ledcannon’s diary

美作古書店

櫻ノ海 六章

櫻ノ海

 

―陸章―

 

櫻華-オウカ-

 

 

 

 

 

第陸話

 

終極。-そして始まる-。

 

 

ひらりひらりと何処からともなく、雪のように白い櫻の花が一片舞い落ちてきた。それを非常にけだるく視界に捕らえながら竹筒に入った酒の最後の一滴を口内に滴らせた。

 

四日。

 

そう、この森に入ってから四日もの間これと言った獲物もなく、相棒も俺も疲労が限界に来ていた。それでも獲物を獲って帰らなければ一家が飢え死にしてしまう…。

重い腰を上げて生い茂る青櫻の枝葉の隙間から見える青空を見上げた。

 

-先程の何処から櫻の花はどこからやってきたのだろう?

 

ふと疑問が浮かんで消えた。突然相棒が「猪だ」と叫ぶ。俺は地面に転がった弓を掴むと駆け出した。

 

 

ざんざんと木々の枝葉が身体や服に容赦なく当たる。それでも俺は弓を構えて猪に向けて矢を放った。ひゅん、と風を切り矢は猪の後ろ足に命中した。

ザン、と茂みを震わせて猪は体勢を崩し転がる。斜面になった山の中、猪の黒い塊がゴロゴロと転がっていく。見失わないように目を凝らして必死でそれを俺たちは追いかけた。

 

地面に転がったそれは、痛みによるものか突然動かなくなった脚に因るものか、暴れまわり茂みを打ち震えさせた。2尺はあろうかという大物だ。ここの山の主かもしれない。

久し振りの獲物に心臓はドクドクと高鳴っている。相棒が遅れてやってきてなにやら大はしゃぎをしている。俺は相棒を微笑ましく眺めると、腰に縛りつけた手斧を解き、頭上高く掲げ…。

 

 

振り下ろした。

 

 

一際、『おと』が大きく響き、静寂が訪れた。

 

 

静寂を破って「やったな」髭面をくしゃくしゃにして相棒が俺の肩を叩いた。

「ああ」俺はぐっと力を込めると猪の首から斧を引き抜いた。血糊がべっとりと地面に這いずり出して、そして消えた。

血を抜き、手頃な枝を斧で切り落とすと、猪の四肢を縛り上げた。これだけあれば半月は食い繋げるだろう、と相棒が笑った。そうだな、と俺は適当に相槌を打っておいた。

 

 

 

―四日。

 

たった四日の距離を俺達は彷徨い歩いた。森は開ける様相もなく、ただ深淵の闇をその身に湛えて俺達の前に立ちはだかるのである。

 

猪を獲ってから七日目ようやく、見知らぬ村に辿り着いた。その時には猪の半分は無くなっていた。

「こんなに深い森の中に村があるとは」相棒は信じられないようなものでも見る目で村の全容を見渡した。それにつられて俺も同じようにして開けた視界を確かめるようにして見た。

それは長閑で、今まで俺たちが越えてきた山の不気味な雰囲気など一つもないきれいな世界だった。そして、桜の木がたくさん植えてあることに気付く。

 

 

「どうされたかな?」不意に声を掛けられ、声の主のほうを見る。畑仕事をしている好々爺が俺たちを不思議そうに見ていた。まるで、自分の村に戻ってきたような錯覚に惑わされてしまうが、俺たちの村にこんなに桜の木はない。

「道に迷ってしまいまして…」相棒が好々爺の質問に答えた。

「…それは難儀じゃったな。迷ったとはいえこの村までやってこられたのは何かの縁じゃろう」ほっほっほ…と一際高く笑うと、好々爺は「ついてきなされ」と鍬を畑に突き立てて、俺達に手招きをする。

俺と相棒は顔を見合わせてどうしようか、と戸惑ったが、好々爺はそんな俺たちに構わずすたすたと歩き出してしまった。俺と相棒はもう一度、顔を見合わせてから、意を決して好々爺の後を追いかけた。

 

 

どうやらこの邑は【櫻澤邑】と呼ばれているらしく、【戸隠山】山中の奥深い所に位置しているらしい。

好々爺は「よくもまぁこんな辺鄙な村に辿り着いたものだ」と笑っていた。

それにしてもこの邑は俗世から隔離されたような感覚を覚える。修験者たちも寄り付かないらしいこの邑に運がいいのか悪いのか俺たちは獲物を求めるうちに山を一つ越えて迷い込んでしまった。

暫く歩いた先にある翁の家に案内され、酒を振舞われた。濁醪じゃよ、と翁は笑ったが、今まで飲んできたどんな酒よりもそれは美味く、俺達は酔い落ちていった。

 

 

日もとっぷりと暮れた頃、妙な物音に目を覚ます。

自分が何処に居るのか解らなくなり、少し慌てるが、隣で眠る相棒の顔を見て翁の家に招かれた事を思い出し、身を起こす。春とは言え山中の村だ、非常に冷え込みが激しく、俺は囲炉裏のほうへ這って進む。未だ囲炉裏には火が燻っており、それなりの暖を取れそうであった。

そう言えばあの物音が何処から聞えてきたのだろうと、ぶすぶすと燻る火を見つめながら思った。

 

 

ずるずると何かを引き摺る音。

 

ずるずると何かを啜る音

 

ずるずると何かを…。

 

 

暗闇に目が慣れ、俺は翁が居ない事に気付く。軽く頭を振ると、芯のほうに思い痛みを感じた。酒にのまれていつもよりも思い身体を引き摺り起こして立ち上がり漏れる星明りを頼りに、窓まで不安定な足取りで歩く。

燦の隙間から外を覗き見た。暗闇に満たされたそこはただ真っ黒で、のっぺりとしていた。

しばらくその風景を眺めていると、ずるずる、とまたあの音が聞えてくる。何事かと音のする暗闇をじっと見つめるが何も可笑しなところはない。なんだろうと思っているうちに音が此方に近付いてくるではないか。

俺は怖くなって窓から離れると相棒の隣に寝転び、息を殺して音が過ぎ去るのを待つことにした。

 

 

ずるずる。

 

ずるずる。

 

ずるずる。

 

 

 

 

ガタン。

 

 

引き戸がガタガタと鳴って、板戸が開けられる。冷気が流れ込んできて身体に纏わりつく。

『笑顔の張り付いた』翁がずるずると何かを背負って戻ってきたようだった。声を掛けようか、掛けまいか迷ったが、俺は敢えて声を掛けることにした。

「やぁ、翁。こんな夜更けに何事かな?」俺は目を擦りながら、出来るだけにこやかに笑いながら声を掛けた。

「これはこれは、起こしてしまいましたかの。お客人に申し訳ない事をしてしまった」翁は能面のように『張り付いた』笑顔を崩さずに答えた。

 「朝餉の用意をして居ったのじゃよ」そう言うと背負っていた麻袋の中から幾つかの野菜を取り出して見せた。

「そうでしたか、お手伝い致しましょうか」俺は起き上がると、相棒を起こさないようにして土間のほうに向かった。

火を起こして竈(かまど)にくべ、鞴(ふいご)で煽る。半刻位そうやって台所の準備をした。うっすらと辺りが明るくなり始めたのを感じて顔を上げる。朝日が今にも山頂から顔を出そうとしているのが見て取れた。

一刻経つ頃には窓から朝日が差し込み、家の中でもはっきりと相手の顔が見えるくらいに明るくなった。

朝餉の準備を調えて、2里ほど歩いたところにある井戸から水を組み、翁の家に戻る。ほとんど言葉を交わす事無く俺と翁は黙々と仕事を続けた。

朝餉の準備が出来たので相棒を起こし、自分たちで作った朝餉を頂く。

それから畑仕事を少し手伝い、一宿一飯の恩を返す。そろそろ起とうと挨拶をし、村の出口まで案内してもらった時、突然天候か崩れ大荒れになる。

翁は張り付いた笑顔で「こりゃぁ、あかんな」と空を見上げたのだった。

 

 

 

 

ぼうっと、闇に櫻の樹が浮かび上がる。

 

その櫻の美しいこと美しいこと。

 

枝垂れたその櫻の華は艶やかに桜色に染まり、人の心を奪うようだった。

 

ゆっくりと歩を進める。

 

櫻に妖力でもあるのだろうか、妙に興奮してならない。

 

ゆっくりと視界が櫻色に埋め尽くされていく。

 

まるで彼岸のようだ。

 

ゆっくりとゆっくりと一歩一歩を踏み出していく。

 

櫻の香りが鼻腔を突く。

 

くらり、と頭が白む。

 

濃厚な香り。

 

気付けば目の前に櫻の華がある。

 

櫻の枝がある。

 

視界は薄紅色に。

 

視界は櫻色に。

 

視界は…。

 

 

 

 

思えば妙な夢だった。

夢であるにも関わらず匂いがあり、感触が在った。俺は幾日目になるだろうか、翁の家で目を覚ました。

外は未だ大荒れの天気だ。この邑はまだ櫻は咲いていないのだろうか?ふと、夢の出来事を思い出す。

 

