ledcannon’s diary

美作古書店

櫻ノ海 漆章

櫻ノ海

 

 

 

―最終章―

 


櫻ノ海-cherry blossom

 

 

 

 

 

 

 


第漆話

 

-終わりの始まり、始まりの終わり-。

 

 

 

そう、まるで夢の中のようなのだ。

途切れ途切れの記憶が蘇っては泡沫のようにぱちんと弾けて霧散する。

いつからこの牢獄のような現実に囚われていたのだろうか?

思い出しようがない。

しとしとと降り続く雨の中に血の滲みのような薄紅色の桜の華。その華は古くからこの邑にある『呉葉』という名の古桜に現れるそれと同じように不吉を染み込ませた華だった。

いったい、何時からこれらの桜は地に根差し、そして幾星霜を超えてきたのだろうか?毎年健気に咲く儚くも美しい薄紅色の桜の華はこの忌々しい雨によって散りかけていた。

風も出てきたようだ、まるでいじけた子供のように降っていた雨は癇癪を起こしたそれと同じように荒々しく窓を打ち付けていた。

 


まるで雨音だけがこの世界を支配しているかのような錯覚を覚える。

なんだか自分が此処に居ることが酷く現実離れした、御伽噺のような、叢話のような、妙な現実感の喪失。

だからこそ、今までわたしは遂行してこれたのだ。

喪失した現実感を銜えていた煙草の熱が取り戻してくれた。

雨音に混じって微かな焼ける音。

それに伴ってジワリと熱が唇に近付いてくる。

湿気でもはやいつも吸っている銘柄と別物の味になってしまったその煙草を吸い尽くすと、わたしはポケットの中のソフトケースを引っ張り出した。

残すところ一本となってしまったその煙草は酷く頼りなく、長年、社会というものと戦ってきた老人のように草臥れ果てて折れ曲がっていた。

酷く惨めな気持ちになって、わたしはその最後の一本を床に落として踏み躙ってみた。

葉を包んだ白い紙が破れて、中から茶色が-そう、まるで死んだ魚の腹を食い破って湧き出す蛆のようにパラパラと床に散らばった。

 


十一人。

 


贄を捧げる。

其れが定められた約束であり、遂行すべき私の目的。

 


そして、約束まであと一人。

 


長きに亘ったこの約束も、もう少しで完遂される。

 

 

 

 

 

 

千年近く昔に忘れられた約束。

でも、それは約束だったのだろうか?

文献に残された士送りの儀。

実家の納屋で見つけたひどく古めかしい文献には櫻澤邑と櫻ノ杜、櫻ノ杜にあるといわれる櫻ノ社-閻魔堂。そして、そこに祀られる宝物について書き記されていた。

この小さな島国を二分にして争われた戦。

兵たちが夢の後。戦に負けた者たちが散り散りになり隠れ住んだ山間の小さな沢。毎年、桜が咲き乱れることに因んで、櫻澤邑と名付けた。

永らく続いた戦も終わり、平穏が訪れる。しかし、村人たちは外の世界との繋がりを極端に嫌い邑の存在を隠した。奇しくも、彼らが隠れ住んだその地は鬼女紅葉の伝説由縁の地であったことに妙な因縁を感じる。

さて、最後の仕上げだ。誰を以てこの士送りの儀を幕引きとしようか。

 


私はプレハブ小屋から雨の山中に出た。いつの間にか、豪雨は霧雨にかわり、静かに雨は大地に降り注いでいた。

着替えたばかりだというのに、雨の浸食は早く、衣類を浸透し、私の身体を濡らし始めた。私はゆっくりと山頂の方を見上げた。最後は彼処で。

 

 

 

 

 

 

豪雨の中、山中を駆け回るということは非常に体力を使う。それを今日厭という程思い知った。いや、山中を駆け巡るだけでも体力を使うのは分かり切っている。加えて雨が降って更にハードモードになったと考えた方が建設的だな。

真夜は相変わらず僕の背中で眠ったままだったが、その温もりは生きていることを僕に伝え、そして僕は真夜の重みを命の重みと理解した。

後どれくらい登れば良いのだろうか?

既に真夜を支える腕に感覚はなく、何度か皆川に代わろうか?と尋ねられたが総て断った。何となく、今日はこうやって真夜を背負っていなければならないような気がしたからだ。

「枝さん、大丈夫かよ?」僕の少し前を行っていた筈の皆川が、心配そうに僕を見ている。いつの間にか皆川との距離は離れていた。

「なんとか」僕はそう言うと真夜を背負い直す。

「お兄ちゃん、本当に大丈夫?」真夜が心配そうに僕に尋ねる。そんなに僕って頼りないのだろうか。

「枝さん、もう少しだぜ。高塚たちに何も無ければ良いんだけどな」心配そうに皆川は道の向こう側に視線を送った。

「大丈夫でしょ。……なんとなく」呉葉はそう言うと上着の裾を絞る。何処にそれだけの水が蓄積されていたのかと思うくらいに雨水が音を立てて零れ落ちた。「真夜ちゃんのも絞ってあげよっか?お兄さん、重いでしょ?」呉葉は無邪気な笑みを浮かべて真夜の服の裾を掴んだ。

「呉葉ちゃん、お願いして良い?」真夜は楽しそうにしている呉葉につられてクスっと笑った。

「はーい、じゃぁ、絞るね」呉葉は真夜の服をぎゅっと絞った。思ったよりも水分を吸っていたらしく、若干背負った真夜が軽く思えた。

「しっかし、この雨なんとかならないものかなぁ」皆川は恨めしそうに空を見上げる。僕もつられて空を見上げてみた。黒に近い灰色が天空を埋め尽くし、容赦なく大粒の雨を僕らに注ぎ続けている。

「確かにこれだけ降ってると、危ないわね」呉葉は地面を見て言う。降り注いだ雨が集まって、小さな流れとなり、山肌を削っている。

「お兄ちゃん、気を付けてね?」真夜が心配そうに背中から声を掛ける。

「まぁ。色々心配したって、こうなった以上は無駄だよな」皆川は少し声を張って、「じゃ、もう少しだ。行こうぜ」と歩き始めた。

足下は悪く、雨の所為で泥濘、粘土質の土は足に絡み付いて離れようとしない。何度か転びかけながらも、必死で皆川の後を追った。

 

 

 

どれくらいの時間をテントの中で過ごしたのだろうか?

屋根を叩く雨の音が弱まった。榊はいつの間にか眠ったようで、雨音が聞こえなくなった途端、榊の鼾が耳につくようになった。そして、隣で加藤も眠ったままのようだ。この二人、こんな状況でよくも眠れるものだと妙な所に感心してしまう。

取り敢えず、二人が目覚めそうにないことを一応確認すると、俺は菅沼と外の様子を伺いにテントから這い出した。さっきまでの豪雨は止み、霧雨が辺り一帯を覆い尽くすように降っていた。

「まったく、鬱陶しいことこの上ないな」菅沼は辺りを見回してそう言うと何の前触れもなしにストレッチを始めた。この雨の中何を始めるんだ、この男。気持ち悪い。俺は心の中で溜め息を吐いた。

「皆川たち、遅いな」皆川たちが飛び出して行ってからどれくらいの時間が経過しているのだろう。ずぶ濡れのズボンから携帯電話を出してみるも、液晶画面は真っ白のまま何も映し出されない。どうやら、さっきの豪雨によってお釈迦になったようだ。

「まぁ、あいつの事だ。そのうち戻ってくると思うんだけど」菅沼は、軽く俺の問いに答えると思い切り背伸びをした。

皆川との付き合いは菅沼の方が長いから、菅沼の言う通りなのかもしれない。俺は先程使った鉄串を目に入る分だけ拾い集めた。まだ何かありそうだし、何かあったときに役に立つかもしれないしな。暫く、菅沼と話したり色々整えたりしているとテントの中から三国が這い出してきた。

「おーい、お前ら。こんな雨の中突っ立ってると風邪ひくぞ?」三国はそう言いながらも俺のところまでのたのたと歩いてきて、「其れにしても皆川や枝さんたち、遅いな」と囁くように言った。

「なんつーか、遅いとか早いとかじゃなくて。あいつら大丈夫なのか……」俺は地面を蹴った。ぐにゃりという感触があって、爪先は地面にめり込んだ。ゆっくりと爪先を抜くと、抉られた地面に雨水が流れ込んでいく。茶色く濁ったその流れはまるでこれからの未来を暗示しているかのように不吉だった。皆川たちは無事なのだろうか。直ぐに戻れないほどに遠くまで行ったのだろうか。そして、千秋は何を考えているのだろうか。

 

 

 

クソ鬱陶しい雨が小雨になってくれたのは有り難い。なんとか視界は確保できている。足元の泥濘は酷く、歩を進める度にバランスを崩しそうになる。

「枝さん、呉葉、ちゃんとついて来てるか?」俺は髪から滴り落ちる水滴を拭った。

「あたしは大丈夫」疲れ果てた顔に笑みを浮かべると呉葉はVサインを作ってみせた。

「こっちも大丈夫だ。皆川、後どれくらいだ?」三枝は息を切らせながら尋ねた。

「そうだな、もう十分も歩けば戻れると思うんだけど」俺は見覚えのある地蔵の顔を確認して三枝の問いに答えた。

「其れなら、もう少しじゃない」呉葉が安堵の表情を浮かべる。

「そだな。もう少し……だな」三枝は真夜を背負い直して下がった視線を上げると、俺の後方に続く道の先を見据えた。

「さぁて、気張って行こうぜ」俺は意味も無く左手を振り上げた。

「はいは~い」呉葉が何処か間延びした返事をする。

「おうさ」三枝もそれに続けて声を上げた。

「お~」真夜も負けじと声を上げる。

威勢の良いのは其れまでで、一歩歩き出すと俺たちは無言となった。幸いにも雨は土砂降りになることも無く、霧雨のままだった。

一歩一歩を踏みしめるように歩く。ふと、辺りを見渡せば霧雨の所為か本当に霧に包まれたように白く濁っている。立ち並ぶ地蔵尊がまるで地獄で揺らめく影のように思えて思わず身震いをした。

そう言えば。地蔵尊と言えば、閻魔の仮の姿と言う説もあったな。そんなくだらない雑学を思い出す。此処が地獄の底で、この辺りに居る影は皆亡者で……。思い出した雑学は妄想を膨らませる。

「ぅおーい」

不意に聞こえたその声に俺たちは身構え、直立した。皆で顔を見合わせ、沈黙する。

「おーい、皆川~」再び聞こえた、その声は高塚のものだった。

「お、枝さん。高塚だぜ。漸く着いたぞ」俺は駆け出すと後方に居る三枝にそう叫んだ。

「あ~、ゆたか待ってよ」呉葉が俺の後を追って走るだす。

「お。何だ、無事に生きてたのかよ?」高塚は少し高くなった道の上で、腕組をして俺が近付いてくるのを待ち構えている。

「この野郎」俺は軽く拳を突き出す。その拳を両手で受け止めると「ったく、お前らは

何処まで行ってたんだよ?」と拳を押し返して来た。

「……まぁ」俺は一呼吸置いて「色々あった訳だよ。で、高塚。お前らの方は何事もなかったか?」俺は千秋のことを伏せて、高塚に尋ねた。

「ん?あー……」高塚は一瞬何か考え「そうそう。そう言えば、榊とか言うヤツを捕まえた」とさらりと言った。

「は?」俺は高塚が何を言っているのか理解できなかった。

「いやぁ。何の因果か知らんが、わざわざお前を追いかけてこんな辺鄙な所まで来てくれたらしいが。何というか、鬱陶しかったのでな」高塚はそう言うと鉄串を構えてみせた。

「何だよ、獲物を使ってかよ」俺は高塚の手から鉄串を一本拝借すると軽く振りつけてみた。それなりの重量感があって、振り応えも良い。そして割と持ち易い。これはこれでちゃんとした武器になるなぁと感心してしまった。

