ledcannon’s diary

美作古書店

櫻ノ海 五章

櫻ノ海

 

 

―伍章―

 

煉獄-レンゴク-

 

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第伍話

 

終極へと。-士送りの儀-。

 

 

【櫻ノ海】に着く頃にはお天道様は一番気分の良さそうな位置に座していて、俺達は春だと言うのにびっしょりと汗をかいているのだった。

視界が開け吐き気がするほどに美しい桜の樹海が現われる。本当に【櫻ノ海】とはよく言ったものだ。先頭を行っていた枝さんは取り敢えず一番近くにある盛り土まで歩くと腰を下ろした。真夜と千秋もそれに習ってリュックサックを下ろし、樹に凭れ掛かる。俺は呉葉と並んで少し離れた所に座り込んだ。三国と継寛が俺を見下ろすように俺達の前に立った。

「どうした?」俺は2人を見上げた。

「休憩、取るんだろ?」継寛が腕組みして尋ねる。

「おう、体力が持たないだろ」俺は笑いながら答えた。

「それじゃ、昼にするか」三国が相変わらずのマイペースで話を切り出す。

「そうだな」俺が相槌を打つと2人は枝さん達のほうに歩いて行った。

 

そんな2人を意味も無く眺めていると「ね、ゆたか。一緒に来て欲しい所があるのよ」と呉葉が上目遣いのお願いモードで攻め込んできた。女の子がこんな表情でお願いする時は非常に面倒臭い事に巻き込まれる可能性が非常に高いという事を経験則からわかっていたが、OKと言う以外の選択肢は今の呉葉を前にして口に出す事が出来なかった。

「で、何処に来いって?」俺は呉葉の頬に口付けをして甘々な2人の空間を発生させつつ尋ねた。少し匂う汗の匂いが情欲をそそる。身体の中心に血液が集結しそうになったので、呉葉から身を放し立ち上がった。

「んっとね。【櫻ノ杜】と対を成す【閻魔堂】って言う所が在るんだけどそこに一緒に来て欲しいの」流石は地元民、ただ、こう言ってくるという事は何かキチンとした理由が在ることだけはなんとなく解った。俺は仕方なさそうに「わかったさ」と言うと、呉葉は極上の笑みを浮かべて「大好き!」と、俺に抱き付いた。俺は宥めるように抱き締めて「行くのなら、皆に言ってから出発しよう」と6人が集まっているところに呉葉を連れ立って歩き出す。

 

「おー、ちょっと出かけてくる」俺は枝さんに話し掛ける。

「ん?何処に行くんだ?」不思議そうに俺を見る。他の連中の視線は痛いほどに冷たい。

「【閻魔堂】とか言う所」俺はシレっと言った。

「ふむ、どれくらいで戻ってくるんだ?」枝さんは俺と呉葉を交互に見て尋ねた。そう言えば聞いてないな。俺は呉葉に目配せをすると「ええと、往復で1時間位かな?」と呉葉は答えた。

「まぁ、丁度ご飯だし、行ってこいよ?」枝さんは快諾してくれた。

「んじゃ、ちょっと行ってくるわ」俺は左手を上げてパタパタと振ると、枝さん達に荷物を預け、呉葉の先導で【櫻ノ杜】の入口と真逆の南側に位置する【閻魔堂】入口に向かって歩き出した。

 

 

「もう直ぐよ」呉葉は道の先を指差して言った。俺はうんざりとして急勾配の坂の先を見た。そして厭な人影を見てしまう。

「何だ…」俺はその人影に見入る。こんな辺鄙な場所に人が居るなんて誰も考えないだろう。何らかの意図があってそいつはそこに居るのだろう。そして、その意図は間違いなく何か如何わしいものに違いない。不安そうな顔で呉葉が俺の腕にしがみ付いて来た。

 

俺は行く手を遮る、そいつの顔を睨みつけた。

 

気の強そうな眼差しと、小さな鼻、薄紅の唇-それなりに整った顔。ショートカットヘアと、少し小麦がかった肌が快活なイメージを見るものに植え付けるだろう。しかし、今ではそのイメージは粉々に砕けて消えた。

 

「お前が藤堂を殺ったのか?」

息の詰まりそうな沈黙。そいつはただ微笑を浮かべていた。

「ゆたか、こいつ…」

呉葉の手に力が篭る。腕が痛いわけだが、そうも言えないな。

もし、藤堂達を殺したのが、目の前に居るこいつであれば非常に危険だ。幸い飛び道具は手にしていないが、分不相応な片手斧を手にしている。視線は俺を見ているのか呉葉を見ているのか、それとも別の何かを見ているのか、狂気的な現実の前に妙に静かな瞳をしていた。

「うふふ、またあたしを邪魔するのね?」紡ぎだす言葉は狂気以外のなにものでもない。俺達に完全に向き直り、斜め下、5時の方向で片手斧を固定して構える。拙いな、こんな時に限って継寛も高塚も居ない。SUPER-LEDのライトも役に立ちそうにない。電動ガンは【櫻ノ海】に置いてきたリュックサックの中だ。冷たい汗が背中を流れ落ちる。

こんな所で真相の断片に出くわすとは、嬉しくも何ともない。俺は小説や漫画の中の探偵でもなければ、ましてや正義のヒーローでもない、勿論、命懸けで戦う公務員でもない。

 

「逃げるぞ」妥当な線で結論を出し、呉葉に耳打ちする。マジな目をして呉葉は頷くと今来た道を駆け下りるように走り出した。俺も少し遅れて呉葉の後を追う。恐ろしい事に俺達を追うように足音が聞こえる。振り返る気はなかったが本能が俺を振り返させた。

ああ、見なければ良かったね。両手で斧を構えながら走ってくるうら若い女なんて漫画やゲームの世界だけで充分だ。殺す気満々で目をギラ付かせて俺達をタゲって(標的として捉えて)いる。ほんと、止めて欲しいものだ。

「ええと、呉葉。マジで逃げるぞ。捕まったら多分、殺される」俺は走りながら足元に転がっていた人を殴るのに割と手頃な枝を拾うと、投げつけてみた。ヒュンヒュンと良い音を立ててそいつの顔面に吸い込まれるように飛んでいった。コーン、と乾いた音を立て、斧に弾き返された。

「おいおいおいおい…」俺は呆然と明後日の方向に消え行く棒を眺めた。まったく、なんでこうなるんだよ。泣き出したい気分を押さえつつ、俺は必死で走り続ける。

「畜生、畜生、畜生、畜生…」一定の間隔を置いて後をついてくる。あー、もうダメかな。…つか、やっちまうか?

 

俺はもう一度手頃な枝を拾うと、おもむろに投げつける、それと同時に反転し、蹴りかかった。枝に気を取られたそいつは俺の蹴撃に気付くのが遅れ、鳩尾に俺の蹴りがクリーンヒットする。

女の子の胎を蹴っちゃいけないって?知るか!こっちは命を狙われてんだ。

と言うか、鳩尾を蹴り付けられてまったく咳き込まず平然と立っている奴を俺ははじめて見た。本当に何事も無かった様に平然と立っている事実は何だ?

それでも多少は眉間に皺を寄せている。それから、般若のように醜く俺を睨む。一応、痛かったって事か?

「この野郎」斧を振り上げる、俺は振り上げた手を蹴り付ける。振り上げた勢いと俺の蹴りの勢いで思いっきり後ろに向かって転ぶ。それでも斧を手放さない根性に感嘆しながら俺は斧を握った右手を踏み付け、斧を奪い取った。呉葉は少し離れた場所から俺達のやりとりを不安そうな表情で見ている。

 

油断しなかったと言えば嘘だな。一瞬の隙を突かれた。足を薙がれ、俺はよろめく。そいつは立ち上がり、踵を返し今来た道をすごい勢いで駆け上がって行く。追い付けるか、まったく…。緊張が解けたか、呉葉が俺に駆け寄る。

「なんだったわけ?」と目を皿のように真ん丸にしてそいつが走っていった方向を凝視していた。俺は俺で斧を手にしたまま呆けていた。状況を知らない誰かに現状を見られたら、絶対に何か大きな誤解を招くんだろうな、と思考回路が凍結した頭の片隅で考えていた。しかし、折角の武器だし棄てるわけには行かない、皆のところに戻るまで、また襲われないとは限らないからな。

「取り敢えず、皆の所に戻ろうぜ」俺は呉葉の手を引くと【閻魔堂】の道をゆっくりと下り始めた。まったく、散々な目に巻き込まれ始めたな。

現在の段階で太陽はまだまだ高く、今日中に櫻ノ海を脱出する事は可能だと思えた。腕時計や携帯電話は全部置いてきてるので時間はわからないが14時くらいじゃないかと思う。俺達が【閻魔堂】向かったのが大体12時30分くらいだったはずだから、そんなもんだろう。あー、思考ばかりしてて段々と気が滅入って来るが、呉葉が居てくれるので滅入った気は若干の回復傾向に向かう。

「あーん、【閻魔堂】に連れてってあげたかったなぁ」残念そうに目を伏せて呉葉は俺の手を握った。まったく、甘えるの巧いなぁ。俺は呉葉に向き直ると頬に口付けをした。呉葉は目を瞑り、唇に口付けを促す。長く伸びた影が重なる。柔らかな感触が唇を伝う。

「あはは。優しいキスだね」呉葉はにっこりと笑うと俺の手を引き歩き出す。【閻魔堂】を見ることは出来なかったが、ま、いつか見る機会はあるんじゃないのかって、永遠に在り得ない期待を胸に【櫻ノ海】への帰路についた。

 

 

俺達が【櫻ノ海】に戻った時には若干太陽は傾いていた。状況を皆に報告し、なるべくバラバラにならないように注意を喚起した。

「ってか、マジで襲われたのか」枝さんが若干の焦燥の色を隠せずに尋ねる。俺は無言で頷き、皆を見渡す。

「多分、加藤とか言う女だな」俺の話を聞いて高塚がその女の名前を口にする。多分そんな名前だったような気がする。むしろ自己紹介されたっけ?

霞のかかったような記憶を辿るのを断念し、現状の打開に話題を戻す。

「この時間から一不動に戻るのは危険なような気がするんだけど、どうよ?」俺は全員を見渡し、同意を求める。此処に止まるのもそれなりのリスクを負うが、ある程度の防御は出来ると思う。しかし、移動中に襲われれば先程のように割と広い道であれば迎え討つ事も可能だが、急勾配を登っている最中であればかなりの危険を伴うと俺は判断した。

「確かに」短く三国が言う。

「明日から会社なんだけど」高塚が呟く。

「俺は進んでも構わないぞ?」継寛が腕組みをして言う。

「早くお風呂入りたいなぁ…」真夜が前髪を弄りながら頬を膨らます。

「あたしは、皆川君の意見に同意かな」千秋は眼鏡に隠れた目を細めて俺の意見に賛同してくれた。

「あたしも裕の意見に同意」呉葉は俺に抱き付くと俺の顔を覗き込みニッコリと笑う。少しでも自分の意見に同意してくれる人が居るとこんなにも気が楽になるものか。

「枝さんはどうなんだ?」俺は難しい顔をして黙りこくっている枝さんの意見を求める。最年長者の意見というものは得てして周囲を説得するには非常に有効な手段と成り得るから。

「俺も皆川の意見に同意する。流石に、昨日の三国と菅沼が襲われたようにやられたらひとたまりも無いからな。ま、移動中にしろ、そうでないにしろ。少なくとも場所を決めてキャンプすれば割と襲撃してくる方角を誘導できるし、此処でもう一泊するのが良いかと思う」と長口上を述べた。

「何処でテント張るかに因るな」俺は櫻ノ海を見渡す。ふと思い付きを口に出す。

「櫻ノ杜の入口なんてどうよ?」昨日、三国達が襲われては居るが、今日襲われたのは閻魔堂のほうだ。で、あれば櫻ノ杜のほうは安全だと言う推測だ。

取り敢えず俺達は櫻ノ杜の方角に向かってゾロゾロと歩き出す。各々疲れ果てた表情が滑稽だ。人の事が言えないような表情をしているだろうけど、背に腹は代えられないからね。何とか櫻ノ杜に続く道まで辿り着くと若干茂みに入る形で荷物を下ろす。三国、継寛、枝さんの三人はテントを組み始める。

