外な返事が返ってくる。

「ん?」一瞬思考回路が止まって、妙な言葉が口から漏れる。

「ゆたかだけなら道案内してあげる。他の人が来るのなら厭」ハッキリと呉葉はその口を開いた。

「何でだ?」俺は呉葉が何故、俺以外を案内してくれないのか、その意図について知りたかった。

「ゆたかには借りがあるから。他の人達にはそれが無い」呉葉は微笑を浮かべた顔に真剣な瞳でそう言った。

「割と古風な考え方だな。そういうの、好きだぞ」俺はタバコを燻らせながら呉葉の真剣な瞳を見た。

「それで、ゆたか。どうするの?」『好き』と言う単語に反応したのか、薄紅色の頬をして呉葉は俺に答えを求める。

 

しばらく考えた後「わかった。じゃぁ、一つだけ。【咎隠村】は俺の予想通りの場所に在るんだな?」地図を指し示す。

「そうね。間違っては居ないわ」一呼吸置いて。

「俺が呉葉に案内してもらって、その後からあいつ等を俺が案内しても問題はないよな?」俺もマジな目をしていたんだろう。

「あら、質問は一つだけでしょ…?まぁ、いいわ。それは問題ないよ」にっこりと呉葉は笑った。

自分から借りの無い人間に道案内をするのは厭だと言うことだ。

取り敢えず、道案内してくれるのならそれはありがたい。

呉葉の気が変わらないうちに出発する事にしよう。

「それじゃあ。呉葉、今から行こうか」俺は出発する準備をはじめる。

「今から…?この霧の中を?」意外そうな顔をして呉葉が俺を見た。

「ああ、俺には時間が無いからな」俺は呉葉を見つめる。

「仕方ないわね」呉葉は渋々承諾し、俺の隣で準備に取り掛かる。

「三枝にだけ俺が行く旨を、一応伝えて行きたいんだけど、いいかな?」俺は一通りの荷物を持つと、呉葉に尋ねた。

「構わないわよ」呉葉は一瞥をくれると自分の準備の続きをした。

 

非難小屋に隣接して張ったテントに入り、三枝を探す。気持ち良さそうにレム睡眠中を満喫している三枝を発見すると、三枝の肩を掴み前後に揺さぶった。

「ん…。あわわわわわわわわわわわわわ」俺が揺さぶっている間中、悲鳴とも雄叫びともつかない声を上げ続けた。

俺が揺さ振るのを止めると、「ほえ、今何時だ?」三枝は寝惚けてふらふらしながら状況を確認した。

「枝さん、ちょっと事情が出来たので別行動するわ」俺は寝惚け半分の三枝の事情なんてお構いなしにテントの外に連れ出し、事を簡潔に述べる。

「うん?どういうこった?」頭を軽く左右に振ってから納得のいかない、と言った表情で三枝は俺を見据えた。

「呉葉が【咎隠村】への道案内をしてくれるんだけど、俺だけじゃないとダメだって言うからさ。俺だけ先に村に進もうと思うんだ。地図に関しては俺の予想通りの場所に村が在るらしいので、枝さん達に地図を渡しておくから村で合流しよう」俺は真剣な口調で三枝に説明した。

 

「むう。納得は出来ないが、大体はわかった。んじゃ、この地図通りに行けば問題ないんだな?」三枝は俺の書き込みの入った地図を受け取ると、「寝なおすわ」と言ってテントに戻っていった。ちゃんと俺の意図が伝わったのか聊か(いささか)不安では在ったが、まぁ、なるようにしかならないから俺は先に進む事にした。

 

「もう良いの?」呉葉が小屋の前で腕組みして俺を待っていた。

「ああ、取り敢えずは。俺が書き込みを加えた地図を渡しておいたから、あいつ等も後から自力で来るだろ」俺はそう言うと霧の立ち込める山道へ第一歩目を踏み出した。

「此処から、村までは大体3時間程かかるわ。お昼前には着けるわね」サクサクと足早に呉葉は歩を進める。

「そうだな、それにしても慣れ過ぎてるな、お前」俺は呉葉の歩調を見て呟いた。どう考えても地元だからって言うレベルを遥かに超えてここに住んでいますからって位に慣れた足取りだ。

「まぁ、庭みたいなものだし。これくらい歩けて当然でしょ」呉葉はにっこりと笑った。

「そーゆーものかね」呆れつつも、一応は呉葉の言葉に頷いておいた。

「そーゆーものよ」カラカラと呉葉は笑った。高妻山から山道を下り、森の中へと進んでいく。

 

 

しばらく歩くと方向感覚なんて麻痺してしまって、自分が今何処を歩いているのか皆目見当もつかなくなった。

「かなり深いんだな」俺は天を仰いだ。

「そうね、でもこれくらい深い森じゃないと追っ手が着ちゃうからね」呉葉は突然語りだした。

「ここはね、平家縁の土地なの。無論、『落ち延びた』平家のだけどね」立ち止まる。

「追っ手は執拗だった。ここは山深く、雪の積もる季節は追っ手は入ってこれない。だから、雪解けを待って丁度今頃の季節に追っ手がやってきたの」

一体、何処の御伽噺だ…。

「【櫻ノ海】が祀儀場になったのは追っ手を寄せ付けなくする為。【士送り】(もののふおくり)の儀を執り行う為に用意された場」呉葉の目は虚ろで、焦点が合っていない。

「【士送り】?何だそれは?」俺は【士送り】と言う単語について尋ねた。

「贄を祭壇に掲げ、災厄を払う儀式」短く呉葉は答えた。

「【櫻ノ海】は危険なわけ?」

「それは、深い深い森の中にあるの。それは、忘れられた祭壇。それは、血塗られた過去を持っている」昨日の夜のように、呉葉は謡うように話す。

「確かに深い森だな」俺は辺りを見回す。

「そうね、そして歴史に忘れられた祭壇」呉葉が俺の後に続く。

「血塗られた過去って?」

「それは贄の過去」冷気を感じさせるくらい冷たく呉葉が言った。

「贄、ねぇ」俺は薄々感じていたこの地域独特の厭な雰囲気を『贄』と言う言葉の中で見出した気がした。

 

「【櫻ノ海】には祭壇が在ったの。毎年攻め入ってくる追っ手を払い除ける為に。祭壇を取り囲むようにして10の家族が10棟の櫓(やぐら)を立てて、そして祭壇は村の長が一際大きな櫓を建てて、その上に造られていたそうよ」カムイのサイトで紹介されていたのは【咎隠村】ではなくて【櫻ノ海】だったのか。段々とヴェールに隠れている部分が露わになってくる。

「因みに、『11の櫓を持って追っ手を祓う』、と言う処から【士送り】の儀名が名付けられたらしいわ」呉葉はトレッキングシューズのごつい爪先で地面を掘り、11を漢字で書き付ける。呉葉の足元には『十一』と地面に縦書きで書き付けられていて、繋げて見れば確かに『士』と見れ取る事が出来た。

「確かに『士』だわな」俺はタバコを取り出し銜えた。

「でしょ?」呉葉は俺の銜えたタバコを奪い取ると、「火、頂戴」と言った。

「仕方ねぇな」俺はズボンのポケットからZippoを取り出し、呉葉に手渡す。それからもう一本タバコを取り出し、呉葉から戻ってきたZippoで火を点けた。

「それにしても中心にあった祭壇って、簡素なものだったんだろ?」俺は【櫻ノ海】の祭壇について呉葉に尋ねた。

「祭壇はね、【櫻ノ杜】の御神木で作られていたの。巨大な桜の樹が昔から在って、此処に落ち延びてきた人達が、その桜の大樹を祀って【櫻ノ杜】を建てたの」村の歴史から始まるのか、祭壇は。

俺はその歴史の古さに若干の驚愕をおぼえながらも呉葉の話を聞く。

「10年は安息と平穏の日々が続いたわ。でも、11年目の大風の時に桜の御神木が雷に打たれて倒れたの。その翌年、追っ手が村を見つけて、攻めて来るようになったわけ」作り話もここまできたらある意味すごい。まぁ、作り話とも伝承とも確証が在る訳でないので判断できないが。

「そこで、倒れた御神木の幹を使って祭壇を造り、祭壇を貫く形で支柱を天高く打ち立てたの。そして、天高く打ち立てた支柱に贄は源氏の甲冑を着せられ、旗を持たされて、御神木を削って造られた桜の杭で打ち付けられたの」

 

ああ、雪解けのこの地で。枯れ木ばかりが乱立するこの地で。攻め入るものはそれを見て如何ほどの恐怖を覚えたのだろうか。焔の上がる櫓が10棟、そしてその中心により大きな櫓、櫓の上には祭壇が在りその頂上には自軍の甲冑を着けた兵士が磔(はりつけ)になっている。

攻めてきた追っ手は戦慄を覚えただろう。戦意を喪失した軍隊を3方から取り囲み壊滅させる。少数の軍隊でもそこそこに戦える戦法だ。

山深い地形と、なだらかな地形に多い茂る木々、これほどゲリラ戦に適した土地はない。

しかも、わざわざ木々の合間からでも目立つように櫓を立て、そこに注意を引くなんて、数百年も昔の連中が思い付く事なのだろうか?

 

「贄はどうやって選ばれたんだ?」俺は至極当然の事を尋ねる。

「長が儀式で決めたのよ。【地蔵憑き】の儀式でね」呉葉はそう言うと両腕を広げてくるくると廻った。

「ほら、地面を良く見て」呉葉に言われるままに地面を見る。彼方此方(あちこち)に石の顔、顔、顔、顔、顔、顔、顔。

「…なんだ、これは?」俺は足元に転がっている石の顔を見る。

「見ての通り、地蔵よ。【地蔵憑き】に使われなかった哀れな地蔵」

「意味がわからない。どういうことだ?」俺は声を荒げた。

「【地蔵憑き】にはね、魂の篭った地蔵じゃないと意味がないの」呉葉は廻るのを止め、転がっていた地蔵の頭に腰をおろした。

 

「御神木が穿たれてから、災厄が村を襲うようになったわ、困った村人は一心に紅葉様に祈ったの。そうしたら長の夢枕に紅葉様が立たれて、『地蔵菩薩様に祈りなさい』と告げられたわ」呉葉は軽く両手を組んで、「紅葉様って、鬼女伝説の【紅葉】よ」と注釈を加えてくれた。

「それから長は村の10家族を集めて、地蔵菩薩に祈ったの。地蔵菩薩はね、仏の身で在りながら、自由に地獄に赴く事が出来て、そこで苦しむ人々を助けることができたのよ。この地は現世の地獄だったわ。栄華を極めた人達にとって、このような山奥は地獄と同義だったのよ」呉葉の声は震えていて、泣いているのだろうか、と妙な心配をしてしまった。

 

地蔵菩薩が長達の夢枕に立ったのはしばらくしてからだった。そして、『3年に1度私を模った石仏を社に納めなさい。そうすればこの村を冒す災厄から免れるでしょう。ただし、自らが犯してきた罪を忘れない為にも、納める地蔵を作り出した心清き者の魂を石仏に込めるのです』ってね」呉葉は顔を上げた、涙の跡なんて無くて、ただ、物悲しい表情がそこに張り付いていた。

「それで3年に1度、その年に出来た最高の地蔵を【櫻ノ杜】に奉納して、地蔵と造った者を地蔵の前で殺し、その生き血を地蔵に捧げ、災厄を免れるように祈ったの。それが【士送り】の原点。不出来だった他の地蔵は魂の篭っていないものとして打ち砕かれたわ」呉葉は立ち上がり、腰掛けていた地蔵を見下ろす。

「地蔵を奉納出来た家は以後、安泰を約束されたわ。でも、それは代償(贄)を支払った後にね」呉葉の目に色が戻る。

 

「代償となる魂を地蔵に刻む儀式。それが【地蔵憑き】であり、後の【士送り】。災厄=追っ手だった頃、まさにそれは正当化された儀式だったのよ」呉葉は天を仰ぐ。犠牲を払い続けて存続する平和なんて平和じゃないのにね。

「奉納された地蔵はもう、数え切れない。結局、人々は信仰を忘れ、儀式も大きな藁人形を贄の代りに使う簡略化されたものになっていったわ」呉葉は胡散臭い郷土史を止まることなく正確に再生した。