「翁や、この邑で一番の櫻の樹は何処に在るんだい?」俺は草鞋を編みながら、それとなく翁に尋ねた。

翁はなんの躊躇いもなく「それは【櫻の森】の社の大櫻だな。煉獄櫻とも言われている」と窓から見える山野の方を指差して「あそこから行けるのだよ」と俺に教えてくれた。

「【櫻の森】?」俺は翁の指差すほうをぼうっと見て呟くように尋ねた。

「ああ、いつからかそう呼ばれているんじゃよ」翁は煙管に葉を詰めて火を点けた。煙草の香ばしい香りが立ち込める。

「それにしても煉獄櫻と言うと、妙におどろおどろしいな」俺は雨に煙る風景の向こう側にある櫻を思い浮かべた。

 

ふと、我に返り相棒を見れば、囲炉裏の火をじっと見つめなにやらぶつぶつと呟いている。ここ数日、相棒はそうやって天候が回復するのを待っていた。呪いでも唱えているのかもしれない。

「翁、そう言えば他の連中を見かけないのだが、この邑は翁一人なのかい?」俺は毎朝翁が用意してくれる朝餉の味噌汁を啜りながら尋ねた。

「ああ、この時季はみんな【櫻澤祀】の準備をしているじゃ。【櫻の森】に行けば邑の衆にも会えるはずだ」翁は飯を口に含むともそもそと口を動かした。

「毎日草鞋編みばかりでは身体が鈍ってしまう。後でその【櫻の森】とやらにいってみるとしよう。良いかな、翁?」俺は朝餉を平らげると翁に尋ねた。

「ふむ、おぬしであれば良かろうて。この麻袋を持っていくといい」そう言うと翁はあの晩背負っていた麻袋を俺に差し出した。

「ありがとう、これは?」俺は麻袋を覗き込んだり、引っ繰り返したりしてみたが、極普通の薄汚れた麻袋に違いなかった。

「通行手形みたいなものじゃよ。帰りに野菜も貰ってきておくれ」翁はそう言うと囲炉裏に薪をくべ、横になって眠ってしまった。

俺は支度を済ませると、一応相棒に出かけるか尋ねた後、櫻の森に向かった。

 

 

外に出ると連日降り続いた雨の所為か、ねっとりと湿気が身体に纏わり付く。雨はシトシトと降り続いていて、足元はぬかるんでいた。くすんだように生気のない風景の中を俺は一人【櫻の森】に向かって歩く。

邑の中に転々とある樹がよくよく見れば全て葉桜であった。

まばらに立った家屋の数からして五十人程度の人間が住んでいる村だろう。俺の村から比べれば少し小さいと言った程度か。

しばらく歩くと、石に櫻社と掘られた石柱を見つける。そこから先はうっそうと茂った木々が在り、木々の間を縫うように獣道のような申し訳程度の道がクネクネと山頂を目指すように続いているのが見えた。

道を進むことを躊躇うが、ここまで来た以上は行くしかないと覚悟を決め、歩を進めていく。何度か泥濘に足をとられて転びかけるが、それでも俺は櫻の杜の社を目指す。

途中から砂利が撒かれ、歩きやすい道になる。但し、草鞋と足の間に砂利が転がり込んだ時の痛さは涙が出るほどだ。

どれくらい歩き続けただろうか、人の話し声が聞え始める。

 

-社は近いのだろうか?

 

俺は若干歩を早めて、掛けるようにして社を目指した。

唐突に視界が開け、人々が現れる。ざわめきが一瞬大きくなり、それから静寂に変わる。突然の来訪者に村人の視線が一斉に突き刺さる。視線だけならまだマシなところ、男共が各々手近に在った桑や鎌、鉈に斧等の獲物を構える。

「あ、待って。この人」その声に皆振り返る。獲物を構えた男共の中の一人が「どうした?」と声の主を急かす。

「持っているの、その麻袋」と右肩にかけて持った麻袋を指して言った。

「ん?おお、与一の翁の麻袋だな」一番近くに居た男が俺の肩にかかった麻袋を手に取るとそっと尋ねた。

「ああ、村外れの爺さんから預かった麻袋だ」俺はしどろもどろで答えた。

「…それならば歓迎しよう」男の一声に、それまで恐ろしい形相をしていた連中が皆一斉に笑顔を貼り付けると俺を社まで案内してくれた。

 

その社は非常に古く、いつの時代から在るものかと尋ねても皆、『知らない』と首を横に振る。社の中はきれいに整頓されており、奥まったところに書簡がいくつか詰まれていた。その中の一通を手にとって開いてみる。

書いてある文字は幸い俺の知識の範囲の中で解読できる程度のもので、内容を紐解くと、祀られているのは【櫻緋比売】(おうひのひめ)と呼ばれる櫻の神様で、建久元年にこの社が建てられ、そのときに奉納されたものがこの古文書と言うことらしい。

鎌倉の時代か…。昔、親父から習った歴史を思い出してみる。

「大昔の出来事だな」俺は呟き、その書簡を畳んで、括った。それからもとあった位置に戻し、他の書簡を手に取った。

「あんた、それが読めるのかい?」巫女の格好をした女が手に持った書簡を指して尋ねた。よく見れば、その女は先ほど殺気立った邑の連中に待ったをかけた女だった。

「ああ、昔、おっとうから読み書きを習ったからな」俺は手に取った書簡を元在った場所に置くと、櫻緋比売の彫像に手を合わせた。

「へぇ、あたしも長老に教わろうかね」屈託なく笑うその女は他の村人とは異質に思えて仕方なかった。

「教わってみると良いよ。さて、俺も皆の手伝いをさせてもらおうかな」そう言うと俺は神楽を舞う為に組んでいると言う、櫓組みを手伝う為に社の外に出た。

 

凛とした空気がそこには在って、自分の立っている場所が聖域である事を思い知らされる。大きく息を吸い込むと目を瞑り、静かに吐き出した。神が我が身に宿ったような錯覚をおぼえた。

 

櫓を組む為に用意された木材はどこから用意してきたのだろうか、非常に材質が良く、高値で取引できそうなものであった。

それを担ぐと、社を囲むように配置された六つの土台に運ぶ。十尺程の高さにまで組み上げていく。

雨が小降りになり、作業がしやすくなると、何処で雨宿りをしていたのだろうか、村人が集まってくる。俺もそんなみんなの中に混じって黙々と櫓を組む。

 

湿った木材の匂い、土の匂い。

そう言えば畑仕事なんてどれだけやっていないんだろうか?両手にこびり付いた土の色を見つめた。

 

結局、二基の櫓を立て、その日は酒盛りになった。この酒盛りも祭りの一部らしい。【櫻澤祀】まであと六日。それまでに櫓を後七基立てなければいけないらしい。この雨で作業は遅れているとの事だった。

「それなら、俺も手伝ってやるよ」無意識について出た言葉が俺を誘う。

「それはありがたいのぅ。明日もお天道様が昇りそうもないから、手伝ってもらえないものかな?」少し貫禄のある男が俺の杯に酒を注ぎながら言った。

「わかった。明日も来よう。おっと、そろそろ日も暮れる、翁のところに戻らねば」俺はそう言うと麻袋を持って立ち上がった。

「おうおう、気を付けて行きなされ。行きは良い良い、帰りは怖い…だからのぅ。ほれ、これを持っていくといい」そう言うと男は麻袋に野菜を詰め込んでくれた。

「かたじけない。それではまた明日…」俺はそう言うと暗く濁った世界に実を投じた。

 

雨は昼間に比べて強くなっており、雨粒が身体に当たると痛いくらいだった。それでも、俺は山道を駆け下りる。足元の道はもちろんぬかるんでいて、何度も転びそうになるが、獲物を追いかけて駆け抜ける山野に比べればまだまだましなものだ。半刻かけて帰り着いた翁の家では翁が夕食の準備をして俺を待っていてくれた。

 

「どうじゃった?」翁はすっかりと白くなった髭を撫でながら尋ねた。

「明日も手伝いに行く事になりました。翁、宜しいでしょうか?」俺は何故か翁に伺いを立てた。

「構わんぞ、おぬしの相方もほれ、草鞋を巧く編めるようになってきたわい」翁は嬉しそうに一角に積み上げられた草鞋を見て、目を細めた。相棒に声をかけようと思ったが、既に横になっていて高鼾をかいていた。

翁と夕食を食べ、眠りに落ちる。こんな日々が当たり前に成りつつあった。

 

 

 

 

随分と前から、妙な頭痛が続いていた。そして、全身を覆うように停滞する倦怠感。いよいよこの身体も終わりなのかもしれない。手を伸ばせば届きそうなくらいに空が近い場所。そこで終わりを迎えようとしている。何故こんなところに居るのだろうか?疑問符が浮かんで消える。

 

-一体、どれ位の間、ここに留まっているのだろう。

 

痩せ細ってしまった自分の左手首を右手で掴んでみた。指と手首との間に出来た空洞が気持ち悪いほどに大きく開いてしまう。そして、ぜぃぜぃと言う自分の呼吸音がやけに耳に付くのだ。

