ledcannon’s diary

美作古書店

ドラゴンボール神龍の謎の記憶

個人的にとてもこのゲームは好きだった。

音楽がノリノリだったしドラゴンボールが当時は好きだったから。

システムを理解せずに毎回運頼りでゲームを進めていた。

自分が保有した最初期のゲームだと思う。

兎に角色々工夫してヤムチャを倒せるようになって、フライパン山で挫折した。

何回やってもフライパン山を越えることが出来ないった。

まるで鬼滅の刃の最終戦別の鱗滝の弟子たちのように僕の操る悟空はフライパン山に散っていった。

ゴーストバスターズ(FC)の記憶

ファミコンがウチに来てから、そのファミコン資産を一度リセットするまでの間保有していた。

自分では結局クリア出来なかったゲーム。

ガス欠になってクルマを押してなんかやってるとズールからマシュマロマン出て来てゲームオーバーみたいな事を繰り返していたなぁ。

延々と流れるゴーストバスターズのテーマが個人的に好きだったなぁ。

もう一度買い戻して今度はクリアしたいなぁ。

スーパーマリオブラザーズの記憶

発売当初はファミリーコンピュータも持っていなくて、友人の家で遊んだ記憶がある。

そもそもファミコンのある家庭には必ずあったイメージ。

男の子も女の子も関係なく、ファミコンが有ればスーパーマリオが有る。そんな環境だった。

ずっと欲しい欲しい言っていたんだが、父が何処かからスーパーマリオブラザーズの音楽の入ったカセットテープを持ってきてくれた。

それを聞きながらゲームをプレイした気になったっけ。なんか無駄に豪勢な音作りしてあって、今思えばもう一度あのテープを聴いてみたいな。

もう34、5年前の話。

櫻ノ海ポータル

美作 驟雨 作の長編小説です。

以前にgeosityやmixiで公開していました。

蛇足という名の完結編が書き上がるまで無期限で公開します。

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序章

https://ledcannon.hatenablog.com/entry/2020/12/27/190255

 

 

一章
https://ledcannon.hatenablog.com/entry/2020/12/27/223732

 

 

弍章
https://ledcannon.hatenablog.com/entry/2020/12/28/074510

 


参章

https://ledcannon.hatenablog.com/entry/2020/12/28/185410

 


四章

https://ledcannon.hatenablog.com/entry/2020/12/29/224137

 


五章

https://ledcannon.hatenablog.com/entry/2020/12/31/200730

 


六章

https://ledcannon.hatenablog.com/entry/2021/01/03/131051

 


七章

https://ledcannon.hatenablog.com/entry/2021/01/21/144302

櫻ノ海 漆章

櫻ノ海

 

 

 

―最終章―

 


櫻ノ海-cherry blossom

 

 

 

 

 

 

 


第漆話

 

-終わりの始まり、始まりの終わり-。

 

 

 

そう、まるで夢の中のようなのだ。

途切れ途切れの記憶が蘇っては泡沫のようにぱちんと弾けて霧散する。

いつからこの牢獄のような現実に囚われていたのだろうか?

思い出しようがない。

しとしとと降り続く雨の中に血の滲みのような薄紅色の桜の華。その華は古くからこの邑にある『呉葉』という名の古桜に現れるそれと同じように不吉を染み込ませた華だった。

いったい、何時からこれらの桜は地に根差し、そして幾星霜を超えてきたのだろうか?毎年健気に咲く儚くも美しい薄紅色の桜の華はこの忌々しい雨によって散りかけていた。

風も出てきたようだ、まるでいじけた子供のように降っていた雨は癇癪を起こしたそれと同じように荒々しく窓を打ち付けていた。

 


まるで雨音だけがこの世界を支配しているかのような錯覚を覚える。

なんだか自分が此処に居ることが酷く現実離れした、御伽噺のような、叢話のような、妙な現実感の喪失。

だからこそ、今までわたしは遂行してこれたのだ。

喪失した現実感を銜えていた煙草の熱が取り戻してくれた。

雨音に混じって微かな焼ける音。

それに伴ってジワリと熱が唇に近付いてくる。

湿気でもはやいつも吸っている銘柄と別物の味になってしまったその煙草を吸い尽くすと、わたしはポケットの中のソフトケースを引っ張り出した。

残すところ一本となってしまったその煙草は酷く頼りなく、長年、社会というものと戦ってきた老人のように草臥れ果てて折れ曲がっていた。

酷く惨めな気持ちになって、わたしはその最後の一本を床に落として踏み躙ってみた。

葉を包んだ白い紙が破れて、中から茶色が-そう、まるで死んだ魚の腹を食い破って湧き出す蛆のようにパラパラと床に散らばった。

 