 

俺と高塚は手持ち無沙汰を解消する為に、偵察と銘打って櫻ノ杜に続く石段を上る事にした。実際問題、何処で道が途切れているのかも見たかったし、好奇心ってやつは押さえる事が出来ないもんだね。まったく。

 

地蔵が延々と並んでいるのは櫻澤邑に続く道と指して代わり映えしない。高塚とバカを言い合いながら息を切らせつつ石段を上がっていく。

桜の樹ではないが、結構な広葉樹の大木が回りを囲んでいて、俺達が上がってきた所はもう見えなくなってしまった。

電動ガンを持ってきたのと、高塚が自慢の暗器を忍ばせているので丸腰ほどの恐怖は無いが、いつ襲われるかなんて考えると、やはり怖い。先程の加藤にしても正気の沙汰では無さそうだったし、かといって錯乱しているようにも見えなかった。薬をしていての副作用だとは考え難い。何か目的のある、意思の篭った行動だったと思う。

「おい、何してんだよ?」思考に意識を取られたのか高塚から遅れ始めた俺に不機嫌そうな声を上げる。

「ああ、悪い悪い」そう言うと駆け足で高塚の真後ろまで追いつく。

「何を考えてた?」高塚が思わせぶりな科白を吐く。似合わないから止めておけって…と出かかった言葉を飲み込むと「いや、この状態で襲われたらどうなるかなぁ、なんてシミュレートしてた。」と笑い飛ばした。

「あのなぁ、お前がそんな物騒な事を言うと現実になるぞ?」ジト目で高みから俺を見下ろす。

「そうとも言うな」カラカラと二人して笑い声を上げる。

「しかし、大学生の連中、どんな理由が合ってあの部長を殺したんだろ?」高塚が今朝見つけた死体の事を話題に出した。

「仲間割れか?でも、昨日の夕方の時点で全員生きている事は三国達が見てるんだぜ?それから三国達と寸分違わない時間で櫻澤邑まで辿り着いて、そこで部長は死んでいる」俺は自分の言葉に思考を廻らせる。妙な違和感を感じる。何だろう?

 

 

櫻ノ杜まで三国達は行ったわけだけど、このルートを辿ったんだろう。17時くらいから上り始めたと言っていたはずだ。頂上についた時には日が暮れていたらしいから、相当の時間がかかったのだと推測できる。

しかし、裏ルートで俺と呉葉が櫻ノ杜まで登った時は1時間弱で上る事が出来たはずだ。あの分岐点までも1時間程度で辿り着ける。

と言う事は大学生の連中は三国と継寛が出発した後からでも充分に追いつける訳だ。そして襲撃されて逃げる際に一人を攻撃(?)している。

その際に相手が発した声は男の声だったことから藤堂か竹中のどちらかだったのではないかと推測する。無論、第三者の介入も考えられるが、加藤が俺と呉葉を襲った事実を考えるとそれは考えにくくなってくる。無論、よくあるパターンの加藤の恋人などの第三者介入の線も捨て難いが、大学生パーティー内でのいざこざと考えたほうが楽なような気がする。真相は知らんよ。当事者じゃないから。

なんて事を考えていると、朝嗅いだ深いな鉄の臭いが鼻腔を突いた。高塚は既に立ち止まっていて、再び遅れた俺が追いついてくるの待っている形だ。しかし、待っていると言う表現はニュアンスが異なるのかもしれない。固まっている、と表現したほうが正しいような気がする。

「どうした?こーちゃん?」俺は高塚に密着寸前のところで小声で尋ねる。

「おい、顔近い」若干押し退けて「この血の臭い。」と短く言った。

「ああ、わかってるさ。今度は誰が死んでるんだろうな」俺は脳裏に浮かんだ最悪のシチュエーションを思い浮かべて言った。

 

 

静寂の中を木々のざわめきが駆け抜けていく。そして、それが途切れると耳を突く静寂が世界を支配する。

 

此処は何処だっけ?

 

わんわんと鳴る静寂の中に思考は薄れていく。ここは-櫻ノ杜に続く階段。一瞬失いかける意識を立て直して、辺りを見る。

 

この胸糞悪い臭いは何処から来る?

 

遠いようで近い、そんな感じがする。俺は石段の淵に残った泥の後を発見し、高塚にそれを告げる。タイミングをずらして生唾を飲み込む音が聞こえる。

「じゃ、行くぜ?」俺は高塚に問い掛けると、意を決して石段から脇に反れた。腰くらいまで草が伸びており、よく見れば人の歩いた後がある。それを辿るようにして少し奥まったところまで行って俺は立ち止まった。何と言うか、怖気と吐き気が入り混じって交互に俺の中を駆け巡る。

 

 

そこに在ったのは、酷く精巧に作られた青褪めた肌をした人形だった。その人形は長く伸びた髪を枝垂れさせ大樹を背にして項垂れていた。枝垂れた髪は手入れが行き届いていて非常に滑らかな感触を思わせる光沢をしており、髪の間から覗く顔は整っており、ガラス球のような瞳で虚空を見つめていた。

遠目から見ても顔に外傷は無い事はわかった。

 

「おい、コレ…」高塚が動揺を隠せず震えた声で人形を指差した。

「人の死体だろ」俺は在りのままの事実を述べた。と言うか俺にはそれくらいしか口に出す余裕が無かった。

「一体誰がこんな事をするんだよ?」高塚が足元に気を払いながら死体に近付く。用心だけはしてくれよ。お前がやられたら、俺の盾がなくなるんだから。

「しらねーよ。奇人変人ジャンキーオタヒキの類じゃないのか?」俺も先行する高塚に続いて死体に近付いて行く、アンモニア臭が鼻を突く。

「窒息死かな?」昔、何かで読んだ気がするが、絞殺されると糞尿を垂れ流すらしい、あくまで本の知識で実際殺した事も無いのでわからないが。

「俺が知るか」高塚は顔を背ける。

「可愛い顔が台無しだな。こうなってしまったら、面影なんてもう無いね」遠めに見れば整っているように見えた顔も、近付けば非常に無残にその断末魔が表情として刻まれていた。口は半開きで死後硬直が進んでいて、その口元から涎の跡が2筋垂れていた。ガラス球のように見えた眼は開きすぎている為、眼孔は少し窪んだように見える。

こうやって見ると、生前はかなりの美人だったんだろうな。今のこの顔じゃ誰も近付かないな。哀れだな。

「首筋に絞めた跡があるな」俺はその人形の首の周りについた筋状の跡を見て言った。その部分だけ青紫色に肌の色が変色している。吐き気は不思議と催さない。オブジェとして目の前にあるヒトガタの物体を認識する事が出来れば非常に冷静に現状を分析できると言うものだ。

「何、探偵の真似事してるんだよ」高塚は肩を竦めて、呆れたような口調で俺の行為に対して言葉を投げた。

「現状を分析しただけなんだけど。昔、探偵のバイトしてたことあるしね。無論、こんな人が死ぬような状況に巻き込まれた事なんて無いんだけど」俺は溜め息混じりに高塚の言葉を投げ返した。

「どうでもいいさ。これで2人死んでいるのを確認したわけだけど。まだ死んでるんだろうかねぇ」高塚は何処からともなくペットボトルのお茶を取り出すと喉を鳴らして飲み干した。

「この状況でよく飲み物なんて飲めるな、お前」俺は呆れて高塚を見た。

「思考を切り離すんだよ。そうすれば何だって大丈夫だ」最初の死体のときは吐きそうになっていたくせに、今回はさらっととんでもない事を言いやがる。俺には無理だな思考の切り離しなんて芸当、高塚みたいな螺子が一本ぶっ飛んでいる奴だから出来る芸当だな。

「さて、取り敢えず」俺はポケットから携帯電話を取り出して開く。ま、当然の如く電波なんて届かないし、電話としての機能は使えない。電話の機能を使いたいわけではない、デジタルカメラ機能を起動させ、死体を様々な角度から画像データとして取り込む。液晶画面から見ると、本当に何処か遠くの世界の事に思えてくるから不思議だ。『死体』ってものがこんなにも『普通』だとは思わなかった。異常な事態に精神が麻痺しているのかもしれない。

「死体なんか写真に撮ってどうするんだ?」高塚が不思議そうに俺を見る。

「一応の証拠ってやつさ。警察にいちゃもんつけられた時のためにな」俺は6枚画像データを増やすと死体の側を離れた。

「ふむ、取り敢えず皆の所に戻るか?」高塚はそう言うと俺の後に続いた。

「そうだな、これ以上は進んでも意味が無さそうだしな」そう言って櫻ノ杜に続く石段の先を見た。妙に空気が濁っている感じがして背筋に寒気が走る。身震いをし、焦点が合ったとき俺は見たくは無いものを見てしまった。

 

「よぉ」そいつはゆったりと木陰から姿を現すと、俺達に、むしろ俺に鋭い視線を投げ掛けた。そいつが誰だか識別するまでに若干の時間を要したが、そいつが誰であるか理解すると俺は身構える。

「ん……、誰だ、アレ」高塚がすっと一歩前に出て、俺と肩を並べた。

「なんでお前が此処に居るんだ?」俺は高塚の質問をスルーすると、ガタガタと身体の心から来る震えにガチガチと歯を鳴らしてそいつを睨みつけた。

「ふん、相変わらずお前は、平静の時に比べると豹変するんだな?冷静なその顔の下に隠した激情ってか?・・・名前を聞いておこうか?」怒気を含んだ声を出すと、そいつは俺を見定めるように視線を上下させる。

「皆川、裕だ。名前なんて聞いてどうするんだ?また、砂利を噛みたいのなら今度は腹一杯砂を食わせてやるぜ?」吐き出すものを吐き出して、全身の震えが止まる。

もう一度、1人で目の前の奴を叩き伏せる自信は無いが、高塚も居るわけだし、なんとかなるだろう。そんな考えが浮かぶと、冷静に目の前に居る奴を観察する心の余裕ってやつが出来た。

身長は180cmオーバーだろうか?がっしりとした体格の男が腕組みをし、俺を睨みつけている。その眼は殺気を含んでおり、一対一では勝ち目の無いように思えた。この間は夜だったのでそういった諸々の先入観が無かった為、何とか勝てたのだと、認識できた。無地で濃紺のTシャツの下にある胸板は相当鍛えられたもので、俺とかなりの体格差が有る事は容易に想像できた。よく、こんな奴に勝てたものだと、冷や汗が背中を伝った。

「『今は』丁重にお断りするよ」ニヤリと笑うとそいつは踵を返した。

「まて。因みに、其処に転がってる女を殺ったのはお前か?」俺はそいつの背中に言葉を投げつけた。

「さてね?」歩き出そうとした足を一度止めて、振り返り答えた。

「皆川、一体、こいつは誰なんだよ」高塚がそいつを指差して俺に尋ねる。

俺は高塚の疑問に答えようと一瞬記憶を辿る。数秒、真剣に思い出そうとするが、それでもそいつの固有名詞を思い出せないので「ああ、そうそう。お前、何て名前だったっけ?」と真顔で尋ねた。ここ数日の間に色々と有り過ぎていて、すっかりとそいつの名前の事なんて忘れてしまっていた。

不機嫌そうに後頭部をわしわしと掻くと、そいつは「【榊 総司】だ。覚えておけ皆川、お前には借りが有るからな」声を張り上げ、榊は櫻ノ杜へ続く道の奥へとゆっくりとした足取りで消えて行った。

重苦しい時間がのったりと過ぎ、俺と高塚は蛇に睨まれた蛙の如くそいつが立ち去るまで、身動ぎ一つ出来ない時間を過ごした。榊の姿を見送った後、妙な脱力感に襲われる。何だって言うんだ…。

 

 

「貸りって何があったんだ?」高塚が尋ねる。

「色々さ」俺はそう言うとタバコを銜えた。なんて言うか、ここにきて榊まで出てくるとは全く持って予想の範疇を超えている。

「色々ってなぁ…」高塚は榊の消えて行った道を見て呟くように言った。俺は銜えたタバコに火を点けると、一気に吸い尽くした。味なんて感じなかった。ただ、緊張さえ解せれば良かったのだ。