「まぁ、お前の事をよく知っていると言ったらとても興奮して居たのでな。是非、感動のご対面をしてやってくれ」高塚は俺から鉄串を奪い取るとテントを指して言った。

「あのさぁ、その物言い、何とかならないものかな。とっても気持ち悪い」俺は身震いして肩を竦めて見せた。

「何ていうか、とても熱烈だったからさ……。お前、尻でも狙われてるの?」高塚はニヤニヤと笑う。

「覚えておけよ。リトルグレイ……」出来得る限りの嫌味を高塚に投げ付ける。

「お、皆川ぁ。無事だったか。なんか、大変なことになったなぁ」三国が何事も無かったかのようにニコニコと笑いながら近寄って来た。本当にマイペースな男だ。そういや成人してから此奴が狼狽ているところを見た事がないな。

「……まぁ。無事と言えば、無事だったな」俺は近付いて来た三国と肩を組む。「取り敢えず、すごく疲れた」俺はそう言って全体重をかけた。

「うわ、ちょっと待って。皆川、重い重い……」三国はそう言って身体を攀じる。

「こぉらー、ゆーたーかー。やっと追いついたー」そんな俺と三国に呉葉が飛びついてくる。三国は耐えきれず、バランスを崩して三人そろって仲良く地面に倒れ込んだ。

「何するんだよ、お前」俺は漫才師ばりに、呉葉の頭を平手て叩いて文句を言う。

「あはは、ごめんごめん。どうせもう、下着までびしょ濡れだし。別に良いじゃん」呉葉はそう言ってケラケラと笑う。いや、そうなんだけど身も蓋もないよね。そういうあけすけな所はとても好みで良いんだけども。

「……ったく。一番被害を被ったのは俺なんだけどな」三国が溜め息を吐きつつ俺の下でぼそっと言った。

「で、お前ら。色んな意味で大丈夫か?」菅沼が呆れ果てた顔をして俺たちを覗き込む。

「あんまり、大丈夫じゃない」俺と三国の声がハモった。

「お。漸く、枝さん達が来たぞ」被害を受けないように少し距離をとっていた高塚が、俺と呉葉の登って来た道を指して言う。

「お、やっときたか」俺は呉葉を押し退けて立ち上がる。俺と呉葉に潰された三国は無惨にも完全に泥塗れになっていた。菅沼が手を貸して、三国はやっとの事で立ち上がった。

「……はぁ、はぁ……、お前ら、早過ぎ……」息も絶え絶えに三枝が真夜を背負ってよたよたと歩いてくる。

「よぉ、お疲れさん」高塚が三枝に駆け寄る。

「枝さん。取り敢えず、真夜ちゃん下ろせば?」俺は疲労困憊と言う文字をそのまま立体化したような三枝に向かって言う。

「……ぜぃ……ぜぃ。て、手伝ってくれ……」三枝はよろよろと、今にも倒れそうになりながら、俺たちの側で立ち止まった。

「へいへい」俺はそう言うと真夜を背負おうとした。

「あー、ゆたか。高塚さんか菅沼さんにお願いした方が良いんじゃない?」呉葉が俺のズボンのポケットを引っ張って俺の行動を阻止した。

「……へ?何で?」俺は呉葉の表情を伺う。

「ゆたかは泥だらけでしょ。高塚さんや菅沼さんは奇麗だけど」呉葉は信じられないと言う表情して俺を睨んだ。そもそも、泥だらけになった原因はお前だろうに……と、浮かんだ言葉を飲み込んで「あぁ、そうだよな」と間抜けな相槌を打つ自分が不憫で堪らない。

「……と、言う訳でどっちか宜しく」俺は左手をひらひらと振って投げ遣りに言った。

「ち。仕方ねぇな」菅沼がそう言うと三枝から真夜を抱き上げると、背負い直した。「ご迷惑おかけします」真夜は申し訳なさそうに菅沼に頭を下げる。

なんて羨ましい……と言う表情を察知してか、呉葉が俺の爪先を踏みつける。うっわ、いってぇ。こんなのって無いよ、あんまりだよ。

「ってか、こういう時にこそ、さっきのような土砂降りになってくれれば良いんだけどね」三国が泥だらけの自分を服を見ながら天を仰いだ。

「そうだな。こんなみみっちい霧雨なんぞ何の役にも立たない」俺は勢いを付けて、近くの樹を蹴った。集まる皆んなの視線。少しの沈黙。そして大粒の水滴が一気に俺たちに振り注いだ。

「きゃぁ!?」真夜が悲鳴を上げる。

「うお!?」高塚と三枝が同時に身を竦める。

「アホだ。相変わらず、阿呆だな」菅沼が冷たい視線を俺に向ける。

「あー、そうだ。此れだよサンキュー」三国が棒読みで感謝の言葉を紡いだ。

「ほんっっとうに、莫迦ね」呉葉が肘で俺の横腹を小突いた。

「んだよ。さっきからいてぇな。でも、ほら。多少は洗い流されただろ?」俺は横腹を摩りながら高らかに笑ってみせる。微妙な沈黙が場を支配した。

「取り敢えずはテントに……」高塚がそう言いかけて、硬直した。

「あ?どした?」俺は目の前で立ち止まった高塚に疑問符を投げかけた。

「いやぁ、此のバカ騒ぎですっかりと忘れてたんだけど……」高塚はとても言い難そうに切り出した。「テントの中に榊って奴と加藤が……」そこで口を噤んだ。

「あー……」三国が思い出したように呟く。

「そう言えばそうだったな」菅沼が冷静に呟く。

「おい……お前らなぁ」俺は呆れたように三人の顔を順に見て行く。

「仕方ないじゃん。ゲットしちゃったんだもの」高塚が肩を竦めてみせた。

「ゲットしちゃったって、お前……」俺は赤い帽子の少年を思い出しつつ、今後の展開について頭の中でシミュレートしてみる。どう考えても榊も加藤も連れて歩くなんて恐ろしい事出来ないぞ。此処に置いて行く他無いぞ……?それが俺の出した結論だった。

「ま、何はともあれ。取り敢えず、雨の当たらない所で考えようぜ」三国は何の躊躇いも無くテントの中へ入って行く。相変わらずマイペースな男だ。俺は呉葉を伴い、三国の後に続いてテントに入った。

 


断熱シートの上に二つの棒状の物体が転がっている。よくよく観察すると何処かで見た顔がそれなりに神妙な顔付きで俺を見上げていた。

「よう、榊」俺は榊の隣に腰を下ろすと、昔ながらの友人に接するように榊の肩の辺りをバンバンと叩いた。

「何だよ。いてぇな。割と時間が掛かってたみたいだけど、お仲間は無事だったかい?」榊は何か知った素振りで太々しく笑うと、首を左右に振って間接を鳴らして見せた。

「あー。まぁ、無事って訳にはいかなくなった。一人、行方不明になっちゃったしな?」俺は榊を睨み付ける。

「ほう、それはそれは……」意味深に榊は黙った。

「皆川、行方不明って誰のことだ?」三国が尋ねる。

「千秋ちゃんだよ」俺は高塚を横目で見た。この事態を周知していたかのように高塚は落ち着き払っていて、無言で頷いた。

金川さんが?」三国が息を飲むのが聞こえた。

「行方不明と言うべきか……」俺は三枝の顔を見る。そして、高塚の顔も。三枝は戸惑いの表情を、高塚は何かを決意したような表情をしていた。

「皆川、らしくないぞ。何があったのか話せ」高塚はいつになく真剣な表情をして俺に言った。

「皆川……」三枝は眉をひそませて俺を見る。

「おいおい、こー君。『何があったか』って、何かが起こることがわかっていたような言い草だな」俺は少し意地悪な言い回しをした。

「皆川」高塚は睨み付けるような視線を俺に向けた。

「そんなに怖い顔をするなって。ちゃんと話してやるからさ」俺は高塚の肩をぽんぽんと叩くと、ポケットから煙草を引き摺り出す。雨の所為でぐしゃぐしゃになってしまっているが、咥えることくらいならできるだろうよ。

「でも、何かわかっていたんじゃね?お前のことだから」俺は煙草を咥え、火を点ける。やはり、煙草は湿気てしまっていて、火など点かない。ライターの火に炙られ、水分が水蒸気となって巻き上がるだけだ。

「わかっていたら、お前に何があったかなんて聞かないさ。ただ……何かが起こるような予感って言うのか?そういうものはあったさ。で……あいつは結局何をしでかしたんだよ?」高塚は腕組みをすると、リュックサックの上にどっかりと腰を下ろした。「まぁ……俺たちがどんな目にあったか話してやるよ……」俺は先ほどの出来事を出来るだけ詳細に話して聞かせた。

高塚は終始無言で、時々頷いたり、顎に手を当てたりして、俺の話を聞いていたが、話終えた所で深く溜め息を吐いた。テントの中は静寂に満たされる。雨音だけがノイズのようにさぁさぁと聞こえた。

「……って、そんなことがあったのか?お前ら良く生きて帰ってきたな」沈黙を破って、菅沼は少し呆れ気味に言う。

「本当に。そもそも、そんな状況でよく無事で居られたもんだよ。相変わらず無茶苦茶するよね」三国は苦笑した。

「まぁ、ワシらもよく無事だったと思うよ」真夜をシュラフに寝かせ、タオルで髪を拭きながら三枝が言う。

「其れで、その千秋とか言うヤツはその後どうなったんだよ?」榊は両手両足を縛られ、芋虫のような格好で偉そうに尋ねた。その姿に吹き出しそうになったが、敢えてシリアスに努め「追いかけたんだけどな見失った」と、俺はあの雨の中に消えていった千秋の背中を思い出しながら答えた。

「ワシの方は追いかけられたんだけど、撒いた」三枝が真面目に言う。そこで俺は思わず吹き出してしまった。三枝は俺が笑った理由がわからないようで少しきょとんとした表情をしていたが、俺の笑いが終わると「取り敢えず。皆、無事で良かったよ」と胸を撫で下ろして見せた。皆という単語に違和感を得る。

「呉葉。お前、千秋とすれ違わなかったのか?」俺は入り口付近で濡れた髪をタオルで挟んで乾かしている呉葉に尋ねた。

「……呉葉?あ、お前……」榊が呉葉の存在にようやく気付いた様で、何か言おうとするが其れを遮る様にして「千秋ちゃんと?……ううん、ってか。会ってたらあたし殺されちゃうよ」呉葉が首を左右に振って答えた。

「確かに、あの状況だと殺されかねんわな。ただ、枝さんを追いかけて行ったみたいんだけど、枝さんはうまくやり過ごしたし。……でも、逆からきた呉葉とすれ違ってないとすると、何処かに身を隠したってわけか?」俺は些細なことでも思い出そうと、記憶を辿る。しかしながら、俺の記憶はどうも肝心な部分で霞がかってしまう。

「確かに、枝さんのように茂みに隠れて身を隠すって方法もあるだろうけど。そんなに長い時間は無理でしょ。この雨で気温も下がってきているわけだしさ。こんな山奥で長時間身を隠すっていうのは大変なことだぜ。まして、俺たちみたいにテント持ってるわけじゃないだろうし……」三国は腑に落ちないといった表情を浮かべた。