 

「【士送り】は【地蔵憑き】が始まりで、その原点は地蔵と人間の魂の交換で執り行っていたと?」俺は呉葉に尋ねる。

「そうよ、【士送り】の儀式を執り行ってからは外界の戦渦が広がって追っ手は来なくなったわ。【咎隠村】は忘れ去られたの。その時に櫓も取り壊され、【士送り】の儀式も忘れ去られたわ。櫓の土台を囲むようにして桜を植えたの、双方の死者を弔う為にね」

「桜の木の下には死体が埋まっているってか」俺は茶化して言う。

「そうよ、この地は肉を喰らって、生き血を啜ってそして、櫻ノ海を満たすのよ。この土地は呪われているのよ」突然、風が巻き起こる。

だから、この地は危ないのよ。ざわめく木々と風の音に掻き消された呉葉の唇はそう、言っているように思えた。

 

風で話は途切れて、俺と呉葉は森の最奥を目指して進む。疎らだった地蔵の残骸が段々とその数を増やしていく。呪詛でも流れてきそうな雰囲気だ。うっすらと立ち込める霧と、木々が多い茂り陽光の届かない落ち葉に覆い尽くされて原形を留めていない湿った道のような筋。それをただ、蜘蛛の糸に縋る(すがる)ような思いで、奥へ奥へと進む。

木々の間に直立した地蔵が段々と現れはじめる。此処にある地蔵なのだが、非常に大きい。俺の身長が171cmなわけだが、此処に立っている地蔵は俺の顎位まで身長がある。地蔵と言うよりは石仏の類なんじゃないか、コレ。どれもこれも苔生していて、一体、いつ頃から此処に立っているのかわからないくらいだ。

「ゆたか、もう直ぐよ」呉葉が丁度、地蔵が2体並んだ間を通り抜ける。そこからは地蔵が両脇を連ね、誘うかのように俺達の向かう方向を向いていた。

「なんだ、地蔵の道か…」俺は両脇の地蔵の顔を見る。どれもこれも、こけがびっしりと覆い尽くしていて、まるで焼け爛れ、緑色に変色しているようなそんな不快な顔をしていた。

匂いが変わる。湿り気を帯びた匂いは甘味のある桜の香りに変化しつつあった。突如、視界が開け、薄紅色の蕾を背負った大樹の群れが俺達の眼前に現れた。

「うお…これは…」俺は言葉を失った。暗澹たる森の最奥、そこにはまるで楽園のような、もしくは彼岸のような世界が広がっていた。桜の大樹の群れ。日本3大桜の【三春滝桜】によく似た風格の桜が立ち並んでいる。江戸彼岸桜だったと記憶している。中には自重に耐え切れず倒木してしまった樹もあるが、ここまで大樹が群生しているとある意味何処ぞのファンタジー世界に紛れ込んでしまったのか、何て思えてくる始末だ。

 

「ようこそ、【櫻ノ海】へ。この奥に【咎隠村】が在るわ」呉葉は腰でお辞儀をすると、俺を【櫻ノ海】に招き入れた。

「どう?ここがゆたかの来たがっていた場所よ」呉葉はサクサクと落ち葉と枯れ木を踏み付け、更に奥へと進んでいく。

「待てよ、おい。呉葉!」俺は呉葉の後を追う。カムイのサイトに在ったように、そして呉葉の説明にあったように、櫓の後を囲むように桜が植えてある。

 

此処にある桜の大樹の群れは、言葉で言い表せる限界を遥かに超えてしまっている。例えば、イメージとして活字に顕してみよう。『眼前に広がる桜の大樹の群れは背筋が凍り付くほど美麗で、俺の魂をもその身に吸い上げて華を咲かせるのではないだろうか、そんな錯覚をおぼえた』活字で顕せばたったこれだけの文字数、そして稚拙な表現。

しかし、実物を目の前にしている俺は、他に適当な言葉が無いものか、探す。しかしながら、この眼前に広がる驚異的な美しさを伝える言葉が思い付かない。言葉ではない、感覚の世界だ、タージマハルの美しさも、ナイアガラの瀧の雄大さも、宇宙から見た地球も、本物の前では言葉にならない。そういうものだろう?

魂に響く感覚というものは経験したものだけに与えられる特権なのだ。例え、写真に収めたとしても、例え、ビデオに録画しても、文章にしても、写生しても…。経験したものの魂に刻まれた本物の記憶は呼び起こせない。それは本物が出すその雰囲気と言うか、迫力と言うか、ああ、存在感か。存在感を表したところで本物の前では無力なのだ。全てが飲み込まれ、打ち砕かれる。

 

俺は盛り上げられた基礎の横を呉葉に従い小走りに抜けた。「おい、何処まで行くんだよ?」俺は呉葉の肩に手を掛けた。

「【咎隠村】まで行きたいんでしょ?ここは【櫻ノ海】。何度も言わせないで、ここは深い深い森の中。ここは忘れられた祭壇。ここは血塗られた過去をもつ。海に飲まれる前に抜けるわよ?」呉葉が歩く速度を上げる。俺はその後を追う。こんな所に置いて行かれても、帰る事なんて出来やしないだろう。

 

「さぁ、ここを抜ければ【咎隠村】よ」呉葉は【櫻の海】に入った時と同じように地蔵の回廊に足を踏み入れる。妙な違和感を感じる。なんなんだろうか?俺は左右を見る。違和感はまだ消えない。

地蔵を見る。

よく見ると【櫻ノ海】に背を向けて地蔵は整列しているのだった。

「地蔵が逆向きなのか」俺は呟く。【櫻ノ海】に向った時、地蔵は【櫻ノ海】に向って立っていたのだが、此処はその逆を向いて立っている。

「よく気付いたわね」呉葉が俺の呟きを聞き取って相槌を返す。俺からしてみれば呉葉がよく俺の独り言に気付いたものだ。

 

立ち並ぶ地蔵の密度が上がっていく。道の両脇に並ぶ数が増えていく。「地蔵が異様に多いな」俺は地蔵で出来た壁を見ながら呉葉の後を追う。

「そうね、これだけ地蔵は造られたけど此処に並んでいるのは全て魂の無い地蔵よ。魂の篭った地蔵は【櫻ノ杜】に奉納されているからね」呉葉は地蔵の壁に一瞥すると、俺を振り返った。

「それにしても、ゆたか。あなた、危機感とか恐怖心とか無いわけ?」俺は「何故?」と聞き返した。

「だって、あたしが【咎隠村】について詳し過ぎるとか思わないの?」呉葉は真剣な表情だ。

「まぁ、【咎隠村】の関係者である事は間違いないだろうと思うけど。逆に、何で呉葉は俺を村まで案内するわけ?」俺は呉葉の目を見た。

「何でだろうね、わからない」困惑した表情を浮かべ、呉葉は俯いた(うつむいた)。

「暗い顔するなって、もっと笑顔で居ろよ。そのほうが絶対に可愛いからさ」俺は呉葉を抱き締める。そして、背中から腰に手を回す。

「どさくさに紛れて、何処触ってるのよ…」言葉では嫌がっていたが、呉葉は俺を強く抱き締めた。

「どうした?」俺は呉葉の耳元で小声で尋ねた。

「ん~ん。どうもしてない」すっと、呉葉の両腕が俺の身体を離れる。俺も自然に呉葉の身体を離す。

 

「じゃぁ、もう少しだから」呉葉は少しだけ、ほんの少しだけ笑顔を浮かべると【咎隠村】へ向かって歩き出した。

「なぁ、手、繋いでいいか?」俺は呉葉の小さな背中に問い掛ける。

「ダメ」呉葉は少し声に笑いを含めて短く答えた。

「…」俺は無言で呉葉の手を握った。少し汗ばんだその小さな手を俺は離したくないと思った。

「何で…」呉葉が振り返る。

「わからない…」

 

 

 

 

目を覚ますと、思った以上に時間が経っていて、驚きを隠せなかった。まぁ、昨日の疲れと酒の所為だろうと軽く頭を振って覚醒を促す。隣では枝さんが気持ち良さそうに眠りこけていて、予想通り皆川の姿は見当たらなかった。

枝さんを起こさないようにしてテントから這い出す。

心地良い日差しが辺りを照らしていて、空は快晴だった。背伸びをして、それから前屈をする。千秋は起きているのだろうか?俺は隣にある千秋のテントを覗き込んだ。千秋はまだ夢の中にいるようで、三枝の妹も眠っていた。此処に神崎の姿は無かった。

手持ち無沙汰この上ない時間を俺は持ってきた小説を読む事にした。テントに戻り、バッグの中から読みかけていた小説を取り出す。テントの外に腰掛け、清々しい空気の中で読書をはじめた。

しばらくすると三枝の妹が起き出してきて、ぺこりと俺にお辞儀をする。

「おはようございます」寝起きのはずだが、すげぇ髪とか整っていたりして、ある意味怖い。

「おはよう。枝さん、まだ寝てるよ」俺は本から目を離して三枝・妹のほうを見た。

「そうですか。でも、そろそろ起きないと行程が間に合わなくなるんじゃありません?」妹は話ながらツカツカと枝さんの眠るテントに歩み寄り、おもむろにジッパを開け、中に入った。

鈍い音がして、「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」と悲鳴。

何をされたんだろうか。

 

何事も無かったかのような顔をして妹はテントから出てくると、パンパンと埃を払う仕草をした。

俺はなるべく目を合わさないようにし、横目でその行動を見守った。

「うう…おはよー」寝癖でぼさぼさになった頭で枝さんはテントから出てくる。どこかしら弱っているように見えるのは俺だけなのだろうか。

「ういー」俺は左手を挙げた。

「えーと、皆は?」びよんびよんと寝癖を軽快に跳ねさせながら、えださんはキョロキョロと周りをみる。

「千秋はまだ寝てる。皆川と神崎は知らない」俺は簡潔に答えると立ち上がった。

「あ」突然、枝さんが壊れた玩具のようにピタっと停止する。何かを思い出したようだ。

「なんだ、どうした?」俺は逆光で影のように見える枝さんに尋ねた。

「皆川、先に進んでるんだった」枝さんはそう言うとテントに駆け込み、紙切れを一枚持ってきた。

「なにこれ?」俺と妹がハモる。

「【咎隠村】の所在図、らしい」三枝が持ってきた紙切れは登山口でもらった地図に皆川の筆跡で彼是とメモされたものだった。

「つうか、何で皆川は先に進んでるんだよ」不愉快だ。言い出した本人は責任もって同行しろと。

「神崎が【戸隠村】を知っているって事で、道案内を頼んだそうだ。そしたら…」

 

 

枝さんの説明を簡潔にまとめると、こうだ。

皆川が神崎に道案内を頼んだところ、皆川だけを案内するのであればOKと言われる。神崎は皆川に借りがあるので、その借りを返すと言う意味合いで道案内を約束した。

但し、言葉通り、借りの無い俺達を含めての案内は断ってきた。

 

だから皆川は先ず、案内してもらいその後は自分で俺達を案内するつもりだったらしい。

 

 

「ふむ」俺は沈黙する。

「どうするの?」妹は不安そうに枝さんを見る。

「一応、この地図で合っているって聞いてるんだけど、どうしようか?」枝さんは少し困った表情を浮かべて俺と妹を見た。

「ふぁぁぁああ、おはよー」すげぇ、眠そうな欠伸を従えて、千秋がテントから出てきた。

「なぁに、話してるのさ?」千秋がずずいっと俺達の間に割って入る。

 

俺は再度説明をする。ああ、もう面倒臭い。

 

「それじゃ、二人を追いましょうか」千秋が胸の下で腕組みをして言った。

「どうしてそうなるんだ…」俺は頭を抱える。

「いやぁ、このまま帰っても意味がないでしょ?こー君」ちょっとだけ真剣な顔で千秋は俺を見つめた。

「あたしも、金川さんの意見に賛成」妹も千秋と同じポーズを取って『賛成』とか言いやがった。

「枝さん、どうするよ?」俺は枝さんの意見も聞いてみる。

「うーん、こうなった以上は先に進むか」『苦渋の決断』、と言った表情をして枝さんはで先に進むことに決定を下した。実際のところ何も考えていないのだろうけど。

「それじゃ、準備しようか」千秋はそう言うと、皆一斉に各々の準備に取り掛かるのだった。

 

俺が目覚めたのが8時20分くらいで、今は9時を回ったところ。宿泊した他のパーティも大体が起きだしてきていた。テントを畳み、そろそろ出発しようと思っていたとき、昨日の藤堂に声を掛けられる。

「おはようございます、高塚さん」柔和な笑顔を浮かべて、藤堂が俺に手を振っていた。やはり、どこかで見覚えのある顔だ。何処で見たのだろうか…。記憶を辿るが思い出せない。神埼も、『見たことがある』って言ってなかったか?