十一人。

 


贄を捧げる。

其れが定められた約束であり、遂行すべき私の目的。

 


そして、約束まであと一人。

 


長きに亘ったこの約束も、もう少しで完遂される。

 

 

 

 

 

 

千年近く昔に忘れられた約束。

でも、それは約束だったのだろうか?

文献に残された士送りの儀。

実家の納屋で見つけたひどく古めかしい文献には櫻澤邑と櫻ノ杜、櫻ノ杜にあるといわれる櫻ノ社-閻魔堂。そして、そこに祀られる宝物について書き記されていた。

この小さな島国を二分にして争われた戦。

兵たちが夢の後。戦に負けた者たちが散り散りになり隠れ住んだ山間の小さな沢。毎年、桜が咲き乱れることに因んで、櫻澤邑と名付けた。

永らく続いた戦も終わり、平穏が訪れる。しかし、村人たちは外の世界との繋がりを極端に嫌い邑の存在を隠した。奇しくも、彼らが隠れ住んだその地は鬼女紅葉の伝説由縁の地であったことに妙な因縁を感じる。

さて、最後の仕上げだ。誰を以てこの士送りの儀を幕引きとしようか。

 


私はプレハブ小屋から雨の山中に出た。いつの間にか、豪雨は霧雨にかわり、静かに雨は大地に降り注いでいた。

着替えたばかりだというのに、雨の浸食は早く、衣類を浸透し、私の身体を濡らし始めた。私はゆっくりと山頂の方を見上げた。最後は彼処で。

 

 

 

 

 

 

豪雨の中、山中を駆け回るということは非常に体力を使う。それを今日厭という程思い知った。いや、山中を駆け巡るだけでも体力を使うのは分かり切っている。加えて雨が降って更にハードモードになったと考えた方が建設的だな。

真夜は相変わらず僕の背中で眠ったままだったが、その温もりは生きていることを僕に伝え、そして僕は真夜の重みを命の重みと理解した。

後どれくらい登れば良いのだろうか?

既に真夜を支える腕に感覚はなく、何度か皆川に代わろうか?と尋ねられたが総て断った。何となく、今日はこうやって真夜を背負っていなければならないような気がしたからだ。

「枝さん、大丈夫かよ?」僕の少し前を行っていた筈の皆川が、心配そうに僕を見ている。いつの間にか皆川との距離は離れていた。

「なんとか」僕はそう言うと真夜を背負い直す。

「お兄ちゃん、本当に大丈夫?」真夜が心配そうに僕に尋ねる。そんなに僕って頼りないのだろうか。

「枝さん、もう少しだぜ。高塚たちに何も無ければ良いんだけどな」心配そうに皆川は道の向こう側に視線を送った。

「大丈夫でしょ。……なんとなく」呉葉はそう言うと上着の裾を絞る。何処にそれだけの水が蓄積されていたのかと思うくらいに雨水が音を立てて零れ落ちた。「真夜ちゃんのも絞ってあげよっか?お兄さん、重いでしょ?」呉葉は無邪気な笑みを浮かべて真夜の服の裾を掴んだ。

「呉葉ちゃん、お願いして良い?」真夜は楽しそうにしている呉葉につられてクスっと笑った。

「はーい、じゃぁ、絞るね」呉葉は真夜の服をぎゅっと絞った。思ったよりも水分を吸っていたらしく、若干背負った真夜が軽く思えた。

「しっかし、この雨なんとかならないものかなぁ」皆川は恨めしそうに空を見上げる。僕もつられて空を見上げてみた。黒に近い灰色が天空を埋め尽くし、容赦なく大粒の雨を僕らに注ぎ続けている。

「確かにこれだけ降ってると、危ないわね」呉葉は地面を見て言う。降り注いだ雨が集まって、小さな流れとなり、山肌を削っている。

「お兄ちゃん、気を付けてね?」真夜が心配そうに背中から声を掛ける。

「まぁ。色々心配したって、こうなった以上は無駄だよな」皆川は少し声を張って、「じゃ、もう少しだ。行こうぜ」と歩き始めた。

足下は悪く、雨の所為で泥濘、粘土質の土は足に絡み付いて離れようとしない。何度か転びかけながらも、必死で皆川の後を追った。

 

 

 

どれくらいの時間をテントの中で過ごしたのだろうか?

