原文Ver.
―終わらない悪夢を見よう―
2006.07.**
真夏も近いある晴れた日。
夕焼けに染まる空を見上げて、『悲しみの色に染められていく空』と、そんな風に見えた。
あの時、君が言った言葉が、今の俺にそう見させたのかもしれない。今日は君の事を思い出してばかりいる。
君とは何年付き合ったんだっけ?
……もう俺は覚えていない。でも、君は7年と言っていたから、俺も7年と思っているだけかもしれないな。くっついたり離れたりして、何とか『結婚しようね』って、励ましあいながらやってきた。
俺だけの一方的な思い込みだったのかな?
言葉のキャッチボールもできなくなって……。
君は寂しいって言って、よく浮気したね……。
最後のほうは、俺ももう慣れちゃってて、『ああ、またか……』なんて、すごく冷静だった。
結局、何をしたかったんだろうね?
なぁ……、俺たちはどこから破綻していったのかな?
今となってはどれもこれもが原因だったような気がする。だから、もう終わりにしたいんだよ。
時々君からかかってくる電話。今の彼氏とうまくいかないだとか、他愛の無い話。きっと、俺と付き合っていた頃にも、そんな話を彼氏にしていたんだろうなって……笑えて来る。
一人でいて寂しいなんて思った事は無い。ずっと一人だったから。
だから、友人ができて、皆でわいわい騒いだ後は『ああ、これが孤独なんだ』って、妙に納得するんだよ。
最近は楽しかった。
新しい友人ができた。
昔から、知っているように遊んだ。
そして、一人になったとき、君の事を思い出した。
『どうしてるかな?』って……。
君は一生懸命、自分なりに幸せを探していた。そして傷つき、何度もヒトに裏切られて……それは当り前の事なのに……。
君は信じる事を諦めた。
少しずつ諦めていった……。
そして、俺の事も諦めた。
君の瞳に希望は見えているのかな?
時々、君は昔を思い出してメールをくれる。君の表現は、すごく綺麗で、到底俺には真似できないくらいシンプル。君の詩を読んだり、メールを見たりするのが好きだった。
……。
どうしてるかな?
もう、君の手は手放してしまったけれど。
まだ、この掌の中に君の温もりが残っているような気がする。
…………。
「覚えてる?」
彼女の後姿。吐息が水蒸気となって中空に浮かぶのが見える。
「……ん?」
俺は吸っていた煙草を側溝に投げ込んだ。
「今日みたいな日だったよね……」
彼女は少し俯き加減になって、でも、透る声で言う。
「……何が?」
俺は思い当たる節が無く、少しだけ声に苛立ちを織り交ぜて尋ねた。
「お金が無くてさぁ……」
手を後ろで組んで、フィギュアスケートの選手のように、舞い降りる雪の中を彼女は一歩だけ前に進んだ。
「金は今だって無いだろ?」
俺はそんな彼女を追い掛ける様に一歩だけ歩を進めた。
「いっつもキミは紅茶花伝で、それを分け合って飲んだよね……」
彼女は空を見上げる。雪しか見えない、暗い空を。
「……高校の時の話かよ……」
俺は立ち止まり、雪の中で子供のように真剣な眼差しで降り注ぐ雪を見上げる彼女を見ていた。
「……ふふっ。三流の恋愛小説みたいだね」
彼女は楽しそうに笑い出す。その思い出が彼女にとって一番幸いだったかのように。
「俺は金を積まれたって書かんぞ、そんな小説……」
少しだけ、ムッとして彼女の幸いを奪おうとする。
「でもさ、いつもキミが沢山取ってくの……」
彼女が俺に向き直る。降り頻る雪が、まるで古い映像のように視界に捉える彼女を現実離れさせて見せる。嗚呼、もう。
「なんだよ、まるで俺が意地汚いみたいじゃないか」
腕組みをして、微笑んで見せる。俺はうまく笑えただろうか?