「おはようございます、昨日はどうも」俺は会釈をすると、「藤堂さんもそろそろ出発ですか?」と尋ねた。

「ええ。昨日、呑み過ぎてしまいましてね」こめかみを押さえて藤堂は苦笑した。

「あはは、それは…」俺も合わせて苦笑した。

「ええと、皆川さんは…?」藤堂は昨日一番打ち解けていた皆川の姿を探す。

「ああ、ちょっと」俺は言葉を濁した。

「うん?」怪訝そうな顔をして、それから藤堂は「どうかなさいましたか?」と言葉を続けた。

「先に行ってしまったみたいなんですよ。一緒に居た女の子が、この山に詳しいらしくて」俺は大分端折って藤堂に説明する。単純に登山を愉しんでいる人間に『廃村を探しに行きました』なんて言ったら、不快感を買う可能性だってあると思ったからな。

「そうですか。ええと、高塚さんはどちら方面に行かれるんです?」藤堂はライフジャケットの胸ポケットからタバコを取り出し火を点けた。

高妻山の方面に行こうと思っているんですが」俺は藤堂の表情、動作を観察しながら言葉を口にする。高妻山、と言う単語に藤堂が反応した。

「奇遇ですね。僕達も高妻山に登山するんですよ」藤堂はそう言うと俺に声を掛けてきた時よりも柔和な笑みをしてから、「良かったらご一緒しませんか?」と尋ねた。

「俺は構いませんけど、他の連中に聞いてみないと」俺は枝さん達を振り返った。

「ああ、じゃぁ一応、聞いて見てください。旅は道連れ、って言いますから。人数が多いほど話し相手もいて楽しくなりますしね」そう言うと、「僕はもう少し準備がありますので」と自分のパーティのほうに向かっていった。

 

俺は取り敢えず、枝さんに相談してみた。

「ふむ。お主は良いのか?」枝さんは別に一緒に行っても良いといった素振りだ。

「別に、構わない」俺は構わない。後は千秋と三枝・妹に聞いてみなければいけないな。

「あたしは構わないよー」千秋は気に留める様子も無く答え、「真夜ちゃんはどう?」とお茶を啜っていた三枝・妹に尋ねる。

「いいですよ」にっこりと笑って妹は答えた。

「満場一致ってか」

 

俺は枝さんに再度藤堂と同行するか相談する。

「皆が良いって言ったなら良いんじゃない?」もっともな訳だが。

「じゃ、藤堂に言ってくる」

「ういういー」

 

「…と言う事で、ご一緒しましょう」俺はニッコリと笑って右手を差し出した。

「宜しく」藤堂もニッコリと笑って俺と握手を交わした。

 

若干の打ち合わせをした後、俺達と藤堂の合体パーティは一不動の非難小屋を出発した。男性陣は男性陣で固まり、女性陣は女性陣で固まって歩き始めた。皆川が居ないのだから至極当然の事といえよう。

 

藤堂の友人の竹中も割と話の合う男で、TVゲームの話や、クルマの話で盛り上がった。藤堂を先頭に、俺、竹中、枝さんと続き、女性陣は千秋を先頭にして加持と加藤を挟んで三枝・妹が後に付いていた。

 

五地蔵山までの道は、東側が断崖の縁になっていて、非常に恐ろしい。高所恐怖症の俺にとって、この高さは意識がくらくらとする。

蟻の塔渡りに比べるとまだ、馬乗りになって良いという大義名分が在る分、蟻の塔渡りのほうがマシかもしれない。相変わらず、枝さんは屁垂れ腰で崖下を覗いてはデジカメで写真を撮る。

 

それから、少しずつ休憩を取りながら、二釈迦、三文殊、四普賢と菩薩を通り過ぎる。段々と体力が奪われていく。藤堂や竹中は登山部と言うだけあって顔色の一つも変わっていない。流石と言うべきか、俺達の体力の無さを嘆くべきか。

 

五地蔵から先は頂上の十阿弥陀までに、六弥勒七観音、八薬師、九勢至と続くのだが、アップダウンの激しい道程。

俺は既にボロボロで、息は上がっているが足が上がらない。日頃の運動不足が祟ったようだ。畜生め。何故か、女共は元気なわけだが、どういう事だ。

 

キャイキャイ騒ぎながら俺達を抜かんばかりの勢いだ。何処から湧き出して来るんだ、その活力は。

千秋は加持とか言う女と仲良くなったらしく、俺には良くわからない横文字の羅列を言っては『良いね』、とか『うそー』とか言ってる。そんなに大きな声で話せる余力が何処に残っているのだろうか、胸か?俺には無いからな。

後で聞いたが、その聞き慣れない横文字は化粧品のブランドらしい。

三枝・妹は加藤とか言う女とファッションについて盛り上がっていた。話の合う相手が居るって事はいい事だ。うん。

 

八薬師から後の八丁ダルミから九勢至を経る頃から道は段々と傾斜を増していき、胸を突く急激な上り坂になる。真剣に疲れてきた。疲労はピークになりつつある。後どれくらいあるんだろうか…。

「なぁ、藤堂さん」俺は藤堂に話し掛ける。

「どうかしましたか?」藤堂は立ち止まり、振り返る。

「いや、後どれくらい掛かるんだ?」

「もう直ぐですよ」藤堂は苦笑しながら、空を指差した。

「もう直ぐか…」俺は他の連中を見る。枝さんは予想通り、虚ろな目をしながら前進していた。竹中はそんな枝さんのについて歩いている。女性陣は相変わらず、元気一杯で俺達男性陣を追い抜きかねない勢いだ。

「じゃー、行こうか」俺は嘆息しつつクソ重い脚を持ち上げた。

 

藤堂曰く、『ミヤマハンノキとダケカンバで構成された林』に入ると、更にキツイ登りになり、俺はもう、本当にうんざりする訳なんだけど。

つうか、今回の【咎隠村】探索で高妻山って登る意味あるのか…?俺は無言で枝さんから皆川の注釈の書かれた地図を奪い取ると、【咎隠村】の位置を確認する。それから、俺は愕然とする。

「あああああああああああああああああ」

「え?」全員が俺に注目する。

「枝さん!別に山、登る意味ねぇじゃん」

「ほえ?」枝さんは虚ろな目に若干の色を取り戻すとヨロヨロと、俺の手にした地図を持ち確認する。そして、凍りつく。

「ん?高塚さん、それ何?」藤堂が枝さんの持つ地図を覗き込み、「これって、何を示しているんですか?」と俺に尋ねる。

話していいものか、枝さんに目配せする。枝さんは目配せに無反応で、「コレは【咎隠村】って廃村が在るとされている場所を示してるんだよ」と百点満点の回答をした。絶対に莫迦だな、こいつ。

 

額に手を当て、オーバーアクションしようかどうしようか悩んだが、無意味に隠し事をしていることが表立っても今後都合が悪いので、俺は取り敢えず知らなかったことにした。

「そうなんだ?」あたかも俺は【咎隠村】という存在を知らない振りをして、「皆川が向かった場所としか聞いていなかったな」と呟くように小声で言った。

「そんな所に廃村なんて在るんですか?」怪訝そうな顔をして竹中が尋ねる。

「そういう風に皆川から聞いたから、僕達は此処まできたんですよ。廃村らしいですけど」もう、フォローの仕様がない、どうとでもなれ。枝さんめ。

「僕達もご一緒しても…?」藤堂が提案を切り出そうとした。枝さんが何か訴えるような目を俺に向けた。あー、もう、フォロー出来ないって。俺は目を瞑り、『もう手遅れ』、の意思を表示した。

 

結論から言おう。結局藤堂達4人を道連れにして俺達は【咎隠村】に行く事となった。まぁ、高妻山は登ったんだけどね。

 

俺達は立木につかまりながら高妻山の頂上を目指してジグザグに登っていく。岩場もありバランスが取り難くく、転びそうになる。

そもそも疲れきった脚が上がらない上に、足場が悪いので非常に登りづらい。

 

そのうちに手と足の両使いとなり、皆黙々と先に進む事だけに集中する。

ようやく山頂部の一角に辿り着いた。俺の先に居た藤堂と竹中は開けた場所で地面に座り込んでいて、俺が登ってきたのを見ると水筒から冷たいお茶をプラスティック製のコップに汲み、手渡してくれた。

「サンキュ」俺は有り難くそれを受け取ると、一気に飲み干した。

「お疲れ様です」藤堂はニッコリと笑い、もう一杯汲んでくれた。

俺に続いて、千秋、三枝・妹、加持、加藤…と続き、10分ほど経ってから枝さんが生気のない目をして現われた。

「三枝さん、大丈夫ですか?」竹中が心配そうに枝さんに声をかける。

「…なんとか」死んだ声で枝さんは答えた。

「お兄ちゃん、本当に大丈夫?」妹が枝さんにお茶の入ったコップを渡している。

「ありがと」ゴクゴク、と喉を鳴らして枝さんはお茶を飲み干し、空を仰いだ。俺は枝さんの隣に腰を下ろすと、「本当に大丈夫かよ?」と小声で話し掛けた。

「本当に、大丈夫」ハッキリとした声で三枝は答えた。これであれば大丈夫だろう、一先ず安心した。

「直ぐ、そこが頂上です。移動しましょう」藤堂がそう言って立ち上がり、皆のろのろと重い腰を上げた。

 

周りを見渡せば、十阿弥陀、手水鉢、青銅鏡が置かれている。俺達は疲れきった足取りで北に進み、高妻山の三角点に辿り着いた。一不動から3時間強掛かった行程だったが、実際に感じた時間はもっと掛かったように思える。

360°のパノラマに雄大な自然が息衝いており、ここまで辿り着く為の苦労や疲れはそんな自然を見ていると吹き飛んでしまった。

「来て、良かったね」千秋が俺に寄り掛かる。

「そうだな」俺は遠くに見える北アルプスを望みながら、感慨深く呟いた。

「でも、ここで終わりじゃないんだよねぇ」千秋が容赦なく現実を突き付けた。

「そうだった…。このまま引き返すって訳には行かないしな」俺は溜め息混じりに現実を受容する。と言うか、枝さんは【咎隠村】まで行けるんだろうか?一抹の不安を覚えながらも、『なるようにしかならないか』、と腹を括った。

「ええと、高塚さん?」藤堂が申し訳無さそうに声を掛けてきた。

「ん?どうかしました?」俺と千秋が同時に振り返る。

「いえ、良い雰囲気のところゴメンなさい。先程の…ええと、何村でしたっけ。あの地図を見せて頂けませんでしょうか?」

俺は「三枝が持っているはずですけど?」と枝さんを見る。

「あれ、そうでしたっけ。じゃあ、三枝さんに見せてもらいます」軽くお辞儀をすると藤堂は枝さんのところに歩いていった。

2人は何やら言葉を2,3個交わすと、枝さんは藤堂に紙切れを手渡した。地図を見ながら藤堂は難しい顔をしている。話の内容は掴めなかったが、【咎隠村】に関しての話をしているのに間違いは無さそうだ。地図を片手に藤堂が再び俺のところまでやってくる。

「ええと、高塚さん」真剣な顔付きで藤堂は俺に【咎隠村】へ行くルートの説明をはじめた。

 

 

藤堂の話を端折って都合よくまとめると、こうだ。

通常の登山ルートでは目的地(【咎隠村】)に辿り着く事は困難だ。現在居る高妻山の麓まで獣道、もしくは道無き道を下る事となる。無論、危険性は非常に高くなる。

しかしながら、皆川と神埼の両名が大した装備も無く目的地に向かう事が出来ると言う事実が在るのであれば、皆川が持っていた装備を考えても危険度の低いルートが在る事は確実だ。

と、なれば俺達は独自のルートを通りつつも、安全性の高いルートを探しながら目的地に向かう事になる。

三枝と加持・加藤の3名の体力が心配なところだが、普通通りに下山するにしても一泊は免れないだろう。

であれば、俺達は目的地に向かってもさほど問題は無さそうだ。

…ってことだ。

 

 

俺達は高妻山を下山しながら、目的地に向けて方向修正を行う。高妻山山頂から真南に下る事が出来るのであれば目的地に直線で向かう事が出来るのだが、完全に道が無くなってしまう為、下山するまでに途方も無い時間が掛かってしまう。山頂と八丁ダルミの中間地点から、俺達は裾花川の源流に向けて下山する事にした。

皆川の指し示したベクトルは高妻山戸隠山の中間地点で五地蔵山の麓を源泉としている(?)裾花川の北に向かって伸びていた。

 

「本当にこの先に村が在るのかな?」不安そうに千秋が尋ねる。千秋が不安がるのも当然の事だ。辺りは急勾配で木々が覆い茂っている。この先に村が在ったとしても、それは存続しえるのだろうか?外界から断絶され、自給自足を強いられてもこの山深い地で人は生きて行けるものなのだろうか?