三国の言うことは正論だ。ここまで山深い場所で拠点を持たずに身を隠し続けることは自殺行為だと思う。櫻澤邑の土蔵のようにまだ原型を留めている建築物なんかが在れば其処で構わないだろうけど。若しくは、向こうのほうが頭が良くて、俺たちの後をつけてきているとか?嫌なイメージが過ぎる。うまく俺たちをやり過ごして、今こうして話している瞬間に虚を突いてくる……。

 

 

 

ぐじゅ、ぢゅぷ……。

足元が悪い。折角新調したトレッキングシューズが既に泥まみれである。こんなことなら最初からバーバリアンの長靴を用意すれば良かったのだ。

つい、溜息を吐いてしまう。まったく持って、儘にならない人生だと。

嗚呼…………あと一人。

たったの一人。

その供物を用意すれば、この苦悩からも解放されるのだ。

 

 

 

櫻の杜から櫻澤邑に行こうとすれば、俺たちが使った道しかないのだから……と考えていてハッとする。

「呉葉、櫻ノ海と櫻澤邑をつなぐ道って俺たちが今通ってきた道だけなのか?」思いついた疑問符を呉葉に投げかけた。

「まぁ、基本的にはそうだけど。でも手段を選ばなければいくらでも行き来できるわよ」呉葉は真面目な顔でそう言った。

「そりゃぁ、そうだよな。こんな山奥なんだから」菅沼は極当たり前のことを極当たり前に言う。

「つまり、何を言いたいんだ?」俺は菅沼に尋ねる。

「改めて聞かれると困るんだけど。人間の手が入っていない山なんだからさ。普通に森の中に入っちまえばなんだって可能だろうよ?」至極当然であるといった物言いで菅沼が答える。

「森に入って俺たちをやり過ごしたって言うのか?」俺は女性が森に一人で潜むなんて到底信じられなかった。

「人を殺すような人間だぜ。何をしたっておかしくないさ」菅沼が簡単にそう言った。「いや、殺したって確証はないだろ」俺はそこの部分に反論する。

「まぁまぁ。皆んな、そんなに熱くなるなよ。兎に角さ、皆んな無事な内に下山しようよ。こんな山奥で漫画かアニメの探偵みたいに推理ごっこの彼是を言い合って居ても仕方ないじゃ無いか。下りてから警察に任せればいいんだよ。流石に素人の俺たちが妙なことに首を突っ込んで、皆んなで仲良く野垂れ死ぬってのはありえない」三国がとても自然に極当たり前なことを言う。

言われてみれば、確かに生命の危険を冒してまで此の件に執着する縁も所縁も義理も道理もない。在るとすれば、自分の知的好奇心を満たす為。

「……え。あ。そうか。そうだな」異常な出来事が続く中で、俺は正常な思考が出来なくなってきているようだ。

「三国さんの言う事は尤もなんだけど。俺はもう少し残るぜ」高塚が俺と三国の会話に割って入った。其れもそうか。高塚の場合、自分の彼女が何やらしでかしているのだから。真偽を確かめたいのはとてもわかる。其れこそ、俺自身元カノとのアレやコレやの時に高塚には世話になっているわけだし。

「高塚には悪いけども、ワシ達はおりるよ」枝さんは申し訳なさそうにそう言った。まぁ、普通、そうだわな。妹が怪我している上に本人は単純に巻き込まれただけだから。至極真っ当な話だと思う。

「いや、俺の勝手だから。枝さんが気にする事はない」高塚は少し早口で言う。

「ふー……。俺も残るかな」菅沼が溜息を吐き、やれやれと言った感じで話す。「そもそも、テントの中の連中を置いていけないだろ」肩を竦めて見せた。

「えー。大丈夫じゃないかなぁ」俺は榊を覗き込んで言った。一瞬だが、榊の表情に戸惑いに似た違和感のある表情が浮かんだ。

「皆川の言う通りだ。此処は俺の庭みたいなもんだ。お前らが居なくなっても、俺一人でなんとかなるさ」太々しく笑うと、榊は吐き棄てるように言った。

「だそうですよ。此奴らに構わず行ったら?」俺は継寛に肩を竦めて見せた。

「で、そう言うお前さんはどうするんだよ?」継寛が直球をぶん投げてくる。相変わらず空気を読めないと言うか、何と言うか。

「継寛、俺は無論残るに決まってるだろう。こんな状態、生きている間に一度在るか無いかだぜ?滅多に経験出来きない状況を放っぽり出して降りるなんて出来るわけないだろう」俺は心からそう思った。死ぬのはゴメンだけども乗り掛かった船だ。終着まで乗り続けてやる、そう思えた。呉葉は無言で俺の手を軽く握り締めてきた。

ウォン、と甲高い音。そしてエンジンの音が鳴り渡った。

「!?」皆んな一斉に立ち上がる。菅沼が俺を押し退けて勢いよくテントを飛び出す。俺もそれに続いてテントから飛び出た。獰猛なその音は木霊し、厭なうねりを持って場を支配する。俺たちに続いて三国や菅沼、高塚、三枝がテントから出てくる。

「おい、この音って……」三枝が誰に言うでもなく呟いた。

「嫌な予感しかしない」高塚が誰に言うでもなく、呟いた。

「バイクではなさそうな。ワシに一つ心当たりがある」枝さんはポンと手を打った。

「あー。やめろ。こんな山中で、此のエンジン音は一つしか想像できねーわ」俺は左手で額と眉間を覆う。

「チェーンソーだな」高塚が冷静にその言葉に答えた。

「……こんな山奥で?有り得ないだろ」三国が疑問を投げる。

「人を殺して回ってるイカれた奴じゃね?」高塚が然も当然といった口調で疑問符を打ち返した。

「チェーンソーねぇ?どうも、俺的にチェーンソーってイメージ悪いんですけど……言っても良いかな?」と俺が言うと。

「サガか」

「サガだな」

「サガだね」

「サガかよ」

「……サガかい」

皆、俺の言葉に突っ込みを入れた。悪かったな……あのゲームはトラウマなんだよ。

「あー。取り敢えず、良太。枝さんと真夜ちゃん連れて一足先に下りてよ」俺は現状、其れが最善だと思った。

「ああ、分かった。神崎さんと加藤さんは良いのか?」間抜けな質問を投げかけてくる。

「……連れてって」俺は掌をぱたぱた振ってオネガイした。

「しかし、皆川よ?此れじゃ、反響して何処から聞こえてるのかわかんないぜ?」継寛が珍しく、説明的な長い台詞を吐いた。らしくない。

「確かに……これじゃ」三国が辺りを見回す素振りをする。

「近いという事だけは確かだな。おや、近付いてきているのか?」三枝が両耳に手を添えて位置を確認しようとする。

「ちっ……。面倒くせぇな。それどころじゃないってのに」高塚が不機嫌そうな声を出して、鞄から鉄の串を取り出した。

「高塚、お前……」俺はそれを見て突っ込もうとしたのだが「お前だって持ってきてるんだろ?」と返された。

「ナンノコトダイ?」片言で返すと、少し厭そうな顔をして「お前、あのナイフ持ってきてるんだろ」と尋ねる。

「え?」呉葉が目を見開いて俺の方を向く。

「いあ。まぁ。ね」と俺は呉葉の視線をうまく避けつつ、濁して答えた。

「これじゃ、チェーンソー相手で何処までやれるかは知らねーけど」と高塚はニヒルに笑う。と言うか、チェーンソーに鉄串でガチでやり合う気か、こいつ。

「皆川、お前。こんな所『まで』、あのナイフ持ってきてるのか……」と三国が苦笑する。

「こんな所『だから』、だろ。山に来るときは普通持ってくるだろ」俺はテントに入り、鞄の中から牛革の鞘に収まったそれを持ち出してきた。

「ゆたか、割とアブナイ人なんだねぇ」呉葉は呆れた顔をして俺を見る。

「で、一体、何処から聞こえてきてるんだ」と菅沼が拳を突き出したり、蹴りを繰り出したりして身体を温めながら呟いた。

「確実に近付いては来てる……よな?」三枝が身震いをする。

「まぁ、お前は真夜ちゃんを背負って下山する準備してろ」俺は三枝の肩を掴むと、テントのほうへ向き直らせた。

「……あ、ああ」と言って三枝はテントに入っていく。

「良太、悪いんだけどあの榊と加藤を取り敢えず、テントの外へ出しておいてくれないか?」俺は三国に指示を飛ばした。

「ん。わかったよ」と少し真剣な顔をして三国は首を鳴らした。

「んじゃ。俺と、継寛、高塚で迎え撃つとしますかね」俺は継寛と高塚の顔を交互に見た。二人とも無言で頷く。轟音が少しずつ近付いてくる。反響して方向が上手く分からないが、音は確実に大きくなってきている。そして、音に濁りが混じる。それは何かを伐っているように聞こえた。

「なぁ、おい、皆川。これ、拙いパターンじゃね?」高塚が冗談半分、焦り半分が入り混じった声で尋ねる。

「おい!枝さん、三国、ヤベェぞ。テントから出ろッ‼︎‼︎」俺は高塚の言わんとしている事を理解し、叫んだ。

「なんだ?どした?」三枝が真夜を背負ってテントから這い出してきた。

三国は素早く加藤を引き摺り出し、榊を引き摺り出そうとしていた。

取り敢えず、皆が見える場所に立った。霧雨は纏わり付くように視界を遮っている。全身ずぶ濡れの中、冷や汗が背中を伝うのを感じる。

唐突に濁った音が突然止んだ。

静寂が世界を包む。

俺たちは周囲を見渡す。

ノイズの葉にサァっと霧雨が舞う音、枝葉が擦れあう音と、どこかで鳥が鳴く音、人工的な音は何も聞こえない。自分の鼓動が気持ち悪いくらいに大きくドクドクと鳴っている。全身が鼓動に合わせて脈動しているような気になる。奇妙な緊張感が漂っていて……。

 


みぢ、みぢ、みぢぢぢぢ。と今まで聴いたことのない音が背後から聞こえた。ザザザザザザザザザザ、と台風の時のような凄まじい葉擦れの音が鳴り渡る。

何事かと振り返ると、ビルよりも高く伸びた、樹齢数百年と思しき杉の巨木がゆっくりと此方に向かって傾いてくるのが見て取れた。

「うわああああ!逃げろー‼︎」誰かが叫んだ。

俺は巨木が倒れてくる様に見惚れて、身動きが取れなくなった。大樹がゆっくりとのし掛かってくるのをただ見ていることしか出来なかった。ゆっくりとゆっくりと、そしてある角度から其れは加速し、覆い被さる様にして……。

ずどん、と言う音の表現がきっと一番似つかわしい。テントを巻き込みながら大地を揺らしたそれは一瞬の静寂を生んだ。

 

 

 

雨が鬱陶しく降り続いている。

地面を穿つ音が空間を満たした。呼吸することも忘れてしまったのではないかと思えるほど、茫然と奴らは立ち尽くしていた。

樹の根元に立てかけたチェーンソーをもう一度、確りと握り締めた。鋼鉄製の柄がひんやりと火照った身体を掌から侵食していく。

これで漸くあいつを贄に捧げる事が出来る。そして、私の罪は償われるのだ。今思えば、父親が此の櫻澤邑にのめり込んだのはきっと必然だったのだろう。自分のルーツを此処で見つけ、そしてあの書簡を持ち帰った。