本当にこのもう、何の役にも立たないであろう手を伸ばせば空に散った星を掴めそうな、そんな錯覚を憶えて両手を精一杯に伸ばした。星は掴めるわけもなく虚しく両手は空を切った。

 

村祭りは無事に終わったのだろうか?だとしたら、今年は豊作だと良いな。おとんも、おかんも優しく成ってくれるかもしれない。そんなことを考えていたら視界が涙で滲んだ。叶うことの無い願いだと知っているから。

 

ぜぃぜぃ…肺が焼けた針で突き刺されたように痛む。さっきよりも視界が朧になって星だかなんだかわからなくなる。ゲホ、ゲホッ…鉄の味が口の中を満たす。嗚呼、どうして。

 

どうして。

 

どうして。

 

どうして。

 

どうして…。

 

どうして、こんなにも苦しいのだろう。

 

 

 

 

櫓の上には白拍子。鼓の音と、笛の音と、櫻の木々のざわめきが一つになって呪詛を練り上げていく。

 

【櫻澤祀】-【地蔵憑き】の儀が始まった。

 

白拍子を舞う女はこの間から俺に話しかけてくる気さくな女だった。今は般若の面を着けているので表情はわからないが、醸し出す雰囲気からして相当に真剣な顔をしている事だろう。

女が天に向かって扇を翳した(かざした)。鼓と笛が止み、木々のざわめきだけが残る。

「紅葉様。【地蔵憑き】の儀を執り行います」恭しく翁が紅葉様と呼んだ白拍子の女に頭を下げると、俺に「さあ!」と声を掛けた。

俺は前日に打ち合わせた通り棺に入った地蔵を担ぎ上げる。そして、それを櫓の上まで運ぶのだ。連日の雨でぬかるんだ地面に草鞋ごと足が沈み込む。一体どれくらいの重さのものを俺は担いでいるのだろうか?

一歩一歩、櫓に続く道を踏み締める。担いだ地蔵が意志を持っているかのように重くのしかかってくる。腕が痺れ始め、間接が悲鳴を上げる。

漸く俺は梯子の前に辿り着いた。見上げる櫓はやけに大きく聳え立っていた。ここから先足だけで不安定な梯子を上らなくてはいけないらしい。俺はその貧弱に構える梯子に足をかけた。ギシィと嫌な軋みをたて梯子は反った。

「何をしている?早く上がって来い」いつもの温厚な翁の顔はそこに無く、儀式を取り持つ神官としての役目を担った悪鬼羅刹の顔をした老人がそこに居た。俺は一歩一歩を踏み締めながら櫓の天辺を目指す。

ギシ、ギシ、ギシ…俺の踏み込んだ段の梯子が歪み、厭な音を出す。それでも俺は歩を休めずに一歩一歩を踏み込む。漸く、翁の足元と白拍子の女の姿が見える。あと少しだ。既に肩や腕の感覚は無くどうしようもなく重たい丸太二つを身体全体で抱えているような錯覚を覚える。

一歩一歩が妙に長く感じる。重さに耐えられなくなりそうだ。でも、何とか力を振り絞り櫓の上に立った。

「そこに置け」翁が白拍子の女の前に建てられた祭壇を指して言った。俺は翁に従い、棺を祭壇に置いた。

「紅葉様、このものに御霊は篭っていましょうや?」通る声で翁が問う。

「否、蛻(もぬけ)の殻じゃ」怒りに満ちた声で白拍子の女は答える。

「このものに御霊を篭めましょうや?」翁は若干声を押し殺して問う。

「贄を、このものに篭める御霊の主をここへ!」髪を振り翳し、扇を煽って白拍子の女は叫んだ。村人たちがざわざわと騒ぎ出す。

「今年の贄は誰だ!」翁が叫ぶ。ざわめきが一際大きくなり「あ、逃げたぞ」と誰かの叫ぶ声。見下ろせば確かに誰かが背を向けて山裾のほうに駆け出していくのが見えた。

「追え!追うんだ!紅葉様の…【地蔵憑き】の儀式を止めた報いは大きいぞ!」翁が真下に居た神崎家の党首に指示を出した。

「逃げたのは今年の贄の神谷の家の須惠じゃ!神谷のものよ、お前たちの一家で捕まえここに連れて来い!さもなくば、邑の掟で…」掟と言う言葉を聞いて神谷の家のものの顔色が変わる。

「榊様、他のものは?」神崎が翁に尋ねる。

「神堂家、神尾家、神居家、神塚家、神田家は神谷を追え!捕らえた家は今後、神谷家と入れ替えて地蔵守として迎えよう!」翁はそう叫ぶと俺と白拍子の女に向き直った。「見苦しいところを見せてしまったな」翁はそう言うと俺の肩を叩いた。

「どうなさるおつもりです?」白拍子の女はひどく不機嫌そうに翁に尋ねた。

「神谷の女は勿論、贄として差し上げましょう。加えて、神谷の女の中でももっと若い多恵も贄として差し上げましょうぞ」翁はそう言うと恭しく女に一礼をした。

「承知した」女は酷く冷たい声でそう言うと祭壇の前に置かれた棺を愛おしそうに眺めて、再び舞を始めるのだ。俺は雨風の中で揺ら揺らと揺れる白拍子に見とれていた。

 

さくら

さくら

さくらのうみの

おには

いついつでやる

よあけのばんに

おにと

かみが

ちぎった

 

白拍子の女の透き通る声が歌い上げる悲しい唄。それを何度も繰り返し歌うのだ。聞きなれてくるうちに疑問が浮かぶ。

 

櫻ノ海の鬼って何だ?

鬼と神が千切るって?

 

「これは何の儀式だ?」思ったことが口から零れてしまった。拙いと思ったときには既に遅く、翁が俺の隣に立っていた。

「夢枕に立たれた紅葉様が教えてくださった、この村を災厄から守るための儀式じゃよ。【地蔵憑き】。紅葉様のお姿を地蔵にし、地蔵を作ったものの家から地蔵に成るための儀式なのじゃよ」翁の顔には狂気とも恍惚ともつかない表情があり、俺は背筋が寒くなるのを覚えた。

「そしてのう、今年は特別な年なのじゃよ。先祖の代から執り行ってきたこの【地蔵憑き】の儀式も各家が十回ずつ持ちまわったのじゃ…」翁は目を細めて言った。

「これで【地蔵憑き】は終わるのじゃよ。これで我々にも平穏が訪れる」妙に柔らかい笑顔になって翁は空を見上げた。

 

 

暫くしてから逃げ出した女とその妹が櫓の上に連れてこられた。逃げた女は二十歳も済んだ頃合か、肌蹴た胸元が雨に濡れ、妙に艶かしい。妹のほうは年端も行かない娘だった。二人は後ろ手に縛られていたが、翁の命で俺がその縄を解く。姉のほうは錯乱し、猿轡された口からなにやらモゴモゴと叫び続けていた。妹のほうは既に諦めているのだろうか、抵抗一つせずにまっすぐに祭壇と棺を見つめているように見えた。

「【地蔵憑き】の儀を再開する」翁は櫓の下に集まった人々に叫んだ。

 

鼓と太鼓と女の唄と風と雨と木々のざわめきと人々のどよめき。

 

その一つ一つが吸い込まれていくように祭壇に置かれた棺の窓は暗く深いのだ。半刻ほど舞を踊り、白拍子の女はようやく静かになった姉の前に仁王立ちに立つ。どこから用意したのか、その右手には扇はなく、とても不恰好な斧とも鉈ともつかないものが握られていた。

「~~~~~~~~~~~~~~~~~」

なにやら経のようなものを唱えて白拍子の女は鉈を静かに掲げた。そして、かすかにその先端が揺れたかと思うと神谷の姉を袈裟斬りにした。

雨風の中に血飛沫は舞い、白装束に禍々しい赤い斑点を残した。妹はただ祈るように手を合わせ、ガタガタと震えていた。

「秘薬をここへ」白拍子の女が翁に静かに命じた。

「…はい」翁は女の命を受けると、既にその秘薬を持っていたらしく懐から紙に包まれた何かを手渡した。

「神谷の女、そなたの姉は紅葉様を裏切り、邑を裏切った。その罪は重く、そして深い。そなたの家の悪徳を雪ぐにはそなたにこれを飲んでもらう」女は妹の口を無理矢理抉じ開けるとそれを注いだ。

「う…、げほっ、げほ…」粉薬を注ぎ込まれて妹は咽るが、女は構うことなく最後まで薬を注ぎ続けた。

妹は白目を剥き、だらしなく緩んだ口角からは薬と唾液の入り混じったものが垂れ落ちている。なんとも怖気のある光景だろう。

「【地蔵憑き】の儀はこれにて終わった。今年も災いなく平穏が邑に訪れるであろう」翁は痙攣を起こす妹を横目に、櫓の下に向かって叫んだ。

白拍子の女は静かに妹の傍に屈み込むと妹を抱き上げた。

「約束通り、この娘は…」そう言うと櫓の梯子をゆっくりと降り、彼女は俺と翁の視界から完全に消え去った。

「翁…」俺はただ、そう呟くしかできなかった。

 

 

幾日が経ったのだろう?