「一応、皆川の指定したサイトに載っていたしな。まぁ、半分半分じゃないかな?」俺は先を進む藤堂を追いながら、千秋の手を引いて先を進む。

「高塚ー、ちょっとタンマ」枝さんの声が聞こえる。振り返ると、加藤と加持が若干遅れつつあるのが見えた。

「藤堂さん、女の子、遅れてる」俺は前を進む藤堂に待つように告げると枝さんに状況の確認を頼んだ。

「ちょっと疲れてきてるみたいだ、ペースを落としてくれー。」頂きを歩いていた頃に比べると森に入ってから枝さんの活力が漲っているように思えた。

「藤堂さん、ペースを落として進んで欲しいってさ」俺は立ち止まってこちらを見ている藤堂にそう告げた。

「了解」藤堂は短く答えると先程と同じペースで歩き出した。何を考えているんだ、この男。

俺は先へと進み続ける藤堂の背中を追うことを止め、枝さんのところまで戻る。擦れ違う事は非常に困難だったが、竹中も三枝・妹も快く俺に道を譲ってくれた。

「枝さん、どうするよ?」俺は木々の間に消えつつある藤堂の後姿に一瞥をくれて、枝さんの後ろに続く加藤と加持を見る。疲労困憊、という感じではなく、ただ藤堂のハイペースについていけないと言った感じだ。

「大丈夫か?」俺は二人に声を掛ける。

「何とか、大丈夫です」加藤が額に張り付いた髪を掻き揚げて、朗らかに微笑んだ。多分、初めて言葉を交わすのだが、加藤は茶色に脱色したショートカットの快活そうな女だ。多分、皆川の好みのストライクゾーンだろう。

「あたしも大丈夫なんだけど、速度が速くて…」加持は腰上10cmくらいのロングヘアをポニーテールにしていた。首にかけたタオルの裾で汗をふき取りながら藤堂のペースに文句をつけた。俺は苦笑しながら、「人が入っていないから、藤堂と離れても大丈夫だろ」と二人を元気付けた。

「それにしても、どうしたんだろ。あいつ」俺が藤堂を除いた先頭に戻ると、竹中がそう呟き、藤堂の背中を睨むように見た。

「知らんよ、いつもは違うのか?」俺は竹中に尋ねる。

「うん、いつもはパーティを気遣う奴なんだけどね。今日はなんか様子がおかしい」竹中はそう言って、「まぁ、虫の居所が悪いんだろ」と笑った。

「まぁ、いいけど。スタンドプレイも大概にしないと、痛い目を見るぜ」俺は藤堂を追うようにして傾斜のきつい山道を下った。

 

「おい、藤堂さん」俺は藤堂の肩を掴んだ。

「何か?」鋭い眼光で俺を射抜く。

「周りの連中の事も考えてくれないか?一応、あんた登山部の部長なんだろう?」俺はその眼光をさりげなく擦り抜け、強く言った。

「…」不満そうな顔をして、無言で立ち止まる。まるでガキだ。

「すまんな」俺は藤堂の肩をぽんぽんと軽く叩いた。その手を払い退け、「うぜぇな」と俺を睨む。めっさ、ギスギスした空気が流れる。

「…ふぅ」俺は藤堂に一瞥をくれてやると。残りの連中に「一番遅い奴のペースで行こうぜ?」と全員に同意を求めた。黙っていた藤堂以外の全員は俺の意見に同意した。

「民主主義っつーことで、藤堂さん。よろしくね?」

「…」

 

 

 

 

前方で何が話されているのか皆目見当もつかなかったが、厭な雰囲気である事だけは間違い無さそうだ。

高塚がやけに不機嫌そうな顔をしている。それより遥か前方にいる藤堂も、これまた不機嫌を絵に書いたような顔をしている。

と言うか、互いに殺意を込めた視線で睨み合うのは止めれ。見ている僕にとって、精神衛生上宜しくない。

「何、トラブってるんだよ…」僕はこめかみを押さえ、俯いた。

「お兄ちゃん、どうしたの?」真夜が小声で話し掛けてくる。

「どうもしてないけど、トラブルだけは勘弁して欲しい」俺は前方を右手の親指で指す。相も変わらず視線がスパークしている。

「高塚さんだったら大丈夫なんじゃない?」

「大丈夫なのか…」如何して真夜が大丈夫と言い切れるのか、その根拠がさっぱりと理解出来なかった。

 

「ええと、どうなってるんです?」恐る恐る、といった感じで加持が僕達に声を掛けてきた。

「うーん、正直わからない。ただ、そっちの部長さんとこっちの高塚が仲良くご機嫌斜めになっている」

「えー、なんでなんで?」加藤が意志の強そうな、こげ茶色の瞳で僕を覗き込んだ。

「しらにゃい」即答する。

「おにいちゃん、取り敢えず高塚さんに話を聞いてみようよ」建設的な提案を出す、我が妹。

「それもそうだな」僕は高塚の名前を呼ぶと手招きした。高塚は僕の仕草に気付くと、急勾配を駆け上がってきた。

「枝さん、なんだよ?」尖った声を出して、僕の瞳を見据える。加藤と加持は不安そうに僕と高塚の遣り取りを見ている。

「何があって、こうなっているのか。説明してくれよ」僕は高塚を見下ろして、藤堂と高塚がピリピリしている現状の説明を求めた。その高低差が苛立ちを更に悪化させたのか、無言で高塚は僕の隣に立ち、「あいつが悪いんだよ。ってか、あの地図を見せてから明らかに態度がおかしいぞ」と僕の持っている地図をリュックサックの中から引っ張り出した。

「何があるっていうんだ、この地図に」高塚は地図を食い入る様に見た。僕も高塚の脇から地図を覗き込む。登山者に配布されているもので、皆川の書き込みがある以外はまったく持ってふつーのものだった。

「皆川の書き込みが問題だったのかね?」僕は真剣な眼差しを紙切れに向けている高塚に疑問を投げかける。

「だろうな、この位置に何か思い当たる節でもあるんじゃないか?」

埋蔵金とか?」

「それはないだろ」

「ふむ、まぁ、旅は道連れっつーから。取り敢えず仲良く行こうよ。外面だけでも良くしてさ?」

「あのなぁ…」高塚が呆れたようにして僕の顔を見る。失敬な奴だ。

妹は苦笑、加藤、加持は何を話してるのか分かっていない。まぁ、そのほうがありがたいわけだけど。

 

「お二人さん、先に進まないのか?」藤堂が痺れを切らして僕と高塚に向かって声を上げる。

「そろそろ進むさ」高塚はそう言うと、藤堂の後ろの位置まで戻る。手を合わせて、若干頭を下げた。大人になったものだな…。

加藤と加持は金川と真夜と4人で一塊になっていて、その後ろに竹中が続いている。無論、最後尾は僕。

鳥の鳴き声と木々のざわめき意外は僕達の足音しか聞こえてこない。一般の登山道からかなりかけ離れているのだろう。人工物を見かけない。

僕達の進む方向にあるのは深層の森。こんな森の中を歩いていると、昔読んだ童話にある『森に子供を棄ててくる』と言う行為は非常にリアリティの在るものだと感嘆する。

日本狼が絶滅していて良かったなぁ、なんて莫迦なことを考える脳味噌の片隅で、コレだけ深い森の中であれば生き残りの日本狼に出くわすかもしれない、なんて夢を見てみる。

 

高妻山の頂上から一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。高妻山に着いたのが、確か13時15分くらいだったなぁ…胸ポケットから携帯電話を取り出し、時刻を確認する。『14時42分』とデジタル時計は示しており、右上の電波状態の表示は圏外と表示されていた。割と長い時間歩いてきたものだな。

 

「三枝さん、今向かっているところって、何があるんです?」並んである事が可能になると竹中が隣に並び、尋ねてきた。

「聞いた話だと、【咎隠村】って言う廃村が在るらしいんだけど」僕はそこまで言ってから、「昨日居た皆川って奴が知っているんだけど、先に行ってしまってさ」と続けた。

「昨日、あまりお話しする機会がなかったので」竹中は残念そうに話した。

「確かにねぇ。でも、あいつに深入りしないほうがいいよ。絶対に、何かに巻き込まれるから。僕達も、今回、ここに居るのは皆川のネタに巻き込まれたからだし」段々と木々の密集率が上がっている気がする。森は深くなり、それに合わせて空は遠くなる。先ほどまで若干の岩が混じっていた地面は、いつの間にか腐葉土に変わっていた。

「それにしても、どのくらい歩くのでしょうか?」竹中は不安そうに空を仰いだ。

「距離だけで言うとそんなに長いわけでは無さそうなんだけど。やっぱり、道がないって言うのは厳しいかもしれないね」僕は地図を引っ張り出して竹中に見せてやる。

「ありがとうございます」と言うと、竹中は地図を見た。

「僕の見た限りだと、何の変哲も無い地図だし、例え過去に村が在ったとしても今ではこの腐葉土に埋もれてしまっているよ」僕は足元の土を蹴った。

「そうですね」竹中はそう言うと僕に地図を手渡した。

「ねぇねぇ」加藤が竹中に勢い良く飛びついた。加藤はバランスを崩すことなく竹中を受け止める。はて、この二人はそういう関係なんだろうか。

「愛美さん、どうしました?」竹中は何事もなかったかのように平然として加藤の行為と言葉に疑問を投げ掛けた。

「後どれくらいで到着するのかな?」加藤は周囲を見渡しながら尋ねる。

「さて、地図を見た限りでは1時間弱、といった感じでしょうか」驚いた事に竹中はあの地図を見ただけでおおよその時間を割り出していたようだ。

「休憩とか、しない?」少し、困った表情で加藤は竹中を見上げた。

「そうですね。藤堂に言ってみますか」竹中は足早に藤堂の所まで歩いて行った。入れ替わりに高塚がやってくる。

「よー、枝さん。生きてるか?」笑いながら僕に話し掛ける。

「それなりだ。藤堂の様子はどんなもんなんだ?」僕は高塚と殺意の視線を交えていた藤堂の状態を尋ねた。

「んー、落ち着いたんじゃないか?地図を見せた後のあいつは絶対におかしかったしな」真面目な顔付きで高塚が話す。

「話は聞いてみたのか?」

「いや、取り敢えず普通に話すのであれば問題ないね。最初に会った雰囲気のままだ」高塚は『普通に』にアクセントを置いた。

「普通、か。どういう話題だとあいつは問題になるのかね?」

「目的地、さ」

「目的地、か」

 

皆川の残していった地図。

【咎隠村】が在るとされる場所。

一体そこに何があって。

僕達は何を見るんだろうか。

 

高塚と気まずい沈黙を醸し出している真っ最中に、竹中が藤堂と話をつけて戻ってきた。

「ええと、取り敢えず休憩する事になりましたので適当に休みましょう」竹中はリュックサックを地面に投げ出すと、その上に腰を下ろした。僕達もそれを見習う。

金川や真夜が僕達のところまで戻ってきて、藤堂だけが離れたところで水筒のお茶を飲んでいた。

 