あれを読んだときの衝撃は忘れられない。自分のルーツ。其れがまさか歴史の教科書にも載っているような人物であったとは。

其れと同時に、心の奥底からまるで泉が湧き出るように……何もしないで居るだけの自分。そして、書簡を持ち帰ったにも関わらず。其れを研究しているにも関わらず何の行動も起こさない父親が許せないという気持ちが私の心を満たしていった。

憎んでいた父親の死は思いの外、呆気なかった。

何かの時に役に立つだろうと、精神疾患を患った振りをして病院に通い、集めに集めたハルシオンを父親の食事に混ぜた。

彼が昏睡した隙に、両手、両足に所謂『粘着テープ』を巻きつけ、猿轡替わりにタオルを噛ませ、目隠しをした。これで彼はきっと意識を取り戻しても、自分の身に何が起きているのかを理解することなど不可能だろう。

彼の寝室は二階に在った。私は最早モノと化した彼を担いで急な階段を下る。当初、階段の天辺から転がり落とせば楽なのではないかと言う考えも浮かんだが、証拠に繋がる外傷は極力少ないほうがいい。私は彼を車に押し込むと、山へと向かった。

丁度、曇天が広がっていて。今にも雨が降り出しそうだった。そう、まるで今日みたいな日だった……。

書簡の中に描かれていた図を元に作り上げた地図を片手に、私は櫻澤邑へと向かう。泥濘に足を取られ、何度となく転んだ。その都度転がる67キログラムの荷物を何度投げ捨ててやろうかと思ったことか。でも、私は当初の志を挫かずに其処に辿り着いた。自分の起源。祖先達が過ごした其の地に。

私は、ぐにゃりとだらしなく弛緩した人形の束縛を解き、櫻ノ杜の社に横たわらせた。果たして、人形は目を覚ますだろうか。

闇に閉ざされていく世界の中で私は煙草に火を点けた。湿気と雨でなかなかうまく火が点かなかったけれど。一仕事を終えた後の煙草は美味かった。

私は、其の晩半壊した嘗て私の祖先が暮らした古惚けた家で眠りについた。

 

 

 

それは、深い深い森の中。

 


それは、忘れられた祭壇。

 


それは、血塗られた過去。

 

 

 

連句。私の敬愛するラブクラフトを彷彿とさせる。

 


久遠に臥したるもの死することなく

怪異なる永劫の内には死すら終焉を迎えん

 


打ち捨てられた廃都と落人の邑。では、私はどんな運命を辿るのだろうか。非業が織りなす此の現実に私は何を期待するのか。

 

 

 

白拍子が舞い踊る。

篝火に照らし出される其の姿は闇の中に在って際立って見えた。

炎の揺らめきに合わせて、衣装の色が妖艶に変化する。

ゆっくりと、まるでコマ送りのように私へ近付いてくる。

白拍子の顔が見えない。

輪郭すら確認出来ない。

顔の周囲だけ塗り潰されたように真っ黒で、ぽかん、と穴が開いている。其れはゆっくりと私の前まで来るとにたりと笑った。

何もない、黒で塗り潰された其れはにたりと笑ったのだ。

「……神崎。裏切り者の神埼。御主のところの倅を出さぬか」

老人のような、老婆のような、しゃがれた声がそう言うのだ。

「何を今更申すのか。是は定ぞ。我ら櫻澤の宿命ぞ」

苛立ちが混ざり、殺気立った声が静かに告げる。

「逃げ果せると思っているのか。定からは逃れられぬ。さあ、倅を出せ」

ドップラー効果。声が後ろへ飛んでいく。視覚的な走馬灯の様に聴覚的な其れがぐるぐると廻り始める。

嗚呼、此れは夢だ。明晰夢だ。何でこんな夢を見ているのだろうか。夢と認識出来る夢は果たして夢なのだろうか。此れは現実の続き。または拡張された現実ではないのか。

 


さくらさくら

さくらのうみのおには

いついつでやる

よあけのばんに

おにとかみがちぎった

 


独特のリズム。何処かで聞いた唄。でもこんな唄だったっけ。

澄んだ声。神秘的で。でも、とても不吉な其の唄が聞こえてくる。

「……おや、神崎の倅ではないか。こんな所に隠れて居たのか。さぁ、儂と参るのだ……」差し出された皺くちゃの手に手を伸ばした。酷く冷たい手だった。何もない、暗闇の道を先導されるがままに歩く。

暗闇の中を二つの足音が往く。やがて先ほどの篝火が見え、私は其処で…………。

 


「命だけは……」

「苦悩を背負いたいのか」

「この、裏切り者め」

「恥知らずめ」

「何処へ逃げても同じだ」

「櫻ノ杜のお地蔵様はすべてを見ていらっしゃる」

「神崎の嫁も居なくなったぞ」

「何処へ行った」

「何処だ」

「次は…………」

 


怒声が飛び交う。老人たちが口角に泡を立てて言い合っている。血走った目で此方を見てよく分からない事を言っている。

 

 

 

大きな雨粒が頭上に降り注ぎ、現実へと戻される。白昼夢、と言う表現がたった今自分に起きた現象にぴったりなのだろう。軽く頭を振ると、ゆっくり天を仰いだ。白く濁った世界。霧雨と時折枝葉に溜まった大粒の水滴が落ちてくる。そんな場。

 

 

 

「ったく。一体、何事だよ……」突っ伏していた高塚がゆっくりと立ち上がった。

「あっぶねぇ……死ぬ所だった」心の中でそう呟き、大木が倒れくる時にばら撒かれた枝葉を叩き下ろし、俺は立ち上がる。後五十センチ前に居たら樹に押し潰されていた。諤々と震える全身。此れは恐怖からか、それとも自分に殺意を向けた相手に対しての武者震いなのか。そう。明らかにこの樹は俺たちを狙って倒されたと直観が囁く。協力者である加藤、若しくは榊まで巻き込んでまでこの樹を倒した人間の考えている事が理解出来ない。「おい、皆無事か?」俺はなるべく大きな声で尋ねた。言葉尻が震えていて、少し情けない。でもよ、目の前に巨木が倒れてきて死に掛けてみろ、大体の人間は今の俺と同じかもっと惨めなことになるぞ。

「なんとか無事だな。それにしても危なかった。有り得ねーわ」高塚は倒れてきた樹を足蹴にして、そう答えた。

「み、な、が、わっ、本当に面倒なことになってきやがったな」菅沼が後ろから俺を羽交い絞めにして、笑いながら言った。

「こっちも何とか無事だ」三枝が真夜とともに樹の向こう側から姿を現す。

「はいはい、無事ですよ~」呉葉が俺から菅沼を引き剥がして、自分が俺に抱きつく。まったく、こいつは何を考えているのやら。

「あれ?そういえば、三国はどうした?」菅沼が呟く。確かに三国の姿が見当たらない。もしかして、樹の下敷きにでもなったか?

「ああ、ひっでぇ。また、ずぶ濡れになったじゃないか。携帯もぶっ壊れたし。畜生」非常に不機嫌な声を上げて三国が三枝の近くで立ち上がった。

「……何とか、皆無事か?」俺はそれぞれの顔を順に見た。

「そうでもなさそうだぞ」三枝が声のトーンを落として、顎で樹を指した。

樹に押し潰されたのだろう。上半身だけ地面から生えるようにして、上体を反らせた加藤が在った。

「生きては……さすがに居ないよな」俺は白目を剥いて虚空を見上げるその肉人形に生を感じなかった。そして、その状態で生きていたとしても、助かる道は何処にもない。携帯の電波も届かないし、助けようがない。此処はそういう場所だ。

「自業自得なんじゃね?」相変わらずの口調で高塚が言う。業か。加藤はどんな業を持っていたのだろうか。

「其れにしても。この人は何で俺たちを狙ったんだろう?俺たちは、ただこの廃村に来ただけなのに。此処に財宝でも在るとか?其」三国がそう言って倒れた巨木の上に座る。

「……そう言われればそうだよな?そもそも、俺たちが襲われる理由って何だ?」菅沼が珍しくハッキリとした声で疑問符を吐き出した。

「言われてみれば……」三枝が真夜を樹の根元に座らせると俺たちの話に参加してきた。

「おい、お前ら」俺たちの話を野太い榊の声が遮る。

「あ!」三国ははっとしたような表情で声の方向を見る。

「そう言えば、あいつの存在をすっかり忘れていたよ」高塚が真顔で呟く。

「榊、生きているのか?」俺は冗談半分で奴に声を掛ける。

「当たり前だ。早く拘束を解けよ。くそっ」ばしゃばしゃと泥濘の上で暴れる音が聞こえた。仕方ないので、俺は樹の裏側に回ると榊を泥濘から立ち上がらせた。全く、こいつの所為で服が泥まみれになってしまった。

「あ、ついでだから聞くけど。何で俺たちはこんな目に遭わされてるんだ?」俺は榊の襟首を逆手で持って持ち上げるようにする。襟で首が絞まり、榊の顔面が紅潮する。

「しら……ねぇ……よ」そう言うと榊は全身を使ってもがき始める。あまりの無様さに、俺は手を離した。腕を拘束されたままの榊はうまく立てずに、泥濘に突っ伏すようにして倒れ込んだ。

「おい、何してんだ、皆川?」三国が俺の肩を思い切り握り締めた。

「何って。お前らの言う通りさ、何で俺たちが襲われなければいけないのか。其れに興味が湧いたんだよ、俺も。だから手っ取り早く聞いてみたんだが、何も言わないからさ。言えるような状況を作ってやっただけだ」俺は榊の服を掴むと思い切り力を込めて立たせてやる。窒息しかけたことに追い討ちで、泥濘の水を多少飲み、榊は咳き込んでいた。

「幾ら何でも無抵抗な人間に対してやり過ぎだ。下手打てば殺してしまうぞ」三国は榊に大丈夫か?と声を掛ける。

「流石に殺人はしたくないわな。其れにしても、参ったね。この状況、泣きそうになってきたわ」俺は高塚、菅沼の顔を交互に見てなるべくにっこりと笑ってみせた。

「いつものことじゃないか」と高塚。

「取り敢えず、こいつの拘束、解いておくぞ」と菅沼が十徳ナイフをポケットから取り出すと、榊の拘束をおもむろに切り始めた。

「榊の事は置いておくとして。なあ、呉葉。お前は何か知らないのかよ」俺は詰まらなさそうな表情で水溜りを眺めていた呉羽に問い掛けた。

「何かって?ナニ?」本当に詰まらなさそうな表情で、彼女は俺を見る。例えるならば、何か計画を企てて、全てが計画通りに『進み過ぎている』時の様な。そんな時に感じる一種の倦怠を表す表情……其れを顔に貼り付けて、彼女はただ俺を見ていた。

「俺たちがこうして襲われている理由」俺は簡潔に答えた。

「ゆたか。前に言わなかったっけ?この櫻澤の地は呪われているわ。それこそ咎隠の村なんて呼ばれるくらいにね」最初は小さく、そして次第に大きく、彼女は笑い始めた。その笑い声が山々に木霊してわんわんと耳障りな残響を呼び起こす。