「さて、こんな所にいると俺達が犯人にされかねない。皆の所に戻って状況を報告しようぜ」俺は高塚にそう言うと石段を一段降りた。不服そうな顔をして高塚は渋々と言った感じで俺に続いて歩き出す。

「まったく、ついてない。」高塚が呟く。高塚の言う通りだ。今晩が明けたら速攻で引き返そう。こんな胡散臭い事件に巻き込まれたくないし、自分の命が大切だ。無論、一緒に来ている友人の命もな。

「まぁな。ついてねぇ。それにしても、携帯の電波がねぇし。警察に連絡のしようが無いな。どうするよ?」俺はお手上げのポーズを取って高塚に尋ねる。

「つうか、今から帰るにしても登山道に戻るまでにも時間がかかり過ぎるしな。どうしたものかな」眉間に皺を寄せて高塚は考え込んだ。

高塚の言う事はもっともだ。この時間から登山道に戻るにしても獣道を登らなければいけない。女性3人を連れて、なおかつ襲撃される危険性も在る中ではほぼ無事に登り切るのは無理なように感じた。

思考がぐるぐると頭の中を廻る。沈黙の中2人の足音だけが耳につく。そして、そんな沈黙を高塚が破る。「で、それで、榊の言ってた『借り』って何なんだよ?」好奇心剥き出しで高塚が尋ねる。まぁ、無言の帰り道と言うのも手持ち無沙汰なので、公園での一件を語りながら石段を下る事にした。

 

しかし、榊も絡んでくるとなると呉葉を信用していいものかどうか疑わしくなってくるわけだが、あの一件以来呉葉が携帯電話を弄っているところを俺は見ていない。

無論、トイレや風呂に入っている間に榊と連絡を取っていた可能性は否めないが、俺達を狙うのであれば直接的に俺達を殺しに掛かれば良い訳だ。

【閻魔堂】に向った際に俺と呉葉が加藤とか言う女に襲われた。その時の呉葉の怯え方は本物だった。

だから、今回の一件に関して、呉葉が関係していると考えるのはどうも俺の中で納得がいかない。納得はしては居ないものの、『呉葉と榊の関連性』と言うキィワードが思考に妙なしこりとして残った。無論、コレは俺の心の中に留めておく、高塚を信用していないわけではないが、何かの拍子に伝播すれば協力できる部分も出来なくなってしまう。こう言うときはパニックになるのが一番怖いから。何て思考しているうちにいつの間にか麓に辿り着いていた。

 

 

「ゆたか~。何かあったの?」待って居ろと言っておいたのに呉葉が石段の麓から俺達に手を振っていた。俺は額に手を当てて、高塚を見た。高塚も苦笑しながら俺に何も喋るな、と言う目配せをした。

いつもの様に呉葉が俺に抱き付いてくる。違和感はない。此処で違和感があったら、速攻で叩き伏せるところだが。

「なんにもねぇ」俺は若干叫ぶように呉葉に向かって言うと高塚と並んで石段を下り始める。呉葉は詰まらなさそうに俺達を見上げていた。

「呉葉、他の連中はどうしてるんだ?」俺は呉葉を抱き寄せると尋ねた。

「皆でご飯作ってるよ。でも、今日の分でまともな材料は無くなっちゃったっぽいわ」若干暗い表情を見せ、呉葉が俺の問いに答えた。まぁ、明日下山するわけだから問題は無いだろう。・・・軽く考え過ぎていた、この時は自分の浅墓さに気付かなかった。

「まぁ、明日帰るわけだし、大丈夫だろ」高塚が軽く言う。その言葉に納得してしまった自分が居た。

「そうだな、取り敢えず皆の所に戻ろう」俺は2人に言うと石段を駆け下りた。高塚と呉葉も遅れずについて来た。宵闇が地を支配し、闇の帳が世界を暗黒の舞台に演出した。

 

「ねぇ、ゆたか。本当は何かあったでしょ?」帰りの道程で呉葉が再度尋ねてきた。高塚といい、呉葉といいどうして、こんなにも好奇心裕かな連中に囲まれてるんだろう、俺。

「何にもないよ」そう言うと俺は笑って見せた。

「うーん、目が笑ってないですよ。お兄さん」呉葉が俺の目を覗き込む。妙なところで鋭い女だな。って言うか、女ってこんなものか。俺は返答に困って高塚に目配せをした。高塚は軽く瞼を閉じ、それから頭を左右に振った。つまり話せってことらしい。

もう直ぐキャンプに辿り着く。つまり、此処だと他の連中に話が伝わってしまう可能性があり、余計な負担を掛けそうなので、後から話すという事で一時皆の所に戻った。夕食の味噌汁の匂いが食欲をそそる。皆は分けられた分だけ食べ、昼までお代わりをしていた継寛も食料が底を尽き掛けている今は適度に明日の分の食料を残していた。

 

 

飯を食い、多少気分が良くなったところで、呉葉の詰問に答えるべく、河岸を変える事にする。枝さんに『野暮用でちょっと』、告げると俺は呉葉を連れ立って櫻ノ海に入った。闇に包まれた深い森って言うのもなかなか趣があっていいものだな、何て事を考えてしまう。

桜の花が暗闇に浮かんで見える。陰鬱なイメージが強い。話を切り出したのは呉葉だった。

「ねぇ、ゆたか。さっき高塚さんと何を見たの?」深遠たる森の中、祭壇と呼ばれた杜の中、俺は呉葉と2人きりで居る。呉葉の口から発せられた言葉は酷く静かに俺の中に浸透していく。

「死体だよ。大学生の連中の女の子が1人死んでいた…」俺はなるべく冷静を装って呉葉の質問に答えた。

「えっと、【閻魔堂】に向かってる時に会った人?」呉葉が身体を一度震わせて尋ねた。そんな呉葉を可愛いなんて思いながら、俺は一度区切った言葉を繋ぐ。「いや、あの女じゃない。もう1人居ただろ?」と。

「えっと、加持さんだっけ。あの清楚な感じのする娘だよね?」呉葉は考え込むような素振りをして、『加持』と言う固有名詞を出した。そう言えばそんな名前だったかもしれない。今と成っては単なる人形だけどな。

「名前は忘れたけど、そんなイメージでいいと思う。事実、綺麗な死に様だったよ。糞尿さえ垂れ流しになってなければね」俺はあの惨めな人形を思い出して、小声で言った。

「そうなんだ…死んじゃったんだ」呉葉のシルエットが俯く。辺りは完全な闇である。星明りの所為か、呉葉のシルエットはかろうじて見て取る事ができた。俺に石段の帰り道に考えたように呉葉が裏で糸を引いているようには到底思えなかった。

俯き肩を震わせる呉葉のシルエットを見て『ふぅ』と短く溜め息を吐く。ポケットから押し潰されたタバコのソフトケースを引っ張り出す。妙な形に変形したタバコを一本引き摺り出し、火を点ける。腕にはめたGショックを振ってLEDを点灯させ、時間を確認する。早いものでもう19時を回っている。

改まって辺りを桜の樹が暗鬱なシルエットを作り出し、俺は妙に不安な気持ちに襲われる。若干風が強くなって来たのか、枝葉がざわざわと音を立てる。

榊の事を話すべきか悩むところだ。しかしながら、ここで呉葉が何らかのアクションを起こせばそれはそれでしめたものだ。高塚もそれを目論んでいるのかもしれない。そうでなければ無駄に状況を混乱させる事を『話せ』と目配せするわけが無いからな。そんなにも長い付き合いではないが、奴の行動に無駄はないから、何かあれば動くつもりだろう。それにしても、もし、何か一番最初にアクションを起こす時に出くわすのが俺って理不尽だな。タバコを吸い尽くすまで彼是と思考した上で、覚悟を決めた。

俺はゆっくりと、そして、悟られる事無く呉葉との間合いを確保する。一度気付かれないように深呼吸をすると「そしてね、ええと、加藤だっけ、その死んでた女子大生が遺棄されていた場所の近くで榊に遇った」榊と言う単語に身体をピクリと動かし、呉葉は身体を強張らせたのが分かった。

俺は話を続ける。「特に榊と争う事はなかっんだけど、女子大生の件に関して、あいつは否定も肯定もしなかった。多分、関与はしているんじゃないかと思うんだ」呉葉がよろよろと俺に近付く、そして俺に凭れ掛かった。一瞬刺されるんじゃないかなんて思ったが、今、目の前に居る呉葉はただ声を押し殺して泣いている様にしか見えなかった。

俺には呉葉の胸中は分からなかったが、素直に呉葉を抱きしめてやる事すら出来ずに立ち尽くしていた。

 

どれくらいの時間をそんな馬鹿げた格好で立ち尽くしていたんだろうか。お互いに何も切り出せず時間だけがジリジリと過ぎていく。

そんな状況を打破したのは枝さんの声だった。「おーい、皆川。」割と間抜けな呼びかけとともに枝さんが懐中電灯を片手に現れた。

呉葉はずっと俯いたままで、俺はそんな呉葉を目の端に捉えつつ枝さんのほうを見た。逆光で枝さんの後ろに千秋と真夜が連れ立っている事に気付いたのは3人が間近まで近寄ってからだった。3人も連れ立ってここに来るなんて何事だろうか?

「枝さん、何かあったのかい?」俺は呉葉から視線を逸らし、枝さん達3人の方に振り返る。

「いや、何にも無いわけだが…。お主達の戻りが遅いから、探しに来たわけだよ」安堵の笑みを湛えて枝さんは俺と呉葉を交互に見た。枝さんが『遅い』と言った事で俺はGショックで時間を確認する。20時と22分、確かに心配するに事足りる時間だ。俺は一度目を瞑ると、一呼吸置いてから「心配掛けて悪かったな。そろそろ戻ろうと思ってたところだ。」と言うと呉葉に向き直り、呉葉の右手を軽く握った。呉葉は力なく俺の手を握り返した。そんな呉葉の手を引いて枝さん達3人を先頭に俺はキャンプへと向かう。

「それにしてもこれだけ暗いと不気味さも増すもんねぇ」感心したように辺りを見渡しながら千秋が呟く。

「そうですよね。1人じゃ絶対こんな所来れませんね」真夜が相槌を打つ。

「桜の花とか、妙に浮き上がって気持ち悪いわね」情緒もへったくれも無い。目に入る現実をただ素直に解釈しているだけなんだろうけど。まぁ、高塚の彼女らしいと言えばそうだな、お似合いだろう。クールなカップルってのは2人で居る時どんな会話をしてるんだろうね。案外、熱烈なセックスでもしてるんじゃないだろうな。想像付かないけど。

俺は何度か呉葉を振り返り、暗がりで表情を確認する。しかしながら、闇は深く、輪郭が微妙に浮かび上がるだけで呉葉の表情を掴み取る事が出来ないでいた。多分、強張った表情をしていたのだろうけど、呉葉の態度は落ち着いているように思えた。

帰りの道中は鬱々としたものだった。千秋と真夜の漫才も長くは続かず、誰一人として口を開かない状況になる。5人分の足音が重苦しく付き纏い深遠の杜は静かに俺達を嘲笑うのだった。

 

 

俺達がキャンプに戻ると、三国と継寛が駆け寄ってきた。全く、何だって言うんだろうか。

「なんだよ、お前ら?」俺は2人を睨むように見た。

「なんでもないさ。思ったより、時間が掛かっていたみたいだから、お前達まで殺られたんじゃないかって…」三国が申し訳なさそうな表情で言う。

「こいつは殺したって死なねぇよ。」失礼な事を継寛はさらりと言う。全く、この野郎、俺を何だと思っているんだ。

「酷い事を言うねぇ?」俺は継寛に向かって左の拳を突き出す。継寛はスウェーバックで避けると、俺に向かってフックを繰り出した。それを右手で弾くと左足で脛の辺りに蹴りを入れる。半歩体軸をずらすと継寛はそのまま回転し後ろ蹴りを繰り出してきた。俺はギリギリで避けて、左手でその足をぽん、と叩いて言った。「鈍ってんな」継寛はニヤリと笑って「お前もな。」と右手の中指を立てて見せた。

