ledcannon’s diary

美作古書店

無題の三

否応無く時間は流れ続け、その奔流の中にたくさんのものを落としていく。

少なくとも不変なんてものは存在していなくて、日々、いい言葉で表せば進化、悪い言葉で表せば退化し続けているのだ。

しかしながらそんな事を考えてみても、俺が現在置かれている状況をどう言い表せば良いのか、俺の腐りかけの脳味噌はフル回転で適切な言葉を探し続けていた。

延々と目の前に続く赤褐色の大地。

それ以外に山も海も川も無く、もちろん人工物なんて一切無い、言うなれば滅びきった世界。

何故だか分からないが、取り敢えず、俺は今、此処に居る。

 

 

 

 

「御主、珍しいものを持って居るな」

唐突にソレは俺に語りかけてきた。辺りを見回せど、その声の主たる存在の確認は出来ず、俺と足元に転がる物騒な女以外に人間の存在を見出すことは出来なかった。

「珍しいもの?」俺は一瞬戸惑ったが、その声に対しての自らの問いを言葉に出してみた。

「ああ、お前のその眼だよ」ソレは穏やかな口調で俺の問いに答え、さらに続けた。「『魔眼』と呼ばれる眼を持つものは数多く居れど、御主の眼は二つしか存在しないのだよ」

「『魔眼』だって?」俺は声を荒げて言った。此処に来る以前から在った右目の違和感。若干進んで見える世界。それのことを指して言っているのだろうか?

「ああ、『魔眼』だ。有名どころで云えば、石化の魔眼や死に至る魔眼…」言葉はそこで途切れた。多分、一分は経っていないだろうが、永遠に等しく感じてしまうくらいの沈黙。そしてその沈黙に耐え切れず、言葉を発したのは俺だった。

「それで、俺の眼は何の『魔眼』だって言うんだ?」俺は居心地の悪い血液色の空に向かって問いかけた。

「『世界』だよ」小さく、しかしはっきりとその声は言い切った。

 

 

今、目の前にある全て。

 

今、感じることの出来る全てに対して俺は夢だと思った。

 

 

まったくなんて性質の悪い夢なんだろうか、俺は「『世界』だと?」と聞き返えした。

「その通りだ。御主の眼は『世界』と成るべくして存在しているのだ」突拍子も無いことを語り始める。眼が世界に成り得るもの何だろうか?世界ってそんなに小さいわけ…無いよな?俺は俺自身にくだらない質問を投げかけてみた。

「眼が『世界』に成るだって?馬鹿馬鹿しいにも程がある。こんなくだらない夢なんて覚めてしまえ!」俺は自分自身に言い聞かせるべく、大きく声を張り上げた。

「はははははははは。威勢がいいな。そんなに叫んだところで眼の前にある現実は覆せまいて」声は大きな笑い声を上げた。

「現実…これが?現実だと言うのか?」眼の前に広がる光景はどう考えても現実のものではなかった。

「そうさ、これが現実。そして、御主が此処に居ると言う事実。覆せまい?」声は嘲笑も何も無く、ただ穏やかに俺に言った。

「これは夢だろ…」俺は地面に座り込んだ。やけにリアルな感触が在った。

「しかしながら、御主の中では夢と現実とはそんなにも違うものなのかね?」少し寂しそうにその声は俺に語りかける。

「…夢と現実は確かに違うものだ。」俺はうめくように言う。

「どう違うと言うのかね?今、此処に居て御主は何を見ている?現実か?事実か?それとも夢か?」声は本当に穏やかで俺の心を見透かしてしまっているような感じにさえ思えてくる。

「…禅問答したいわけじゃないんだ。この覚めない夢から覚めたいだけなんだ」俺は震える唇を最後には噛み締めながらも言い切った。

「覚めない夢か。しかし、ソレを現実と言うのではないのかね?」

「…」

 

もう、俺に逃げ場は無かった。

 

今居る、此処を現実と認める以外の選択肢は俺の中に存在しなかった。

 

 

 

「なぁ」俺は空に向かって語りかけた。「此れが現実だって言うなら、今まで俺が居た場所はなんだって言うんだよ?」自分の言葉によって色々な思い出が湧き上がってくる。

 

 

楽しかった事。

 

哀しかった事。

 

嬉しかった事。

 

朝、目が覚めて部屋の明かりを点ける前にカーテンを開ける。

 

暗闇になれた目が明るさに耐え切れずに目の前がホワイトアウトする。

 