「お前……?」以前に櫻ノ海について尋ねた時と同じ様に、呉葉の様子がおかしい。俺は呉葉の肩を強く握り締めた。

「なぁに?」彼女は精気の抜けた眼で俺を捉えた。

「呉葉、お前がやったのか?」俺は彼女の両肩を掴み前後に揺さ振った。

「私が?何の為に?」呉葉は微笑を浮かべ、俺の両腕を掴んでゆっくりと力を込めた。

「おい。お前等、言い争ってる場合じゃねぇと思うんだが?」榊は俺と呉葉の腕を掴むと俺たちを交互に睨み付ける。

「…………」呉葉は榊を一瞥すると俺たちの手を静かに振り解いた。

「あ?部外者は黙ってろよ」俺は榊の襟首を掴む。

「ちょ、皆川。止めとけ」高塚が俺の肩を叩く。

「おい。皆川。止めろ」継寛が俺の腕を掴んだ。

「冷静になれって。皆川」三国が真剣な顔をして言う。

「どう考えても、此の樹を倒した『誰か』の仲間じゃないだろ、この二人は」高塚が俺の肩を握り締めて言った。

「……ああ。お前たちの言う通りだ」俺は地面を蹴り付けた。そして大樹に近付き蹴る。何で、こんなに心が乱れているのだろうか。自分の思い通りに行かない此の事態に苛立っているのか、俺は。両手を握り締め拳を作った。

「で、大将。さっきの通りで良いのか」菅沼がニヤリと笑う。

「ああ。俺と高塚、お前で少し此処に残る。三国と枝さん真夜ちゃん、呉葉は下山しろ」俺は腹を括る。此処まで色々巻き込まれたなら、最後まで見届けてやる。

「おい、お前ワザとだろ」榊が俺を睨む。

「え?だってお前、俺の言うことなんて聞かないだろ。つか、そもそも自分の身を自分で守れる系でしょ?」俺は少しだけ榊を煽る。

「ま、そんな事はどうでも良い。取り敢えず、根元に行こうぜ」高塚が俺たちを促した。

「根本?」菅沼が尋ねた。

「此の樹の根本だよ。だって其処ら辺に居るだろ、此れを倒した奴が」高塚が早々に歩き出す。「んじゃ、枝さん三国さん無事に降りて、警察に通報しといて」と右手を挙げる。

「あー、じゃー、行きますか」俺は高塚の背を追う。

「そいじゃ、其方はヨロシク」菅沼が三国に言う。

「お前らも無事でな」三国はそう言うと軽く手を挙げる。

「今生の別れというわけではないからな。んじゃ、またの」三枝が声を張った。

「ああ、またな!皆んな!今回は楽しかったぜ」俺は空に向かって声を張り上げた。今から対峙するであろう相手は何者なのか。どんな結末となるのか。色々と思考が巡るが、今更退く訳にも行かないだろう。

「ゆたか、あたしも行く」先程の呆けた状態とうって変わった呉葉が駆け寄ってくる。正直、足手纏いだし、邪魔。

「悪いけど、枝さんや三国と降りてくれないか」俺はキッパリと言った。

「あたしの庭みたいなものよ、此処は」呉葉は食い下がってくる。

「そんな事はどうでもいい。チェーンソー持った阿呆相手に立ち回れない奴を連れて行っても足手纏いだって言ってるんだよ」俺は先を行く高塚を追う。

「だから、そんなもの持った相手に地の利が有る訳ないでしょうが!」呉葉の叫び声が凛と響き渡る。

「あー。成る程な」高塚が立ち止まって振り返る。

「どういうこって?」イミガワカラナイ。

「地の利があるなら、単純な罠だけであたし達を全滅させられるわよ」物騒な事を呉葉が言う。罠だけって、ちょっと大言壮語じゃないか。

「あたしが、あんた達を助けてあげる。あんな部外者に此処を荒らされるの、癪に触るから」呉葉はそう言うとビシッと俺を指差す。

「特にゆたか!あんたは一応、あたしの彼氏なんだから」あのう。呉葉さん、こんな時にそんなこと言われると照れてしまうのと、それって死亡フラグと言うモノなのではないかと少し心配になるのですが。

「取り敢えず、分かった。呉葉を頼りにする」俺は胸の前で両手を上げて見せた。

「わかればよろしい」満面の笑みを浮かべる呉葉に、溜息を吐きたくなるのであった。

 

 

 

それは、深い深い森の中。

 


それは、忘れられた祭壇。

 


それは、血塗られた過去。

 

 

 

ツワモノタチガユメノアト。

其処に立った時に浮かんだのは、そんな言葉だった。既に打ち棄てられた廃村。嘗て此処に人の営みがあったなんて、崩れかけた廃屋を見ない限りは想像出来ない。よくよく観察すれば規則性を持って植えられた木があったりするのだけれども、最早自然の草葉に埋もれて痕跡が消えかけていた。

もはや原型を留めない廃屋。少し前まではきっと縁者が管理に来ていたのだろう。そうでなければ、此処まで形を留めて居る訳がない。そんな事を思いながら空を眺めた。

忘れられた祭壇。そうだった。此処は祭壇。儀式を行う場。士送りの儀を。

此の身に流れる血が、此の地の過去に繋がるのならば。完遂されなかった。数百年前に中断された儀式の続きを取り仕切ろうではないか。

文献によれば、士送りの儀式は十一人の人柱を捧げる事に依って成就される。人柱は各家が何らかの方法で準備をする。

各家とは、榊家(さかきけ)、神崎家(かんざきけ)、神代家(かみしろけ)、神薙家(かんなぎけ)、神山家(かみやまけ)、神村家(かみむらけ)、神堂家(じんどうけ)、神尾家(かみおけ)、神居家(かみいけ)、神塚家(かみづかけ)神田家(かんだけ)の十一の家の事である。

幸いにも此処が隠れ里で、既に人の記憶から忘れ去られた場所で在る事は幸いだと思う。

書物通りだと、現在五名の人柱が捧げられている筈だ。

 


はじめのひとつは男だった。

この神域を侵した愚かな男。

神罰は下され男は無に帰る。

愚かな男は何もわからないまま逝った。

 


ふたつめは退屈な女だった。

不届きにも神事を侵した女。

鉄槌を受けて女は事切れた。

あやつり人形は糸を切られ棄てられた。

 


みっつめは不幸な女だった。

家族の汚名を晴らすために。

無駄に短い命を削り取られ。

星空に手を伸ばし思いを馳せて散った。

 


よっつめはただ受け入れた。

運命をしきたりを享受した。

神刃は深く鋭く切り裂いた。

運命の歯車が厳かに廻りはじめたのだ。

 


いつつめは悲しきさだめに。

ただただ愛するものを追う。

幼い魂を託すと穏かに逝く。

来世を信じただもう一度廻り逢う為に。

 


残す六つの人柱を以て士送りの儀を完遂させよう。

と言ったものの、此処から如何始めたものか。そもそも如何したら生贄と呼べるのだろうか。矢張り、所謂殺人に手を染めなければ、人柱とはならないのだろうか。

だったら。手始めに此の人生の邪魔になりそうなあいつを贄にするか。足が付かない様に。誰にも分からない様に。

 

 

 

過去の狂気が現代へ繋がれる。

 

 

 

「何でだ!」思わず叫んでいた。万全の準備をしてきた筈。こんな僻地に此のタイミングで来る人間なんていなかった筈なんだ。其れが、何故。

「知るか」背後からきた男に寄って、立て掛けてあったチェーンソーが蹴り倒された。

「こいつ、一人……なのか?」猫背の男が周囲に目を配りながら睨み付けてくる。

「お前ら、こんな邪魔をして、ただで済むと思っているのかッ」此れは儀式なのだ。選ばれた者だけが参加出来る、儀式なのだ。

「ただで済まなかったから、お釣りを返しにきたんだろうが、此のアホが」チェーンソーを蹴り倒した男が駆け寄ってくる。

「え!?」虚を突かれた。男の蹴りが右脇腹を掠める。

「何が『え!?』だ。殺そうとした奴が、何だ、その鳩が豆鉄砲食らった様な顔しやがって」男は激昂している様で、とてつもない殺意を此方に向けてくる。

「ニナガワ、待て。なんかすげぇ嫌な感じがするぞ、其奴」更に湧いて出た男が、蹴ってきた男にニナガワと声を掛けている。成る程。此奴は蜷川と言うのか。覚えたぞ。

「蜷川くん」つい、声を掛ける。

「!?」名前を呼ばれて彼は飛び退いた。身体能力高いな、此奴。打ち出した右ストレートを避けられた。

「何だ此奴、反撃してきたぞ」蜷川がよく分からない事を言う。

「当たり前だろ」二番目に現れた男に突っ込まれている。

「なんか、やってるぜ」蜷川の名前を教えてくれた男が身構える。

「急に襲ってきた上に、三対一とは。何とも卑怯な」雨で抜かるんだ地面は、少々遣り難い。牽制しながら引くのが正解かな。

「何言ってんだ、あんなデケェ樹なんぞ倒しやがって。お陰様で死に掛けたぞ」蜷川が怒りをぶつけてくる。

「いやいや。生きているじゃないか。其れに邪魔をしないで頂きたい。歴史的快挙が目前なのに」不意に苛立ちが込み上げてくる。

「どけ、蜷川」二番目の男がラグビーのタックルの様に突っ込んでくる。

「何でそっとしておいてくれないかなぁ」男の体当たりに備えて、構えた。蜷川の様に接近戦で来るかと思いきや、男は急に立ち止まると隠し持っていた棒状の何かを投げ付けてくる。意外性が有って宜しいね。少し後ろに下がって、其れを避けた。

「危ないな。何だ、此れ」投げ付けられた其れを一つ拾い上げる。バーベーキュー用の鉄串。こんなものを投げてくるとか、此奴は忍者か。

「おい、避けられたぞ」蜷川が実況してくれる。賑やかしいと言えば肯定的だど、やっぱ否定的に五月蝿いと言っておこうか。

「お前ら、何だらだらやってるんだよ」また、なんかゴツい男が現れた。流石に面倒臭い。

「テメェも、チョロチョロ避けてんじゃねぇ」ガタイの良い男は其の体格に似合わず一気に距離を詰めてくると、腕を取られてた。

「あ」身体が宙に浮く。そう言えば投げられる経験って少ないよな。こんな時って、如何すれば回避出来るんだろうか。と、考えてみるも、ドッと言う衝撃と共に地面に叩きつけられた。肺から一気に空気が抜けて咳き込みそうになる。

「え!?意外と強い」鉄串の男が呟く。

「意外ととは何だ」ゴツい男の声が降ってくる。「取り敢えず、拘束するぞ」腕を掴まれ、後ろ手にされる。おいおい、あとひとつで終わりなのに。此処で終わってしまうのか。

「あれあれ。ついてきたのかよ。ま、良いや。取り敢えず、そのマスクを外そうぜ」蜷川が手を伸ばしてくる。

「ってか、こんなモノをリアルでしてる人間初めて見たぞ」呆れ声が降ってくる。失礼な。顔面を守れるから色々便利だと言うのに。目出し帽。

「ちょっと待て、此奴は」そう言えば、其の声聞き覚えがある。そうか、そう言う事か。本当に此処までやった来たのか、お前達は。あんな出来損ないの地図でよく此処まで辿り着けたものだ。

「ん?知った顔なのか?」口数の少ない男が尋ねる。

「知った顔、と言うか。此奴、藤堂……だよな?……いや、でも。櫻ノ社で死んでいた……。腹を斬られて、首を切り取られて死んでいた筈」此奴は高塚とか言ったっけ。散々話し相手にさせられて辟易したな。そして、アレを見ていたのか。

「でも、確かに死んでいたよな?腐りかけの匂いしていたし」ああ。蜷川ではなく、皆川だったのか。俺は覗き込んでいる男の顔を間近で見て漸く理解した。

「ああ、あの死体か。間違いなく死んでいたと思うぜ。で、此奴って何とかって言うホームページの管理人だったよな」此奴は菅沼。確か三国とか言う男と一緒にいた男だ。皆川と合流できていたのか。

