ledcannon’s diary

美作古書店

平々凡々な日々 〜リハビリ〜

ある日の自分と、あの日の自分と。

其れを隔てるのは一体なんだろうか。

 

色々と考える日々を過ごしていたけれども、こうしてアウトプットする時間を作ってこなかった。表現の幅が狭くなったと感じるし、じっくりと言葉について考える事もなくなってしまっている。

ただ、其れでも未だ自分の中には自分の作家性が生きていて、書けと。作れと。表現をしろと。訴えかけてくるんだ。お前は一つだけでいいから物語を完成させろと。

いやいや、短編小説なら幾つも完成させてきたよと、自分は自分に言い訳をする。

ああ、確かに短編小説はそれなりに書いてきたね。自分は鼻で笑った上で、でもお前は自分が完成させたい最初で最後になりそうな物語を完結させられていないよねと言い返してくる。こんな自分との遣り取りを一日に一度はしている。

だからかもしれない。だから自分に言い訳をする事が上手になって。自分から言い訳される事に慣れてしまって。この状況が当たり前になってしまっていて。物語を書けなくなってしまったのではないかなって。

 

始まりは何時だって唐突で。其れが始まりであると気付くことなど無いのではないかと思ったりもする。または、何か物語を振り返る時に「其れ」が始まりであったと区切りを付けるために便宜上用いるのかもしれない。

夏は気付いた時には過ぎ去っていた。自分が夏が過ぎ去ったと認識出来たのはたった今のことで、実は夏は自分の知らないところでとっくに過ぎ去っていたのかもしれない。

赤色が凝縮された夕日を正面から受けながら、海沿いの道に車を走らせていた。とても眩しいが、夏の夕焼けのような殺意は感じられなかった。穏やかに自然現象として其の眩しさは其処に在った。こんな時間にこんな道を征くのはどれくらい振りなのだろうか。近い記憶を探そうとするも、近似の記憶はなく随分と昔にこんな状況を体験したことがあるという漠然とした輪郭が記憶の海に沈んでいるのを見た。

あの頃は、まだ若かった。あの頃は、自由だった。あの頃は、良かったと単純には思えない。夢を描いて、其の夢を信じていたが、常に現実と未来に怯えていた。

ぐるぐると思考するだけで、試行もせず、志向に囚われて、至高に指向され、嗜好の施行を夢見ていた頃。あの頃に描いた夢と現実に置換した夢の欠片。其れを時折思い出しながらも確りとした形に出来ずに十年以上時間を浪費した。

物語を書きたかった。過去形。書こうと思えば何時でも書けていた。ある時を境に書こうと思っても書けなくなっていた。其のある時がどの「瞬間」で在ったのか。一体、自分は何時まで物語を書けていたのだろうか。はっきりと其の境目を認識できないのが悔しい。自分の事なのに自分が記録し知覚出来ていないことが悔しい。

出来ていたことが出来なくなっていることに気付くと、自分は衰えたのだと感じる。一方で出来なかったことが出来たら自分は進化したのだと感じる。なんとも自分は傲慢なのだろうか。

過去に、今記したことを傲慢と思ったことはなく、今この年令になって初めてこの思考が傲慢だと思えるようになった。これは進化なのか衰えなのか。こういう自問自答をすることが好きだった。答えのない。答えを出さないただただ思考するだけの自問自答。哲学と言えば聞こえの良い自慰行為。

 

迫りくる宵闇。赤かった世界は深い深い青に染まる部分と未だ煌々と世界を照らす鍵になく世界の風は少々冷たく、エアコンの温度調節を暖房寄りに設定した。

 

過去を思い出そうとする時間が増えた。つい、この間まで少し思いを馳せれば、過去は直ぐ其処に在った。其れが今では意識して思い出そうとしなければ、手の届かない場所に格納されていて更にはどこにしまったのかすら忘れてしまうのだ。

加齢は全てを置き去りにしていく。自分の中にまだ情熱の炎は燻っているのか?あの頃に掲た篝火は全て灰になって風に飛ばされてしまったのではないか。

夏だと思っていた季節は少し気を抜いている間に冬になってしまっている。雪が降り、積もり、また一年の終わりが来てしまう事を告げている。

今の自分に必要なのは、こうして文字を書き連ね、文章にして意味のある物語を書く事だとようやく思える様になってきた。

あの頃の自分はとても遠くに行ってしまったが、まだこうして文章をかける。物語を紡げる。其れを確認する様に駄文をリハビリ替りに書くのだ。