屋根を叩く雨の音が弱まった。榊はいつの間にか眠ったようで、雨音が聞こえなくなった途端、榊の鼾が耳につくようになった。そして、隣で加藤も眠ったままのようだ。この二人、こんな状況でよくも眠れるものだと妙な所に感心してしまう。

取り敢えず、二人が目覚めそうにないことを一応確認すると、俺は菅沼と外の様子を伺いにテントから這い出した。さっきまでの豪雨は止み、霧雨が辺り一帯を覆い尽くすように降っていた。

「まったく、鬱陶しいことこの上ないな」菅沼は辺りを見回してそう言うと何の前触れもなしにストレッチを始めた。この雨の中何を始めるんだ、この男。気持ち悪い。俺は心の中で溜め息を吐いた。

「皆川たち、遅いな」皆川たちが飛び出して行ってからどれくらいの時間が経過しているのだろう。ずぶ濡れのズボンから携帯電話を出してみるも、液晶画面は真っ白のまま何も映し出されない。どうやら、さっきの豪雨によってお釈迦になったようだ。

「まぁ、あいつの事だ。そのうち戻ってくると思うんだけど」菅沼は、軽く俺の問いに答えると思い切り背伸びをした。

皆川との付き合いは菅沼の方が長いから、菅沼の言う通りなのかもしれない。俺は先程使った鉄串を目に入る分だけ拾い集めた。まだ何かありそうだし、何かあったときに役に立つかもしれないしな。暫く、菅沼と話したり色々整えたりしているとテントの中から三国が這い出してきた。

「おーい、お前ら。こんな雨の中突っ立ってると風邪ひくぞ?」三国はそう言いながらも俺のところまでのたのたと歩いてきて、「其れにしても皆川や枝さんたち、遅いな」と囁くように言った。

「なんつーか、遅いとか早いとかじゃなくて。あいつら大丈夫なのか……」俺は地面を蹴った。ぐにゃりという感触があって、爪先は地面にめり込んだ。ゆっくりと爪先を抜くと、抉られた地面に雨水が流れ込んでいく。茶色く濁ったその流れはまるでこれからの未来を暗示しているかのように不吉だった。皆川たちは無事なのだろうか。直ぐに戻れないほどに遠くまで行ったのだろうか。そして、千秋は何を考えているのだろうか。

 

 

 

クソ鬱陶しい雨が小雨になってくれたのは有り難い。なんとか視界は確保できている。足元の泥濘は酷く、歩を進める度にバランスを崩しそうになる。

「枝さん、呉葉、ちゃんとついて来てるか?」俺は髪から滴り落ちる水滴を拭った。

「あたしは大丈夫」疲れ果てた顔に笑みを浮かべると呉葉はVサインを作ってみせた。

「こっちも大丈夫だ。皆川、後どれくらいだ?」三枝は息を切らせながら尋ねた。

「そうだな、もう十分も歩けば戻れると思うんだけど」俺は見覚えのある地蔵の顔を確認して三枝の問いに答えた。

「其れなら、もう少しじゃない」呉葉が安堵の表情を浮かべる。

「そだな。もう少し……だな」三枝は真夜を背負い直して下がった視線を上げると、俺の後方に続く道の先を見据えた。

「さぁて、気張って行こうぜ」俺は意味も無く左手を振り上げた。

「はいは~い」呉葉が何処か間延びした返事をする。

「おうさ」三枝もそれに続けて声を上げた。

「お~」真夜も負けじと声を上げる。

威勢の良いのは其れまでで、一歩歩き出すと俺たちは無言となった。幸いにも雨は土砂降りになることも無く、霧雨のままだった。

一歩一歩を踏みしめるように歩く。ふと、辺りを見渡せば霧雨の所為か本当に霧に包まれたように白く濁っている。立ち並ぶ地蔵尊がまるで地獄で揺らめく影のように思えて思わず身震いをした。