「なんとか、じゃない。『神宿りの島』だ」つい、口を挿してしまった。

「そうだな。其れだ。流石は管理人だな」嫌味なのか天然なのか迷う所であるが腹立たしい事だけは間違いのない返答が返ってきた。

「どういたしまして」取り敢えず、嫌味にならない程度に。

「さて、それじゃ。櫻ノ海は見つけられたわけだし、引き上げますか」皆川がまるで俺の存在が無かったかの様に高らかと宣言した。

「ま、其れが妥当だろうな」高塚が皆川に同調する。

「おいおい、皆川。此奴、どうするんだよ」背後で大きな声を出すな。

「あ。悪い。縛り上げて、此処に放置……していきたい所なんだけど。流石にダメだよね?緊急避難って事になんないよね?」皆川。お前、何言い出すんだ。縛り上げられてこんなところに放置されてみろよ。多分、地獄見るぞ。

「流石にダメだろ。縛り上げた時点で殺人未遂にでもなるんじゃね?」高塚が肩を竦める。何と言う助けに船。流石に此処に放置はされたくない。

「何なら、このまま連れていくか?そもそも、縛り上げる方が面倒くさいし」此の筋肉ダルマ、何か言い出したぞ。

「でも、そうなると此処からどうやって下山するつもりだ?此奴も連れていくとなると、割と厳しくないか?」菅沼が口を挟む。確かに登山道に戻ってから、どうやって下山するつもりなのか。

「其れは大丈夫だ。此処は俺の庭のみたいなモノだしな」聞き捨てならない事を言う。

「此処が庭だって?どう言う事だ」俺の腕をキメている背後の男に尋ねた。

「書いて字の如し。此処は子供の頃から何度も連れられてきてるからな。先祖が土地を持っていたとかで、爺さんが元気な頃はよく此処に連れられてきてた」リアルな咎隠村の縁者かよ。子供の頃に連れられてきていただと。若しかしたら、此奴の祖父が士送りの儀を執り行おうとしていたのか。其れならば、やはり俺が完遂しないと。

「へぇ?嘗て此処には十一の家が在ったらしいね。其の内の一つが貴方の家系だと言うわけだ」彼奴が調べ集めていた情報が今、自分の中に息衝いている事に気づく。

「お、よく知っているな。爺さんの代までは家々で交流が在ったらしいけど、今はもう此処に戻る人間も居なくなったってさ。俺は麓に家が在るからな」筋肉ダルマが意外、といった声色で言う。

「其れで。お前は何処の家の人間なんだ?」筋肉ダルマに問う。

「ってか、お前。此処の事知っていたのかよ」皆川が口を挟んむ。

「ああ。知っているも何も、今言った通り地元だからな」至極当然と言う口振りだ。此奴もむっつりスケベと同じ匂いがする。

「ああ、そうか。呉葉と連んでいたのもそういう事か」皆川が何か悟った様に言う。

「あん?皆川。呉葉が何だって?」筋肉ダルマの意識が皆川に向いている。丁度良い頃合いかもしれない。俺は準備を始める。

「だから、お前も呉葉も咎隠村の出身者だから、だろ?」何だともう一人?此の咎隠村の縁者が居るだと!?

……呉葉?何処かで聞いた名前だ。あの女か。皆川の話に気を取られてしまう。

「其れは、初耳だ。あの女も俺と同じで此処の末裔だったのか」筋肉ダルマが驚いてみせる。肝心の何処の家の末裔なのか、其れを俺は聞きたい。故に。

「もう一度聞く。お前の家は何というんだ」と尋ねる。

「あ?榊の家だが。其れが如何した?」榊家。士送りの儀式を仕切ったとされる家か。もう一人の方も気になるが此奴で良いか。決めた。そうしよう。其れが良い。

俺は『そう決める』と、榊に掴まれている腕を解いた。榊が呆然とした表情をしている。其れから、榊の右手首を掴むと外側に捻る。「痛ッ、ぐあっ」短く悲鳴が聞こえる。構わず、其の儘捻りながら一歩踏み出すと、榊が自ら回転しつつ飛び退く。

「何ッ!?」一部始終を見ていた皆川が此方に駆け寄ってくる。と、同時に高塚が反応して駆け出してくる。更に其の後ろに菅沼が来る。ジェットストリームアタックか?反応が良過ぎな上に連携取れ過ぎていないか、お前ら。

皆川が左回し蹴りを打ち込んでくる。思わず俺は榊の手を離すと、皆川の足を受け流す。

流される事が前提だったのか、流された左足を軸にして皆川は一気に距離を縮めてくる。

右足が、俺の左脛を狙っているのが目視出来る。そして、其れに反応しようとしたのだが、「高塚!」と皆川が叫ぶので、思わず高塚の方に視線を向けてしまった。左頬に衝撃。高塚を追い抜いてきた菅沼の拳が俺に入った。

「継寛、どけ」高塚の声、と共に菅沼がバックステップで俺から離れる。高塚が突っ込んでくるのが見える。今度は武器じゃなくて本当にタックルかよ。と、思った瞬間に脇腹に衝撃を受けて吹っ飛ばされる。

「おい、榊。此奴を連れてでも本当に下山出来るんだろうな?」皆川の通る声。

「ああ。出来る」榊が視界の端の方で起き上がる。皆川が俺を見下ろしている。何とも不遜で腹立たしい。

「其れなら」皆川は倒れている俺に蹴り込んでくる。「うお!?ちょっと待て」俺は必死で皆川の右足を掴む。掴んだ腕ごと皆川は自分の左足を蹴り付ける。思わず手を離す。其れを見越していたかの様にがら空きになった腹部を蹴り付けられた。

「ぐぅっ」声が出ない。呼吸も出来ない。息を吸い込もうとするも其れすら出来ず必死に呼吸をしようと試みるが空気だけが身体の外へ押し出される様な感覚しかない。そんな俺の事など無視する様に、皆川は俺の太腿に踵落としを平然とやってのける。「!」悲鳴替わりに目一杯肺から空気が漏れた。暗く澱んだ目。其れが俺を見下ろしている。

「おい、皆川何やってんだよ」高塚の声。

「流石に遣り過ぎだって」継寛と呼ばれた菅沼の声。

「皆川。お前、本当にこんな感じなんだな」榊の呆れた声。

「色々煩い。そして、分かってる。取り敢えず、さっきみたいに暴れられても困るしな。流石に此れで抵抗は出来ないだろ?」皆川は平然とそう言ってのけると、俺の背中に更に蹴りを入れて「撤収しよう」と続けた。

「あのなぁ。いつもお前は遣り過ぎなんだよ」高塚の声が遠い。

全身が痛い。久々の打撲の痛みだ。其れよりも、呼吸が出来ない。呼吸をしようと喘ぐ。断続的に肺に酸素が取り込まれる。うまく呼吸が出来ない。皆川に蹴られた彼方此方が酷く痛む。全く、加減というものを知らんのか。仰いだ空から雨粒が降り注いだ。

「取り敢えず、榊。此奴は連れて行こう」皆川の声が遠く聞こえた。

「お前の言う事に従いたくはないけども、其れが最良だろうな」榊が俺を覗き込む。其れから、妙な浮遊感と共に視界が暗転した。

 

 

 

 


「こっちだよ」呉葉が叫ぶ。其の後を藤堂を背負った榊が走る。足元の悪い中、かなりハイペースで進めている。呉葉も榊も、此の森を庭の様なものだと言うだけの事はある。

「おう。助かる」俺は藪に足を取られながらも二人の後を追う。少し足場が良くなったところで、高塚と菅沼がついて来ている事を確認した。

「其れにしても、こんな道も在ったんだな」榊が少し感動した様に言う。

「まぁね。此処は特別。降り専用みたいな道よ。でも、皆んな無事で良かった。待つのって気が気じゃないから」呉葉は更に獣道の様な草むらに突っ込んでいく。

「ま、でも一緒に居なくて正解だったんじゃないか。此の気狂い、かなりキテいたからな」榊が背中の藤堂を指して言う。

「ホント、ある意味ヤバかったよな。完全に錯乱していたじゃん、此奴。そして呉葉、ご心配お掛けして、申し訳ないね」俺は榊を追い抜き、呉葉の後ろに付いた。

「其れにしても、此れが道か。道か」高塚がぶつぶつと言っている。

「如何した、あっちゃん」菅沼が軽口で尋ねる。

「ふと親戚の婆さんの家に行った時に迷い込んだ森を思い出したんだよ」高塚が懐かしそうに語り出す。

「前に言っていた奴か。山の上へ上へ向かっていって?」以前に高塚から聞いた遠野物語のマヨヒガの様な体験譚の事か尋ねた。

「あれ?話していたっけ。そうそう。川というか崖というか、そんなのを登っていった先に、なんか民家があったんだよ」山の中にそんな民家がある時点でかなり怪しい。

「へぇ。廃村じゃなくて?」菅沼が尋ねる。

「一軒だけ、ぽっつりとあってな。入ろうかと思ったんだけど、日が暮れそうだったんで、降りたんだよ」そうだな。日が暮れて山の中に居ると、碌でもない事になる。

「あ、降りたんだ」榊が少し笑いを堪えた様な声で話に絡んでくる。

「そうなんだよ……。降りてしまったんだよ。何度か其の民家を訪ねてみようと試みたんだけど、辿り着けなくてな」高塚がとても残念そうに言う。

「櫻ノ海、みたいなものね」呉葉がぽつりと言う。

「ある意味、櫻ノ海もマヨヒガの様なものか」俺は白く濁った風景の向こう側にあった呉葉と榊の祖先が暮らした地を思った。

「ま……、兎に角安全なところまで降りようぜ」高塚が追いついてきて、俺の肩を叩く。もう一度じっくりと櫻ノ海を探索したいと思いながらも、多分、もう二度と此の場所に来る事は叶わないのだと、直感的に理解してしまった。

「命あっての物種、か」来た道に背を向けて、一歩踏み出す。

「そんなに気を落とすなよ。富山県内だって此処みたいに怪しいスポット有るぜ」菅沼がフォローにもならない事を言う。

「こんな場所がそうそう在ってたまるか。大抵は昭和と平成の大合併で出来た村の抜け殻だ。此処みたいに成り立ちからして隠す満々の集落なんかおいそれと出てくるかよ」そう言って、ふと考える。山窩みたいなものなのかね、こう言う山の集落は。