「何じゃれてるんだ、お前等」高塚が半ば呆れたような表情をして俺等2人を交互に見た。

「いや…」俺は言葉に詰まり、継寛は肩を竦めて見せた。

「体力は温存して置けよ~」枝さんがそう言うと焚き火の近くに腰をおろした。何処から掻き集めて来たのか、薪がパチパチといい音を立てて燃えている。料理を作っていた時は持ち合って来た備長炭だったわけで、俺と呉葉が場を離れている間に総出で集めたのかもしれない。

「今夜は長くなりそうだな」三国がボソッと言うと空を見上げた。星が近かった。久し振りに透き通った気持ちの自分の居る事に気付いた。

皆で話し合った結果、交代で『寝ずの番』をする事にした。何か在った時に対処し得るバランスを取る為に、俺と呉葉、継寛の3人、が21時~24時。高塚に千秋そして俺の3人が24時~3時。枝さんと真夜、継寛と三国の4人で3時~夜明けまでと言う構成となった。

 

 

「それにしてもでかい事になっちまったな」俺は継寛に話し掛けた。継寛はストレッチをしながら「そうだな」と短く答えた。

「ねぇねぇ、ゆたか。コーヒー飲む?」呉葉がインスタントコーヒーの入ったマグカップを2つ持ってきた。

「サンクス」継寛がマグカップを受け取る。呉葉が自分のコーヒーを啜る。

「俺のはまだ用意して無かったってことか…。ブラックで濃いの頼むわ」俺は呉葉のマグカップを受け取り、啜る。砂糖とミルクたっぷりのそれはもはやコーヒーと言う飲み物ではなかった。

「はいはい、手間のかかる人ね」呉葉は面倒そうな顔をしてテントへマグカップとコーヒーを取りに行った。

「襲撃とか来ないかねぇ?」物騒な事を言い、継寛はマグカップを地面に置くとシャドウボクシングを始めた。

「来られても困るわけで。どう対処するんだよ」俺は継寛を目の端で見た。

「大学生の連中が2人死んでるわけだから、仲間割れだとしても残り2人じゃん。2人なら俺達で楽に行けるだろ?」その根拠は何なんだ?相手は武器を持っているし、昼間の事を考えると連中は此方の攻撃が効かない。何故効かないのか俺にはさっぱりとわからないのだが。事実、若干の嫌悪を感じるようでは在ったが痛みとして認識しているようには思えなかった。

「何事も無いに越した事は無いさ」俺はタバコを加えて空を仰いだ。満天の空何処までもノイズのように星が広がっていて、俺は空に落ちていくような感覚にとらわれた。

「ほい、お待ち」呉葉がマグカップをくれた。並々と注がれたそれは琥珀色を通り越して真っ黒に濁って見えた。

一口、口をつけると、苦味に眠気が一気に引いていく。脳味噌が覚醒していく―わけは無い。カフェインなんてとうの昔に効かなくなっている。利尿効果しか作用しないはずの液体は俺の胃袋を刺激し、空腹感を高めた。普通はコーヒーを飲んで腹が減るなんて事は無いだろうけど、俺は減るのだ。

「腹減ったな…」俺はタバコを引き摺りだして咥えた。妙に草臥れたタバコに俺は鞭打って火を点ける。ゆっくりと紫煙が沸き立ち空に消えていく。

「もう、腹が減ったのかよ」呆れ顔で継寛が俺のタバコを奪い取り焚き火に放り投げた。

「あ、なにすんだよ、お前」俺は継寛を睨む。「身体に悪いぜ?吸い過ぎだ」継寛は悪ぶれた振りもせず笑った。

「ぁー、全く…。タバコで空腹を紛らわせようとしてるのに、何するんだよ」俺はもう一本タバコを引き摺り出す。

「まてまて、何か作ってやるから」継寛はニヤリと笑ってテントに入り、自分のリュックサックを持って這い出してきた。

「なんだよ、食材を隠し持ってたのかよ」俺はジト目で継寛を見ると継寛は「いやいや、現地調達さ。リョータとこっちに来る途中にキノコを摘んできたのさ」とリュックサックから透明なビニル袋に詰まったキノコを引っ張り出した。

「キノコかよ…俺はパス」俺は右手をヒラヒラと振って拒絶の意志を伝えた。どうも、昔からキノコと言うとその毒性を先にイメージしてしまう為、食べると言う行為は非常に勇気の居る事なのだ。椎茸ですら俺は食べるのを躊躇する。ナメコやシメジなんて見ただけで怖気が差す。

「まぁ、良いや。他の連中が夜食で食べるだろうから調理しておくさ」継寛はそう言うと若干の調味料を用意し、炒めたり、焼いたり、スライスしたりして見るだけで俺を恐怖に陥れるその食材を見事にキノコサラダに仕立て上げてしまった。流石は料理人の卵だな、まったく。

「美味しいね」呉葉が3つに分けられた大皿のうちの1つを手に取り盛り付けられたキノコを頬張っていた。

「皆川、食えないのはミニトマトだけだったんじゃないのか?」継寛がクックックと笑う。

「キノコは食材じゃない。俺の中では!」なんだか馬鹿らしくなってきたので、俺は咥えたままのタバコに火を点け目を閉じた。いつもより濃い目のタバコの味が俺の全身に染み入っていくような感覚にブルッと身を震わせた。しばらくそうやって俺はタバコの味を深く味わっていた。

 

「そろそろ、交代の時間じゃないか?」俺はゲーム機械と化した携帯電話で時間を確認すると2人に告げた。

「ん…そうだな」継寛が腕にはめたスウォッチで確認し、小さく頷いた。呉葉は俺の隣で寝息を立てていた。

「ふう、継寛、高塚達を起こして来てくれ。それと、濃い目のコーヒーを一杯頼むわ」俺は呉葉の頬を抓ったり引っ張ったりしながら継寛に言った。呉葉は、俺に頬を抓まれるたびに「うにゃむにゃ。」とか、言葉にならない言葉を吐き出し、夢の世界を旅し続けた。まったく、暢気なものだよ、このお姫様は。俺は軽く空を仰いで、立ち上がる。呉葉は俺が寄りかかっていた大きな樹に預けた。ミシミシと全身の腱が鳴き、俺は身体を左右に振って解した。

「あと、3時間か」俺は小さく呟いた。

 

 

深い海の底から水面を望むように、鏡面の境界を俺は臨んだ。しょぼくれた顔を貼り付けした俺が居た。それは波紋によって崩れ去って、ワンワンと耳鳴りが世界を支配していった。

 

「おい、起きろ」無粋な声で俺は目を覚ます。暗がりに輪郭が浮かぶ。見慣れない輪郭だ。誰だっけ?俺は軽く頭を左右に振る。

「お、起きたか。皆川が起こして来いって言うからさ」そいつは感情を捉え難い表情をして俺に俺を起こすに至った理由を説明した。

「ああ、サンキュ」俺はシュラフから這い出すと、首をコキコキと鳴らして見せた。

「そうそう、これ、皆川に渡してやってくれ」そう言って見るからに濃いだろうコーヒーが並々と注がれたマグカップを手渡された。

「ういよ、んじゃ3時間の夢路を愉しんでくれ」俺はそう告げるとテントの入口を閉じた。

真夜中の森の匂いって言うのも中々、オツなものだ。普段嗅ぎ慣れないすんだ空気を2、3回深呼吸で思う存分肺に送り込むと眠気も何処へ消えてしまった。パチパチといい音を立てている焚き火の側に皆川の姿を確認すると、先程手渡されたマグカップを皆川に渡した。

「お、おはよう。眠れたか?」皆川が屈託の無い笑顔で俺に問い掛ける。

「それなりに」俺はそう告げると皆川の傍らに眠っている呉葉の姿を見つけた。「此処で寝かすの?」と短く聞いた。

「いや、どうしようかと悩んでいるところ」皆川は少し困ったような表情を浮かべて、呉葉に視線を落とした。

「起こせば?」俺はそう言ってから大きな欠伸をした。

「起きないんだ」皆川は静かに言った。

「そうか、じゃ、そのうち目を覚ますだろ」そう言うと俺は皆川の隣に腰を下ろした。

「千秋ちゃん、起こさなくて良いの?」俺は高塚に尋ねる。

「枝さんの妹も一緒に寝てるだろ。どうしろと?」俺は皆川を睨んだ。

「大丈夫だろ、起こしてこいよ。延々3時間お前の顔を見続けてるって言うのも気分が悪い」失礼な事を言う奴だ。

「はぁ、しゃぁ無いな」俺は腹を括って千秋を起こしに今這い出してきたテントの隣に向かった。俺達が寝ていたブルーのテントの隣に一回り小さなモスグリーンのテントが張られている。俺は一瞬躊躇ってからテントの入口のファスナーを下ろした。そこに在ったのはあられもない格好をした2人・・・ではなく、きっちりとシュラフに身を埋めた2人だった。俺は入口近くに眠っていた千秋に屈み込むと、肩を揺すってみた。思いも因らぬ事に、3,4回揺すると千秋は目を覚まし、起き上がった。

「おはよ」眠たそうに目を擦ると千秋は枕元に置いた眼鏡を手に取り、シュラフから這い出した。いつものように裸同然の格好ではなく、珍しく、ジーンズとトレーナーで武装していた。確かにこれだけ山深い場所であれば冷えるからな、流石の千秋でもそれなりの服装で眠っていたのだろう。

俺はテントから出ると、皆川の所に戻った。相変わらず呉葉が眠っており、その長い髪を梳くようにして皆川が頭を撫でていた。

「早かったな」呉葉から視線を外さずに皆川が俺に言った。

「ん、思ったより梃子摺らなかった」俺は焚き火に視線を落としていった。焔の揺らめきを見ていると何処か遠くに連れて行かれるかのような錯覚にとらわれた。何故、人はこうやって思考を解放すると、自我を霧散してしまうような感覚にとらわれるのだろうか?古の哲学者達はこうやって自らの存在を何者かに問うたのだろうか?くだらない思考がグルグルと頭の中を駆け巡る。それは走馬燈のように揺らめきながら、同じ場所を永遠に回り続けるのだ。

「おまたせ」凛とした声に我に返る。声の主は確認するまでもなく千秋だ。

「おはよう」皆川が社交辞令の笑顔を貼り付けて千秋を見ていた。

「おはよう。寒いねぇ」千秋は上下が対になった黒色のトレーナー姿で寒そうに立っており、両手で身体を包み込むようにして一度大きく身震いをした。

「まぁ、夜中だからな。こんなもんだろ」俺はそう言うと自分の羽織っていたジャケットを脱いで千秋に渡した。

「そうそう、さっき継寛が作ったんだけど、腹減ったなら食え」皆川は傍らに置かれた皿を俺に差し出した。

「何だこれ?」俺はそう言って手渡された皿を覗き込むとそこにはキノコサラダの盛り付けられていた。

「サンキュ」俺はそう言うと、ラップを剥がして、キノコを1つ摘んで口に放り込んだ。可も無く不可も無い味だった。

「お前は要らないのか?」俺は皆川に尋ねた。「キノコは喰わない事にしているんだ」皆川は若干の不機嫌を言葉に乗せて言った。

「そか。千秋、喰おうぜ?」俺は千秋にキノコの盛り付けられた皿を差し出したが「ん、おなか減ってないからあたしは良いよ」と断られた。仕方無しに俺はキノコを腹八分目くらいまで自分の中に放り込む羽目になった。

 

「それにしても、死んでた人達って、なんでこんな所で死んだんだろうね?」千秋がミルクたっぷりのホットコーヒーを啜りながらそう言ったのは俺がキノコなんてもう当分見たくないと思ったと同時だった。

「さてね?人生に疲れたとか、恋人に振られたとか、借金取りに追われてるとか、そう言う類では無さそうだな」皆川が短くなったタバコを焚き火の中に吐き棄てると同時にそう言った。

「確かに、こんな所を自らの最後の場所にするには聊か森が深過ぎるな」俺はそう言うと熱いだけで美味しくも無いコーヒーに口を付けた。

「それに―、例の大学生のお兄ちゃんの死体は明らかに害意を持って破損させられていた。殺された時にされたか、死んだ後でやられたか、俺はプロじゃないからわからないが。腹を裂かれて死ぬって事は中々思い付きで出来る事じゃない」皆川はシリアスな顔でそんな事を言う。