一番最初に見え始めるのが大まかな輪郭で、段々とソレが詳細になっていく。

 

昨日、夕日が落ちる前にそこに在ったモノがまたこうして俺の前に現れるんだ。

 

暖かみのある世界。

 

俺の生きてきた世界。

 

それとは違う世界に今、俺は居る。

 

 

「御主が今まで居た場所は、今御主が居る場所とさして変わらんよ」声は穏やかに言った。

「こんなにも変わっているじゃないか!」立ち上がり叫んだ。それが如何に虚しい行為であったとしても俺はそうせざるを得なかった。

「御主には『現実』と『事実』しか見ていない『真実』がすっぽりと抜け落ちているのだよ」声は訳のわからないことを言う。

「何を言いたいのかわかんねーよ!」俺は大きく腕を振った。まるで駄々っ子のように。

「少し早いかもしれないが、いずれわかること。お前は、お前の眼は『世界』になることを運命付けられているのだ」声は穏やかにそう言った。

その声は俺の中で反響して。

次第に大きく鳴り響いてやがてわからなくなった。

 

 

 

 

むかしがたりをしてあげよう。

 

それはむかしむかし、遠いむかしの出来事なんだよ。

 

世界はひとつだった。

 

みんなみんなひとつに繋がっていて争いも諍いもなかった。

 

ただ、寂しさだけがそこに在ったんだよ。

 

世界はね、ひとつで、ひとりで、寂しかった。

 

だから、もうひとつ世界を創る事にしたんだ。

 

世界は自分をふたつに割る事にした。

 

総ての詰まった世界はこうしてふたつに分かれた。

 

それは善と悪と言われたり、光と影と言われたり、陽と陰と呼ばれたり、神と悪魔と呼ばれたりもした。

 

でもね、忘れちゃいけない。

 

善と言う基準があるから、また悪と言う基準が生れ、光が在るから、影が生れる、逆もあるんだよ。

 

どちらも同じものなんだ。

 

 

そうだね…。

 

画用紙をイメージしてご覧。

 

真っ白な画用紙。

 

それをね半分に千切るんだ。

 

大きさはまちまちになると思う。

 

でも、大体の大きさは同じだし、くっつければひとつになる。

 

そして、片方を黒色に塗り潰す。こうして真っ白だった画用紙の半分に色がつく。

 

同じ真っ白だったら、ただ単に大きさの違うもの。

 

だけど、色を付けることによって存在が分かれたことが明確にわかる。

 

それはとてもとても大事な事なんだよ。

 

ひとつからふたつになるために非常に重要な要因。

 

そして、ひとつだった頃に定められた原初の定義。

 

『非対称の定義』

 

非対称では在るけど、対になる存在が必ず在ると言うふたつ目の原初の定義。

 

『表裏一体の定義』

 

ひとつはふたつになる時に決め事を沢山創った。

 

そうしてひとつだったものは少しずつ少しずつ解れて今のようになった。

 

 

でも、忘れてはいけない。

 

解れてしまったけど、それらは総て繋がっていることに。

 

それらは総てひとつであることを。

 

 

キミの対になるモノを探しなさい。

 

在るべき姿に戻す為に。

 

 

 

 

わんわんと蝉の合唱のように鳴り響く金属音。

穏やかな日差しに視界がホワイトアウトしている。

薄目を開けて、俺は空を仰いだ。

懐かしい輪郭が見えた。

それは俺を覗き込んでいて、優しい眼差しを向けてくれている。

 

―おかあさん?

 

声にならない声。

輪郭は優しく包み込むように俺に覆い被さってきた。

 

 

 

 

「う…、く、苦しい…」俺はあまりの苦しさに飛び起きた。

いつの間に俺の上に覆い被さってきたのか女の寝顔が俺の胸からずり落ちて太腿の上で寝息を立てていた。その愛くるしい寝顔は普段の物騒さを完全に消し去り、歳相応の可愛らしい女の子って奴の寝顔だった。

「妙な夢だったな」と言ってから夢の内容を覚えていない事に気が付く。

まぁ、夢なんてそんなものだ。起きた瞬間に忘れるか、暫く憶えていて忘れるか、のどちらかだ。

首を左右に傾けて肩を鳴らすと、俺は女を起こさないようにして立ち上がる。

―いつの間に眠ったのだろう?