嘗て俗世から追いやられて。そう、当時の治世に肌が合わない連中とかが落ち延びたこう言う集落が山々にきっと在ったのだろうな。

時代の移り変わりで山も開発されて、隠れ住む場所もなくなってきて。そうなった時に呉葉や榊の祖先の様に当たり前の様に社会に溶け込んで。今だに命を繋いでいる。

ある意味この山自体が墓ー陵墓ーなのかもしれないな。

「如何したの?ぼうっとして」呉葉が上目遣いで俺の顔を覗き込む。其の瞳を見つめると吸い込まれそうになる。焦茶色の瞳の奥。其の中心に落ちていきそうになる。

「いや。何でもない。ちょっと考えてしまったんだ」俺はそう言うと軽く呉葉を抱きしめた。何となくの罪悪感。何となくの愛情。何となくの行動。

「え?何?」呉葉は少し戸惑って一瞬硬直するも、身を委ねてくれた。もう一度、抱きしめると身体を離す。

「なんとなく、だ」俺はそう言うと、周囲を見渡した。所々に人型のシルエットが転がっている。櫻ノ海で見た地蔵の更に出来損ないの様なものが転がされている。

「先を急ごうぜ、日が暮れたら終わる」高塚が空を仰いで言った。

「そうだな。テントも何もかも破棄してきたからな」菅沼がふぅ、と溜息を吐く。

「此奴が生きている内に降りようぜ。殺人事件の重要参考人には成りたくないからな」榊が面倒臭そうにお荷物を背負い直す。

「其れなら、日暮れ前に森は抜けられるよ」呉葉が駆け出す。

「そんなに早く下れるのか?」榊が驚きを隠さず呉葉に尋ねる。

「本当にな。こんな道があるのなら、最初からこっちから来ればよかったのにな」高塚が呆れた様に呟いた。

「さっきも言った通り、降り専用だってば。脱出用と言うか……。其れに戸隠神社からだったら、普通に登るしかないけどね」呉葉はバッサリと言い切った。

「脱出用?」不穏な単語に反応してしまう。

「ほら、落人の村だからね。何かあった時に逃げだす為の道、よ」呉葉は目を細めた。

「榊ッ!」高塚の叫び声。

「カムイが!」菅沼の緊迫した声。

振り返る、枝葉が邪魔をして、何が起きているのか把握出来ない。

「うおおおおおおおおおお」誰かの叫び声。

「皆川、ヤバい!藤堂が!」高塚が何かをしようとしている。駆け上った先で、榊に馬乗りになり拳を振り下ろしている藤堂の姿と、其れに蹴りを入れる菅沼の姿が見えた。

「くそ、離れろ!」菅沼が藤堂の首に腕を回し引き剥がそうと試みている。

「何が在った!?榊は無事か?」俺は高塚に尋ねる。

「藤堂が突然暴れ出して、榊に噛み付きやがった」高塚の発言に俺は言葉を失う。

「継寛、退け!」俺は割って入ると、藤堂の背中に肘鉄を入れた。ドムっと肉に沈む感触がある。其れでも藤堂は榊に拳を振るい続ける。

「いい加減にしろ!」今度は横腹を思い切り蹴り付ける。其れで漸く体勢を崩して藤堂が榊から離れた。榊は首を右手で抑えている、其処から血が滴り落ちている。

「大丈夫か?」俺は榊に左手を差し出す。

「くそ。いてぇ。急に噛み付いてきやがった」榊が俺の手を掴んで立ち上がる。

「お前ら!何処まで邪魔をするんだあああああああああ!もう一人なんだよ!何で邪魔するんだよ!邪魔なんだよ!僕の邪魔をするなよおおおおおおおおお!」藤堂が身体を滅茶苦茶に揺さぶりながら叫ぶ。完全に正気の沙汰ではない。ってか、パワー系ナントカって奴だな。面倒なんだよなぁ、理屈が通じない系の奴を対処するの。

「もう一人って?」凛とした声が場に響き渡った。

「士送りだよ!咎隠村の悲願だろぉ!?何で邪魔をするんだよ!」藤堂が叫ぶ。

「貴方は村の子孫?何処の家の人間?」何処か冷たく突き放す様な口調で言葉が飛んだ。

「あハ。僕?僕はーーーー神崎の家の末裔だ。だ!か!ら!俺には儀式を完遂する義務があるんだぁ!」藤堂はゆっくりと立ち上がると呉葉を睨んだ。「そして、お前は何処の家のものだと言うんだ、女!」今にも飛びかかる勢いで叫ぶ。

「奇遇ね。あたしも神崎という姓を継いでいるの。そして、貴方?『藤堂』の姓(かばね)方が似合っているわ」もし、触れたなら切り落とされそうな位に鋭利に研ぎ澄まされた言葉の刃が見えた様な気がした。其れは呉葉から発せられ藤堂へ向かう。

「何でだッ!?何でだよぉ!?可笑しいだろ!何でお前も神崎の名を持っているんだああぁあ!?」藤堂が地団駄を踏む。

「何で?当たり前じゃない。あたしが正統な神崎の家長よ」呉葉は鋭い視線を藤堂に向ける。「何処かで別れた分家の事なんて、知った事じゃないの。そもそも、櫻澤の事も碌に知りもせずにお里帰りなんて、笑えるわね」呉葉が藤堂を煽る。

「分家だと……?其れが何だっていうんだ。士送りの儀も完遂しないで!代々の地を蔑ろにして!お前が家長を名乗っても俺は認めない!」支離滅裂。完全にイっている。

「士送りはもう、終わっているわ。だから、皆んな櫻澤から出たのよ」呉葉が語り出す。「でも、こうして貴方が居る以上、終わっていなかったのね」

「呉葉、如何いう事だ?」榊が場の空気を読まず、割って入る。

「榊の家にはあまり関係のない話なのよ。でも、巻き込まれた以上、話だけはするわ」

 


嘗て、国を二分した戦に於いて、敗者がとある山中に落ち延びた。水源豊かな沢のある平地で彼らは反撃の機会と余力を蓄える為、住居を作った。其れが櫻澤邑の起こりである。

中心となったのは神崎家、神薙家、神山家、神居家、神塚家の五つの家であったが、姻戚等で神代家、神村家、神堂家、神尾家、神田家を加え十の家々の集まりとなる。神事を扱う神崎家が中心にあった為、五行や十干の思想を取り入れた村造りが成された。

元々中心となっていた神崎家から、神事のみを司る家が分家され、榊家となる。榊家が出来た事により櫻澤村は十一の家々の集まりとなる。榊家は巫覡を生業とし、戦には関わらない家として村の中でも特異な存在となる。

神崎家及び榊家から士送りの儀が村に伝わる。士送りーー詰まるところ、村から侍を送り出すーー戦を放棄する策だった。

然し乍ら、未だ過去の遺恨を持った家も少なからずあり、一族繁栄の為の儀式として榊家が中心となって執り行う事となる。各家家に定期的に生贄を要求し、戦力を削ぎ、争いの意思を削ぐ為の儀式というのが本質的な士送りの儀だったと神崎家には伝わっていた。

時を重ねる中で、士送りは形骸化していき、単純に生贄が要求される村の儀式という禄でもない存在となった。

幾度目かの士送りの際にとうとう贄が揃わず、儀式が中断される事となった。つまり、生命を奪う行為を良しとせず、一族の繁栄という大義名分に対しても生贄を捧げることでは繁栄は無しとして、争いの宿業から櫻澤村は抜け出す事が出来た。

中途半端に記された此の時の士送りの儀の記録が神崎家残る事となった。やがて、神崎の家も櫻澤村から離れ、現代の一般的な社会の中に埋もれていったのだった。

血塗られた祖先の記憶は現代の平和に掻き消されて、櫻澤村もゆっくりと朽ちていくだけのはずだった。其れなのに、村の事を詮索する人間が増え、勘違いした輩が儀式の為!と声高らかに模倣殺人を始め、漸く安息の眠りにつきかけた村を起こそうとするのだ。

 


「そりゃ、今代の神崎家の家長として立腹しても文句ないわよね?」呉葉が当然でしょう?と言った表情をして皆んなの顔を一つ一つ眺めた。

「因みに、治外法権にはならんよな、此処?」高塚が空気を読まず尋ねる。

「ならんだろうな。此処は如何足掻いても、法治国家日本国の領土のど真ん中だ」俺は肩を竦めて見せた。

「うぁあああああああぁあぁ!!!もう良い。女!お前の言っている事は嘘だッ!俺が正統な末裔だ。血縁だ!だから、誰でも良いいいいい!!!!もう一人死ねぇ!」藤堂が呉葉に向かって駆け出す。誰でも良いとか言って、近くにいる俺や榊をスルーして呉葉を狙うか。とことん、此奴はクソだな。

「緊急避難って事で」俺は藤堂に駆け寄って、腰を蹴り付ける。前傾姿勢の為、藤堂はバランスを崩し転がる様に吹っ飛んだ。

「あ、ひでぇ」高塚が呟く。

「妥当じゃないか」菅沼が高塚に突っ込む。

「呉葉、行くぞ!道案内を頼む」俺は呉葉の背中に叫んだ。

「先に行って。このまま少し低くなっている藪を突っ切っていけば川に出るから。後は川に飛び込んで。そうしたら麓まで一気に行けるわ」呉葉はにっこりと笑って俺を見た。

「わかった。んじゃ、またな呉葉」榊が呉葉に告げる。「其れじゃ、皆川、お前ら付いてこい」榊が俺を押し退けて先頭に立つ。

「呉葉は?如何するんだ?」俺は呉葉に尋ねる。

「ゆたか、実はね。あたしにも此処に来た目的が一つだけあって……。其れだけ済ませたら降りるから。大丈夫!」呉葉はそう言うと元来た道を駆け上っていく。

「行くぞ」榊がそう言うと茂みを駆け降り始める。高塚と菅沼も其の後に続く。呉葉の背中は見えなくなった。多分、フィクションなら追いかけるのだろう。だけど、今、此れは自分の命が懸かっている。俺は、情けないが下山する方を選択した。

足の筋肉が悲鳴を上げている。歩けないと言っている。其れでも傾斜のある此の道は無理矢理にでも歩かせようとするのだ。藪の枝葉に引っかかって彼方此方に傷がつく。其れでも歩みを止めず、俺たちは降りていく。

何度か後ろを振り返ってみたものの、自分の望む駆け降りてくる呉葉の姿など見えもせず。只々、暗澹と此の世界を黒く覆う様な森と霧雨の白が視界を支配していた。

「ってか、川って此れか?」少し引いた様な榊の声。

「まぁ、大丈夫じゃないかな。子供の頃、母方の実家で此れくらいなら飛び降りて遊んでいたし。多分、大丈夫だろ」高塚が無駄に自信たっぷりにそう言う。

「いや、でも。此の高さは結構来るな」菅沼も少し引いている。

漸く、皆に追いついて、川とやらを見る。アパートメントの三階くらいの高さに俺たちはいて、其の三階くらいの高さを飛び降りろと言う事らしい。成る程、確かに此のルートでは櫻澤村に来る事は出来ないわな。

「じゃ、最初に行く人ー?」明るく元気に手を挙げてみたが、白けた目で皆んなに見られてしまう。酷くないか。

「んじゃ、俺から行くわ」高塚が短くそう言うと「んじゃ」軽く手を挙げて川へ飛び込んだ。躊躇ないな、相変わらず。水飛沫を挙げて流れていく高塚を眺めながらそう思った。

「ま、普通に降りても此処に飛び込んでも、無事かどうかなんてわかんないしなぁ」榊がそう言って溜息を吐く。其れから俺の顔をみてニヤリと笑うと飛び込んだ。

「あ、何だ。其れ!」俺は流れていく榊に問うも、返事は返ってこない。

「んじゃ、また後でな」菅沼が俺の肩を叩いて、飛び込んでいく。えっと?お前ら引いていなかったっけ?躊躇していなかったっけ?まぁ、良いか。

俺はもう一度だけ、降りてきた道を振り返った。呉葉は来ない。いっそ戻るかと思った其の時。ドンッという、名状し難い音とも振動ともつかない何かがあった。

「何だ!?」思わず叫んでしまう。そして其れの所在を探そうとキョロキョロと辺りを見渡すも何の変化もない……。と思ったのは一瞬で、無限軌道の重機が近くを通過する時の様な振動がする。何かとても重たいものが通過する様な、そんな感覚が……。