「ふう、つかれたねー、真夜ちゃん」金川は頬に張り付いたセミロングの髪を束ねて、首筋の汗を拭き取った。

「そうですね、千秋さん。愛美ちゃん、麗華ちゃん大丈夫?」真夜はペットボトルのスポーツドリンクを飲み干すと「っぷはぁ~。生き返るゥ~」と湯上りでビールを飲み干したおっさんのように幸せそうに叫んだ。

「辛気臭い森ねぇ」金川が周囲を見て呟く。

「おにいちゃん、後どれくらいで着く予定なの~?」襟元を左手で引っ張って右手で空気を煽りながら、これ以上なくダルそうに真夜は尋ねた。

「1時間弱、だそうだ」僕は竹中の予想をそのまま口にした。

「そっか」それ以上は興味なし、といった感じで真夜は加藤や加持と話し始めた。なんなんだろう、このやるせなさは。

「皆川と本当に合流できるのかよ?」高塚が提起しなくてもいい問題を持ち上げてくる。

「知らん。でも、この地図の通りに行けば大丈夫、と言っていたからな」僕は紙切れを取り出した。

「ま、皆川の言う事なら間違いはないだろう。ハチャメチャだが最後は収集つけるしな。目的地まで1時間ちょっとだっけ。もう直ぐだな」高塚は元気良く立ち上がると携帯に付属しているカメラで周囲を写真におさめはじめた。

「そろそろ、先に進みますか?」竹中が僕に声を掛ける。

「だね」短く答えると、立ち上がりリュックサックを背負った。皆塊になって藤堂の所まで移動する。

「お待たせ」高塚が藤堂の肩を叩く。

「さて、もう一踏ん張りと行きましょうか」にかっと笑って、高塚の手を握って、藤堂が立ち上がる。

「良い顔で笑うじゃねーか」高塚が藤堂と肩を組む。

「そうですか?」藤堂は先程とは別人のように爽やかな顔付きになって僕達を先導し始めた。

 

森は深まっていく。

人の叡智が届かない場所へ。

 

なだらかだった腐葉土の地面にごつごつとした石が混ざり始める。

「何だ、これ?」高塚が興味有りげに石をチェックする。

「ほえ?単なる石だろ?」僕は取り敢えず、写真におさめるべくデジカメのファインダーを覗く。石にピントを合わせ、フラッシュをたき、写真を撮った。

そこで、その石が何なのかに気付いた。

「地蔵か」

「地蔵?」高塚が訝しげに僕のほうに向き直る。

「見てみろ。ほら」僕はデジタルカメラの液晶モニタに今撮った写真を表示させて高塚に見せてやる。土と草に斜めに埋もれた人間の頭。温和な微笑をたたえて、その無生物は横たわっていた。

「…なんだよ、これ」高塚が少しばかり声を震わせて呟くように言う。

「地蔵だろ?」極当たり前の感想だ。無神論者の僕にとって、地蔵の頭が転がっていようと何ら声を震わせるような要因にならない。僕と高塚のやりとりを見て藤堂がやってくる。

「どうかしましたか?」そう声を掛け、高塚の肩越しに高塚の見ているものを覗き込んだ。

「…もしかして、そこら辺に転がっている石の全部が、これ?」藤堂は周囲を見る。僕もつられて周囲を見る。ごつごつとした石が『そこら辺』に転がっている。それも、結構な数。

「多分、そうなんじゃないか?」僕は平然として言った。沈黙が訪れる。他の連中はデジタルカメラに撮られたソレについて彼是と物議をしている間、遠目に僕達の行動を見守っていた。

 

「おにいちゃん、この石って…」真夜が突然、地蔵の頭を覗き込んで僕に声を掛ける。

「どした?」僕は何を言わんとするかがわかっていたので、真夜から視線を外して答えた。

「お地蔵様の頭なんじゃ?」真夜は携帯電話のLEDを使って、その転がっている石を照らし出した。薄暗い地面にソレは青白い光に照らし出されて不気味に浮き上がっていた。

「そーだな。つうか、そろそろ目的地に近いんじゃないかな」僕は地図を取り出し、藤堂に見せる。藤堂は無言で地図を受け取ると、ペンライトでその紙切れを照らし、それから方位磁石と時計を見た。

「そうですね。思ったよりも近かったのかもしれません」藤堂はそう言うと僕に地図を返してくれた。

「じゃ、進もうか」僕は地蔵の事を無かった事にして先に進む事を促した。段々と転がっている石が増える。それらが全部地蔵の頭だと思うと気分が滅入ってくるわけだが、なるべく考えないようにして、地蔵の頭を踏み付けながら目的地である【咎隠村】へと突き進むのだった。

 

 

唐突にその時が訪れる。

 

木々の間に人影が無数に現われる。近付くと身長が150cmくらいもある地蔵の完全体だった。それが無数に木々の傍らに立っているのだ。

身体は苔で覆われていて、一体どんな格好をしているのか、分厚い苔に隠されてしまって予想すら出来ない。一体いつの時代から此処に在って、あとどれだけの時代をその目で見守っていくのだろうか?

「すごいわね」ずずいっと、金川が僕と地蔵の間に割って入る。

「いつの時代に作られたものなのかしら。…残念ねぇ。苔に覆われちゃって銘が確認できないじゃないの」本当に残念そうに金川は呟くと、地蔵の足の部分を蹴りつけた。ズリっと音を立てて、苔がめくれ落ちる。

「おいおい、千秋止めとけって」高塚が慌てて金川を宥めた。

「大丈夫よ、苔を落とすだけだから」平然とそう言うと金川はげしげしと地蔵の苔を蹴落とした。

「おかしいわね。年号もなければ銘も穿ってないわ」苔の着物を落とされた地蔵は何処か寒々しかった。

「もういいだろ」高塚が金川の肩を抱く。

「…仕方ないわね」と吐き捨てるように言うと金川は地蔵から視線を外した。皆無言で、2人の様子を見守っていたのだが、その静寂を破って、加藤が唐突に「あ、あっちに地蔵が沢山固まってるよー」と僕達の向かおうとしている、森の最奥を指差した。確かに加藤の言う通り人影が立ち並んでいる。僕と藤堂は顔を見合わせて、無言で頷くとその最奥へと足を踏み出すのだった。

 

「おにいちゃん、地蔵が道になってる…」真夜が前方の様子を見たままで述べた。真夜の言う通り、地蔵が僕らを背にして、2体が対になり並んでおり、進めば進むほどその間隔が狭まっていく。地蔵はただ、僕達の行く先を見つめている。その微笑みに満ちた顔はまるで『この先に浄土があるよ』、と僕達を誘っているかのように見えるのだった。僕は地蔵の壁で外界と隔てられた世界へ進んでいる錯覚に陥る。

「近くで見ると結構不気味ですね」加持が真夜に話しかける。

「そうね、麗華ちゃん。これなんか、皮膚病を患った人みたい」顔にまで苔がびっしりとついた地蔵を真夜は指差した。

「気持ち悪いこと言わないでよォ」加持が真夜を肘で小突く。いつの間にこんなに仲良くなっていたんだ…。それとも、女の子特有の上辺だけってやつか…。

「地蔵の道ってか、何処まで続くんだ、コレ」高塚は前方を見るが、湾曲しているらしく一体どれくらい、地蔵で出来た壁が続いているのか見当が付かなかった。

「歩数だけ、数えて見れよ」僕は高塚に告げる。

「ああ、まぁ、そうだな。メジャーでも持ってこれば良かったな」高塚は残念そうに呟くと、地蔵が連続して配置され始める所まで戻ると、歩数を数えて歩き始めた。

ざっと見た感じでは高塚が歩数を数え始めたところから、僕の立っている位置まで15~20m、そして、先頭に立って歩いている真夜の居る位置まで20m。かなり長い道だ。

「ああ、おにいちゃーん。すごいよ!」地蔵の角を曲がって見えなくなってから少々、真夜が僕を呼んだ。

「何がすごいって言うんだよ…」僕は少し足早に先へ進む。森特有の匂いが消える。そして、次に感じたのは桜の香り。突然、視界が薄紅色で埋め尽くされる。

「これは…すごいな」桜の大樹が視界一杯に現れる。背負った華は4分咲きと言ったところでこれからもっと優美な世界を作り上げてくれるだろう。僕はデジタルカメラで写真を撮る。此処まで桜が自然に群生しているところがあるなんて、自然は理解を超越してくれるものだと、つくづく感心する。

「すごいよね、これ」真夜はそう言うと桜の樹を見上げた。幹の黒と華の薄紅が絶妙なコントラストを描きその存在感はファインダーを通して、僕の心を揺さぶる。かつてこれ程まで心を貫く桜を見たことはなかった。どんな桜の名所でも、そして、どんなに名桜と呼ばれていようと。

僕の眼前に聳え立つそれは、悠久の時の中で星霜を重ね、誰に愛でられる事も無く、静かにこの深遠の森の中でただ自らの時が尽きるまでの間を儚き薄紅色と、命の脈動たる緑葉を一身に背負い、セピア色とモノトーンの世界の中では暗色の風景に溶け込んでその存在を消すのだ。

 

僕が景色に見とれていると、大学生達が桜の大樹の前に4人集まっていたので何か面白いことでも在るのかと、近付く。何のことはない、写真を撮ろうとしていただけだった。

「写真、撮ろうか?」僕は藤堂に申し出た。

「良いんですか?じゃぁ、お言葉に甘えて」藤堂はそう言うと僕に持っていたデジタルカメラを手渡した。

「それじゃ、並んで。笑って」僕は4人にここでは言わないが、ちょっとしたギャグをかます。4人が笑顔でファインダーの中に納まる。部の勧誘の写真にでも使うのだろうか。ちょっとばかりぎこちない笑顔が4つ並んだ写真が現像されるんだろうな、と考えると少し微笑ましかった。

「ほい、一応2,3枚撮っておいたから好きな写真を選ぶと良い」僕は藤堂にデジタルカメラを手渡した。

「ありがとうございました。それじゃ、しばらく此処を見て回りましょう」藤堂はそう言うと周囲を見渡してから、竹中達のところに戻っていった。僕もこの【咎隠村】についてカムイのサイトに在ったものか確認してみる必要性があるからな。

 

 

高塚と金川が桜を見上げてなにやら話し込んでいるので近付いてみた。

「江戸彼岸桜ね、これは」金川が桜の根元に立ち、見上げて言った。

エドヒガンザクラ?」高塚が金川の言葉に対して鸚鵡返しに聞く。

「そう、江戸彼岸桜。そう言う種類の桜よ」金川はそう言って説明した。

「なんつーか、物騒な名前だな」高塚が桜の大樹を見上げて言った。

「まぁ、日本3大桜の1つにも、これと同じ種の桜があるわ」金川は思ったよりも博識のようだ。

「あら、三枝君。桜以外何もないところね、此処」金川は腕を組んで辺りを見ているが、仰る通り何もない。

「確かに何もないんだよなぁ」僕はそう言う。かつて此処が村で在ったのかどうか非常に疑わしく思えて仕方ない。生活の跡が全くと言って良いほどないのだ…違うな。こうだ。人間が過去、この地に居たという形跡、とでも言えば良いか。表現が難しいのだが、とにかく、此処に人間が居住していたとは到底考えられなかった。

「まぁ、良いわ。ちょっと、彼方此方見て回ってくるね。こー君、行こう」金川はそう言うと高塚の手を引いて桜の樹が多い茂る村の中心部に姿を消した。いまいち、この女の素性と性格が読めない。まぁ、灰汁の強い女じゃないと高塚と付き合えるわけも無いか。

 

 