相棒は今日も山に出かけている。俺は天井を見ていることしかできなくなってから、どれくらい経ったのだろうか?

軽く拳を作ろうとして右手に力を入れるが手の感覚がない。これはどういう事なのだろう?

ガラガラと引き戸が開き、見知らぬ女が入ってきた。ひたひたと妙に耳につく足音でその女は俺の枕元に跪いた。

「…お前は?」俺は何とか言葉を振り絞り尋ねた。

「解き放ってあげるわ」女はそう言うと懐から何かを取り出した。

 

 

熱い。

 

灼けるように熱いのだ。

 

俺の胸が熱いのだ。

 

ああ。

 

 

 

 

それは、深い深い森の中。

 

それは、忘れられた祭壇。

 

それは、血塗られた過去。

 

 

この三連句を何処で聞いたのか、既に記憶が薄れてしまっている。

 

「…世界を呪って逝くといい」冷たい言葉が頭の上から落ちてきた。

「どうして、あたしが!」天に唾を吐きかけるように、それは虚しい行為だとわかっていた。わかっていたが、そうしないと気が済まなかった。あたしはじたばたともがいて見せた。

クスっと笑い声が聞こえ「…どうして?自分の血に訊ねればいい」人を馬鹿にするようなその声はどこかで聞いた声だった。記憶を辿るが思い出せない。胸に何か尖ったものが押し当てられる。

何の冗談だろう?

あたしの皮膚はその冷たく尖ったモノが痛いと悲鳴を上げている。痛みは鼓動に合わせるようにして一定感覚であたしの痛覚を刺激し続けている。ゆっくりと生暖かい何かがあたしの身体を伝ってくる。

「ほら、教えてくれない?」耳元で囁いたその声は酷くざらついていた。

酷い痛みがやってきて。

酷く苦しくなって。

もがいて、暴れて、そして真っ暗になった。

 

 

「脆いものね」もう、動かなくなったそれは涙と涎と鼻水と、その他諸々を垂れ流して転がっていた。思ったよりも事はうまく進んでいる。手にしたアイスピックからぽたりと、赤い汁が床に滴った。

 

地蔵守は未だに続いている。

あのときの過ちを償う為に。

 

はじめのひとつは男だった。

この神域を侵した愚かな男。

神罰は下され男は無に帰る。

愚かな男は何もわからないまま逝った。

(過去-翁の家に閉じ込められた相方)

 

ふたつめは退屈な女だった。

不届きにも神事を侵した女。

鉄槌を受けて女は事切れた。

あやつり人形は糸を切られ棄てられた。

(過去-神谷 須惠)

 

みっつめは不幸な女だった。

家族の汚名を晴らすために。

無駄に短い命を削り取られ。

星空に手を伸ばし思いを馳せて散った。

(過去-神谷 多恵)

 

動かなくなったそれを蹴ってみる。弾力の無くなったサッカーボールのように、鈍く爪先を飲み込む。地獄のような現実から抜け出せて良かったね。不愉快に虚ろな眼をしたそれをもう一度蹴りつけた。

 

 

「これは儀式なのだ」血の臭いの密度が増した小屋の中で呟く。

 

-なんて言ったっけ?

 

これらふたつのヒトカタの名前。確かに自己紹介をしたはずなんだけどな。もう、思い出せないや。

暫く煙草を吸ったり、お茶を飲んだりして気持ちを落ち着かせていたがどうにも鼓動が収まらないのだ。

小屋の片隅に置かれた一際大きなビニールの買い物袋。その中から新品のゴム手袋を取り出した。マスクも在ったほうが良いかもしれない。花粉症用のマスクを取り出して装着する。ゴム手袋をし、一緒に買っておいた雨合羽を着込む。一見すれば非常に怪しいのかもしれないが、こんなところにこれる人間なんて先ず居ないのだから。

若干覚束ない足取りで先日動かなくなったほうに近付いた。恐怖の張り付いたその顔を見下ろす。眼はもう乾いて窪んでいた。視点は定まっていない。足元に転がった鋸を手に取るとそれの首の部分に宛がった。そして、少しずつ力を込めていく。

最初はプツリと、それからぐちゃぐちゃと、そしてゴリゴリと。やがてゴトンと音を立ててそれはボーリングの玉のように床に転がった。

同じ要領で腕と足を分解する。それから腕と足をひとまとめにしてゴミ袋に放り込んだ。頭と胴体は引き摺って外に放り出す。

失敗した、と若干後悔する。やはりこれらを運ぶには無理がある。分解してみたものの頭だけでもかなりの重量があり、これらのパーツを櫻ノ海まで運ぶにはかなりの手間がかかってしまう。頭だけ持っていくことにしよう。小屋に戻りスーパー袋の中から安物のリュックサックを取り出すと頭を突っ込んだ。宵のうちに櫻ノ海に置いてこれば連中に気付かれる事も無いだろう。

後は窓の外にだらしなく放り出された胴体をどこか目立たないところに置いておかなければ。運ぶ気力も失われていたので、茂みの後ろに蹴り転がして小屋に戻った。相変わらずの血液の臭いと少しの腐敗臭。スーパー袋の中からファブリーズを取り出すと部屋中に撒布した。

 

あと一人。

あと一人で儀式は完遂される。

長かった。

これで救われるのだろう。

たましいが。

 

よっつめはただ受け入れた。

運命をしきたりを享受した。

神刃は深く鋭く切り裂いた。

運命の歯車が厳かに廻りはじめたのだ。

(過去-翁の家に迷い込んだ猟師)

 

いつつめは悲しきさだめに。

ただただ愛するものを追う。

幼い魂を託すと穏かに逝く。

来世を信じただもう一度廻り逢う為に。

(過去-白拍子の女)

 

そして狂気は現代へ持ち越された。

 

 

 

 

「しかし、皆川」三枝が俺の後ろから言葉を投げかけた。

「何だよ?」俺は息を切らしながら次の一歩を踏み出した。

「二人で大丈夫なのか?」不安そうな声を出すな、そんな事わかってる。

「いや、ダメだろ」俺はあっさりはっきりとそう言い切った。

「ダメって、お前…」嘆息しつつ、俺の後を追いかけてくる。

「アレだ、『男には負けるとわかっていても闘わなければいけないときがあるんだ』」俺は冗談交じりにそう言うと最後の一歩を踏んだ。

「あのなぁ、そんな宇宙海賊…」と言いながら俺の隣に並ぶ三枝。

「相変わらず厭な雰囲気が漂ってるな」俺は桜の樹に埋め尽くされた其処を指して言った。四分咲きくらいだったはずの桜はいつの間にか八分咲きほどになっていて薄紅色が視界を満たしている。

「皆川、アレ!」三枝が俺の肩を揺さぶって指差す方向に二つのヒトカタが見えた。

「…千秋と真夜ちゃんか」俺は二人の姿を確認する。濃厚な朝霧の向こうに見覚えのある服装。間違いなく千秋と真夜だ。

「行こう、皆川」言い終わるよりも早く三枝が駆け出す。

「ちょっ、枝さん!?」俺は三枝の背中を追いかける。結構な勢いで坂道を駆け下りてきたので肺が痛い。鼓動に合わせてジクジクと鈍痛が広がる。それでも歯を食い縛り歩を進める。

「真夜!」三枝が二人の前に飛び込んだ。

「あら、早かったわね」まるで俺たちが来る事を見越していたかのように千秋はにっこりと笑顔を作って見せた。

「…なんだと?」俺は三枝を除けると一歩千秋に近付く。

「この娘で最後なのよ」手には包丁。それを危なげに持っている。

「最後?何のことだ、千秋ちゃん」三枝が叫ぶ。

「貴方たちには関係のない事よ」そう言うと包丁を持った手を構える。俺は千秋と間合いを取りながらジリジリと真夜に近付く。近くで見る真夜は惚けたような表情をして突っ立っていた。

「関係ないってのは頂けないな?此処まで巻き込まれちまったんだ。この精神的苦痛、どうオトシマエつけてくれるんだ?」俺は千秋と真夜の間に入り千秋を睨み付けた。

「知らないわよ、そんな事。邪魔するなら排除するわよ」低く構え、千秋が猫が獲物を狙うように俺を睨み付けた。

「やれるものならやってみればいい」内心とは裏腹に余裕たっぷりの台詞を吐いてみた。

 

「後悔させてあげるわ」

 

ひゅ、と風を切る音と共に千秋が間合いを詰めてくる。手に持った包丁を大振りで振り下ろした。

俺は後退してそれを避けた。刃物を持った相手に対してってどうやってやりあえばいいんだっけ?