「何が言いたいんだよ、お前」俺は皆川が何かとんでもない事を言い出しそうな予感がして、その不安を拭おうと尋ねる。

「簡単な事じゃないか、大学生の連中に対して何らかの意思を持った奴がいて、そいつがあの兄ちゃんと…あ」皆川はそう言って言い澱む。この莫迦、千秋が居る事を忘れていたんだろう、余計な一言を言いやがって。

「え…?『と』って?」案の定、千秋が皆川の発言に鋭く疑問を抱いたようだ。間髪を入れず、「え、俺、何か言ったっけ?」皆川は柔和な笑みを浮かべながら千秋を見て言った。然しながら千秋にそんなポーカーフェイスは通用せず「こーくん、言ったよね?」と俺に同意を求めた。俺は友情と愛情の鬩ぎ合いの中で愛情を取る事を即決した。「言ったな」俺は皆川から視線を逸らし、パチパチと音を立てながら燃え続ける焚き火を見ながら言った。一瞬、皆川の鋭い視線を感じたが、無視する事にした。

「言ったか?」そう言って、皆川は肩を竦める。しばらく沈黙が俺達の間に漂い、皆川は観念したように「仕方ないな」と話す意志を固めたようだ。深い溜め息を吐き「何処から話せば良いんだよ?」と疑問符を投げつけてきた。

「えーと…、『と』の続きからで良いよ?」千秋が自分の膝に頬杖を突き、子悪魔っぽく笑って見せた。皆川は本当に気だるそうに溜め息を吐くと夕方の出来事を話し始めた。

 

皆川の声のトーンは嫌がらせのように、落ち着いていて、自信に満ち溢れている。聞いていて妙に安心してしまう声なのだ。

そんな声を10分程度聞いていると、意識が飛びかける。体力と精神を限界まで切り詰めた時、睡眠へ至る道程は単純だ。ただ、シャットダウンされるだけなのだから…、現実と言う名の泡沫が。

俺はうつらうつらとこの世の揺り籠に身を委ねながら、そんなくだらない事を考えていた。焚き火の放つ遠赤外線効果が心地良い。

皆川と千秋が何か話しているのが遠くに聞える。何を話しているんだ?妙な胸騒ぎがする。皆川に限って友人の女に手を出すなんて事は無いだろうが。

枝さんを呼んで来ないと…そんな強迫観念に襲われながらも、俺の意識が無常にも飛ぶ。

 

時間軸が細切れになる。

 

断絶した世界が展開される。

 

コマ落ちした世界が続く。

 

千秋の姿が無い。

 

何処へ行った?

 

意識を保つ為に俺は太腿を殴打した。「痛っ…」俺は痛みで覚醒する。然しながら、思考はまだ半分くらいダウンしている。それでも、何とか立ち上がり、頭を左右に振ることによって俺はそれなりの覚醒状態になる。

足元に転がった飲みかけのペットボトルを手に取ると温くなった中身を寝惚けた体内に流し込んだ。

空になったペットボトルを地面に置くと、コンっと乾いた音がした。皆川がその音に気付き、ゆっくりとこっちを向く。俺のほうを向いたのかと思ったが、高塚の視線は俺の後ろに向けられている事に気付き、俺はとっさに身を翻した。

「ち、気付きやがったか」枝さんがにこやかに笑ってそこに立っていた。

「驚かすなよ、お前等」俺は枝さんと皆川に文句を言った。

「こんな時くらいしかお前を陥れられないだろ」枝さんがからからと笑い、俺にお茶の入ったペットボトルを投げて寄越した。

「ん、今、飲み干したところなんだが…」俺はうんざりとしてタプンタプンと透明な檻の中で踊るその液体を眺めた。

「茶なら俺が飲むぞ」皆川がヒラヒラと手を振った。俺はそんな皆川に向かって500mlのペットボトルを弧を描くようにして投げた。皆川はキャッチしそこない鈍い音が聞えた。皆川はペットボトルを拾い、栓を開けると喉を鳴らしてお茶を身体に流し込んだ。

「んじゃ、代わりにこれをやろう」一息ついた皆川がブラックの缶コーヒーを投げて寄越した。

「サンキュ」俺はコーヒーを受け取ると、プルタブを引いた。水っぽいコーヒーだったが、無いよりはマシだった。

「もう、交代の時間か?」俺はコーヒーに口を付けながら、そう言うと枝さんを見た。

「うむ、さっき千秋ちゃんが起こしに来たからね。三国と菅沼もそろそろ来るよ」そう言うと枝さんは皆川の隣に腰を下ろした。

「さて、そろそろ俺も寝るかな」皆川が大きな欠伸をすると、立ち上がった。その意見に関しては俺も同意だ。皆川は呉葉を抱き上げると、枝さんにおやすみと言って、テントへと向かった。俺ものったりと立ち上がり、テントへと向う。途中で三国と菅沼と擦れ違った。2人ともやけに眠そうだった。まぁ、当たり前と言えば当たり前なのだが。

そこから先は覚えていない。極色彩が視界を多いつくし、俺は妙な世界へと堕ちて行った。聞き覚えの在る声がわんわんと鳴ったり、妙な衝撃を受けたりしたが、それはそれで俺を愉快にしてくれた。

 

 

自分に遅れる事5分ほど。三国と菅沼が連れ立って現れた。三国は相変わらずにこやかな顔をして、菅沼は少し仏頂面で現れた。

「おふたりさんおはよう」僕は軽く右手を上げて挨拶を交わす。

「おはようございます」よく出来た手本のような笑顔で三国が僕に会釈をする。僕は皆川の昔からの友人にしては良く出来ているなと、感心してしまった。一方、菅沼は「おはよう」と仏頂面のまま言って、焚き火を前にしゃがみ込んだ。これが、菅沼の個性なんだろうなと、1人で納得して僕は2人に缶コーヒーをアンダースローで投げて渡した。

「サンキュ」と菅沼。

「ありがとうございます」と三国。

しばらく3人で皆川の悪口とか、今回の登山の事とか色々と話して、ハタと気付いた。

「ありゃ、真夜が起きてきていない」僕は2人に申し訳なくなって立ち上がるとテントに向かった。…そもそも、向かうとか向かわないとか言う距離でもないわけだけど。

ファスナーを上げ、テントの中に顔を突っ込んで様子を窺う。真夜が気持ち良さそうにすぅすぅと寝息を立てていた。妙な違和感を憶えながらも僕は真夜を起こし、三国と菅沼の所に戻った。

「空気が美味いなぁ」三国が深呼吸をしてそう言った。

「確かに美味いな」菅沼が相槌を打つ。

「ふぅ、このまま何事も無く過ぎてくれよ…」僕は祈るようにして空を見上げた。星星が頼りなく瞬いていた。

「ふぁぁぁぁぁ、おはよーございます」大欠伸をかましながら、ボサボサになった髪で真夜が現れた。

「…おはよう」一瞬、言葉が遅れたが三国は何事も無かったかのように挨拶を返した。ある意味、達観しているのか、他人に興味が無いのか。

「おなか減ったー。お兄ちゃん、何か食べるもの無いの?」眠そうに目を擦りながら真夜は僕に尋ねた。

「…ん」菅沼がラップをかけた皿を差し出した。

「ほえ?」僕はそれを受け取るとラップを剥がした。

「わー、美味しそう」真夜がスライスされたキノコを口にした。しばらく無言で口をもごもごしていたが、「美味しい~」と皿に盛り付けられたキノコをバクバクと平らげ始めた。

「ほう、じゃワシも」僕はそう言うと真夜の横から皿に手を伸ばした。キノコ自身の味は兎も角、菅沼が作ったソースは美味しかった。

「こりゃ美味しい。なんて言うキノコなんだ?」僕は2人を見た。

「ん?さぁ?」菅沼がサラリと言う。

「まぁ、日本には数千種のキノコがあって、そのうち毒キノコは50種類くらいだっていうから、大丈夫だよ」三国がカラカラと笑って見せた。

「ふむ、確かにその中で毒キノコに当たったらすごい確立だな」僕はそう言ってもう一皿用意されたキノコの盛り合わせに手を伸ばした。一瞬、妙な感覚にとらわれたが、寝起きだったし、大した事は無いと気に留めなかった。

「キノコ自身はそんなに美味くないけど、ホント、ソースが美味しいよな」三国がそう言うとキノコを頬張る。

「まぁ、調理方法とかも在るだろうからな」不機嫌そうに菅沼が言った。

「美味しいじゃないですか。すごいですよ」満面の笑顔で真夜が菅沼を誉めるが、菅沼は余面白そうな顔をしない。食材とソースのハーモニーがキチンと出来ていない事に不満なようだ。流石はプロの卵といったところか。僕は1人で感心しながらほんのりとした気持ちで皆の遣り取りを眺めていた。

 

『ぐにゃり』と、世界が傾いだのは暫くしての事だった。真夜の笑い声がやけに耳につく。極色彩が飛び交う世界に僕は居た。菅沼が無機質になっている。三国が笑っている。僕も笑わないと。

「よう、景気はどうだい?」赤色が語りかけてきた。

「上がり傾向」僕は答えた。

「そいつはいいや」赤色は笑った。

「ホント、いいね」僕も笑った。笑い声は1つになり空に巻き上がっていく。星星に僕らの景気の話が聞かれない用に僕は耳を塞いだ。

「楽しそうね」黒いのが言った。

「楽しくはないさ」僕は答えた。

「そう?じゃぁ、愉しませてあげる」黒いのはそう言った。

「是非」僕がそう言ったか、僕は覚えていない。視界が暗転した。

 

 

 

 

夜中の冷え込みで浅いまどろみのような世界を漂っていた。

 

妙な笑い声が聞えたような気がして耳を澄ましてみる。

 

しん、と一瞬静まり、それから大きな笑い声が束になって聞えた。

 

なんだろう?

 

俺はもぞもぞとシュラフから這い出し、隣で眠っていた高塚と呉葉を起こさないようにしてテントから出た。

少し離れた所に焚き火が放つ赤色が揺ら揺らと揺らめいており、そこから笑い声は聞えてきた。何を騒いでいるのかと、俺は寝惚けた頭を揺さ振ってから歩き出した。近付くにつれ、笑い声に混じって鈍い音が聞えた。

「あーあ、こんなところで起きて来ないでよ」舐めるような視線を俺に向け、加藤が手に持った特殊警棒に似せた獲物を継寛に振り下ろした。継寛は何の抵抗もなく、それを身に受けていた。

「ちょっとまて」俺は加藤に蹴りをかます。加藤は相変わらず、避ける事もせず俺の蹴りを太腿で受止めた。

「なぁに?あんた、相手にして欲しいの?」にやりと笑って加藤が俺に向き直る。この間のように鉈じゃない分、何とか立ち回れそうだ。

ちらり、と俺は横目で継寛を見る。継寛は情けなく薄ら笑いを浮かべ、焦点の合っていない目で虚空を見ていた。

「何だ…?」俺は思考する。

「誘っておいて何よそ見してるのよっ」ブンっと空を斬り警棒もどきが俺の髪を掠める。どう対処すればいいんだよ…こんな奴。俺は仕方無しにもう一度蹴りを入れる。それを腹で受止め、加藤はよろめく。

「ち、効かないか…」俺は周りを見る。ぶつぶつと何か言いながら樹と向き合っている三国、地面に突っ伏している枝さん。そして、何かに誘われるようにして真夜が茂みに姿を消した。真夜を追おうとしたが、加藤が邪魔で行くに行けない。夜明けまでもう少しだろうに、何だってんだ…。心の中で舌打ちをすると俺は加藤に向き直った。

「仕方ないな、相手、してやるよ」俺はそう言うと加藤の持っている獲物を狙って蹴りを入れた。ゴっと厭な感触が靴底を通して足の裏に伝わる。若干のタイミングがずれて、カラン、とジュラルミン製であろう、それが地面に落下した音が聞えた。

「うわ、酷いな」加藤がヘラヘラと笑って焦点の合わない目で睨む。俺は無言で加藤に近付く。加藤は抵抗する素振りも見せなかった。俺は鳩尾に思い切りボディブローを決めた。「ぐぅ」と人間らしからぬ呻き声を上げて加藤は地面に突っ伏した。俺は自分のベルトをズボンから引き剥がすと加藤の手首を縛り上げた。足の自由も奪っておかないと事だな…。俺は枝さんのベルトを拝借すると、加藤の足首にも巻き付けた。それから、なるべくラリった継寛と三国が影響を及ぼさないように茂みに転がした。