しばらくすることも無いので、写真を撮ったり、現実に広がる風景とうろ覚えのカムイのサイトとの比較をしたりしていると真夜が声を掛けてきた。

「おにいちゃん、暇ならあたしと此処を見て回ろうよ」別段断る理由もないし、確かに一人で回るにしても刺激がないので「OK、何処から回ろうか」と返事をする。

「それにしても殺風景ね。此処が村の跡地って、あたしは信じられないな」真夜はそう言うと両手を広げてぐるっと回った。

「それは僕も感じてることだ。もしかしたら、此処は村ではないのかもしれない」だったら何だと言うのだ。

「じゃぁ、此処は何なの?おにいちゃん」真夜はそう言うと僕を覗き込む。僕は桜の裏に廻り、土が盛り上がっているのを確認する。家の基礎だと考えるには少々小さ過ぎる。時々、建築士だった親父の仕事を手伝わされたことがあったが、これほどまで小さい基礎では納屋くらいしか建たない。

「何かは特定できないけど。これは家の跡ではないし、此処は村の跡でもないな」僕は断言する。此処は村ではない。田畑の跡すらない場所に人は生きられないし、何よりも、昭和初期まで存在を確認されている村がその痕跡を一切なくして消滅するなんて考えられることではない。

地図を取り出す。位置関係を確認する。

「なぁ、真夜。こんな感じで土が盛り上がってる場所の数を数えるの手伝ってくれないか?」僕は桜の樹の裏に在る、盛り土の部分を指差す。

「コレ?」真夜は土の盛り上がっている部分を蹴って尋ねた。

「そう、それ」僕はそう言うと皆川の残していった地図を取り出し、その裏面に此処の見取り図を描き始めた。カムイのサイトに在った通りだ。1つの盛り土を囲むようにして10の盛り土が配置してある。特に方角を表しているわけでもなさそうだ。10の数字が表すものは何だ?干支でもなければ…。では11の数字が表すものは?…わからない。

「なぁ、真夜。10って何か意味があったっけ?」漠然とした質問を無責任に投げかける。

「うーん。わかんない」にっこりと笑って、真夜は短く答えた。

「そうか、仕方ねーな」僕は最後の盛り土を確認し終わると、リュックサックを地面に投げ下ろした。それにドッカリと腰を下ろして天を仰ぐ。空は蒼く、ただ僕の頭上に広がっていた。

 

思考が空転する。カムイは此処が村だと言っていた。しかしながら、此処が村で在り得る訳が無い。何だろう、このもどかしさは。

「あ、三枝君、見っけ」金川の元気な声が聞こえる。

「ほえ?」僕は声のした方向に振り返る。金川と高塚が森に近いところで手を振っていた。丁度、僕らがこの場に辿り着いたのと真逆に位置する方角だ。

「こっちに道が在るんだよ」高塚が手招きする。

「おにいちゃん、行ってみよう」素早く立ち上がると、真夜は僕の手を引き高塚達のところに向かおうとする。僕は転びそうになりながら、投げ置いたリュックサックを片手で拾い状況に身を任せた。

 

 

 

 

「この先に何が在るんだろ?」真夜は来た道と同じように地蔵の立ち並ぶ道の先を見つめ、誰に尋ねるでもなく言った。

「さて?」三枝が宙に浮いた質問に疑問で答え、高塚と千秋の意見を待つ。

「この先に、在りそうな気がするのよね~」千秋は腕を組んで、自信満々に何かを悟って言った。

「何が在るって言うんだよ?」高塚が千秋の発言に反応した。

「【咎隠村】」千秋の言葉に皆、沈黙する。

 

一瞬の静寂。

 

木々のざわめきが静寂を破り、止まっていた時間が動き出す。

「ちょっと待て、此処が【咎隠村】だろ?」

「こーくん、さっきも言った通り、違うと思う」千秋は高塚を宥めるように柔らかいトーンで話す。

「やっぱり、そう考えるか」三枝は千秋の意見と同じようだ。

「どういうことだよ。さっぱりわかんねぇ」しゃがみ込んで頭を抱える。

「ええとね、どう考えても人の生活できる場所じゃないの」千秋は今まで三枝達が居た方向を指差し、「開墾した跡がまったく無ければ、人の居た痕跡がまったく無いもの」と言い切った。

「ええと、金川さんの話に補足するけど、盛り土になっている部分をカムイのサイトの受け売りで、何かの基礎だとすると、家はまず建てられない。狭過ぎるからね。建てれても納屋程度だ。後は、水源が近くに無いってことかな」三枝は地図を皆に見せた。

「そうね、ライフラインである水源が無いのに人が住める道理は無いわね」千秋はそういうと、地図を見る。

「なるほど。それで、人が此処に住んでいたという…村だったって言う根拠は完全に無くなるのね」

「理解できたの、真夜?」三枝が真夜の言葉に驚く。

「ふふん、おにいちゃんと違って大学でてますからぁ」口に手を当てて「くっくっく」と笑ってみせる。

三枝はそんな真夜をジト目で見て「はぁ」と深い溜息を吐くのであった。

 

「でも、この道の先に【咎隠村】が在るって言う根拠はどこから沸いて出るんだよ」高塚がしゃがんだまま空を見上げるようにして尋ねる。

「根拠はあるわよ」自信たっぷりに千秋は吐き捨てる。

「どんな?」苛立たしげに高塚は千秋を見た。

「かごめ唄をヒントとして考えるなら」千秋は唐突に話し出す。

「さっきの場所、入ってきた位置が『うしろ』で今、あたしたちが居る此処が『おもて』になると思うのよ」三枝の書いた11の盛り土の見取り図を皆に見せて、「この先に村が在ると仮定するのであれば、ネ」と、千秋は『仮説』を説き始めた。

「入って来た場所が、此処ね」千秋は見取り図の東側を指し、「此処の真逆の位置を指すとなると、今居る位置が此処だから。まさにこの先に村が在ることを明示しているのよ」と地図を指し示しながら説明する。

「滅茶苦茶わかり易くないか?」高塚が怪訝そうに千秋を見る。

「でも、こー君。ダミーの道が在ったじゃん?」別行動をしている間に高塚達は何本かの道を発見していたらしい。

「まぁ、そうなんだけど。それにしても安直過ぎる気がしてならない」妙に用心深い事を言う。

 

「…ん。あれ?」三枝がデジタルカメラを弄り疑問符を吐き出した。

「どうしたの?おにいちゃん?」言うと同時に三枝の手からデジタルカメラを奪い取った。

「ナニこれ」デジタルカメラの液晶には同じ風景が何枚も記憶されていた。

「さっき、真ん中の盛り土のところで全方位を撮った写真だ」三枝は短く答えた。それから、高塚と千秋にも写真を見せる。

「確かに同じ写真に見えるな」高塚が感想を漏らす。

「でも、写真に写りこんでる桜の枝振りと陰を見れば違う写真ってことがわかるわね」千秋は写真を食い入るように見て、その違いを明確化した。

「方角を変えて撮っているはずなんだけど、写真に写ってる風景は同じようにしか見えていない。カメラに写ってる桜の枝が無ければ方角を見失っているところだ」三枝は少しだけ真剣な顔になる。

「カメラの無い時代にこんなところに来たら完全に方角を見失うわね」千秋は右手を顎に当てながら腕組みする。

「村への侵入を防ぐ為に置かれた場所だと推測したほうが良いかも知れんな、ここは」三枝は写真を見つめながら呟いた。

 

「さて、どうしましょ?」千秋がおどけて言う。

「んー。まぁ、進むにしても一応、大学生の連中には言ってきたほうが良いんじゃね?」高塚が正論を述べる。

「それはそうなんだけど、あいつらもあいつらの都合があるだろうし。僕らが先に進むって言ったら、絶対について来るぞあいつら」三枝は面倒臭そうに桜の群れのほうに視線をやった。

「そうだね、あの子達が増えたら気を使わなくちゃいけないし。正直、面倒なのよね~。ま、ある程度進んで何も無ければ戻れば良いだけだし」カラカラと笑って千秋は「と言う訳で、4人で進みましょ」と言った。

「さんせー」声高らかに真夜が右手を挙げてジャンプした。

「無論、賛成。この先に【咎隠村】があったと仮定して。皆川が知らない連中を連れ立って行ったら。多分、あいつキレそうだし」苦笑しながら三枝は「だろ?」と高塚の肩をぽんぽんと叩く。三枝の意見はもっともだったし、3人の意見は同じだったので高塚は渋々、従うことにした。

「長いものには巻かれとけってな」高塚はそう言うと立ち上がる。

「それじゃぁ、行こうか」千秋が先頭に立ち、地蔵で出来た道に足を踏み入れるのだった。

 

 

来た道と同じように地蔵が立ち並んでいる。よく見ると先ほどの盛り土があった場所に背を向けて地蔵は整列しているのだった。

「来た時とはお地蔵様が逆向きで並んでいるね」真夜が妙なところで観察眼を発揮させる。

「ん?進行方向から見れば、これで良いんじゃないか?」三枝が真夜の言葉に少々思考してから反応した。

「でも、さっきの場所を基点として考えたら、このお地蔵様の配置っておかしいと思うのよ」真顔で真夜は語る。

「まぁ、さっきの場所を基点として考えたら、だろ?あくまでそれはお前の仮説であって、この地蔵の意味するところは別のところに―」言いかけて口を閉ざす。三枝は「ちょっと待った」と言って立ち止まり「なぁ、高塚、金川さん。他の道には地蔵は在ったか?」と尋ねる。

「無かったわよ」即答する。

「この奥に在るものは、もしかすると結構禍々しいものかも知れんな。地蔵は向いている方向を救うけど、その背にあるものは救わない。そして、地蔵は何かを祀る時にも使われるからね」三枝はそう言うと、また思考する。

「地蔵の向きが延々と一定方向なんだ。真夜の言った通り、さっきの櫻の群生地…ああ、もう、面倒だから『偽咎隠』と呼ぶ事にしよう。んで、『偽咎隠』に入るときから、ずっと地蔵は同じ向きでこの先まで続いている」三枝はそう言って薄暗くうねった道の先を指差した。

「ええと、どういうこと?」千秋が肩をすくめて、さっぱりわからないというジェスチャーをして三枝を見る。

「ああ…、ええと…、いい言葉が出てこないんだけど。この先に在るものを祀る為に地蔵が配置されているのか、それとも、この先に在るものを守って欲しいという願いを込められて地蔵が配置されているのか。その違いが―」うまく言葉を纏められず三枝は地面を蹴る。

「なんとなく、ニュアンスは伝わるよ」千秋はそう言うと三枝と同じように道の先を見つめる。夕方も近付いてきている所為か、薄暗く闇色にフェードアウトしている道の先は三枝の言うとおり禍々しく感じられた。

「なんだ、枝さん。つまりはこの先はちゃんと在るってことじゃないか?」高塚がさらっと言う。

「そう言う事なんだけど、じゃぁ、さっきの『偽咎隠』があの場所に在る存在意義って何なんだ?」腕を組み立ち尽くす。

「おにいちゃん、悩んでいても仕方ないじゃない。先に進みましょうよ」真夜が三枝の腕を引き、歩くことを促す。

「何が在るかはわからないけど、『何か』は在るわね」千秋はその目に確信を見ていた。

「…行くしか、無いか」三枝は意を決して、もう一度道の先を見据える。

 

地蔵が立ち並んでいる。

 

残照のように朱色の陽光が木々の枝葉の間から漏れて世界の色をセピアに塗り潰している。

 

呪詛でも聞こえてきそうな、そんな雰囲気の道だ。4人は沈黙を保ちながら立ち並ぶ地蔵の間を歩く。段々と地蔵の密度が上がっていき、視界に入る地蔵の数が増えていく。両脇に1体ずつ立っていた地蔵は2体、3体と並ぶ数を増やしていき、集合墓地のように地蔵で視界が埋め尽くされる。後ろを振り返れば視界に入る地蔵が全部自分に視線を向けているような錯覚に陥る。

 

どのくらい進んできたのだろうか、若干の斜度のある道は唐突に道幅が広くなりやがて8畳ほどの平らな場所に出る。地蔵はまるで塀のように森と広場を隔てていて、そこから先に伸びる道が二手に分かれている。