ふと、昔読んだ漫画を思い出す。こんな時に漫画かよ…自分の思考のチープさに苦笑しながら俺は構える。

「皆川っ…」三枝が心配そうな顔をして俺の名を呼ぶ。悪いが、そっちに構っている余裕など無さそうだ。

「枝さん、真夜ちゃんを連れて行け。少しだけ、こいつを足止めする」俺は地面の土を千秋に向って蹴り上げた。少量ながら顔面に到達したらしく、千秋は土を振り払う。

「真夜ッ、真夜、行くぞ!」まやを三枝は呆けた表情をしたままの真夜の手を取るとのろのろと歩き出す。

「馬鹿、おぶっていけ!」俺は三枝に向って叫ぶ。

「あ、ああ」そう言うと三枝は真夜を背負って歩き出した。後は俺がこいつを何処まで引き付けられるか…。

「あ…」

千秋が俺を無視して三枝に向って躍りかかる。そりゃそうだよな…。

俺はそんな千秋の背中目掛けて走る。もう少しで手が届く位置を追いつけない。千秋が包丁を振り翳し、無防備な真夜の背中に突き立てようとしている。

「こんちくしょう!」俺は地面を蹴り跳躍する。

風を切る。

音が無くなる。

見えているのは千秋の背中。

左足を曲げ、膝を突き出し、その背中に叩き込む。

ドン、と柔らかい肉に膝がめり込む衝撃。「ぐっ」少なくとも女性の上げる悲鳴ではない何かを吐き出して千秋は体勢を崩し前のめりによろけた。俺はそのまま慣性の法則と地球の引力に身を任せ千秋諸共地面に倒れこんだ。

どこか懐かしい土の匂いが鼻腔をくすぐる。俺は上半身を起こし、俺の下敷きになった千秋の背中に肘を落とした。

鈍い感触が肘を伝う。そして「ぐぅ」と言う肺と声帯を空気が抜け出る音。それでも、この女は手に持った包丁を離そうとしない。

俺は転がっていた手頃な石を掴むと、包丁を持つ右手の甲に叩き付けた。

ゴッ、ゴッ、ゴッ…。

三度叩き付けてようやく包丁を手放した。

「…ッ。はぁ…はぁ……」俺は包丁を拾うとダーツの要領で数メートル離れた櫻の樹に投げつけた。コン、と乾いた音を立てて、包丁は樹に突き刺さった。

「なんて事をするのよ…」千秋は右手を擦りながら俺を見上げた。

「武器は無いだろ、武器は」俺はそう言うとポケットから煙草を取り出した。

「どうしてくれるのよ、あの娘で最後だったのに…」千秋は憎々しげに俺を睨み付ける。千秋の事情なんて俺の知った事ではない。

「ええと、何だ。今までの大学生どもはお前の仕業なわけか?」俺は千秋から視線を逸らすと尋ねた。

「さぁね。そんな事…貴方に話しても意味無いじゃない」千秋はゆっくりと立ち上がる。俺の下敷きになって地面に直に倒れこんだ所為か服は泥だらけだった。泥も払わずに千秋はゆっくりと視線を俺に向ける。

「千秋ちゃんにとって意味が無いかもしれないけど、俺にとってはとても重要なわけさ。聞かせてもらえるよね、『全部』」俺はそう言うと千秋に近付く。

千秋の目は相変わらず憎しみを湛えている。その強張った顔が一瞬緩み、口元を吊り上げて千秋が笑った。

「あはははははは、皆川君。本当、君って良いキャラクターだわ。こーくんの言う通りね」一体、高塚と千秋の間でどんな会話があったのか想像する気力も沸いてこないが、大体の察しは付く、千秋の言葉を無視して俺は煙草をふかした。

「怖い顔しないでよ…」わざとらしい怯えた声で千秋は一歩後ずさった。俺はその一歩を詰める。

「…ねぇ、皆川君。もし、こうしているあたしの他に誰かが三枝君を狙っているとしたら?」千秋が不敵な笑みを浮かべる。コレは陽動だろうか?俺は千秋の意図を読みかねていた。

「どういう事かな?千秋ちゃん以外にもやっぱり誰か協力者が居るっていう事かな?」俺はできるだけ柔らかい言葉で尋ねる。『協力者』と言う部分にアクセントを置いてみたが、千秋の表情はピクリとも動かなかった。

「協力者、かぁ…どうなのかな」千秋は人差し指を唇に当てて考える振りをする。その態度が妙に様になっていて、高塚じゃなくても惚れるんじゃないか?とか思ってしまう。

「で、どうするのかな。み、な、が、わ、く、ん?」千秋が腰に左手を当てて、右手の人差し指を立ててポーズをとってそう言った。現実でこんな挑発をされると、非常に頭にくるという事が今回の件で良ぉく分かった。

「どうするも、こうするも無いだろ。俺が枝さんを追ったところで千秋ちゃんと協力者に挟み撃ちにされるだけだ。それなら、こうやって君の足止めをして置く方が幾分かマシじゃないかな?」俺は煙草を一気に吸うと、煙を千秋に向って吐き出した。

「そう言うところ…。本当に良いキャラクターだね」千秋の顔から笑みが消え、ゆっくりと二歩、後ずさる。

「皆川君、でもね。君、詰めが甘いね」千秋は俺がしたのと同じに足元の土を蹴り上げると、三枝たちが向った道へ背中を見せて走り出した。

幸い土は目には入らず、俺は木々の間にちらちらと浮かんでは消える白いトレーナー姿の背中を追いかけた。

 

 

そう言えば、起きてから、どれくらいの時間が経ったのだろう?

酸欠状態に近くなって意識が朦朧とし始めて、そんなどうでも良い事を考える。俺の前を行く千秋は思いのほか足が速い。少しずつしかし、確実に距離を離されていくのが分かる。

 

-…参ったな。

 

現状が如何に悪い方向へ転換しようとしているのか如実にわかってしまう。

 

-くそ、何とかならねぇかな…。

 

俺はぜぃぜぃと空気が肺を抜ける音を聞きながら千秋の背中を睨んだ。

「よう」

唐突に脇道から三枝が真夜を背負ったままで顔を出した。

俺は呆気に取られて暫く言葉を出せなかった。そんな俺を見て「どうした?皆川?」と不思議そうな顔で三枝は尋ねた。

「え、お前…」俺は自分が何を言いたいのかわからないくらいに混乱して三枝と真夜を交互に見ながら何とか言葉を発した。

「いや、疲れたから。そこの茂みで休んでた」俺の意志を感じてくれたのか、三枝は簡潔に状況を報告してくれた。

「あ、そう…」俺は切らした息の中から何とか溜め息分を確保すると、深くそれを吐き出した。

「…つか、追っかけないと、拙い…」俺は枯れた声でそう言うと、一歩前進した。

「だな。千秋ちゃんに、加藤だっけ、後は榊とか言う奴だろ…。前途多難だな」まるで他人事のように三枝は言うと俺の肩を叩いた。

「ちょっと、待て。お前…」俺は三枝を睨む。

「ああ、ワシはここで待機。後はお前の領分だろ?荒事出来ないし、真夜もこの状態だし。何とかして来い」三枝はそう言うと「ほれ、コレでも食べて体力を回復するといい」キシリトールのガムをポケットから取り出して俺に渡した。

「なんだよ…」俺はそのガムを受け取りつつ尋ねる。

「仙豆」多少、間を置きつつ、三枝はそう言った。

「へいへい…」俺はガムを三つ口の中に放り込むと、乳酸が溜まって重くなった足を上げ、櫻澤邑へと向うのだった。

 

 

 

 

皆川達が飛び出していってどれくらいの時間が経ったのだろうか?

時間の概念は薄れ、俺は気だるそうに寝ている三国と継寛を見た。まぁ、幻覚キノコを食べたのだ、多少は気だるいだろうよ。随分と小さくなった焚き火の傍で呉葉が膝を抱えて、虚ろな表情をして焚き火に見入っている。どうしたものか。その傍らには皆川が捕縛した加藤が両手両足を縛られて転がっている。この状況、耐えるのは少々厳しいな…。

「ねぇ」スッと顔を上げて呉葉が俺を見た。妙に鋭い視線で俺を見ている。

「なんだ?」俺はその視線の鋭さに内心身震いすると、呉葉に注目した。

「裕は大丈夫かな?」視線をそらすと、不安そうな声色でそう言った。

「あいつの事だ、胸に杭を打ち込まれても生きて帰ってくるさ」俺は思ったままに答えた。根拠のない答えだが、今まであいつと釣るんできた数年間を振り返ると、あいつは常識の規格外から何らかの結果を齎してきた。

「まるで、化物ね」クスっと笑って呉葉は立ち上がる。

「言えてる。あいつは化け物みたいなものだよ」俺は率直な意見を述べた。

「ふぅん。あたしと同じかぁ…」焚き火の照り返しが呉葉の表情を鬼の形相に変化させる。それに気付いてか、気付かずか、ゆっくりと呉葉は視線を回りに向ける。

「どうした?」俺は妙な汗が噴出してくるのを感じつつ、のっそりと、立ち上がった。

「どうもしないわ」呉葉は加藤を見下ろせる位置に立ち、ゴミか虫けらでも見るような目で彼女を見た。

 