「さて、と。どうしたものかね?」俺は目の前に広がる惨状に頭を抱えた。まったく、まともな人間が一人も居やしない。俺だけか…。そこではっとなって気付く。「あ、真夜ちゃん」俺は真夜が姿を消した茂みに走った。しかし、どれだけ探しても真夜の足取りは掴めなかった。どうしたものかとしばらく途方に暮れ、高塚と呉葉を起こすことにした。

 

 

吸い尽くした観のあるタバコのソフトケースから本当に草臥れて疲れきった中年のような最後の一本のタバコを引き摺り出すと火を点ける。夜明け前の空にか細い幾何学模様を描き、タバコの煙はサヨナラを告げるでもなく、その姿を消した。

「まったく」俺は今まで眠り扱けていたテントに戻ると、俺は俺が出たときのままになったテントの入り口を潜り抜けた。呉葉が心地良さそうに転がっていて、高塚も同じようにして転がっている。俺は吝かながら高塚の肩に手を掛け揺さ振った。

「ん…、なんだよ…、もう朝かよ?」気だるそうに高塚が目を開ける。

「非常事態って奴だよ。起きれるか?」俺はタバコの灰を落とさないようにして、一息に吸った。

「非常事態?何言ってんだ?」不機嫌さに拍車を掛けて高塚は俺を見た。

「冗談でも何でもない。拙いんだ。起きてくれ」俺の声に真剣さを見出したのか、高塚はのったりと起き上がり胡座をかいた。本当に面倒臭そうにして、俺を睨んだ。

「お前がそこまで慌てるって、なんだよ。連中が襲ってきたのかよ?」高塚は額に手を当てながら冗談交じりに話した。

「ご名答!」俺はタバコをテントの外に投げ捨てると高塚に向き直った。

「ほう、…ってか他の連中は?全員やられたとか?」高塚は音もなくすっと立ち上がった。

「いや、やられたのは菅沼だ」高塚に続いて立ち上がった。

「ふむ。他の連中はどうしてるんだ?」高塚は屈むとテントの外に出た。俺も無言で高塚に続く。肺を突くような冷たい空気に身を震わせて俺達は暖のある焚き火の元へと急ぎ足で歩いた。

「見ればわかるさ」そんな俺の態度を訝しげに一瞥すると高塚は小走りで俺の視界から消えた。そんな高塚の背中から視線を外すと「まったく、どうしろと言うんだよ」俺はタバコの煙か、それとも単に息が白いのか。わからないけど、目視できるその気体が消えていくのを見ていた。

 

「皆川、これはどうなってるんだよ?」高塚がそれはもう呆れました、と言う表情で俺を振り返った。

「俺が聞きたい」俺はそう言うと焚き火の前でしゃがみ込んだ。

「つうか、これ何したんだ?」高塚は地面に突っ伏してぐんにゃりしている枝さんの腕を取り、ぶらぶらと振り回しながら尋ねた。

「なんだろうな?」俺は何気なしに、足元に転がった平皿とスライスされたキノコを見た。まさか、な?「なぁ、こーちゃん。キノコに詳しい?」俺はスライスキノコの一片を摘み上げると目の前でぶらぶらさせた。

「んー、さっき喰ったやつだろ?」面倒そうに高塚が俺の持っていたキノコを奪い取った。一瞬、表情が険しくなる。

「なんだよ、こんな時に冗談は通じないぞ」俺はごそごそとタバコを求めて上着を漁った。内ポケットからサラのタバコを引っ張り出すと封を開けた。その間にも沈黙は続いており、高塚はキノコの断片からそれがなんと言うキノコであるのかを割り出そうと頑張っていた。

「んで、わかったのか?」タバコに火を点けて暫くしてから尋ねた。

「まーな。テングダケだぞ、これ」高塚はキノコの断片を火の中にくべた。

「それって毒キノコだろ?」俺は皿を蹴った。

「最近じゃ、マジックマッシュルームって呼び名も定着してるけどな」高塚は枝さん、三国、継寛を一通り見渡して「これの所為で間違い無さそうだな」と俺の蹴った皿から零れたキノコを踏みにじった。

「つうか、死なないのか?」俺はドン引きになりながら高塚に尋ねた。

マジックマッシュルームだからな。大量摂取しない限りはそうそう死に至らんよ。症状は…まぁ、今みたいな幻覚が見えるのと、吐き気と下痢くらいだったと思う」言い切った高塚を見上げて俺は此処に来て何回目になるだろうか、溜め息とタバコの煙がハイブリッドされたものを吐き出した。

「どれくらいで正気になるんだ、こいつら」俺はさっきの高塚のように一通り見渡した。三国は変わらず樹木となにやら難しい会話をしているし、枝さんは地面と熱烈恋愛中だ。継寛だけがなんとか正気を取り戻せそうな位置に居るようだった。

「しらねぇよ喰った量によりけりだろ」高塚は枝さんと三国は無理だろうな、と俺と同じ見解を示すと、継寛を揺さ振った。と三国は無理だろうな、と俺と同じ見解を示すと、継寛を揺さ振った。

「う……あ……」呻き声を上げると継寛は仰向けになった。

「こいつもダメっぽいな」高塚が半ば諦めの表情をして俺に振り返った。

「どう見てもダメっぽいね」俺もその意見には賛同したので高塚の言葉に無為に頷いて見せた。

「うー、気持ち悪い」突然、枝さんが起き上がるとよろよろと木陰に向かって歩き出した。

「起きたぞ?」

「起きたな?」俺と高塚は顔を見合わせた。

しばらくうんうん唸っていたかと思うと一瞬の静寂が訪れ、刹那、吐瀉音がそれはもう盛大に鳴り渡った。

「おいおい…」俺は枝さんの背中に視線を向ける。高塚も同じように枝さんの背中をただ、見ていた。

「あー、スッキリした」枝さんは口の端に吐瀉物をちょっぴりつけて、満面の笑みを俺達に向けた。

「そうかい」高塚はかなり引いた顔をして聞き流すように答えた。

「まぁ、それで…。枝さん、大丈夫なのか?」俺は平然と笑っている枝さんに驚異を憶えながら尋ねた。

「大丈夫って?ああ、多分、食べ過ぎたんだな」そう言うと先ほど倒れていた場所まで戻り、ペットボトルの蓋を開けると、吐いた分だけ飲むような勢いで喉を鳴らしながらお茶を飲み乾した。

「つーか、枝さん。お前が美味そうに食ってたのテングダケだぞ」高塚が薄ら笑いを浮べ続ける継寛と樹に優しい言葉を囁きかけている三国を指差して言った。

「ほえ?マジか…」軽く項垂れると、枝さんは急に顔を上げた。そんな行動に一瞬、身を引いた。「そう言えば真夜は?」と枝さんは辺りを見回すような仕草をした。

「あ」その言葉で俺は真夜が茂みに消えたのを思い出した。

「何?」高塚と枝さんが同時に俺を見る。

「そうそう、ふらふらとそこの道を歩いていったんだよ」と俺は枝さんの真後ろに続く道を指差した。

「ほう」高塚が相槌を打つ。

「んで…。あ」俺は放置しっぱなしだった加藤の事を思い出す。茂みから両腕と両足を縛り上げた加藤を引き摺り出した。「こいつに邪魔されて追いかけられなかったんだよ」と加藤の茶髪をはたいた。

「ってか、キノコの話に逸れててすっかり忘れてた。こいつに継寛がやられてるところに出くわして、そして、真夜ちゃんがその茂みの道に歩いていってさ。それを追いかけようとしたんだけど…あー、時間軸が安定しな」俺は自分の説明しようとしている事と口を吐いて出る言葉の相違が非常にもどかしかった。

「落ち着けって」高塚が足元に転がっていた缶コーヒーを投げて寄越した。

「ってか、真夜はどうなってんだよ?」枝さんが俺を急き立てる。

「ちょっと、待てって」高塚が枝さんを宥める。そして俺に向き直り「ゆっくりでいいから正確に説明しれ」と言った。

「ああ…、そうだな」俺は俺が目を覚ました経緯、加藤と対峙した事、真夜を追いかけれなかった理由を混乱した頭の中で何とかフローチャート状にして説明した。俺の言葉が途切れると「そんなもの、お前じゃなくても追いかけれるわけがないじゃんよ」と微妙なフォローを高塚がした。

「真夜を探さないと」枝さんがおたおたと立ち上がる。

「この現状でまだバラバラになるってのか?危険過ぎるだろ」高塚が声を荒げた。

「つか、どうするよ?」先ほどの説明で混乱から立ち直った頭をフル回転させて俺は現状の把握と、これからの考察を行った。

「まぁ、千秋と神崎を集めよう。真夜ちゃんを探すのはそれからだ」妙に落ち着いて普段「面倒だ」とか言って、あまり進んでしようとしないリーダーシップを取る高塚に妙な違和感を感じつつ、その指示に従った。

 

枝さんと2人で千秋と呉葉を起こしに向かう。昼間でさえ不気味さを持った道が深淵の帳に覆われ、静寂に包まれ、名状し難い恐怖を俺の心に植え付けた。

「呉葉」俺はテントの中で眠りこけている呉葉の身体を揺さ振った。

「う…ん?」呉葉はうっすらと瞼を開け、再び閉じた。

「呉葉、起きろって」俺はもう一度呉葉の身体を揺さ振る。そのとき触れた手が妙に冷たくて、一瞬死にかけているんじゃないかってそんな不安を覚えたが、次の瞬間、呉葉は完全に覚醒した。

「おはよー。もう出発時間?」本当に今まで寝ていたんだろうかと疑いたくなるような明朗さで呉葉は俺に微笑みかけた。髪についた寝癖だけが、たった今まで眠っていた事を告げていた。

「ああ、おはよう。よく眠れたかい?」俺は出来る限りの笑顔でその愛しい女に優しさを振りかけた。

「まぁ、ね」両手を本当に気持ちよさそうに天高く伸ばすと、呉葉は俺に抱きついてきた。俺はそんな呉葉を優しく抱き締めると、軽く唇を合わせた。

「おい、千秋ちゃんが居ないぞ」全く、ラブシーンを台無しにする男だな…。俺は慌ててテントの入口を全開にした枝さんを少しだけ睨みつけると「居ないって?」と呉葉を抱き締めたまま尋ねた。

「そのままの意味だよ。テントに居ない。居た形跡もない」形跡って何だよ、お前、刑事か探偵か…なんて突っ込みを心の第6層くらいに隠して枝さんの言い分を聞いた。

「テントを開けたら誰も居なくてさ、妙に気になったから全員のシュラフに手を突っ込んでみたんだけど、どれもこれも冷たくて…」なんとなく言いたいことは理解できた。そんな俺と枝さんの遣り取りを不思議そうに見ていた呉葉が「何か合ったの?」と口を挟んだ。

「ああ、歩きながら話すよ」俺はテントから這いずり出し、呉葉も俺に続いた。呉葉の右手を取って立ち上がるのを手伝い、「で、枝さん。千秋さんは居なかったんだね?」と尋ねた。

「ああ。真夜といい、千秋ちゃんといい…何処に行ったんだ」妙に焦燥感に駆られたような表情で枝さんは俺の肩を掴んで揺さ振った。

「俺が知る訳無いだろ」俺は枝さんの肩を掴み、揺さ振り返した。

「……う、……まぁな」そう言って枝さんは俺の肩を掴んでいた両手の力を抜いた。俺は軽く枝さんの肩を握り、「まぁ、話していても仕方ない。高塚達と一度話して対策を練ろう。今、俺達がバラバラに探しに行っても収拾が付かなくなるだけだ。今は落ち着け」と小声で言った。枝さんは小さく頷いて納得してくれたようだ。

 

 

 

 

うっすらとお互いの輪郭が見えるくらいに世界は明るくなったように感じた。

深層の森の中、僕ら3人は取り合えずテントから這い出し、状況の確認をしていた。僕と皆川の持つ懐中電灯の灯りだけが無限に広がる暗黒の中で頼りなく燈っていて、何だか妙な不安を煽られた。