焚いた火はいまだ燃え続けていて、それなりの暖を俺達に提供してくれていた。

眼の奥に痛みを感じて右目を抑える。

一体、いつの時代に飛ばされたのやら俺は空を仰ぎ見た。

見慣れた空に比べて見上げた空はとても澄んでいて星が近くに在るようだった。

案外そんなものなのかもしれない。

今まで身近に在ったものが遠ざかるなんて。

空気が澄んでいた頃はきっと星は手が届くような位置に見えていて、みんなそんな星星を見上げて色んなことを考えたりしたんだろう。

俺は腰に留めたナイフを手に取った。かなり年季の入った業物で、一応、祖父の形見と聞いている。

金と銀で装飾された柄の部分にはアクアマリンを中心としてトルマリンと青水晶を誂えた世界樹が描かれており、荘厳な雰囲気を醸し出している。

しかしながら、ひとたび柄からそれを引き抜くと、赤錆に塗れた刀身が露になりその荘厳な雰囲気は儚くも消え去るのだった。

 

「う…、ん……あ~あ」間抜けな掛け声とともに女が起きた。

「おはよう」俺は女を見ることなく声をかける。

「ん、おはよう」満足そうに女が返事をする。

「何処に飛ばされたのかしらね」女が尋ねる。

「わからない」簡潔に答える。

「まぁ、此処でもなんとか~って奴を倒せばいいんでしょ?」女は明るく努めて言った。

「そうだな。取り敢えず、それが俺たちの『宿命』らしいからな」俺は淡々と答えた。

 

 

 

 

―『宿命』・・・いつからそれが定められ、それに従い生きることを課せられた。いわば俺自身を表すもの。それに逆らうことはできず、俺はただ緩慢な運命に身を委ねていた。『宿命』と言う言葉を言い訳にして俺はただ、自分の人生をこなしていたのだ。

 

 

 

 

ただ、『理の均衡が破られた』と聞いた。それによって何があるかなんて俺の興味の範疇ではなかったし、俺に直接関係する話でもないだろうと高をくくっていた。

『理の均衡』は『世界』を形成していて、俺は『理の均衡が破られた』ことによって自分で在ることと形見のナイフ以外の総てを失った。

 

俺は俺と言う人生を生き、そして死んでいくものだと信じていた。

人生と言う奔流に身を委ねて、数多の時を過ごし、何かを得て死んでいくものだと思っていた。

否応無く時間は流れ続け、その奔流の中に俺たちはたくさんのものを落としていく。

落し物は人によって異なるが、俺の場合は『意志』だったような気がする。

与えられた世界の中で俺は俺と言うキャラクターを演じ、死という幕引きが来るまでの間を生きるという手段によって演じなければいけなかった。

それを『宿命』と名付け、俺は『宿命』に従って生きた。

少なくとも『宿命』に翻弄される人生に不変なんてものは存在していなくて、日々、いい言葉で表せば進化、悪い言葉で表せば退化し続けて俺は俺を見失った。

ある日立ち止まって自分の立ち場所を探す振りをしてみる。

しかしながらそんな事をしてみても、自分が現在立っている場所なんて自分と言うキャラクターを演じ切るまでの間のどの位置かなんてさっぱりとわからなくて俺は嘆息するのだった。

 

『理の均衡が破られる』病床の祖父はそう言って俺にナイフを手渡した。それに何の意味が込められているのかわからなかったし、その装飾からかなり価値の在るものだと俺は内心ほくそえんだ。売れば金にできる。そうすれば、ある程度の楽をできる。

 

まったく持ってそれが如何にくだらないことであったかを俺は思い知る。

 

祖父が死んで、祖父の住んでいた家から俺に宛てられた遺書が発見される。

俺の親でも、祖母にでもない、俺に宛てられた遺書。

内容はあまりにも突拍子もなくて、祖父は痴呆になっていたと認識して片付けたかった。

それほどその内容は荒唐無稽で、俄かには信じがたかった。

寧ろ、信じたくなかった。

 

 

 

『創(はじめ)へ。

 

この世界はたったひとつの意識の上につくられている非常に脆く儚いものなのだ。

私はこの事実を解き明かすことに人生を費やしてきた。家庭を蔑ろにし、他人を淘汰してでも、私はこの事実を突き止めなければいけなかったのだ。

創に預けたナイフ、あれが私の本当の人生の幕開けの発端となったのだ。

ナイフは裏の蔵の中から私が引っ張り出したもので、厳重に重箱の中に絹の風呂敷に包まれて収められていた。重箱の中にはナイフとともに巻物が納められていた。巻物の内容は不明な文字が羅列されており、それは一部で『神代文字』と呼ばれているものらしい。『神代文字』にはかなりの種類があり、巻物に記されている文字の特定は私の代では難しいようだ。