「………」

 

妙な沈黙が俺たちの間に流れる。

なんだろう、この胸騒ぎは。多分良くない事が起きる。それは間違いないが、それを喰い止めれるかわからない。

「高塚さん」呉葉は俺の名前を静かに呼んだ。

「改まって、なんだよ?」俺は呉葉の一挙一動から目を離さないように注意し、足元に転がっていたバーベキュー用の鉄串を拾う。

「裕を探しに行ってくる」呉葉はそう言うと、踵を返し、櫻ノ海に続く道を駆け下りていった。俺は成す術もなくその小さな背中を見送った。

それにしても、この妙な胸騒ぎは何処から生まれ来るものなのか?消えた呉葉の背中が最後にあった場所から視線をはずすと自分の鼓動に合わせて震える鉄串の先端を見つめた。

 

ドクン、ドクン、ドクン………。

 

静寂の中に自分の鼓動だけがやけに耳障りな騒音となって響くのだ。

 

ドクン、ドクン、ザッ、ドクン………。

 

「ん?」その違和感に気付いて視線を向ける。

「よう」そいつはそこに立っていて。何事もないように俺に声をかけた。

「榊…」俺はその妙にがたいの良い男の名を零した。

一瞬、自分の名を呼ばれたことに対してだろうか、不思議そうな表情をしてから、「ええと、あの時皆川と一緒に居た奴だな。皆川は何処だ?」と俺を睨み付けた。

「しらねーよ」俺は榊を睨み返して言う。

「隠すなよ?ただ、俺は借りを返しに来ただけだ」そう言うと、一歩踏み出す。は、こんな山奥までご苦労なこった。

俺と榊の距離は14,5m程か。よっぽどの達人ではない限り、そう簡単に間合いを詰めれるような距離ではない。俺は榊がもう一歩踏み出すのをゆっくりと観察する。

「本当にしらねーんだよ。ちょっとな、『櫻ノ海』まで出かけてるってこと位しか俺にはわからないんだよ」俺は右手の鉄串を袖口まで引っ込める。

「『櫻ノ海』だと?」榊は表情を曇らせると歩みを止めた。

「ああ。ってか、俺たちに用が無いなら、皆川を追えよ?」俺は榊を睨み付けた。

「………。此処で待たせてくれって言っても、断られそうだな」にやっと口元を歪ませて榊は笑った。

「もちろん、断るさ。あんたと皆川のいざこざだろ?俺には関係ない」俺はきっぱりと言い切ると榊を睨み付けた。

「…やっぱ、待たせて貰おうかな?お前あたりを血祭りに上げてさ?」言い終わらない先に、榊は俺との間合いを詰めてくる。全く、予想通りの莫迦だ。俺は隠し持った鉄串を榊の太腿に向けて放った。と、同時に足元に転がっている鉄串を何本か掴み取ると、左手に持つ。

「うおっ」榊の驚愕の声。ギリギリで避けたのか、鉄串は榊の足元の地面に刺さっている。俺の腕も鈍ったものだな…。自分の衰えに若干落胆すると、左手から一本鉄串を右手に持ち替えて構える。

「この、へなちょこっぽいくせに…」榊は妙に俺を苛立たせてくれる。ってか、へなちょこっぽいって何だ!

「ってか、寄るな!」俺はもう一度榊の太腿に狙いを定める。足さえ押さえておけば大体どうにかなるものだと、何処かのライトノベルで読んだような気がしたからだ。

「物騒な奴だな」榊は肩を竦めてみせる。

「どっちがだよ!」俺は榊の足元に狙いをつけて鉄串を投げた。今度は狙い通りに榊の右足の側に突き刺さる。

「危ねぇな…」榊はその鉄串を引き抜くと俺に向って投げ返すが、見当外れの方向にすっ飛んでいく。

「何したいんだ、お前?」俺は投げたままのモーションで固まっている榊に哀れみの眼差しを向ける。酷いノーコンだ。コレじゃ、どうしようもない。

「うるさい、エモノを使うのは苦手なんだよ」榊は掌を握り締めたり開いたりして拳ならいくらでもやれる、と言うことをアピールして見せた。

「だからなんだ?こっちは狙いを定めれば、お前を行動不能に出来るんだぜ?」俺は鉄串を榊の顔面に向けて見せた。

「………あのなぁ、それ、洒落になってねぇぜ?」榊は苦笑いを浮かべる。

「何言ってやがる。現状だって洒落に成っちゃいない。この邑で何人の人間が死んでるんだよ。ここは日本だぜ?」俺は引こうとしない榊とガンの飛ばし合いをはじめる。こう言うとき、皆川との冷戦をしておいて良かった等と馬鹿げた昔話を思い出すわけで。

「そんなこと知った事か。俺はただ、皆川にリベンジしに来てるだけだ。誰が死んでいようが俺の知った事じゃない」榊はそう言うと、どっかりと地面に腰を下ろす。

「おい!?」俺は榊の意外な行動に戸惑う。

「好きにすれば良い。俺はここで皆川を待つ。お前らには何もしない」榊はそう言うと俺に背を向けた。

「良い度胸だな」俺は榊の背中に蹴りを入れた。

「うお!?お前!?」前のめりに突っ伏す榊。その表情は引きつっていた。俺は問答無用で鉄串を榊の首に宛がう。

「動くなよ?動いたら、全体重を乗っけてお前に倒れ込んでやる」俺は榊の腰からベルトを引き抜くと、手首を縛った。

「なんて、へなちょこっぽいのに卑怯なんだ…」榊は失礼な事を堂々と言う。

「お前の勝手な思い込みだろ?しらねーよ、そんなこと」俺はそう言うと榊のクソ重い図体を引き摺り、加藤の横へ転がした。

「皆川に負けるならまだしも、お前なんかにやられるなんてな」自嘲気味に榊が笑う。

「背中向けてりゃ、誰だってやられるだろ。お前、莫迦だろ?」俺は加藤の靴紐を解くと、榊の親指を縛る。こうしておけば、ベルトの縛りを解くことなんて出来はしないだろうからな。

しかしながら、どうしたものだろう。三国も菅沼も起きそうに無い。皆川と三枝も帰ってきそうに無い。

なんだ、この中途半端な孤独は!ええと、ストックホルム症候群?すんげぇ、目の前の莫迦が昔からの知り合いみたいな?ああ、胡散臭い。

「ああ…莫迦な事をしたものだ」榊はちくしょうと呟き、目を瞑った。

「まぁ、俺で良かったよ。皆川を相手にしてたら、身が持たないからな」俺は哀れみの眼差しをもって榊を見る。皆川に関わらなかったら、こんな山奥でしかも、俺にふんじばられる事は無かっただろうに…。

「ん…?」榊が何かに引き寄せられるように視線を空に向けた。つられて俺も暗く濁った空を見上げる。いつの間にこんなにも曇っていたのだろうか?

「雨が…」榊の呟きが聞こえたかと思うと極大の雨粒がボタリと地面を穿った。妙に不吉な滴だった。数秒、間をおいて、まるで弾丸のような雨粒が降り注いだ。

「うお!?何だこれ!?」俺は当たると痛い、その雨粒に驚愕した。

「おい、これ、解けよ!」榊が雨の穿つ土に塗れて俺を見上げた。

莫迦か、お前を自由にしたら俺があぶねぇわ」俺はそう言うと、テントに駆け込んで、くたばりかけの三国と菅沼を叩き起こした。

「…ひっでぇ夢だ」菅沼がこめかみを抑えつつテントから顔を出す。

「何事だよ、これ」続いて三国がテントの中から外の様子を伺う。

「突然振り出した。ってか、妙な奴まで紛れ込んで、今大変なんだが。お前ら取り敢えず自分の身は自分で守ってくれ。俺は自分の身を守るので精一杯だから」そう言うと俺は榊のところまで駆け戻る。水道から水を撒いているかのように絶え間ない雨粒は数秒で俺の全身をずぶ濡れにする。

「何だってんだよ、この雨は」視界が一気に狭まる。

「ってか、その女、早く起こさないと死ぬぜ?」榊の言葉にハッとなって加藤を見ると、恐ろしいことに雨粒が跳ね上げる水飛沫で陸上で溺れかかっていた。哀れにも口を塞がれている為、榊のように言葉を出せずに居るのだ。急いで上半身を起こしてやると猿轡代わりのタオルを解いてやった。

「げほっ」いきなり咽ると、そのまま喘息のように咳き込む。なんだか痛いところに水が浸入したらしい。ま、死ぬってことは無いだろうけど、死ぬほど痛いんだよなぁ…。なんて加藤が咳き込んでいるのを他人事として見守ると、一向に収まりのつかなさそうな空を見上げる。