「うおおおおおおおおおお!?」木々を押し倒しながら、巨大な何かが押し寄せてくる。何か途轍も無くヤバいものが迫ってくる。俺は川へと飛び込んだ。

身を切る様な冷たい水。ゴボゴボという音。勢いのある水流に為されるがまま。次第に苦しくなってくる。呼吸をしなければ。

水面を目指して浮き上がる。なかなか身体の自由が効かない。顔だけでも出せれば。もがいて、何とか顔を出す。息を吸い込むと同時に多少の水も飲み込んでしまう。

必死だった。死にたくないと思った。生きて帰ると何度も心の中で叫んだ。無我夢中で顔を出したままの姿勢を維持しようとした。

子供の頃に習った筈の水泳だったが、こんな時役に立たねぇな。小学校低学年の時に習わされていた水泳教室の事をふと思い出す。そもそも身体が動かねぇんだもんな。

そう言えば。或る雪の日にドブに落っこちた事もあったな。

あの時は本当に死ぬかと思った。基地の屋根に登っていて。積もった雪で滑って三メートルくらい下のドブに落ちたんだっけ。あの時も今と同じで手とか足の感覚が無くなっていって、動かしている筈なのに思った以上に動いていなくて。

手が全然ダメだったな。壁を掴めないんだよな。肘から下が言うこと効かないんだ。何とか色んな段差や雪を使って二メートルくらいの壁を何とか登って。アパートの四階にある自宅へ必死で帰ったっけ。

ヤバいな。何でこんなに昔の事を思い出すんだ。

足をバタつかせて水面に顔を出し続ける。腕も動かしているが、感覚がもうない。息継ぎをする。命を繋ぐ。死んでたまるか。

 


自室とは違う天井。真っ白な枕カバーと布団。綺麗に洗濯されたコットンの香り。無機質な印象を受ける部屋。昔、嫌という程過ごした空間。

此処が病室である事は直ぐに分かった。でも、何故こんな所に居るのだろうか。起き上がろうと試みるも、全身が色んな意味で痛い。傷とか打撲とかそんな痛みがミックスされた状態である事に気付く。

「ぐ……う……。いってぇ……」喉から掠れた声が絞り出された。痛みを堪えて、身体を横にしてみる。痛みが無い所が無いレベルで全身が痛い。

何でこんな事になっているのか。思い出そうとしても、よく思い出せない。此処は何処で、今、何年何月何日なのか。痛みに耐えながら周囲を見た。枕元にナースコール用のボタンを見付けて、其れを押した。何か声を掛けられた気がするが、痛みの余り聞き逃した。程なくしてナースが医者を引き連れて遣ってきた。

如何やら俺は一週間ばかり意識不明の状態にあったらしい。問診され、明日からは精密検査などを行うとの事を告げられる。

医師が去って暫くすると警察が遣ってきて当たり障りのない事情聴取をされる。如何やら山岳事故の扱いになっている様だ。他の連中の安否について尋ねると、友人達は皆んな無事だったとの事で取り敢えず胸を撫で下ろす。

三国と高塚に至っては其の日の内に富山に帰っていたとの事であった。三枝兄妹は長野県内に少し滞在した後に富山へ戻り、菅沼は先日退院し、富山に戻ったとの事であった。

榊は重傷を負っていたものの意識がしっかりとしており、自宅の近い病院へ転院したとの事。呉葉については……。

「神崎呉葉さんですか?」警察は訝しげに俺を見る。

「確かに一緒にいた筈なんですが……」俺は食い下がって聞く。

「遭難当時、あなた方と一緒に居た大学生のパーティは未だ誰一人見つかっていないので……」警察は申し訳なさそうにそう言った。

呉葉は見つかっていなかった。藤堂をはじめとする大学生の集団も此の事故で行方不明とされていた。

人が去った病室で一人残されて天井を見つめる。登山中に起こった山岳事故。登山ルートから外れた場所で想定外の土石流が発生し、俺たちは其れに巻き込まれた。事件性は皆無。其れが公に発表された『事実』だと言う。

鎮痛剤のお陰で痛みはかなり抑えられていた。思考を巡らせる余裕があるくらいには。

櫻澤村から下山する際に最後に見えたアレが土石流だったのか。

木々を薙ぎ倒して、更に木よりも高く聳え立つ壁。其れが押し迫ってくる。無我夢中で飛び込んだ川。生きたいと何度も願った。

「……流石に生きてはいないか」あの事象にまともに巻き込まれて生きているのならば俺はもっと軽症だったのでは無いかとも思いさえする。

あの時感じたであろう恐怖は既に自分の中になく、記憶を思い返しても出来の悪い映画を見た後の感覚に似ていて、あの現実の中に自分が在ったと言う実感がない。

更に言えば、其の前に体験した櫻澤村や櫻ノ海の記憶すら、何かそういう映画でも見たのでは無いのではという感覚になってくる。

現実感の無い記憶。一週間も意識を失っていた弊害なのかもしれない。今此処にある自分にさえも此れが現実であると実感が持てないのだから。そう考えると、不意に眠気がやってきた。俺は思考する事を手放す事にした。

 


結局、退院するまで意識を取り戻してから四日掛かった。入院中する事がなくてテレビや新聞を読んで過ごしたが連日、土石流発生から何日だとか、行方不明者は依然見つからずだとか自分が当事者と言う以外は普通の報道が為されていた。遭難した人数が多かった為か、捜索は未だに続けられているとの事だ。

そう、自分も当事者だったのだが、終ぞ自分がメディアに囲まれてマイクとカメラを向けられる事はなかった。退院の日、そうした事も想定しながらビクビクして外に出たのだが、穏やかな陽光が燦々と降り注ぎ、夏の匂いが少しだけ混ざった風が吹いてくるという状況だった。

「お。足がついてる。ちゃんと生きてるな」くだらない冗談を高塚が投げかける。

「お陰様で。悪運だけは強くてね」ゆっくりと歩き出す。

「結局、何だったのかね?」高塚が何とも言えない疑問符を宙に投げた。

「其れは俺が聞きたい。大規模な地滑りと其れに因って起きた土石流による遭難事故って」俺は空を仰ぎ見た。ゴールデンウィークも過ぎて、此れから初夏に入る空。

「完全にカムイってか藤堂の殺人は闇の中か。寧ろ、事故に巻き込まれた哀れな大学生ってポジションになってしまった」高塚が肩を竦める。

「そう言うお前こそ、事故で恋人を失った悲劇の青年になったじゃないか」

「煩い。そうせざるを得ない状況じゃないか。多分、俺たちが何を言ったとしても、事故という流れを変えられないだろ。だったら、流れに乗っておけば良いんだよ」尤もらしい事を高塚が言う。

「そうだな。俺が色々話したところで、土石流に巻き込まれた際に強く頭を打って、記憶が混濁しているのでしょうとか言われたからな」淀みのない真剣な眼差しでそう告げる医師の顔を思い出して辟易する。

「俺たちの話の方が突飛で現実的ではないからな」高塚は仕方ないさ、と続ける。

「経験した事実がまるまる世間では一切無かった事にされているっての、なんか気持ちが悪いもんだな」そう言ってからふと、真理が降りてきた気がした。「あ、でも……そうか。俺たちが此の捻じ曲がった『事実』を事実にしておけば良いのか」呉葉の事を思う。

「あん?如何した?皆川」訝しげに高塚が尋ねる。

「いや、俺が櫻澤村に行こうと思ったキッカケだよ。都市伝説ってこうやって生まれるんじゃないかって思ってさ」入院中から少し考えていたのだが、真実の方を都市伝説にしてしまえば、咎隠村ー櫻澤村の事すらも都市伝説にしてしまえるんじゃないかと。

「は?」高塚が何言っているんだお前は?という視線を向けてくる。

「現時点で今回の出来事は山岳事故だったという事が世間では『事実』な訳だろ。其処に当事者である俺たちがアレは事件だったと、そう言って回れば其れが都市伝説のフレーバーになっていくんだろうなって」幽霊の正体見たり枯れ尾花、みたいなモノだな。ぼんやりと考えていた事が突然しっかりとした輪郭を持った。

「ああ。何処かの廃ホテルの都市伝説みたいなものか」高塚は納得してくれた様で、適切な例を上げてくれる。

「そそ。都市伝説では、オーナーがホテルの事務室で首吊った事になっているけど、事実はオーナーは関東の方で普通に生きている、と。まあ、今回の件は完全に事実と都市伝説が逆転しているんだけどね」俺はもう、此の話は終わりだと感じた。多分、誰一人として真実を掘り返す事で良い思いをする人間はいない。

無論、法治国家日本国に住む以上違法行為に関して通報はしなければいけない。でも、通報しても其れが通らなければ、其れ以上、何が出来るというのだろうか。

「……其れじゃ、真っ直ぐ帰るって事で良いか?」高塚が歩き出す。

「問題ない。ってか、悪いね」俺は高塚の肩に凭れ掛かる。

「いつもの事だ。飯くらいは奢れよ?」高塚が肩組をする。

「……へいへい」俺は高塚から肩を解くと、思い切り背伸びをした。未だ未だ痛みはあるものの、幾分かマシになっていた。

 

 

 

それは、深い深い森の中。

 


それは、忘れられた祭壇。

 


それは、血塗られた過去。

 

 

 

あの歌が聞こえてくる様だ。

 

 

 

さくら

さくら

さくらのうみの

おには

いついつでやる

よあけのばんに

おにと

かみが

ちぎった

 

 

 

むっつめは求道の者だった。

自らの起源を探し求める者。

継ぐものに刃を向けられた。

為す術もなく何も分からぬままに逝く。

 


ななつめは殉教の者だった。

己の信じた愛する人の手で。

愛する者に与えんがために。

自らの命を嬉々として贄に差し出した。

 


やっつめは無辜の者だった。

何も知らぬ儘分からぬ儘に。

数合わせの為凶刃に伏した。

其の骸は尊厳を剥ぎ取られ棄てられた。

 


ここのつめは強欲者だった。

自らの欲に駆られ掬われて。

哀れ力及ばず刈り取られた。

身の丈に合わない強欲は御身を滅ぼす。

 


とおでさだめがひとまわり。

己が最愛の者を手に掛ける。

全ては儀式完遂の為と偽り。

士送りの儀として無駄な血を流させる。

 


さむらいさんは去っていく。

さくらの澤から去っていく。

村は山に沈んで消えていく。

櫻ノ海ノ鬼ハ命ヲ賭シテ救世ヲ願ッタ。

 

 

 

先日の土石流に伴う遭難事故の捜索が打ち切られる事になりました。

依然行方がわからなくなっているのは

 


金川 千秋さん 埼玉県(27)

藤堂 朋宏さん 東京都(21)

竹中 徹哉さん 東京都(21)

加藤 愛美さん 千葉県(19)

加持 麗華さん 東京都(19)

神崎 呉葉さん 長野県(23)

 


の六名です。

此の面子の名前がニュースで流れるのは何度目だろうか。正直、辟易してきた。ヘリからの映像がバックで流れている。在り来たりの報道。

俺は何の気無しに画面を眺めていた。被害の酷そうな所をカメラが捉えて、ズームする。焦茶色の泥の間から一本の白百合が生えている。一瞬、其れが見えた気がした。直ぐに映像は別のシーンに移り変わり、刻々と変化を繰り返していく。

其れでも何故か荒れ果てた泥まみれの世界に一本だけ生えた白百合のイメージは網膜に焼き付いて離れない。

何処かで見た事のある其れは。

果たして、其れは百合だったのだろうか。