ナイフについてはもう、創も見たことだろう。刀身は錆び付いていて刃物として使いようが無い。一度鍛えなおそうかと、柄をはずしたところ、『理の均衡を護りし神刃』と刀身に銘打ってあった。我が天城家に伝わる文献にはこのナイフのことについて記されては居ないが、私の祖父が私の小さな頃に昔話を聞かせてくれたことがあった。今際の時になって思い出すとは私も耄碌したものだ。創よ、私のこの書置きがお前の役に立ててくれれば幸いだ。

 

 

私の祖父、天城辰之進が語ってくれた昔話はこうだ。

 

私達人間が生れる以前、日本には神様の国が在った。神様は私達のように沢山いて、私達のように生活していた。日本には神様が沢山いたので、他の国の人々は八百万(たくさん)の神が住まう島、『八万島』-『ヤマト』と呼ばれるようになった。

幾星霜を重ねたか、神代の国に人が流れ着くようになった。神様と人が交わるようになり、ヤマトから次第に純粋な神様が消えていった。純粋な神様は多数残ったのだが、人と言う不純物と交わった神様は肉体と言う枷をはめられ、次第に人へと変化していった。こうして神様の国は神様の血筋を組む国へと移り変わった。

人は物質界に存在し、神は精神界に存在し相容れなくなってから暫くして、人の中に精神界に影響を及ぼせるものが生れ落ちる。(※因みに、この頃の神様とは人の言う『世界』そのものであり、人の『理』の総てであった。)

精神界、つまり、神様に影響を及ぼせるものの存在は恐れ、崇められ、神代の力を次ぐ次代として神の御子と呼ばれるようになった。神の御子は物質界に起こる総ての現象に対して関与することが出来、現代で言うところの神様そのものだった。

 

そして、悲劇はここから始まる。

神の御子が世に生まれてからしばらくして、神の御子は物質界を自分達のものにしようと神様を滅ぼそうと動き始めた。それは必然だったのかも知れないし、限りある器に閉じ込められ変異した神々の狂気だったのかも知れない。

御子の血脈はこの時を境に分断される。最後まで限りある器を誇りに持ち、自然と一体となり生を全うするもの達と、物資界を我が物にし、神を打ち滅ぼし精神界までも手にしようとするもの達に。こうして、分断された血脈は互いを敵(かたき)に争いを始め、最後に世に残ったのは物質界を我が物にしようと目論んでいたもの達だった。

彼らは敵対した最期の御子に止めをさした。それを知った神々はヤマトから、そして、この星から居なくなり、御子達の思うがままの世が訪れるかのように思われた。

 

しかし、神と言う理を失い、安定していた世が乱れ始める。

空は暗雲に包まれ、海は荒れ狂い、大地は地震に見舞われた。人の世が終わりを告げようとしていた。

人は死に絶え、御子の一族も正に絶えようとしていた。一陣の風が巻き起こり、暗雲立ち込める空に光り輝く神様が現れた。その神様は天の総てをを照らし出すほどの光を纏っていたため、天照(アマテラス)と伝えられている。

 

天照は御子の長に言った。

「私達、旧き神はこの地を去る。私達の作り出した理は私達が居なくなれば消えてなくなるだろう。現に、こうして世は今際の時を迎えている。私達の同胞(はらから)の子孫である彼方達がこのまま滅びていくのを見るのも忍びない。だから、彼方達に希望を与えよう」

 

天照は空に両手を翳すと、二振りの剣が現れた。

「生きたくば、この右手の剣を彼方達の同胞の胸に突き立てなさい。そうすればその同胞が世界と成り、彼方達は救われるでしょう。滅びたくばこの左手の剣を彼方の胸に突き立てなさい。そうすれば世界は終焉を迎えます」

 

こうして御子の長は剣を手に入れ、世界と成るべき同胞に剣を付き立てた。同胞は嘆くでも、罵るでもなく、ただ、静かに剣を受け入れた。

 

―違和感。

 

そして、世界は安定し、現在に至る歴史を刻み始めた。

 

 