そう言えば。地蔵尊と言えば、閻魔の仮の姿と言う説もあったな。そんなくだらない雑学を思い出す。此処が地獄の底で、この辺りに居る影は皆亡者で……。思い出した雑学は妄想を膨らませる。

「ぅおーい」

不意に聞こえたその声に俺たちは身構え、直立した。皆で顔を見合わせ、沈黙する。

「おーい、皆川~」再び聞こえた、その声は高塚のものだった。

「お、枝さん。高塚だぜ。漸く着いたぞ」俺は駆け出すと後方に居る三枝にそう叫んだ。

「あ~、ゆたか待ってよ」呉葉が俺の後を追って走るだす。

「お。何だ、無事に生きてたのかよ?」高塚は少し高くなった道の上で、腕組をして俺が近付いてくるのを待ち構えている。

「この野郎」俺は軽く拳を突き出す。その拳を両手で受け止めると「ったく、お前らは

何処まで行ってたんだよ?」と拳を押し返して来た。

「……まぁ」俺は一呼吸置いて「色々あった訳だよ。で、高塚。お前らの方は何事もなかったか?」俺は千秋のことを伏せて、高塚に尋ねた。

「ん?あー……」高塚は一瞬何か考え「そうそう。そう言えば、榊とか言うヤツを捕まえた」とさらりと言った。

「は?」俺は高塚が何を言っているのか理解できなかった。

「いやぁ。何の因果か知らんが、わざわざお前を追いかけてこんな辺鄙な所まで来てくれたらしいが。何というか、鬱陶しかったのでな」高塚はそう言うと鉄串を構えてみせた。

「何だよ、獲物を使ってかよ」俺は高塚の手から鉄串を一本拝借すると軽く振りつけてみた。それなりの重量感があって、振り応えも良い。そして割と持ち易い。これはこれでちゃんとした武器になるなぁと感心してしまった。

「まぁ、お前の事をよく知っていると言ったらとても興奮して居たのでな。是非、感動のご対面をしてやってくれ」高塚は俺から鉄串を奪い取るとテントを指して言った。

「あのさぁ、その物言い、何とかならないものかな。とっても気持ち悪い」俺は身震いして肩を竦めて見せた。

「何ていうか、とても熱烈だったからさ……。お前、尻でも狙われてるの?」高塚はニヤニヤと笑う。

「覚えておけよ。リトルグレイ……」出来得る限りの嫌味を高塚に投げ付ける。

「お、皆川ぁ。無事だったか。なんか、大変なことになったなぁ」三国が何事も無かったかのようにニコニコと笑いながら近寄って来た。本当にマイペースな男だ。そういや成人してから此奴が狼狽ているところを見た事がないな。

「……まぁ。無事と言えば、無事だったな」俺は近付いて来た三国と肩を組む。「取り敢えず、すごく疲れた」俺はそう言って全体重をかけた。

「うわ、ちょっと待って。皆川、重い重い……」三国はそう言って身体を攀じる。

「こぉらー、ゆーたーかー。やっと追いついたー」そんな俺と三国に呉葉が飛びついてくる。三国は耐えきれず、バランスを崩して三人そろって仲良く地面に倒れ込んだ。

「何するんだよ、お前」俺は漫才師ばりに、呉葉の頭を平手て叩いて文句を言う。

「あはは、ごめんごめん。どうせもう、下着までびしょ濡れだし。別に良いじゃん」呉葉はそう言ってケラケラと笑う。いや、そうなんだけど身も蓋もないよね。そういうあけすけな所はとても好みで良いんだけども。