「へぇ…そんな事があったんだ」皆川の誇張だらけの長くて詰まらない話を聞き、何の感情も現さないようにして呉葉はそう言った。僕にはそう聞えた。

「うん。ってか、よく毒キノコを喰って生きてるものだな」皆川が珍しいものでも見るような顔で僕の顔を覗き込んだ。シルエットだけだった皆川の存在がキチンと表情を持った。時の経過を感じながら僕はちょっと空を仰ぐ。

「ほとんど吐き出したしね」僕は皆川の言葉を気にしないようにして答えた。歩きながら話すとか言いながら立ち話をし始めた皆川の踵を蹴って言った。

「ふむ。運が良いなぁお前。いつぞやガソリンを頭から被ったときもよく、引火しなかったよね。今回もよく死ななかったもんだ」皆川は非常に残念そうな表情をして僕を見た。まったくもって失礼な男だ。

「ナンダヨその顔は」僕は皆川の顔を押し除けると歩き出した。皆川と呉葉も僕につられたのか、歩き始める。

「真夜ちゃんも千秋ちゃんもどうしちゃったのかなぁ」後ろから聞えてきた呉葉の声には確信的な何かが含まれているように感じた。

 

「おせぇぞ、お前ら」高塚が仏頂面で僕達を迎えてくれた、なんてありがたくないんだろう。

三国と菅沼は何処から用意してきたのか、頭の下にタオルを敷かれ寝かされていた。高塚はこういうところに関して、異様なまでにマメな男だ。復活する様相もないので僕等は彼等を見て見ないことにした。加藤に関してはバスタオルらしき長めのタオルがかけられていた。高塚が意外とフェミニストなのだと思うと僕は吹き出しかけた。

「すまんすまん」皆川がカラカラと笑いながら高塚の隣に腰を下ろした。

「千秋はどうした?」高塚が僕達3人を見回して尋ねた。

「一応、探したんだが、テントには居なかったぞい」僕は皆川と向き合う位置に座り込んだ。

「ふむ…」高塚はそう言うと黙り込んだ。

「何だ?居ない事がわかっていたみたいな反応だな」皆川は高塚の言葉に矛を突きつけた。

「…なんとなくな」高塚は伏せ目がちにそう言うと、立ち上がって白み始めた空の一点を見つめた。

「なんだよ、思わせぶりだな」皆川がバツが悪そうに高塚を見上げた。

「いや…あいつ。最近、仕事がうまくいってなかったみたいでさ。それもあってのんびりさせてやろうかと思って連れてきたんだが。こっち来たらさぁもっと酷くなって、消えてしまいたいとかわけのわからん事を言ってたんだよなぁ」そう言うと高塚は額に手を当てて屈みこんだ。

「軽い鬱ってやつか?それにしてもこんな危ねー時に消えなくてもいいじゃんかよ?」皆川は羽織ったジャンバーのポケットから新品のタバコを取り出すと封を切る。面倒臭そうにトントンとタバコの頭を叩くと、一本タバコが競り上がってきた。それを抜き取ると皆川は咥え、火を点ける。相変わらずの咽返るような臭いが周囲を満たし、僕は一度顔を背けた。

「それで、どうする?」僕は2人の遣り取りが延々と続くような気がしたので思い切って切り出した。

「どうするって、何を?」高塚が僕を不思議そうに見る。

「真夜ちゃんと千秋ちゃんの捜索だろ」皆川は面倒臭そうにタバコの煙を吐き出すと僕の目を見た。眼鏡の奥にある切れ長のその目は静かな光を湛えていた。

「うむ」僕は頷くと立ち上がった。

「そうだな」皆川は1人で納得したように呟くと「じゃー、こーくん。お留守番ヨロシク」そう言い、皆川は「かったりぃな」といつもの口癖を呟き僕に目配せをした。

僕はそんな皆川に「サンキュ」と口の中で言うと、皆川は理解したのかにっかりと笑った。

「んじゃ、呉葉。お前もお留守番だ」呉葉に笑って皆川は立ち上がった。

「えー、あたしも行きたいー」呉葉は地団駄を踏んだが、皆川は頑として許さなかった。

「お利口にして待ってるんだぞ」皆川は駄々を捏ねる呉葉の頭を撫でると「行こうか、枝さん」と俺に向き直る。

「ああ」短く返事をすると俺達は朝霧の立ち込める森に一歩を踏み出した。

「んじゃ、直ぐ戻るわ」皆川が軽くそう言うと左手を振って、先に歩き出した。

こういう時の皆川は妙な行動力を持っているので非常に頼もしい。

「んでは行ってくるのう」僕は高塚と呉葉に手を振ると既に10mくらい先を歩く皆川のところまで駆け出した。

朝靄の立ち込める獣道を2人、無言で下っていく。

皆川は真夜が櫻ノ海の方に歩いていくのを見たらしいので僕はおとなしくそれに従った。まぁ、冷静に考えれば真夜が櫻ノ杜に向かうにはキャンプの中を抜けなければいけないので、櫻ノ海に向かった以外は選択肢はないはずだ。

「しかし、わからんな…」皆川がやっと追いついた僕に話し掛けた。

「ほえ?何がだ?」僕は皆川の意図するところが掴めなかったので尋ねた。

「千秋が俺達の前から消えたのは鬱っぽい心の病気の為だとしても、真夜ちゃんが消えた理由が見当たらない」皆川は顎に手を当ててなにやら考え込む振りをする。

「何か不審な点でも在るのかい?」僕は皆川の隣に並んでみた。皆川は僕に気を止めるでもなく前方のただ一点を見つめたままで歩く。

「不審な事だらけだ。考えても見ろよ。あのキノコでラリったとして、女の子が素面の俺達が探せなくなるくらい遠くまで歩けるものか?枝さん、どうよ?」皆川はそう言って僕を見た。

「確かに、僕の場合は妙に気だるくなって歩けたもんじゃなかったなぁ」僕はあの時の事を思い出した。気分はハッピーだったが、妙な倦怠感が身体の中を渦巻き、その場で寝転ぶ事しか出来なかったからな。皆川の言う通り、そんなに遠くまで移動する、と言うのは不審なのかもしれない。

「あとは、都合よく加藤が襲ってきた事か。お前等がキノコを喰ってトリップするのを見計らって来たような感じがしないでもない。まぁ、それでなくても戦力が一番ない奴らが当番している時に来るなんて、何かしらの意図を感じてしまうんだよ」皆川は急に立ち止まる。そして「『厭な予感』がする」と強調して皆川は呟いた。

「なんだよ、冗談なら止めとけ」僕は皆川の肩を揺さ振った。シンと静まり返った世界に息吹くものの気配は2つだけ。昏い光を目に点した地蔵が立ち並ぶ異世界で僕と皆川だけが生きている。

「この臭い……わからないか?」手をかけた皆川の肩が緊張の所為か、硬直していく事に気付く。

「…何の臭いだ?」僕は皆川の言う、臭いを確かめる。

 

それは鉄の臭い。

そして、魚の生臭さ。

今まで嗅いだ事のない胸糞が悪くなる臭いに僕は気付いた。

 

「冗談…血の臭いじゃないか」皆川は立ち止まったまま周囲に目をやる。僕もソレに合わせて臭いの元を探す。

「割と近いな」皆川は鼻を鳴らして左右の地蔵の間を行ったり着たりした。

「こっちじゃないか?」僕は左側の地蔵の方向を指差した。皆川はもう一度だけ左右に向かって鼻を鳴らし「そうだな」と僕の指した地蔵の間を抜け、茂みに身を投げた。

僕は躊躇い地蔵の所で立ち尽くす。夜は完全に明け、懐中電灯の必要性などもう何処にもなく、陰影により邪悪なイメージを呼び起こさせる地蔵の朗らかな顔を見た。その顔に生えた苔を見つけ、灰色に見えていた世界に色が戻る。霞が掛かっていたような思考が鮮明さを取り戻し活動をはじめる。

僕は深呼吸をすると、皆川が進んでいった地蔵と地蔵の隙間を睨んだ。

 

 

 

 

その場所だけ妙な密度を持った臭気が立ち込めていた。

妖気や邪気の類と言ったほうがしっくりと来るのかもしれない。

兎に角、不吉な澱んだ空気がそこには在った。

ごろごろと海辺の石のように丸い地蔵の頭が優しい微笑を思い思いの方向に投げ掛けて、打ち棄てられていた。

そんな中で一体だけ原形を止めた地蔵が丁寧に掘り込まれた袈裟を半分朱色に染め、穏やかな微笑を湛えていた。

不吉を纏った地蔵…そんな名前が似合いそうなくらいにその地蔵に俺は不吉を感じていた。

俺は足元に転がった地蔵の頭を踏み越えて不吉を纏った地蔵に歩み寄り、袈裟を穢している艶やかな朱色に恐る恐る手を伸ばす。震える手が数秒かかって触れたそれは俺の想像に反して血液ではなかった。それはペンキか何かで、すべすべとした感触だった。その事実に胸を撫で下ろしたのも束の間、地蔵の影に隠れてその足元に転がる哀れな亡骸を見つけてしまった。

 

その亡骸は地蔵の足元に在って、肩から胸まで一太刀で袈裟切りにされ、地蔵の背中に寄りかかるようにして項垂れていた。よくよく見ると、それは項垂れているのではなく、袈裟切りにされた挙句に首が胴体から切り離され、膝の直線上にちょこんと置かれているのだった。その顔に張り付いた断末魔は驚愕と恐怖と絶望を美味くブレンドさせた表情をしており、大きく見開かれた眼には昏い闇が燈っていた。

その表情は角度を変えて見るとどう見ても蘇生のしようのない自らの亡骸に絶望しているようにも見て取る事が出来た。

一瞬、俺の中の全てが静止し、次の瞬間に一気に流れ出す。

 

鉄と魚の腐ったような臭いが俺を満たした。

 

俺は込み上げてくる酸っぱいものを自分の喉を思い切り握る事によって押さえつけると、逃げ出したいと叫ぶもう一人の自分に「逃げるな!」と一喝し、現状を把握する事に意識を傾けた。

間違いなく、それは単なる野次馬根性から来るものであったし、そうでもしないと狂気に飲まれてしまいそうだったのだ。

俺はまるで小説やドラマ、漫画の中の探偵のように振舞おうとイメージする。とりあえず、それを様々な角度から見てみた。どこからどう見てもそれは人間の屍骸で、痺れかけた脳髄はさらにその機能を停止させようとしていた。妙にゆっくりと時間が流れる。妙に意識がはっきりと在る。それで居て、意識はスパークし、火花を撒き散らし、落ちかける。

 

バチバチと火花が散るイメージが目の前で展開される。

 

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」三枝の絶叫で我に返った。その時俺が何をしようとしていたのか、さっぱりと思い出せないが網膜に焼き付いているのは姿勢を正してただずむ首なし死体だった。どれくらいの間俺は現実から目を背けていたのだろうか、俺の傍らで三枝は死体を見たまま立ち尽くしていて、死体を中心に地面に染み込み切らなかった血液が、得体の知れない赤黒いゼリー状の物体になって点在していた。冷静さを取り戻した所為で正常に機能し出した嗅覚が魚のような生臭い臭いを正確に脳髄に伝え、再び吐き気を催した。逆流してくる胃酸を何とか咽喉で堰き止める。

「う…あ…」俺は三枝に話し掛けようとしたが、口から出るのは吐息に混じる声にならない声だけだった。まったく、自分が情けない。俺はくらくらとする視界を何とか正常に保ちつつ、一歩前に出た。

夥しい量の元・血液が飛び散り、彼方此方に付着し、どす黒いアーティスティックな領域を演出していた。よくよく見れば朱色に塗られた地蔵にも血液は飛んでおり、妙に気持ちの悪い斑模様を作っていた。

視線を死体に移す。切り口は流石に直視したくは無かったが視界に飛び込んでくる。割と時間が経っているのだろうゼリー状の膜が傷を覆っている。

一度大きく息を吸い込んでから「血液の飛び散り方からいって、きっと此処で殺されたのだろう」と、言い切ってみた。根拠は無い。しかしながら、いい大人が2人して震えているわけにもいかないからな。

それにしても、まだ気温の低い季節、そして山間で良かった。死体は腐敗しておらず、生臭さ以外の異臭はしなかった。ここで腐臭がしていたらそれこそ阿鼻叫喚の地獄になっていたに違い無い。

「皆川…、此処で殺されたって…、凶器はなんだよ?」三枝は若干震える声で尋ねる。知るか、そんなもの!