「どっちなんだよ」高塚がうんざりとした表情で先を窺う。

「どっちなんだろうな」三枝はリュックサックを地面に置く。

「どうするの?」不安そうに真夜が三枝に尋ねる。

「こんなところで道が分岐するなんてね」千秋は手にしたメモ帳に今までの道を書き記していたようだ。歩いてきた距離はさほどでもなさそうだった。

「棒でも倒してみようか」三枝は苦笑いをしながら、落ちていた枝を拾う。

「あほか」高塚は頭(かぶり)を振って呆れた表情をその顔に貼り付ける。

「ねぇ、おにいちゃん」真夜が右側の分岐点で何かを見つけたようだ。

「どうした?」三枝は立ち上がり、真夜のところまで鈍足で歩く。真夜は地面に埋まった何かを指差した。それは石で作られた柱のようなもので、掘り返してみると50cmほどの四角柱だった。側面には『櫻杜』と穿たれていた。

「お?何だ、コレ?」三枝はそれを起こして、覗き込んだ。他には文字は確認できなかった。

「もう対に成るものが在るかもしれないわね」千秋はそう言うと、左側の分岐点の地面を足で掘り始める。ガっと言う何か硬いものに当たる感触がトレッキングシューズの硬いゴム底に伝わる。千秋は「見つけちゃった」と困惑した表情で真夜の見つけた石を覗き込んでいる3人に向って言った。

「こっちはなんて彫ってあるんだ?」高塚が地面からその石柱を引き摺り起こし、穿たれている筈の文字を確認する。薄暗い森の奥底で眠りの中にあった石柱は久し振りに外気を浴びた。文字は土で埋まっていて、携帯電話のLEDで照らしながら土が詰まった文字をなぞる。こちらの石柱には3文字刻まれていて、そこには『櫻澤邑』とあった。

「ってことは、こっちか」三枝が左側の道を睨む様に見る。道はなだらかに下っており、その先は昏く、まるで黄泉路のようだ。

「この先に在るのか、【咎隠村】が」高塚が呟く。

「正式には【櫻澤邑】って言う見たいね」千秋が訂正する。

「咎を隠す村、か」三枝は下りの先に何か不吉な気配を感じた。

「それって、外の村からの意味なんでしょ?きっと」千秋は冷静に事実を解釈すると「じゃぁ、進みましょ」と軽く言った。

「ま、進むしかなさそうだからね」三枝もリュックサックから大きめの懐中電灯を取り出すと進むべき道に向き直った。

「ところで、今何時なんだ?」高塚が携帯電話を開き、時間を確認する。デジタルの時計は17時3分となっていた。

「あいつらに何も言わずに出たのは失敗だったかもしれないな」高塚はパチン、と携帯電話を閉じた。

「仕方ないでしょ、来ちゃったんだし」千秋は口を尖らせて高塚を睨む。

「聞くまでも無いだろうけど、進むんだろ?」高塚は3人の顔を見る。

「まぁね」千秋はウインクして見せた。

「此処まで来たのなら、進むべきだろ」三枝が『当たり前』、と言った口調で言う。

「あたしも行ってみたいなぁ」真夜も『引き返す』と言う言葉を口にしなかった。

「了解」高塚自身も此処まで来たのであれば進むべきだと思っていた。

 

 

 

 

『そこは深い深い森の中にある』

 

『そこはすでに忘れられた祭壇』

 

『そこは血塗られた過去をもつ』

 

誰かが遠くで謡っているのが聞こえた。

それは透明な声で、意識をしなくても聞こえてくる。

 

すべてを透過して。

 

すべてを侵食して。

 

すべてを同化して。

 

 

 

 

―深遠の森の奥。

 

謡う声が聞こえる。

 

『そこは深い深い森の中にある』

 

心を透過してくる声。

 

『そこはすでに忘れられた祭壇』

 

悲しみに彩られた声。

 

『そこは血塗られた過去をもつ』

 

憎しみに染まった声。

 

意識が遠い。俺は何をしていたんだっけ?状況を確認する。

どうやら、俺が居るのは古びた家の中のようだ。天井が遥か遠くに暗闇と同化して在った。上半身を起こし、周囲を確認する。薄暗い室内には何本かの蝋燭の火が立てられていて、何とか周囲に何が在るかを確認する事が出来た。

俺は床に寝ていて、黒いジャンバーが申し訳程度に掛けてあった。年代物の調度品がこれまた年代物の家具の上に配置されている。部屋の真中には囲炉裏なんかがあって驚くが、火は焚かれていない。そして、この家が古い割にきちんと手入れがなされている事に驚く。

思考はまだまどろみの中を彷徨っていて、これが現実であるのかどうかの区別をつける判断は俺には出来なかった。はて、俺はなんで此処に居るのだろうか?そして、此処は何処なんだろうか?

 

 

―記憶を辿る。

 

何故、此処に居るのか?

記憶が曖昧で思い出せない。

 

此処は何処なのか?

これもまたわからない。

 

俺は誰なのか?

俺は皆川 裕。

 

 

また、誰かが遠くで謡っているのが聞こえた。それは透明な声で、意識をしなくても聞こえてくる。何処かで聞いた事のある声だ。ええと…。

「…呉葉」俺はその名を呟くと、立ち上がった。寝起きで頭の奥が滲むようにボヤっとしている他は身体上に異常は感じられなかった。

俺は家の中で眠っていたようで、靴を脱いでいた。何処で脱いだかの記憶が曖昧なので、取り敢えず土間に向かい、探す。何事も無いようにきちんと揃えて土間に置いてあった。

靴を履き、引き戸を開ける。閉て付けが悪いらしくガタガタと上下に揺らしながら重い引き戸を半分まで開け、家の外に出る事に成功した。

 

時間がわからない。空は夕焼けに染まりつつ在って、俺の眼前に広がっている。殺風景な開けた土地と、その向こうに広がる森。

家は何軒か建っていた。ただ、どの家も人気が無いように思えた。まるで、タイムスリップして来たかのような錯覚をおぼえる。虚ろな世界に俺は取り残されてしまったのか?そんな電波染みたことを考える。

 

 

『そこは深い深い森の中にある』

『そこはすでに忘れられた祭壇』

『そこは血塗られた過去をもつ』

 

 

透き通るソプラノ。その声は風に乗って微かに俺の耳に届いた。俺はその声を辿る。道のほとんどが草に覆われてしまっていて、歩き難い事この上ない。それでも、俺は声の主の所に行かなくてはいけなかった。草を掻き分けて進む。

そこには一本の桜の樹が在った。朽ち果てた木造の鳥居。もはや注連縄なんて存在していない。その向こうに人影。―ああ、お前だったのか。

「呉葉」俺はその人影の名前を呼んだ。

彼女はゆっくりと風を纏い、振り返る。髪は風に舞い、夕焼け色が髪を透過して見える。

「おはよう、ゆたか」そう言うとにっこりと笑った。

「どのくらい寝ていたんだ?」俺は尋ねた。

「4時間くらいかな。可愛い寝顔だったよ」呉葉はそう言うと手招きをした。俺は呉葉に誘われる(いざなわれる)ように桜の樹の下へ歩いた。

「大きな樹だな」俺は桜を見上げる。そいつは悠々と枝を伸ばし、遥か空を掴もうとしているように見えた。

「そうね、この村が出来た時から在ったらしいから。かれこれ1000年は経っているんじゃない?」

「1000年か」大人が大きくてを伸ばして周りを囲んでも6,7人は必要だと思う、その幹はいまなお生気に満ち溢れ、枝の先に灯った蕾の火は、今まさに燃え上がろうとしているのだった。

「ね、そろそろ帰ろうか?」呉葉は桜を見上げている俺の手を引くと、先程の家に向かって歩き出す。

「帰るって…。何処に?」俺は帰りを急ぐ呉葉の手を引き止める。

「決まってるじゃない、あたし達の家に」

強烈な違和感。

何だこれ?

 

視界の色が反転する、そして意識が暗転した。

 

 

「ゆたか、大丈夫?」俺は呉葉の肩を抱くようにして体重を預けていた。心配そうに呉葉が俺の顔を覗き込んでいる。

「それなりに大丈夫だ」軽く頭を振り、目頭を押さえながら呉葉の身体から離れる。腕や、胸から呉葉の心地良い体温が煙のようにすぅっと消えて行く。妙な喪失感を感じる。

「立ち眩み、かな」俺は少しばかり混乱した記憶を整理する。

 

 

俺達の廻りには薄暗い世界が広がっていて、此処まで歩いてきた道がうねりながら遠くまで続いている。

「ああ、そうか」俺はようやく記憶の辻褄がはっきりとする。俺達は【櫻ノ海】からさらに奥の【咎隠村】を目指して地蔵の立ち並ぶ道を歩いてきた。

どれくらい歩いたのか、時計を見ていなかったのでさっぱりとわからないが、ゆっくりと視界が開けて、8畳くらいの開けた場所に出た。相変わらず地蔵が立ち並んでいて、塀のように森を遮っていた。

俺は休憩を取る為に座り込んだ。先を見れば2手に分かれていて、右は登り、左は下りだった。

「どっちに行けばいいんだ?」俺は座ったまま、左右の道を交互に見る。

「左よ」呉葉はあっさりと答え、「でも、右に行けば【櫻ノ杜】に行くことが出来るわ」と言う。

「【櫻ノ杜】か」呉葉の言葉を思い出す。地蔵を祀ってある社。【地蔵憑き】の儀が執り行われた場所。カムイのサイトで発見できなかったと書かれていた場所だけに非常に興味をそそられる訳だが、途中で道が途切れているんじゃなかったっけ?

「なぁ、呉葉。【櫻ノ杜】って道が途切れているんじゃなかったっけ?」

「【櫻ノ海】からのルートだと道が途切れているかもしれないわね」平然と呉葉は言ってのける。

「ほう、ルートが2個在るのか」俺は少し驚いた。

「うん、村から行くルートと、【櫻ノ海】から行くルート」

「行ってみようか」俺はそう言うと右側の登りルートを見上げた。

「OK。じゃ、元気を出して行ってみようか」ニヤっと笑って呉葉が俺に手を差し伸べる。俺は呉葉の手を取り勢い良く立ち上がった…。

 

 

「あ…」記憶が整理され、何故、俺が呉葉に抱き付いていたのか理解する。結論から言うと、座った体勢から急に立ち上がった為、立ち眩みになったと言うわけだ。情けないというかなんと言うか。

「本当に大丈夫?」少し記憶を辿る為にボーっとしていた所為か、呉葉が繋いだ手を振り回して尋ねた。さっきまで手を繋ぐのを嫌がっていたくせに…。

「大丈夫。ちょっと飛んでた意識の補正をしていただけだ。それじゃ、案内宜しく」繋いでいた呉葉の右手を開いた。それから左手でパシッと呉葉の手を叩いた。

 

「割と高い位置に在るんだな」登り始めて10分、普段運動なんてしないものだから、息が上がり始める。

「もうギブアップ?」呉葉の笑顔が眩しく輝く。

「そんなわけじゃないけど。普段運動なんてしないからな」

「いいわけ?…ダッサ。あはは」カラカラと呉葉が笑った。

「うるせー、登ってやるよ。くそっ」俺は意地でも最後まで登ってやると心に誓い、道の先を睨んだ。それから15分。

「あー、後どれくらいだ?」太腿が思うように上がらない。こいつは参った。生まれてはじめての身体的恐怖と言うのだろうか。身体が言う事を聞かない。

「そうね~、もう直ぐそこよ」呉葉は上り坂の先を指差した。確かに登ってきた道程に比べると、もう直ぐ、と言った感じだった。

「あー、頑張って登るとしようか」俺は道の先を見据えて一歩一歩を踏み締めた。無言になって登る事15分程。俺はようやく【櫻ノ杜】に辿り着いた。

 

60㎡くらいの開かれた土地に今では朽ち果ててしまった、【櫻ノ杜】と呼ばれる社がまるで、時間が止まっているかのように建立されていた。そして社の右手には、かなり巨大な御神木であったろう桜の大樹がその姿を切り株に変えて静かに存在していた。年輪は風雨によって朽ち、もはやその樹齢を確認することなど不可能である。呉葉が言っていた多量の奉納された地蔵とやらをこの広場で確認する事はできなかった。

人の手が入らなくなってからどれくらいの時が経つのだろうか、社の瓦は崩れ落ち、木造の社屋は若干斜めになっている。社の中を覗き込むと地蔵が一体、虚空を見つめて安置されていた。