「……ったく。一番被害を被ったのは俺なんだけどな」三国が溜め息を吐きつつ俺の下でぼそっと言った。

「で、お前ら。色んな意味で大丈夫か?」菅沼が呆れ果てた顔をして俺たちを覗き込む。

「あんまり、大丈夫じゃない」俺と三国の声がハモった。

「お。漸く、枝さん達が来たぞ」被害を受けないように少し距離をとっていた高塚が、俺と呉葉の登って来た道を指して言う。

「お、やっときたか」俺は呉葉を押し退けて立ち上がる。俺と呉葉に潰された三国は無惨にも完全に泥塗れになっていた。菅沼が手を貸して、三国はやっとの事で立ち上がった。

「……はぁ、はぁ……、お前ら、早過ぎ……」息も絶え絶えに三枝が真夜を背負ってよたよたと歩いてくる。

「よぉ、お疲れさん」高塚が三枝に駆け寄る。

「枝さん。取り敢えず、真夜ちゃん下ろせば?」俺は疲労困憊と言う文字をそのまま立体化したような三枝に向かって言う。

「……ぜぃ……ぜぃ。て、手伝ってくれ……」三枝はよろよろと、今にも倒れそうになりながら、俺たちの側で立ち止まった。

「へいへい」俺はそう言うと真夜を背負おうとした。

「あー、ゆたか。高塚さんか菅沼さんにお願いした方が良いんじゃない?」呉葉が俺のズボンのポケットを引っ張って俺の行動を阻止した。

「……へ?何で?」俺は呉葉の表情を伺う。

「ゆたかは泥だらけでしょ。高塚さんや菅沼さんは奇麗だけど」呉葉は信じられないと言う表情して俺を睨んだ。そもそも、泥だらけになった原因はお前だろうに……と、浮かんだ言葉を飲み込んで「あぁ、そうだよな」と間抜けな相槌を打つ自分が不憫で堪らない。

「……と、言う訳でどっちか宜しく」俺は左手をひらひらと振って投げ遣りに言った。

「ち。仕方ねぇな」菅沼がそう言うと三枝から真夜を抱き上げると、背負い直した。「ご迷惑おかけします」真夜は申し訳なさそうに菅沼に頭を下げる。

なんて羨ましい……と言う表情を察知してか、呉葉が俺の爪先を踏みつける。うっわ、いってぇ。こんなのって無いよ、あんまりだよ。

「ってか、こういう時にこそ、さっきのような土砂降りになってくれれば良いんだけどね」三国が泥だらけの自分を服を見ながら天を仰いだ。

「そうだな。こんなみみっちい霧雨なんぞ何の役にも立たない」俺は勢いを付けて、近くの樹を蹴った。集まる皆んなの視線。少しの沈黙。そして大粒の水滴が一気に俺たちに振り注いだ。

「きゃぁ!?」真夜が悲鳴を上げる。

「うお!?」高塚と三枝が同時に身を竦める。

「アホだ。相変わらず、阿呆だな」菅沼が冷たい視線を俺に向ける。

「あー、そうだ。此れだよサンキュー」三国が棒読みで感謝の言葉を紡いだ。

「ほんっっとうに、莫迦ね」呉葉が肘で俺の横腹を小突いた。

「んだよ。さっきからいてぇな。でも、ほら。多少は洗い流されただろ?」俺は横腹を摩りながら高らかに笑ってみせる。微妙な沈黙が場を支配した。

「取り敢えずはテントに……」高塚がそう言いかけて、硬直した。

「あ?どした?」俺は目の前で立ち止まった高塚に疑問符を投げかけた。

「いやぁ、此のバカ騒ぎですっかりと忘れてたんだけど……」高塚はとても言い難そうに切り出した。「テントの中に榊って奴と加藤が……」そこで口を噤んだ。

「あー……」三国が思い出したように呟く。

「そう言えばそうだったな」菅沼が冷静に呟く。

「おい……お前らなぁ」俺は呆れたように三人の顔を順に見て行く。

「仕方ないじゃん。ゲットしちゃったんだもの」高塚が肩を竦めてみせた。

「ゲットしちゃったって、お前……」俺は赤い帽子の少年を思い出しつつ、今後の展開について頭の中でシミュレートしてみる。どう考えても榊も加藤も連れて歩くなんて恐ろしい事出来ないぞ。此処に置いて行く他無いぞ……?それが俺の出した結論だった。

「ま、何はともあれ。取り敢えず、雨の当たらない所で考えようぜ」三国は何の躊躇いも無くテントの中へ入って行く。相変わらずマイペースな男だ。俺は呉葉を伴い、三国の後に続いてテントに入った。

 