何処から何処までが祖父の創作なのか今となっては知る由も無いが、創に渡した一振りは、世界を滅ぼす為の剣と言われている。それが何を意味しているのか、私にはわからなかったが、『理の均衡を護りし神刃』と言う銘の通りであればあの一振りは狂ったこの世界を正しく導いてくれるのかもしれない。

 

創が幸せに成る事を祈って。

 

 

2***年**月**日

天城宗治』

 

最後は力が入らなかったのか、ミミズがのたくったような字で俺の幸せを望んでいた。そして、遺書に書かれた訳のわからない作り話と、ナイフについての謂れが非常に胡散臭く感じられてどうしようもなかった。

 

 

 

 

『理の均衡』とやらが破られたとき、確かに違和感があった。それはどう足掻いても言葉に出来るものでなければ、誰かに伝えることの出来ない感覚的な現象。

そして俺は女と巡り合う。

最初からそうであったかのように、違和感を感じる位に違和感無く。

女は俺の世界で、俺は女の世界だった。

 

重なり合い。

 

交わり合い。

 

否定し合い。

 

肯定し合う。

 

世界と言うものをはじめて知り。

 

世界と言うものの中に俺を見出した。

 

そうして始めた旅に俺は幾つもの世界の終焉を見た。

 

俺の往く先は何処にあるのか?

 

俺の求めるものは何処にあるのか?

 

理を求める旅は未だ終わりが見えない。

 

 

 

 

―ねぇ?

 

何処からとも無く聞こえる懐かしい声、安心する声。

 

―もう、寝ちゃったのかしら。

 

布擦れの音、暖かな、何か。

 

―…め。……じめ。………創。

 

声がはっきりと聞こえてくる。懐かしい声、安心する声。

母親の…声。満たされた気分で眼を開いた。

 

「あ、おはよう」デリカシーの無い声。そして、女の顔。それが俺を覗き込んでいる。状況を把握しようと痺れた頭で考える。何故か女の膝枕で、俺は仰向けになって眠っていたらしい。女が嬉しそうに…いや、むしろ気分の悪くなるようなにやけ面で俺を見てもう一度言う、「おはよう」と。

俺は仕方なしに見下ろす女に「おはよう」と返した。

「何の夢、見てたの?」女はニヤニヤしながら俺に尋ねる。寝てる間に俺が何かしたというのだろうか?相変わらず何かムカツク言い回しだ。

「どうかしたか?」俺は平静を装って言う。女の長い髪が俺の顔に枝垂れてくすぐったい。

「ぅうん、なんでもない」女はにやけ面を引き締めると一寸正面を見据えてからもう一度俺の顔を覗き込む。そして何を血迷ったか「いい男だよ、あんた」と俺の髪を梳くようにして撫でると、軽く唇を重ねてきた。しばらくの沈黙、泳ぐ視線。

『この状況は過ぎ去るのを待つべきなんだろうか?』なんて頭の片隅で考えながら俺はその行為の意味を探していた。

 

 

赤い世界。

 

視界いっぱいに広がった空。

 

夕焼けのように空を焦がす赤、雲も同じ色に染まっている。

 

閉ざされた空間。

 

逃げ出せない世界。

 

俺は女の膝枕から起き上がる。

 

女は名残惜しそうに俺から手を離す。

 

ぬくもりが線になって、点になって、消えた。

 

 

「『闇の眼』なんだよ」と何処からともなくあの声が。

 

「『闇の眼』?」俺は聞き返す。

 

「ひとつだった世界は様々な可能性を模索する為に分断され、散らばった。お前の眼には対になる存在がある。それが『光の眼』」声はか細く、聞こえた。

 

「対になる存在?」俺は呟いた。

 

「お前の眼は例外中の例外。二つで一つの不完全なもの。それ故に新しい可能性を秘めている。世界の破壊と再生。今回の『地獄の釜』はとても興味深い」声はぷつり、と途切れると静寂が訪れた。静寂はやがて耳鳴りとなり、わんわんと俺の頭の中を駆け巡る。

 

 

「創、どうしたの?」不思議そうに正座したまま俺を見上げる女が居た。その顔は俺が意識を取り戻したときのような笑顔はなく、酷く焦燥した顔付きだった。

「何でもないよ」俺は今のやり取りが白昼夢だったのだと自分に言い聞かせ、女に作り笑いの笑顔で答えた。多分、納得はしていない。女は「そう」と短く呟き、俯いた。

 

 

 

 

疑問だらけだった。

 

闇の眼のこと。

 

さっきのキスの意味。

 

酷い、現実だ。