「ん、実際そうでしょ~……あとあと~……」
彼女は俺の顔を見て、微笑み返す。そっか、うまく笑えたんだ。
「まだ言う気か……」
半ば降参して、俺は肩を竦めて見せた。
「よく、学校でホッカイロも奪われた~」
本当に、本当に幸せそうに彼女は笑った。今度は俺が俯く番だった。
「もう良いよ……」
足元に積もった雪を蹴り上げて遠くへと飛ばす。今の自分の気持ちを掻き消す様に。
「懐かしいよね……」
ちょっと其処まで飛んだ雪を見て彼女は呟くように言った。
「……ああ」
俺はそう答えるしか出来なかった。
「もう戻れないんだよね?」
彼女は俺の袖を掴むとぐっと引き寄せて尋ねた。お互いの吐息が絡み合い、濃厚な白煙となって冬の闇へと消えていく。
「…………」
夏の宵が迫り来る。七月は一週間も先立って言うのに、蝉の鳴き声が全方位から俺を包み込む。
狂いそうな音圧にただ、立ち尽くす。
世界が壊れていく。本当に、そういう風に思えたんだ。
あの時は……さ。
色んなヒトを好きになろうとした。
色んなヒトが通り過ぎていった。
でも、俺はまだここに居る。
きっと、君に逢える気がしたから。
そうだ……。
『逢える』、君が好きだった表現……。
「絶対に『会う』じゃなくて『逢う』なの!」
彼女は子供のように地団駄を踏んでそう言った。
「何が違うんだよ……」
俺は煙草を引っ張り出すと、火を点けながら尋ねる。
「ん……君と『会う』時は『逢う』なの、他のヒトと違うんだから!」
にっこりと笑って彼女は満足そうにそう言う。
「よく分からない……」
深く煙草の煙を吸い込むと、ゆっくりと吐き出した。
「いいから!これからは君もあたしと会う時は逢うって使ってね」
強引に彼女はそんな約束を押し付けると俺の背中を叩いた。女の子の力で叩かれた背中に痛みは無く、ただ、よく分からない余韻だけが残った。其れが何なのか分からないまま「へいへい……」と俺は空返事をした。
「まったく……気の抜けた返事!」
頬を膨らませて、不満だという表情を浮かべ彼女は抗議した。
「そうか?」
そんな彼女に対して、天邪鬼な俺は……。
「も~、いいよぉ……」
涙が零れそうな表情。また、俺は君を傷付けてしまったのかな。
ペタペタと気の抜けたサンダルの音が夜の住宅街に響く。
空は何時の間にか幾億の星々が瞬き、世界は暗幕の中に在った。
君の中で俺は特別だったんだよな……。
もう、当たり前になり過ぎていた。
彼女が側に居てくれるという事を忘れていた。
きっと、俺は当たり前になり過ぎていて、彼女以外の回りばかり気にしていたんだろう……。
だから、君の気持ちなんて忘れて……一番大切な人の事なのに……。
思考に感けて、帰る意思も無いままに自室へと戻っていた。
点け放しにしあった、古ぼけたクーラーはその巨躯を窓枠に埋めて、うんうんと唸っていた。
その割には部屋は一向に涼しくなっておらず、真夜中近い時間になっても、熱気が天井から揺ら揺らと降りて来ている。
寿命が近付いた蛍光灯は若干黄身掛かった、弱々しい明かりを室内に投じ、俺は簡素なパイプベッドに身を投げ出した。
いつになったら悪夢は覚めるのだろう?
片方の目は未来を見ているのに。
片方の目は過去を見つめ続けている。
少しずつだけど、思い出が壊れ始めてきた。
本当、少しずつだけど……。
あまり、君を思い出さなくなってきた。
一人で居る事が楽になってきた。
だけど、周りでカップルが誕生して行く中で、俺は一人で居る。
『皆幸せになって欲しいな……』
ふと、そう思った。
自分の幸せなんて高が知れている。
だから、ヒトには幸せになって欲しい。
ヒトとヒトが付き合う上で、本当に大事なのは何か……なんとなく、分かったような気がする。
それは、きっと思い遣りで、だんだんとヒトはそれを忘れていく。
言いたい事を言えなくなって、だんだんと壊れていく。
君と俺がそうだったように……。
「もう、この車売っちまえよ……」
俺は平成三年式の黒いRX-7を揺さぶりながら言った。
「嫌だよぉぅ」
まるで縫い包みでも抱くようにRX-7のボンネットに被さって彼女は言い返す。
「何でだよ、燃費は良くないし、五月蝿いし……」
元々は俺のクルマだった。彼女は其れを欲しがった。俺は平成六年式のRX-7を買い、二人して同じ車に乗っていた。
「それでも、この車を手放したらキミとの絆がなくなっちゃうような気がして……」
目尻に涙を浮かべて、彼女はそう言う。
「はぁ?何をいまさら?もう、とっくに絆なんて無いだろう……」
語気を荒げて俺はタイヤを蹴った。
「……そう」
彼女は目を瞑り静かにそう言った。コンクリート製の車庫に彼女の声がゆっくりと染み込んでいくような気がした。
「ってか、彼氏とうまくやれよ?」
俺は彼女に背を向ける。
「うん」
涙声で彼女は答えた。
「逃げてばっかりじゃん……」
この頃の彼女に対する口癖。其れが零れる。
「…………」
そして、押し黙る。何時ものパターン。
「だいたい、お前はさぁ……」
嗚呼、それは止めたほうがいい。分かっていて追い討ちをかける。
「…………ぃぃ」
小さく、彼女が何かを言う。
「あ?」
俺は振り返り、彼女を見る。ボンネットに突っ伏して、彼女は小さく震えていた。
「もういい!」
両手でRX-7のボンネットを叩くと、泣きながら俺を睨み付ける。
「お前は、また逃げるのか!?」
俺は彼女の感情に飲まれて、そう言った。
「………………」
揺るがない意志を抱いた涙目だけが異様なまでに俺を責め立てていた。
ゴゥンゴゥン、と低い音を立てて、その古いクーラーは部屋を冷やし続けている。
暗闇に堕ちた世界にはその音以外に何もなく、ただ在るだけだった。
寝汗が酷い。
背中から尻に掛けて薄気味の悪い濡れた感触が在る。
俺はどうしてしまったのだろうか?