「おい、お前」榊が俺を睨んでいる。しかし、そんな榊の表情すらはっきりと見て取れないほど雨は激しく降り続いている。

「『お前』は止めれ」俺は榊を見下ろす。

「んだとぉ?」俺の口調にムカついたのか、榊はさらに鋭い視線を持って俺を睨み付けた。

「高塚浩志だ。苗字でも名前でも好きなほうで呼べ、榊」俺は榊の視線に態々視線を絡ませるとそう言い切った。榊は一瞬戸惑いの表情を浮かべたように見えた。そして、俺から視線を逸らすと一呼吸置いてから「高塚、この状態だと殺しまくってる奴に不意打ちでもされたら終わりなんだがな?どうだ、お前らのテントに避難しないか?」とはっきりとした声で言った。

「ち。この際仕方なさそうだな…」俺は榊の提案に舌打ちしつつ応じると、榊の脚の拘束を解いた。

「全く…。けち臭いな?腕のほうも解けって」榊が不満そうに顔をしかめて見せるが、俺はそれを無視した。

「って、あたしは少しも解いてくれないわけ?」加藤はいつの間にあの咳き込みから復帰したのか、涙目で俺を見ている。無論、こんな危険な女に同情する余地も無く「当たり前だ」と言い放った。

 

 

「で、こいつを運べば良いわけか?」菅沼が面倒臭そうに加藤を担ぎ上げた。

「よろしく頼むわ」俺はそう言うと千秋、皆川や三枝。そして呉葉が消えた道の先に目を凝らしてみる。雨のカーテンが、厚くかかっていて深い森がさらに深く感じられた。誰か帰ってこないものかと暫く立ち尽くしてみたがただ雨が降り続くだけで何の進展も見せようとしない現実がそこに横たわっていた。

「こー君、何してんの?」菅沼が振り返って俺に声を掛けた。

「いや、なんでもない」俺はそう言うと、菅沼の後を追う。

本当に鬱陶しい雨だ。足元は既に小さな川のように降り注いでいる雨がまとまって流れ始めている。ぐちゃぐちゃとずぶ濡れになった靴が音を立てる。全く、なんだってこんなときにこんな勢いで雨が降るんだよ。

「お帰り」テントに戻ると三国がニコニコと笑いながらタオルを手渡してくれた。

「サンキュ」俺はそのタオルを受け取ると、ずぶ濡れになった頭を拭いた。

「それにしても、酷い降りだねぇ」他人事のように三国はテントの外を覗いて言った。

「ってか、この状態だと、暫く身動き取れそうに無いな…」菅沼が加藤をテントの隅のほうに転がすと溜め息混じりに言った。

「確かにな。で、彼は?」三国は榊を一瞥して俺に尋ねた。

「皆川の知り合いらしい」俺は榊を見ながら三国に説明した。

「へぇ?で、何で縛られてるの?」三国は榊の腕を指して小声で俺に尋ねる。

「いや、真っ当な知り合いじゃないからさ」全く、皆川め、厄介事ばかりを増やしやがって…。こう、少し落ち着いてくると苛立ちが募るわけだが。そして、千秋は無事なんだろうか?何て人の心配さえできるようになる始末。割と俺の心は頑丈に出来ているものだな、と感心してみる。

「で、この状況、どうするんだよ?」榊が口を開く。

「どうするって言われてもな?皆川達が戻ってこない事にはどうにもならないわけで」俺は三国、菅沼を顔を見合わせた。三国も菅沼も無言で頷き、取り敢えず俺たちの意思は皆川達が戻ってきてから、と言うことでまとまったらしい。

 

 

 

 

雨が降ってきた。

とても大きな雨粒がボタッボタッと地面に落ちる。

血液も雨も同じように地面に痕を遺すんだなぁと、少し感心する。

妙に足が軽い。

既に獣道となった山道を駆ける。

あたしの目的地まであと少し。

彼等はどんな表情をするのだろうか?

彼等はあたしを怨むだろうか?

でも。

でもね。

これは仕方なかったのよ。

うん。

 

髪を伝って雨があたしの顔を濡らす。

雨とは別の暖かいものが頬を伝った。

 

それは顎の先端までゆっくりとあたしを這いずり回って、そして微かな熱を残して落ちた。

 

 

何であたしは泣いているのだろうか?

 

 

雨が強過ぎて視界は灰色にぼやけて見える。

地蔵の列が黒い人影となって辺りに立っている。

その間を縫うようにあたしは山道を駆けるのだ。

このひどい雨の所為で全身がずぶ濡れで、一歩踏み出すたびに靴はぐちゅぐちゅと不快な音を立てるのだ。

泥濘に足を取られて無様に転んだ。

幸い傷や痛みを伴う要因はなく、泥だらけになるだけで済んだ。

この雨が洗い流してくれるだろう、この程度の穢れなど。

あたしは起き上がると再び走り出した。

 

視界が悪いったら…。

 

あたしの行く手を遮るのが、地蔵だか、木だかわからない。

それを巧みにかわしながらあたしは山道を駆け下りたのだった。

唐突に開けた視界。

しかし、そこはまだあたしの目的地ではない。

そして、人の気配。

 

「あら、貴女は…」その人物は意外そうにあたしに声をかけた。

「あれ、皆は?」あたしは言葉を返す。

「皆?なんの事かしら?」雨の所為ではない。背筋を冷たいものが伝う。一瞬、『惚けて(とぼけて)いるのだろうか?』なんて考えも過ぎったが、雨のカーテンにぼやかされた彼女の眼は真剣そのものだ。彼女は少し何かを考える素振りをしてから「ちょうど良いわ。貴女も…」とあたしとの間合いを詰める。

「…な、に?」あたしは泥濘に足をとられつつ、彼女の一閃をかわした。

「あら、外しちゃったか」彼女は舌を出して照れ臭そうに笑うと、再び猫のように身体を丸め、あたしに狙いを定める。

まったく、災難もいいところだ。

雨に霞んで、彼女がどんな表情をしているのかわからないが、多分とても残忍な表情をしてあたしを狙っているに違いない。

ため息を吐きつつ、彼女の出方を見る。

ゆっくりと彼女のシルエットが縮まっていく。どこまで彼女は小さくなる気なんだろうなんて、間抜けな思考が頭を掠めた。

 

刹那。

 

彼女があたしに向かって走り寄る。あたしは身を捩じらせて彼女の突進をかわし、彼女の脊髄を狙って肘を打ち下ろした。

 

『ずむ』と妙に間の抜けた衝撃が肘越しにあたしの身体全体に伝わった。そして地面に崩れ落ちる彼女。申し訳ないけど。

 

 

あたしはそれを地蔵の裏側まで引き摺った。軽くもなく、重くもなく、それは緩やかに地面を削りながらあたしに追従し、そして地蔵の裏側に置かれたそのときもただ雨に打たれ続けていた。

 

 

 

 

 

先ず。

 

踵を振り下ろした。

肉の感触がランニングシューズ越しに伝わる。若干咳き込んだように思えたが、雨音が五月蝿くてわからない。咳き込んだ割にはそれはピクリとも動かず、わたしはそれから布を引き剥がした。

布を剥がれた、生白いそれにわたしの降ろした踵のあとだけが赤く無様な文様を作り出していて、心の奥でなんだか清々しい気持ちになるのだ。

剥いだ布を近くの地蔵にかけると、その足元に転がっている地蔵の頭を持ち上げ、生白い肉塊のところまでけり転がす。

地蔵の顔が世界中を舐めるように見回して肉の塊に当たって止まった。

わたしはその地蔵の頭を持ち上げると、肉塊に向かって自由落下させた。

時間がゆっくりと流れているような錯覚、雨粒の一つ一つが止まって見える。

今度はこんなに酷い雨の中にも関わらず、グシャ、と骨が砕け肉を伴ってひしゃげる音がちゃんと聞こえた。

中に溜まっていた赤い液体がじわじわと染み出してくる。まるで地蔵と頭を取り替えたように地蔵の頭はその肉の塊にうまく重なっていた。

少し乱れた呼吸を整えると、わたしは一度深呼吸をして、足元を見る。土の色に濁った水溜りをあれから染み出した液体が朱色に染め上げていくのだ。

空からは今尚、大きな雨粒が狂ったように降り注いでいる。

そして、降り止みそうもなく、黒い雲が頭上一杯に広がっているのだ。

 

わたしは着替えると、山道に戻った。

最後のときを迎えるために。

 

 

 

 

どれだけ

 

どれだけこの雨は降れば気が済むのだろうか?

 

どれだけ

 

どれだけこの世界を悲しみで満たしていくのだろう?