「なァ、奉納された地蔵ってコレだけなのか?」俺は中にある地蔵を指差し、桜の切り株に腰掛けている呉葉に尋ねる。

「そうね、毎年新しい地蔵が奉納されて、古い地蔵は村を護る為に道に並べられたから」呉葉はそう言うと、「下のほう」と【櫻ノ海】側の道を指す。俺は【櫻ノ杜】の真裏に位置するもう一本の道を見下ろす。カムイのサイトに在った通り、【櫻ノ海】に続いているであろうその道は途中で崩壊しており、その周りには地蔵が散らばって存在していた。かつては綺麗に立ち並んでいたのだろう、道の先にはきちんと並んだ地蔵も確認できた。

「…おい、一体どれだけの地蔵が在るんだよ」冷静に考えて、この道の先の地蔵も今歩いてきた道の様に立ち並んでいる事を考えるとそれはもう恐ろしい数の地蔵が存在している事になる。

「詳しい数なんてわからないわ。それこそ、造られて出来が良くなくて打ち砕かれたものなんかも数えれば…」呉葉は口を紡ぐ。

「それもそうだな…。恐ろしい数になるなぁ」一年間にどれだけの地蔵が造られたのだろうか、10の家がそれぞれ造ったとしても10個。しかし、失敗作の存在もカウントすれば数え切れない数の地蔵が作られてきた事を表している。それらを毎年作って数百年。考えただけでも気の遠くなる量だ。そもそも地蔵の材料をどこから調達していたんだろうか。すげぇ疑問が残るわけだが、本筋から外れるから黙っておくことにしよう。

 

「ね、ほんとに薄紅色の海に見えるでしょ?」呉葉は思考の真っ只中に居た俺の隣に立ち、眼下に広がる桜の大樹群を指差してにっこりと笑う。

「確かに海に見えるな」俺はその薄紅色の【櫻ノ海】が風に煽られうねる様子を見たままの感想として述べた。

「でしょでしょ?」嬉しそうに俺の腕に抱き付いた。

「ああ、確かに【櫻ノ海】だな…」俺はもう一度その壮大に蠢く薄紅色を見つめて言った。

「ねぇ、ゆたか」呉葉が俺の顔を覗き込む。呉葉の目には俺のキョトンとした顔が映り込んでいる…それくらいの距離。キスでもしようと言うのか…なんて冗談はさておき。

「どうした?」俺は写り込んだ自分の表情を整えながら、尋ねた。

「どうもしないんだけど。こうやって、この場所に居ると世の中に忘れられちゃったんじゃないかって、そう思えて」呉葉は俺の腕から俺の身体に抱きつく、この行動理念は何だ?所謂、その場のノリとか、そういうやつか?

取り敢えず、両手が手持ち無沙汰だったので俺も呉葉を抱き締めてみる。華奢な身体、一日風呂に入っていないのにサラサラのセミロング。鼓動が重なる。

なんつーか、こいつなら人生を預けてもいいかなぁなんて思ったりして。でも、遠距離恋愛なんて出来ないしなぁなんて。そんなバカなシミュレーションをしてみたり。まぁ、簡単に言うとテンパってたって事さ。

「あー、呉葉?」抱き締めたまま話す。

「ん?」心地良いハスキーヴォイスが耳元で奏でられる。

「呉葉の事好きかもしれない」ごく普通に言ってしまって若干後悔する。

「あ…あはははははは」乾いた笑い声。

言わなければ良かったか。

「こほんっ」軽く咳払いをしてから「ゆたか、つきあっちゃおうか」と呉葉が上擦った声で言った。

「本気か!?」俺は呉葉から身体を離し、呉葉の顔を見た。少し頬を薄紅に染め、目を潤ませた呉葉がそこに居た。つうか、ふつーの女だったら別にどうでもいいんだけど、こいつがこんな顔していると、もう、無理。

「ハハハ…。あー、…呉葉、好きだよ」俺はそう言うと呉葉の火照った頬に口付けをした。それから、自然な流れで俺達は唇を重ねた。

「ね、ゆたか」唇が離れ、しばらくしてから呉葉が話し出す。

「なに?」抱き合ったまま呉葉の紡いだ言葉に答える。

 

「ありがとう」

 

呉葉は消えそうなくらい静かな声で『ありがとう』と言った。

「-?」言葉が見当たらなかった。何に対して感謝されたのだろうか。どれくらい影を重ねていたのだろうか。長閑な空とそよぐ風の中に身を委ねて俺達は空を仰いだ。春の陽光が段々と西へ傾きはじめていた。

「今、何時なんだろ?」呉葉はすっと、俺から離れ自分の影に視線を落とした。俺は「ちょっと待って」と言いながら携帯をポケットから引き摺り出した。携帯電話のデジタル表記を見る。

「14時21分だそうだ」俺は時計と携帯音楽プレイヤーとデジタルカメラ複合機としてしか使えなくなった通信機器を呉葉の眼前に差し出した。

「結構、時間が掛かったわね。じゃ、そろそろ行きましょうか。【咎隠村】に」呉葉が急に話を切り出した。

「ん?」あまりにも唐突だったので疑問符を投げかけてみる。

「ゆたかの行きたがっている【咎隠村】よ。厳密に言うと、【櫻澤邑】って言うんだけどね」新しい単語をさらっと述べてくれる呉葉。

「何だよ、その『おうさわむら』って。ってか、展開早過ぎ」俺は思わずジト目で呉葉を見つつその単語について尋ねるのだった。

「【咎隠村】の本当の名前よ」呉葉は言葉を短く切った。

「やはり、【咎隠村】は外界での隠語の類だったのか」俺はそう言うと呉葉を見る。

「うん、そもそも『隠れ里』だからね。話していてもなんだし、行きましょう」呉葉はそう言うと俺の手を引き歩き出す。

俺は流れに身を任せて呉葉の後を手を引かれて歩く。そして、俺達は登ってきた道の頂きに立つのだった。

下を見れば、結構な急斜面がうねうねとまるで龍の背のように森へと続いているの。そんなに標高の高い位置に居る訳でもないのだが、一帯を見渡せる此処はやはり過去に様々な使用用途を想定して造られたのだと推測できた。

 

「此処を下って、さっきの分岐の左側を降りて行けば直ぐに【櫻澤邑】よ」呉葉はそう言うと割と大き目の石がゴロゴロと転がる不安定な道を下り始めるのだった。

確か登るのに1時間弱掛かっているので、下りもそんなものだろう。下り切る頃には15時を廻っている事だろう。

 

呉葉は俺の前をリズミカルに降りていく。俺はその後を必死に追うわけだが、鈍った身体が言う事を聞いてくれない。何回か足を縺れさせながら先程の麓を目指すのだった。眼の前をぴょんぴょんと舞う呉葉の髪が憎たらしい。

「ちょっとペース落とさないか?」俺は流れ落ちる額の汗を拭いながら遥か先を行く呉葉に声を掛けた。

「ナンダイ、もうギブアップかな?」にぃっと笑って呉葉は俺を見上げた。

「こらっ、まて、誰がギブアップだと!?」俺はついつい呉葉の言葉に過剰反応してしまう、ああ、大人気ない。

「違うんだ?もう少しだよ、ゆたか」道の先を指差す呉葉、どう見てももうすぐには見えないわけだが、こう、俺にも意地ってモノがあるわけで「OK、じゃあ、このままで行こうか」なんて格好をつけてみる。

見透かされていたんだろうか、呉葉が若干ペースを落とし、俺が降りてくるのを待っていた。ふふっと意味ありげに俺の顔を覗き込んで笑うと、「いこっか」と俺の右手を掴むと道を下り始めるのだった。

「うおっ、速い、速いっての、呉葉!!!」自分のペースに比べると遥かに早いペースで下り始める。

「んー、足を地面につけるんじゃなくて、こう、ステップを踏むようにして…」呉葉は華麗にとんっとんっと着地を決める。

「あー、走ってるからダメなのか」俺も呉葉に習う。

 

-『テトラポッド』と言う消波ブロックで遊んだことのある人は居るだろうか?アレを跳ぶ時のような感じでステップを踏みながら山道を下るのだ。しかしながらメガネって言うのは不便極まりない。視界が跳ねる、視点が定まらない。ああ、コンタクトにしておけば良かったなぁ。後悔しつつ俺は呉葉に手を引かれて分岐点を目指す。

「つーか、結構な速さで降りてるわけだけど、まだかよ」俺は何処かにすっ飛んで行きそうになるメガネを押さえながら道の先を見る。段々と闇の密度が増してくる。もう少しか?

「着くわよ」呉葉はたんっ、と両足を揃えて着地した。少し遅れて俺も平地に足を着けた。先程まで散々と彷徨った暗闇に俺達は辿り着いた。

「ふう、ようやく降り切ったか」俺はしゃがみ込んだ。

「あはは、ゆたかお疲れ」呉葉は屈託無く笑うと自分の両膝に手を置くと「すぐに進む?」と尋ねた。

「いや、それは勘弁」俺は項垂れつつ、手をパタパタと振った。

「そうね、少し休憩をしましょうか」呉葉はそう言うと俺の隣にしゃがみ込んだ。ふわっと呉葉の髪が舞い、俺の肩にかかる。心地の良い香りが鼻腔を突く。あー、何で同じ匂いでもこうやって嗅ぐ匂いはドキドキするんだろうね。

 

ポケットからタバコとZippoを取り出す。タバコを銜え、呉葉にも一本くれてやる。キンッ、と乾いた音、シュガッと火の点く音。ジリジリと火がタバコを浸食して、それから俺は煙を吐いた。木々のざわめきすらない静寂に包まれて、俺と呉葉はタバコを燻らせた。虚空に消えていく煙を目の端で追いながら、これから先の事を考える。

【咎隠村】まであと少しだ。【かごめかごめ】に関してはそこまで重要視する項目でないことは理解できた。寧ろ【地蔵憑き】に関して深く考える必要性がありそうだ。と言ってもこんなところで論理立てできるわけでもないし、枝さんや高塚と合流してからにしようか。右腕のGショックを見れば15時23分。引き返すには微妙な時間だし、連中の事だ自力で此処まで来るだろう。

 

俺はタバコを吸いきると、勢いをつけて立ち上がった。

「元気、出てきた?」呉葉はそんな俺を見上げると、一気にタバコを灰に変えて、地面に投げ捨てた。それを立ち上がって踏み躙り「それじゃ、本懐を遂げに行きますか」と左側の道に向かって歩き出した。

「そーだな、結構掛かったが。ようやく目的地か」呉葉に続き下りの道を歩く。段々と生い茂っていた木々は密度を薄め、やがて視界が開ける。

 

目の前にあるのは死んだ世界。

それ以外に表現方法は無い。

 

「ようこそ、【櫻澤邑】へ」凛とした声で呉葉が告げた。

 

朽ち果てた家屋。

荒れ果てた農地。

 

生を彩る緑色と死を司る灰色で構成されたその世界に俺は自分の観念を打ち砕かれた。モノトーンではない世界。人工物と自然の入り混じる廃墟とはまた違う世界。自然に支配されている世界に異様な人工物群が立ち並んでいる。

ああ、『マヤの遺跡』とか、ああいったものなら納得が出来るわけだが、こう、木造建築物が遺棄され、現在進行形で自然に還ろうとしているこの現実が俺の目には『異様』に映ってしょうがない。場違いなのだ。何が?と尋ねられれば何、と答えることは出来ないが、違和感。ソレだ。

「此処が【咎隠村】…」俺は呉葉の後ろに広がる世界に目を向け、呟いた。

「そう。そして、本当の名前は【櫻澤邑】。忘れ去られた村」呉葉は村を振り返る。マッチングのしない絵だ。カジュアルな服に身を包んだ美少女と廃村なんて、どこぞのサイトでもこんな企画はしねぇぞ。

「忘れ去られたのはいいのだが。誰も居ないのか?」俺は呉葉に尋ねる。

「居るよ」と呉葉は言う。

「え?」思わず口から出る言葉は妙に情けないものだった。

「あたし達が、ね」顔の半分を朱色に、顔の半分を闇に落として呉葉はこちらを振り向く。その瞳は狂気が宿っているかのように輝いていた。

「はははははは…」笑えねぇ冗談だが、笑って置くのがベストだと直感が告げる。俺はただ、乾いた笑いを村に木霊させた。