ホントはね、喧嘩なんてしたくないんだ。
あの時の本音が暗闇に放たれた。
それは何も貫くことなく深く、闇に沈む。
君の力になれれば……。
もう一射するが、それも儚く闇に融ける。
だけど、どうしても、喧嘩になってしまう。
何でだ……。
拳に力を込める。
ギリギリと爪が食い込んだ。
本当はこの手で君を抱き締めて居たかったんだ。
夢とか、希望とかが俺の目の前をちらついて……。
それは、幻だと分かっているのに……。
あの時は、君より大事に見えたんだよ…………。
君を……君の手を離してしまった。理想と現実の狭間で……。
俺はどのくらいがんばっただろうか?
俺はどのくらい理想に近づけただろうか?
俺は……。
俺は…………。
未だ、ここから立ち上がる事ができない。
首を動かす事すら、目を動かす事すらしない。
ただ、一点を……過去と言う一点だけを見つめている。そして、昔見た明日って奴を忘れることなくずっと見ている……。
俺はこれから何をしたいんだろうか?
これから何をするんだろうか?
あまりにも自由過ぎて、行き先を見失ってしまったんだよ……。
「ねぇ?」
夕焼けが夏の終わりの稲穂を染め上げている。赤い世界。
「ん?」
風に煽られて、二人乗りの自転車はバランスを失い掛ける。
「ずっと、一緒だよね?」
彼女は俺の方をキュっと掴んで不安そうな声色で尋ねた。
「ああ……」
キコキコ、と忙しなくペダルを漕いで、俺は答える。
「よかったぁ」
安堵の声。どうして彼女がその言葉を紡ぐのか、俺には分からなかった。
「……よく分からない奴だなぁ……」
付き合って二週間目の彼女。初めての彼女。二人の付き合いが永遠に続くものと信じていた頃。
「そう……かな?」
上擦った彼女の声。
「ああ……そうさ……」
何処までも続いているような田舎の道を、二人乗りの自転車が駆け抜けていく。
風に靡く稲穂の群れはまるで漣の様にうねり、黄金の波間に俺たちは居た。
約束された未来が在ると信じていた頃。
起きているのか。
眠っているのか。
最早分からなくなった夜。
暑さだけが闇を満たしているような感覚に陥る。
君は俺の道標だった……。
君が俺の行く道を照らしてくれていた。
俺は君を失ってはじめて、一人の怖さが分かった。
でも、ずっとここでこうしているわけにも行かないから……。
闇の中で一人もがく。傍から見たらさぞかし滑稽だろう。
でも、俺は……。
この先が地獄でも。
この先が無くても。
一歩踏み出してみない事には、何が起きるかわからない。
沢山のヒトが俺を追い抜いていった。
俺はただ地べたに這い蹲ってそれを見ていることしか出来なかった。
珍しく早起きした朝。
遠くの山から昇る朝日を見ていた。
何だか分からないけど、視界が滲んで、何も見えなくなった。
部屋に朝日が差し込んでくる。
何か、浸食されていくみたいだ……。
俺の心を?
―分からない。
俺の居場所を……?
―そうかもしれない。
俺にとってこの部屋は聖域なのだから……。聖域を『侵されていく』感覚……。
壊れていく。
俺が?
思い出が?
思い出の中の俺が。
どうすれば良いかわからない。
結局、俺は何がしたんだ?
バルコニーに腰掛け、明け切った空に問うた。
答えなんて出ない事はもう、分かっている。
大切なヒトに声をかけて欲しかっただけ?
もう一度、俺は虚空に問う。
違うな……。
自問自答。
じゃぁ?
そうだね……。
混沌とした心が答えを模索する。でも、答えは無い。
構って欲しかっただけ?
過去の俺が問う。
それもまた違う……。
今の俺が答える。
存在を認めて欲しかったのか?
肩を竦め、薄ら笑いを浮かべ、残酷な眼差しを向ける。
……。
そう……かもしれない。生きていて良いって言ってくれるヒトが。落ち込んでいるときに声をかけてくれるヒト(自分の存在を認めてくれるヒト)が欲しかったんだ。
誰しも思う事がある。
ここに居ても良いのかって……。
ここに居て自分に何ができるのかって……。
きっと、自分にできる事なんて些細な事しかないだろう。でも、それでも、必要としてくれるヒトは必ず居るんだ……。誰だって許されて良いんだ……。
俺も……。
俺だって!