俺はデジカメを取り出そうとポケットに手と突っ込んでから舌打ちする。そう言えば、鞄の中にしまった事をすっかりと忘れていた。仕方なしに通話できない携帯電話を引き摺り出し、カメラ昨日を作動させた。

電池は2ゲージ、写真は撮れる。

携帯電話の液晶モニタに切り取られた『世界』は俺の立っている場所から数メートル先なのだが、まったくの『別世界』に見えた。その『別世界』の中に在ってその死体は膝の上に自らの顔が置かれ、その顔は無残に鬱血し、黒ずみ、腫れ上がっている。その惨たらしい顔から生前、誰であったかを特定するのは困難を極めるんじゃないか、何て思ったりした。

 

一枚目。

ピロリロリン、と電子音。

『別世界』からまた隔絶されたそれはアートのように見るものを惹き付ける何かを持っていた。

 

二枚目。

ピロリロリン。

顔のアップ。黒く濁った肌。人のものではない。大きく見開かれた目の焦点はズレ、視線は左右で違っているように見える。正面から見たらどれほど吐き気がする表情をしているのだろうか?髪は綺麗に切りそろえられたショートカット。きっと、生前は快活な人物だったのだろう。

 

三枚目。

ピロリロリン。

また、死亡してから間もないのか、蝿こそ数匹死体の回りを飛び回っていたが、蛆は湧いていなかった。首の傷のアップ。黒く変色した切り口の肉がグロテスク。肉料理は暫く控えたい。

 

四枚目。

ピロリロリン。

肩から腹にかけての傷。着衣に見え隠れした肉。よくよく考えたら、ローストした時の牛の肉に似ていないでもない。警察にこの写真を提出してやれば何らかの証拠として捜査の役に立つのではないか?

 

五枚目-。

「おい、皆川。止めろよ、死者を冒涜するなんて真っ当な人間のする事じゃないぞ!」三枝が強い口調で俺の肩を掴み、抗議の声を上げた。

「真っ当な人間じゃないって部分は認めるが、死んだやつを冒涜する何てことは俺には出来はしないさ」俺は三枝の腕を振りほどくと、強めの口調で言い返した。

三枝は意外そうな顔で「じゃあ、携帯で写真を撮るなんて何の真似だ?」と尋ねる。

俺は誤解を招かないように、懇切丁寧に写真を撮った理由を説明してやった。

「それにしても、人の死体なんて初めて見たよ」と三枝は既にモノと化したソレをまじまじと観察し始めた。

「何だよ、枝さん。爺さんや婆さんの死体ぐらい拝んだことあるだろ?」俺は数枚写真を撮りつつ尋ねた。

「いや…。うちのは両方の爺さん婆さん健在だ」何かこう、自信満々で答えられてもねぇ?

「ああ…わかった。しっかし、こいつは肩から胸までのダメージで死んだんだろうな~」俺は液晶画面越しの死体を観察して言った。飛び散った血液が木々の枝葉に付くに至っていない。首などの動脈を斬られたのであれば、血液は勢いよく噴出し、辺り一面を血の海に仕立て上げているところだろう。現状を見る限り、そうなっていない事を考えると肩から胸にかけて斬られた後で首を斬られたと考えられる。

「それにしても、何で斬ったんだろ?」三枝が切り口を見る。スッパリと切れてるよ、この傷口。

「刀…、な訳ないよな」俺は更に数枚写真を取りつつ言う。

「鋭利じゃないけど、こういうところで入手できる刃物と言ったら鉈とか、斧かね」三枝は日常使うような道具の名を更々と上げる。

「でも、斧ならともかく、鉈で肩から胸まで一太刀で斬るなんてゴリラ並の腕力が要るだろう。刀でもそうか」俺はカメラから視線を外し、現実の死体を直視した。人もバナナも同じか。時間が経てば黒く変色して腐っていく。

「包丁って訳でもないしね。包丁だと骨を切ることが出来ないもんね」三枝はそう言って「斧あたりが妥当なところじゃない?」と〆た。

「後は…誰がやったんだ、コレ?」俺は周囲の状況を確認する。この死体は咎隠村のあちこちに点在している極普通の地蔵の陰に『設置』されていた。間違いなく殺した奴がわざわざ首を切り落として、膝に乗せたのだろう。趣味が悪いにもほどがある。しかしながら、俺達の足元は砂利とそれなりに固い土で覆われており、特に争ったような跡はない。状況証拠だけを集めれば、彼女は不意の一撃を喰らった瞬間にその機能を停止したのだろう。そうそう『彼女』と言ったのにはキチンとした理由がある。身体つきと服装だ。パニックに陥っていた先程は全く気にも留めなかったが、ジーンズにパーカーを着た格好で、ジーンズの尻の部分は女性特有の膨らみがあり、斬られたパーカーの隙間から見える身体には小振りの胸の膨らみが見えたから間違いないだろう。

 

肩口から斬られた為、吹き出す血液は広範囲に渡った。

殺すのに使われた凶器は無造作に放り投げられた斧か鉈のどちらかだろう。

どちらの凶器にしても柄の部分にまで血液が固着しており、一概にどちらを使用したのか、はたまた別の凶器を使用したのか、判別できそうもない。

「それにしても、コレ、誰だろ?」俺は死体を指差して言った。

「誰って…」三枝はそう言ったきり言葉が続かない。

「竹中とか言う奴の死体って言うのはナシ、な?」俺はパーカーの隙間を指す。三枝は納得したように頷いた。

「じゃぁ、コレ、誰の死体なんだ?」三枝は先程の俺と同じ疑問に至る。

「少なくとも俺達の知らない誰か、だね。少なくとも千秋ちゃんでも、真夜ちゃんでもないね」俺はきっぱりと言い切る。

「その自信たっぷりな発言の根拠はどこから来るんだよ?」三枝は胡散臭そうに俺を見ている。「なぁ、皆川。そこに転がってるのって?」不意に三枝が俺の後ろの茂みを指差す。

「ん?柄…か?」三枝が言っているのはそれなりに太い木を使って削りだしたと思える大人の腕の太さほど在る柄だった。俺は茂みを足で掻き分けると柄の先を探した。乱雑に打ち捨てられたその柄の先には鉄製の大きな半円が付いており、それの名前が『斧』であることを認識するまでに若干の時間を要した。

「斧…だよな」三枝が俺の肩越しに覗き込む。

「ああ、斧だ。ご丁寧にも血液が付着してたりするぞ」俺は半円を覆う赤黒いぬめりの正体が血液であると判断した。

 

今では無言の『ヒトカタ』となった彼女。

肩口から一気に斬りつけられた傷。それが表すは広範囲に渡って飛び散った彼女の残り香、死の象徴たる自身の血痕。

 

-現実感が消失している。

まるで出来のいいコンピュータグラフィックスで出来た世界に迷い込んだよう。

 

-本当に出来のいい世界だ。

ここには現実的な何かが欠落している。無造作に打ち捨てられた斧と鉈。凶器がこんなに簡単に放置されているなんて現実では考えられない。きっと彼女を殺すのに使われた凶器はこの無粋な道具のどちらかだろう。どちらの道具にしても柄の部分にまで彼女の体液が付着しており、素人の俺には一概にどちらの獲物を使用したのかなんて、…はたまたこの二つの道具以外に別の何かを使用したのかなんて判別できそうもない。

「で、皆川どうするんだよ?」三枝が擦れた声で尤もな疑問を投げかける。全くお前の言うとおりだ、俺が知りたい、どうしたらいいわけだ?

「…どうするったってなぁ」俺は浅葱色に染まりつつある空を見上げた。

鳥の一匹も飛んでいない春の空。

ポケットからタバコを取り出して銜える。タバコを一本ソフトケースから引っ張り出す。そしてその時、恐怖からか、好奇心から来る高揚感からか、自分の手が震えていることに気付く。

カタカタと寒さにでも震えるように頼りなく俺の手は震えていて、うまく火を点けられない。タバコ一本に火を点けるのに莫迦みたいに時間を掛けている。

 

 

目を瞑る。

フラッシュバック。

櫻澤村に在ったカムイの死体。

彼女-名前も覚えていない女子大生の死体。

そして、今目の前に転がっている無残な誰かの死体。

これだけの人間が俺達の目の前で殺されていて、関連性が無いわけが無い。三国と菅沼が襲われた事実、榊の存在。加藤の後ろ盾。

榊が之をやっているのか?何のために?

精神衛生上宜しくない自問自答を繰り返す。

 

 

息を吸い込み、吐き出す。真夜や千秋は大丈夫だよな…。

俺は悪い予感を払拭するためにやっと火が点いたタバコを一気に吸うと、空に向かって吐き出した。

「…取り敢えず、これはこれ」俺はなるべく軽めにそう言うと三枝に向き直る。

「え?」三枝が呆然とした表情を俺に向ける。

「簡単に言うとだな、『櫻ノ海』に行こうってことだ。…気分が悪いが、最悪、『櫻ノ杜』まで行くことになるんだろうなぁ」俺はそう言うとこの先に何やら不吉な空気を感じて頭を抱えてその場に蹲った。

「何やってんの、お主?」三枝が俺の頭上から覗き込む。その仕種がやけにむかついたので立ち上がると無言でゲシゲシと三枝の脛を蹴ってみた。

「おっ?おっ?おっ?」俺の蹴りの回数だけ間抜けな言葉を発する。そんな三枝を見て、俺は若干心の中を渦巻く不安が消えたことに気付く。「ふぅ」と、言葉だか溜め息だかわからないモノを吐き出すと道の先に広がる白と薄紅とで満たされた禍々しく、忌々しい『さくらのうみ』を睨み付ける。朝霧に包まれた幻想的なその世界は俺達の居る世界とまるで勝手が違っているように思えた。

 

 

 

 

「これは儀式なのだ」そう、自分に言い聞かせる。手にした包丁を自分を模した何かに突き立てる。それはモゴモゴと言うばかりで言葉が通じない。少し苛立ちを覚え、振り上げて自由落下させた。

ガラス球は潤い、一筋のラインがすっと大地に吸い込まれていった。

とすん、と静かに音を立て、包丁は贄から生えるようにして静止した。

バタバタと騒がしかったモノが電池の切れた玩具の様に緩慢に動きを弱めていく、そして、耳が痛くなるほどの静寂。

 

「これは儀式なのだ」もう一度口に出して自分に言い聞かせる。その筈なのにどうしてこうも鼓動が煩いのだろうか?

自分の胸に手を当ててみる。

ド、ド、ド、ド、ド、ド、ド、ド、ド、ド、ド…。

規則正しく、まるで精密な時計のように鼓動は自分の中で鳴っていた。

興奮しているのだろうか?

妙な高揚感が心を満たしている。

 

 

どれだけの時間をそうしていたのだろうか、カタン、と包丁の転がる音でソレを見る。折角生えたのに、それは身体の一部を床に投げ出していた。静かに転がった包丁を手にすると、自分の分身…その『ヒトカタ』の首に当てた。

スッと、真一文字に引いてみる。赤色の染みが一直線に広がる。動いていた時のように無粋に飛び散ったりしない。静かに、しおらしくそれはゆっくりと床に赤い水溜りを作り始める。

 

 

-これは儀式なのだ。

 

 

手にした斧を狙いを外さないように首に目掛けて打ち下ろす。ゴリッと硬いものにあたる感触を経て、斧は床に刺さった。音も立てずに、『ヒトカタ』の頭部がその反動で転がる。ガラス球は鈍く窓からの光をその中に湛えて天井を見上げるようにして止まった。

窓から外を見る。桜の花々を朝露が枝垂れさせている。視界一面の桜色。本物の桜色。

 

『そこは深い深い森の中にある』

 

『そこはすでに忘れられた祭壇』

 

『そこは血塗られた過去をもつ』

 

 

だから、儀式を行う。この地に幸をもたらす為に。

 

 

小屋から外に出て、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。生きている実感があった。あと、半分。

 

それで儀式は完遂される。

 

士送りの儀式が。