ledcannon’s diary

美作古書店

明晰夢

青空。

入道雲が遠くの空に湧き上がっている。

また、待ちに待った此の季節がやってきたか。そう思うと心が躍った。此の町で一番見晴らしの良い場所でしばらく空でも眺めようか。

向かおうとしていた方向に背を向けて、道の突き当たりの向こう側。堤防の天辺を目指して歩き出す。照りつける日差しは暑く、ジリジリとその熱を押し付けてくる。

酷く喉が渇いている。確か、突き当たりの角に自動販売機が在った筈だ。コカコーラじゃなくて、サントリーだったか。青い自動販売機だった筈。朧げな記憶を頼りに、渇いた喉を潤す為に歩みを早める。

嘗て在った街並みは何時の間にか変容していて。そのゆっくりとした変化は、一体何時から其れが今の状態になったのかすら思い出せなくさせていた。

自動販売機は自分の記憶の通りに通りに面して設置されていた。水を買うと、堤防を目指して駐車場を通り抜ける。木材の匂いと、其れを加工する音。嘗て此の場を支配していた其れ等を探そうと耳を傾けるも、そんなものは当の昔に無くなった事を吹き抜ける風の音を聞きながら思い出す。

一体、何時の間にこんな風になってしまったのだったか。思い出と重ならない情景を目の当たりにして、一種夢の中にいる様な錯覚に囚われる。

堤防を上る為の階段だけが嘗てと同じ様に空へ続く様に伸びていた。急な階段を手摺りにつかまりながら上っていく。視界が切り取られて青空だけが階段の先にある様に見える。

少し高鳴る気持ちを抱きながら階段を上り切った。二米ほどの平地が在り、その先にもう一段高くなった堤防が在り。向こう側に海が広がっている。

十数年前までは本当に良くきた場所だ。其れこそ小さな子供の頃から知っている。そう言う場所なのだ、此処は。現実に目を向けると、先客が堤防に座って海を眺めていた。涼しげにはためく服とすっきりとした雰囲気に見惚れてしまった。既視感。確かにこうして此の場面を自分は体験した事がある。あの後ろ姿には見覚えが在る。

「やあ」と、何時の間にかこちらを振り返った彼は僕に会釈をした。

彼が一体誰だったか思い出そうとしても、いつどこかで出会った記憶が薄らと残っているだけで、どこの誰だか一向に思い出せない。だから「ご無沙汰しています。お元気ですか」と当たり障りのない返しをするのだ。

「ご無沙汰ですね。元気ですよ。あなたもお元気そうで何よりです」彼はそう言うと朗らかに笑う。冷たい印象がしていたのだが、笑うと其の屈託のない表情はとても魅力的で、印象に残るものだと思った。

「年齢の所為か日々、衰えていくのを実感していますよ。若い頃はこんなじゃなかった」目の前の彼が誰だか未だ思い出せずに、肩を竦めてそう言った。

「あなたらしくもない。珍しいですね、そんな弱気な事をおっしゃるなんて」自分よりも若く見える彼は目紛しく表情を変えて言う。本当に誰だったろうか。名前も思い出せない人間に自分らしくもないと言われて、其れでも腹立たしく感じない。かつて、深く絆のある付き合いを彼と自分はしていたのだったか。

嗚呼、暑い。

先ほど買った水のペットボトルの封を開けると、口に運ぶ。体の中心を水が流れ落ちていく。体感として真っ直ぐ。肺と肺の間を通って、身体の中心に水が落ちる。そして、その認識は急激に薄れて。

此れが夢だとは気付いていた。彼が誰だったのかを思い出せなかったので、夢の引き伸ばしを行った。それでも彼が誰で在ったか思い出せない。

「……さん。…………さん」自分を呼ぶ声に、意識が向くと世界は忽ち揺らいで消えた。暗闇と、白い壁、白い床。闇と其れ等白色が作り出すモノクロームの世界。

「検温と血圧を測らせて下さい」朦朧としている意識。身体の内側に在る痛みが一気に覚醒を促す。そうか。手術の後か。身体を捩ると背中と胸に電気の様に痛みが走った。

あの世界にもう少し居たかった。もう少しいられたら、彼が誰だかわかったかもしれないのに。後悔が心に刺さった。其れも束の間。また、意識を手放した。