だから……。君に戻ってくれとは言わない。俺はここに居ても良いらしいけど、ここには誰も居ない。一人ぼっちなんだ。
だって、ここは自分だけの世界。
自分一人が生きている世界。
心の狭間。
だから、まず、ここから這い上がらなければいけない。そうしないと、どこへもいけない。ずっと自分の殻に閉じこもっていたから……。
いつの間にか、自分の世界は外の世界から隔離されていて……。何度も君が救いの手を差し伸べてくれていたのに、それを無視して……。やっと分かったよ。俺はここから這い出して、もう一度だけ君に言わなければいけないことがある。
君も、いつの間にか俺と同じに、自分の殻に閉じこもってしまって居るってことを俺は伝えなければいけない。でも、きっと君も、俺の手を無視するんだろうな?
時間がたってきっと分かる時がきて。そして、後悔する。
そんな思いをさせたくは無いけど……でも、俺にその問題を解決する良い方法が思い浮かばない。
「もう、連絡しないね……?」
茜色の空の下。何時もの海辺で、俺たちはただ静かに寄せては返す波を見ていた。
珍しく、決意の篭った眼差しで、彼女は俺を見ていた。
「ああ……」
俺はきっと無表情で彼女に答えたに違いない。
「元気でね」
懐かしい、あの笑顔で彼女はそう言った。
「元気でな」
俺も出来るだけの笑みを作り、彼女に答える。
「あのね、いつまでたっても、キミはあたしの中で一番大切なヒトだから……」
真剣な瞳。夕焼けの中に俺が浮かんでいる。
「……」
俺はその瞳に魅入っていた。
「彼氏ができても……ずっと」
俺の胸に頭を埋めるように寄り掛かる。
「彼氏を大事にしろって……!」
彼女の頭を優しく撫でた。
「……出来ないよ……」
消え入るような声で。
「訳の分からないことを……」
溜息を吐く。
「いいよ。あたしが勝手にそう思ってるだけだから……」
ぐりぐりと頭を捩り、甘えるような仕草をする。
「はいはい。それじゃ……な」
俺はゆっくりと彼女の頭を引き剥がした。
「うん……。……あ」
何かを思いついたように、悪戯っ子のような表情を一瞬だけ浮かべた。
「ん?」
俺は夕日を反射させて踊る彼女の髪と、少女のような笑みを浮かべた彼女に静かに向き合った。
「最後に……キスして……」
柔らかな笑みを浮かべて、そう言う。
「……いやだね」
俺はあっかんべーをしておちゃらけて見せた。
「そっか……。あはは……。そうだよね……」
彼女は少し照れたように頭をかきながら俯いた。
「ばーか……」
俺は彼女の顎に手をかけると、俺の方を向かせた。もう一度「ばーか」と言って、彼女を抱き締める。
「ん……」
無言で二人の影が重なる。蜩の悲しい鳴き声の中、夏が通り過ぎていった。
あれからどれくらい時間が経ったのかな?
暫く、彼女と連絡を取っていない事に気付く。
元気にしてるかな……。
そう思って空を見上げる。『悲しみの色に染め上げられていく空』、今日はそう思えた。
君が言った言葉。
大切な想い出。
「日が暮れないでずっと明るかったら良いのに……」
幼さの残る君の笑顔。夕焼けに照らされて、とても幻想的に思える。
「はぁ?何でだよ?」
自転車を引きながら、並んで歩く帰り道。
「だって、ずっとキミと居られるじゃん?」
そう言うと照れ笑いを浮かべて、俺の腕にしがみ付いてくる。
「そういうものか?」
「うん!」
…………。
そういうものか……。
俺は懐から煙草を取り出した。
チンッ。
ライターの音。
ボッ。
発火する音。
ジワジワ。
煙草に火が浸食していく音。
紫煙が空へと昇っていく。
煙を通してみる空は何だか、少しだけ悲しみから解き放たれているように見えた……。
~君が残していったもの~
◆数枚のプリクラ
◆何枚かのTシャツ
◆ドライヤー
◆靴下(片一方だけ)
◆ヘアバンド
◆数枚の手紙
◆下手くそな手編みのマフラー(端っこが解れてきているが、それでもまだ使っている)
◆沢山の想い出
そして、それらは少しずつ、忙しい日々に飲み込まれていっている。
少しずつ。
壊れていっている。
やがて、この部屋からは君の想い出は何一つとして消え失せるだろう。
だけど。
俺の中で君はいつまでもいつまでも微笑みかけている……。
まるで、終わらない悪夢のように……。