 

 

もう、雨は地面に染み込むことを止め、脆い大地の上を流れていく。

俺は土砂降りの雨の中を走り続けていた。まったく、この間新調したばかりの革靴は泥と水で酷いことになっている。異常なまでに降り注ぐ雨粒が眼鏡にこびりつき、ただでさえ悪い視界を尚更悪くする。

千秋の足に何故、追い付けないのか。

「畜生」言葉を吐き捨てると立ち止まる。普段使っていない所為か、足が上がらない。まったく持ってここまでなまるなんてな。自分が情けなくなる。それでも、千秋をとっ捕まえないとやばい気がする。俺は走ることすらままならなくなった足を必死であげると、地蔵が整然と並んだ道の先を見上げた。

「あれ?」ふと人影がこちらに向かって降りてくる。

「あれ、ゆたか」呉葉は意外そうに俺を覗き込んだ。

「お前、こんなところで何してんだ?高塚達は大丈夫か?」俺は矢継ぎ早に質問を投げかけた。

「うん、大丈夫だと思うよ」呉葉はにっこりと笑うと俺に抱き付いた。俺はそんな呉葉を抱き締めると「あのさ、千秋に遭わなかったか?」と尋ねた。

「ううん、遭ってないよ?何かあったの?」千秋は俺から体を離すと俺を見上げるようにして尋ねる。

「いや、千秋が俺よりも先に皆のところへ向かっていたはずだから…」俺は千秋の後ろに続く山道を見上げて言う。

「そっかぁ。でも、あたしが降りてくるとき。誰にも擦れ違ってないよ」呉葉は俺と同じように山道を見上げて言った。

「そうか。で、お前…なんでこんなところに居るのさ?」俺は一人で雨の中を走ってきた呉葉を見た。

「ん、そりゃぁ。ゆたかに逢いたかったからだよ」呉葉はにこりと笑って俺の頬にキスをした。

 

妙に冷たいキスだった。

 

「嬉しい事を言ってくれるね」俺は呉葉を抱き締めると強引にキスをした。呉葉はゆったりと俺に体重を預けた。しばらく唇を重ねたままで立ち尽くした。

「ゆたか、そろそろ…」呉葉は俺に絡ませていた腕を解くと、俺から身体を離した。お互いの唇から唾液が糸になって伝う。雨粒に糸が切られたのがスローモーションのように見えた。

「ん」俺は呉葉の顔を覗き込んだ。

「そろそろ、行こう?」呉葉は照れたように俯くと、俺を促した。

「ああ、そうだな…」空を見上げても雨は降り止みそうになく、暗澹とした情景が広がっている。雨は一向にその振りを弱めずに俺たちに降り注ぐのだ。

「うーん、それにしても千秋はどこに行ったんだろう?」俺は首を傾げる。俺は千秋の後を追って、この山道を駆け上がってきたはずだ。

それなのに、一番最初に出会った呉葉が千秋を見ていないという。

確かに、この山道であれば立ち並んだ地蔵の後ろか、または回り道でもすれば追っ手をやり過ごすことなんて容易なわけだし、この雨だ、身を隠すにはこれほどのロケーションもないだろう。

つまり、千秋が身を隠したとすれば、この雨の中で千秋を探すことはほぼ不可能だ。無闇に探し回って体力を浪費させるよりもどうせ現れるであろう俺たちのテントに戻って待ち受けたほうが得策かもしれない。

「うーん、わかんないよ。ええと、三枝さんと真夜ちゃんは?」呉葉は俺の腕に手を絡ませると詰まらなさそうに俺の腕を振って遊んでいる。

「…ああ、下のほうに居る。どうしようかな…先に枝さん達と合流したほうがいいか」俺は遊ばれていた腕の振りを止めると、呉葉を抱き寄せた。

「どうしたのよ、急に」呉葉は俺の行動に戸惑いながらも体重を俺に預けた。

「なんとなくだよ。なんとなく、呉葉を抱き締めたくなったんだ」そう言うともう一度、俺は呉葉に唇を重ねた。

 

 

三枝達とは何の問題もなく、すぐに合流できた。

相変わらず真夜は三枝の背におぶられていて、ぐったりとしていたが、先ほどのように話せないほどではなかった。

呉葉は真夜を心配そうに覗き込み、二言三言話をしていたようだ。俺はその間に少しでも雨の当たらない場所を探し、煙草に火を点けた。運よく火が点き、俺はしばらく振りの喫煙を堪能した。

 

「で、皆川」三枝が少し離れた場所に居る俺に話しかけてきた。

「なんだよ、枝さん?」俺は煙草を地面に落とし、爪先で踏み付けた。

「高塚たちは無事なのか?」三枝は少し心配そうな表情で尋ねる。

「しらねぇよ」俺は即答する。

「は?」三枝が声を裏返らせて疑問符を投げ付けてきた。

「いや、だってさ。こいつと合流したの千秋を追ってた途中だったし、結局、この道ってさ一本道だろ?こいつに聞いたら千秋と出会ってないって言うから、どこか地蔵の裏か、木の陰に隠れたんだとしたら探しようがないじゃないか?」俺の言葉に三枝は納得したらしく「まぁ、どうでも良いけど、早く高塚たちと合流したほうがよさげだな」と山道の上を見上げた。

「しかし、こーくんも災難だなぁ」俺は思わず漏らす。

「ん?」三枝と呉葉が俺の顔を見る。

「だってさ、ようやくできた彼女があんなサイコさんだなんて、災難だなぁって思ってね」俺は心底高塚に同情しつつ二人の同意を求めた。

「まぁ、あれはあれで厄介ごとを引き込む性格してるから、当然と言えば当然だろう」三枝は身も蓋もないことを言う。俺より酷いことをサラッと言ってのけることが出来る彼はやはり俺の師匠だなぁ、と実感した。

「二人とも結構酷いね」呉葉が苦笑して俺と三枝を交互に見た。

「枝さんほどじゃないや」俺は三枝をジト目で見てカラ笑いをした。

「何を言うか、お主ほどではないさ」三枝は半ば笑いながら俺を指した。

「二人とも、仲良いねぇ」呆れたように真夜は俺たちを見て呟いた。

「そうでもないだろ」俺はサラッと言ってのける。

「うむ」三枝も俺に同意したように頷く。

「そういう所が仲の良い証拠なんだけどね…」呆れた顔をして真夜は呟いた。

「ねね、立ち止まってないでさ。皆のところに急ごうよ?」呉葉が心配そうに俺たちの間に割って入ってきた。

「ん、確かにそうだな」呉葉の言うとおり、高塚とラリッた二人じゃ非常に心配なわけで…。

「それじゃ、歩きますか」三枝はやれやれといった感じで背中の真夜を背負いなおした。

 

 

 

 

滞りなく、計画は進んでいる。

何の心配もする必要はないだろう。

先ほどから振り始めた雨。

大粒の雫が屋根を打つ音が室内に響いている。

静寂の中では非常に落ち着かないので、この雨は非常に有難いものだ。

簡易的なテーブルに投げ出したままの煙草のソフトケースを手に取ると残り少なくなった中から一本おみくじでも選ぶようにして慎重に引き摺り出す。

そして、またほとんどガスの残っていない100円ライターでそれに火を点けた。

煙草の味って、こんなだったっけ?

遠い昔に初めて煙草を吸ったときのように、何か新鮮な味がした。

神経が覚醒していくようなイメージ。

全身の神経が研ぎ澄まされる。

この空間を支配したような、そんな覚醒。

簡素なパイプ椅子から立ち上がると、窓の外に目を向けた。

まるで滝のような雨が大地に降り注ぎ、それは天罰でも下ったかのような一種異様な風景だった。

「仕上げのときは近いのかな」誰に尋ねたつもりだろうか。

自分の口から漏れた言葉に驚く。

こんな声をしていたのか。

随分と言葉を発していなかったような気がする。

この声はとても落ち着き払っていて自信に満ち溢れていた。

高くもなく低くもなく、ただ心身に響く安定した音色。

雨はただ真直ぐに地面を穿つ。

風もなく、停滞したままの雨雲。

その中にどれ程の水分を持っているのだろうか?

一向にその雨足を弱めるつもりはないらしい。

記憶の中の類例がないくらいに激しいその雨をただ見つめていた。

いつまでもいつまでもそれは降り注ぎ。

いつしか、この世界の罪を洗い流してくれるんじゃないかって。

いつしか、このわたしの罪を洗い流してくれるんじゃないかって。

そんな絶望に似た希望を雨の向こうに夢見ていた。

世界の犯した罪。

わたしの犯した罪。

どれ程の違いがあるのだろうか?

然程の違いもあるまい。

それならば。

もう一度だけ。

そう、もう一度だけ。

罪を犯そうではないか。

 

 

否。

 

 

これは罪ではなく。

 

正当なる――だ。

 

 

銜えていた煙草を吐き捨てる。

プレハブの床にそれは小さな小さな音を立てて落下した。

害虫を踏み潰すようにジワリと爪先に力を込めてわたしは煙草を踏みつけにした。フィルターの微かな弾力が靴底を通して爪先に-わたしに伝わる。

 

同じことなんだ。

 

『イノチなき』煙草を踏み潰すのも。

 

『イノチある』害虫を踏み潰すのも。

 

そして、ヒトを殺すのも。

 

 

雨はただ怒りの矛先をわたしたちに向けるように、降り注いでいた。

 

 

 

 

先ずは、この神域に踏み込んだ彼らを贄に奉げた。しかしながら、彼らには贄たる資格が無かった。士の血筋を継いでいなかったからだ。

わたしは血塗られた両の手に軽い絶望を感じたが、これは宿命だと思い直した。私に課せられた死命なのだと。