ledcannon’s diary

美作古書店

自分とは

子供の頃からずっと、自分の定義を考え続けている。ある意味、自分の生きる意味をずっと問い続けている。答えなんて見つかる訳も無く、時折、都合の良い解釈を手にして、自分を定義し直している。

屹度、誰だってそうなんだろうけれども、自分にとって、自分が生きる意味はとても重要で、「其れ」無しでは生きている事すら儘ならなくなるのだ。

酷い運命を背負い込んでいる様なそんな考えも浮かぶ位に、自分の生き方は辛い。

とことんまで沈んで、とことんまで浮かび上がる。潜水と浮上を繰り返している。境界なんてマチマチで、其の時々で変わってくる。

だから、自分の起点を。境界の基準を何かに託さなければやっていられない。其れは集めている書籍であったり、バイクであったり、時計であったり、ゲームであったり、今はカメラであったり。

通り過ぎてきた自分の指標をモノに刻んでおく。其の為のモノなのだ。だから、人に比べてモノに執着するし、依存するし、収集もする。

其れらが零れ落ちていく自分の記憶を留めて置いてくれるから。

子育てをしていて、子供の頃の事を思い出す事が多くなった。遥か三十数年前の事を今、其処に居る様に思い出すのだ。曇りや雨の日が多い。其れは屹度、脳味噌の使用量が晴れている日に比べて持て余していたからだろう。

今住んでいる家を離れ、両親と県営住宅に引っ越した。其処で妹が生まれ、妹は守るべき存在であり、まるで自分は彼女の守護者であり、家族ではない様なそんな錯覚の中で十数年を過ごす事に成るのだが、其の当時の事を思い出すのだ。

上の娘が妻を追って玄関に走る後ろ姿だとか、鳴き声、鳴き方、其れ等が自分の妹の其れと良く似ていて、どうもあの時を思い出す。

帰ったら鍵の閉まった鉄扉。チャイムを鳴らしても音沙汰がなく、外は雨で何処にも行けない。行こうと思ったら行けるんだが、踏み出せない。燻んだ窓の向こうは鉛色の雲に覆われていて、雨が効果線の様に地面へと落ちていく。

工事の音。今は希望の音に聞こえるかもしれないのだろうが、其れが外に鳴り響いている。空に伸びたクレーン車のアーム。其れが行き交っている。

バブルの終焉の頃。夢の様な時代の終わり。あの曇り空は其れの神託だったのかもしれない。鉄扉の前で体育座りをして帰りを待つ。永遠の様な時間の流れ。若しかしたら、自分は世界から取り残されて、此処で一人朽ちていかなければ行けないのかもしれない。そんな世迷い言が浮かぶ。

曇りや雨の日は嫌いだ。そんな思考に耽った思い出を呼び起こすから。でも、雨上がりの瞬間は好きだ。重そうな雲の切れ間を塗って陽光が差してくるあの感じが好きだ。インスピレーションが湧く、あの感覚に似ているから。

暖かい日差しを受けて駆けて行く。何処か。目的地はいつもない。ただ、自分の感じるままに。

自分の定義がわからない。自分の生き方がわからない。

ずっと長い間、探してきたけども見つからない。何処かに落としてきた様な、そんな錯覚をおぼえるが、何処にも落としていないのだろう。自分は変わっていないから。

元々、こんな厄介な思考回路を持って、此の世界に生まれたのだろう。

此の厄介な思考回路は、一般的である事を頑なに拒みながらも、一般に近付こうとする。相容れないのに。交わらないのに、躍起になって近付こうとするのだ。

いつも自分の本質を晒せない。晒すと他人に対して失望するからだ。こんなにも自分を見せても相手の深淵を覗けないから。または相手の深淵が浅瀬だったりするから。

何様のつもりだと問われる事も多い。神様気取りかとも言われた事もある。本人は至って普通の人間様のつもりで、其れでいて相手の心の奥底を覗き込もうとするから。

そして、様々な想像力、そう子供の頃からずっと培ってきたシミュレーションを以って現実と相手を解析しようとするから。

アカシックレコードに惹かれた。過去、現在、未来の全てが其処に記されているという其の設定は自分の心を揺さぶった。其れを見たいと思った。其の切望は叶う事はないだろうが、お陰で文章を書き綴る術を得た。

自分の為に文章を書き始めた。他人の作る物語に飽き始めた13歳の頃から。時折、他人の作る物語に惹かれるが、其れでも其の作品は大成する事なく埋没して行く。未完のまま葬り去られる事が多い。または売れて、元々の趣旨からブレて行く。そんな作品群を幾つも見送ってきた。

だから、結局のところ自分で何かをしなければ、自分は満足出来ないのだ。自分の書いた物語は数年経って読むと、とても面白く感じる。誰がこんな設定考えたんだ、とか割とあって、自画自賛になる事が多いが、そう言った経験は自分の向かう道は間違っていないと囁くのだ。

写真。

これも他人の作品は自分の感性に刺さる事が少ない。同じ様な作品。お手本に倣えのクソ仕様。なんだ、此れは。こんなクソみたいな現実の何が面白いのか。

いや、面白くないわけではない。時折、文章と同じ様に、心を貫く作品があったりするから。生き続けて行く中で自分の感性に良く似た人間に出会う事もあるけれども、そう多くはない。

抑、感性が合わないと友人関係になる事が少ない自分にとって、感性の合う人間は広義の意味で友人である。

さて、自分の心に積もった埃を払う。

ブログという形式は其れをするには都合が良い。

死ぬまでウロウロと自分を探し続ける。自分の深淵を。自分とは何かを。

時々の自分は、文章や写真を持って表現しておこうと思う。