断熱シートの上に二つの棒状の物体が転がっている。よくよく観察すると何処かで見た顔がそれなりに神妙な顔付きで俺を見上げていた。

「よう、榊」俺は榊の隣に腰を下ろすと、昔ながらの友人に接するように榊の肩の辺りをバンバンと叩いた。

「何だよ。いてぇな。割と時間が掛かってたみたいだけど、お仲間は無事だったかい?」榊は何か知った素振りで太々しく笑うと、首を左右に振って間接を鳴らして見せた。

「あー。まぁ、無事って訳にはいかなくなった。一人、行方不明になっちゃったしな?」俺は榊を睨み付ける。

「ほう、それはそれは……」意味深に榊は黙った。

「皆川、行方不明って誰のことだ?」三国が尋ねる。

「千秋ちゃんだよ」俺は高塚を横目で見た。この事態を周知していたかのように高塚は落ち着き払っていて、無言で頷いた。

金川さんが?」三国が息を飲むのが聞こえた。

「行方不明と言うべきか……」俺は三枝の顔を見る。そして、高塚の顔も。三枝は戸惑いの表情を、高塚は何かを決意したような表情をしていた。

「皆川、らしくないぞ。何があったのか話せ」高塚はいつになく真剣な表情をして俺に言った。

「皆川……」三枝は眉をひそませて俺を見る。

「おいおい、こー君。『何があったか』って、何かが起こることがわかっていたような言い草だな」俺は少し意地悪な言い回しをした。

「皆川」高塚は睨み付けるような視線を俺に向けた。

「そんなに怖い顔をするなって。ちゃんと話してやるからさ」俺は高塚の肩をぽんぽんと叩くと、ポケットから煙草を引き摺り出す。雨の所為でぐしゃぐしゃになってしまっているが、咥えることくらいならできるだろうよ。

「でも、何かわかっていたんじゃね?お前のことだから」俺は煙草を咥え、火を点ける。やはり、煙草は湿気てしまっていて、火など点かない。ライターの火に炙られ、水分が水蒸気となって巻き上がるだけだ。

「わかっていたら、お前に何があったかなんて聞かないさ。ただ……何かが起こるような予感って言うのか?そういうものはあったさ。で……あいつは結局何をしでかしたんだよ?」高塚は腕組みをすると、リュックサックの上にどっかりと腰を下ろした。「まぁ……俺たちがどんな目にあったか話してやるよ……」俺は先ほどの出来事を出来るだけ詳細に話して聞かせた。

高塚は終始無言で、時々頷いたり、顎に手を当てたりして、俺の話を聞いていたが、話終えた所で深く溜め息を吐いた。テントの中は静寂に満たされる。雨音だけがノイズのようにさぁさぁと聞こえた。

「……って、そんなことがあったのか?お前ら良く生きて帰ってきたな」沈黙を破って、菅沼は少し呆れ気味に言う。

「本当に。そもそも、そんな状況でよく無事で居られたもんだよ。相変わらず無茶苦茶するよね」三国は苦笑した。

「まぁ、ワシらもよく無事だったと思うよ」真夜をシュラフに寝かせ、タオルで髪を拭きながら三枝が言う。

「其れで、その千秋とか言うヤツはその後どうなったんだよ?」榊は両手両足を縛られ、芋虫のような格好で偉そうに尋ねた。その姿に吹き出しそうになったが、敢えてシリアスに努め「追いかけたんだけどな見失った」と、俺はあの雨の中に消えていった千秋の背中を思い出しながら答えた。

「ワシの方は追いかけられたんだけど、撒いた」三枝が真面目に言う。そこで俺は思わず吹き出してしまった。三枝は俺が笑った理由がわからないようで少しきょとんとした表情をしていたが、俺の笑いが終わると「取り敢えず。皆、無事で良かったよ」と胸を撫で下ろして見せた。皆という単語に違和感を得る。

「呉葉。お前、千秋とすれ違わなかったのか?」俺は入り口付近で濡れた髪をタオルで挟んで乾かしている呉葉に尋ねた。

「……呉葉?あ、お前……」榊が呉葉の存在にようやく気付いた様で、何か言おうとするが其れを遮る様にして「千秋ちゃんと?……ううん、ってか。会ってたらあたし殺されちゃうよ」呉葉が首を左右に振って答えた。

「確かに、あの状況だと殺されかねんわな。ただ、枝さんを追いかけて行ったみたいんだけど、枝さんはうまくやり過ごしたし。……でも、逆からきた呉葉とすれ違ってないとすると、何処かに身を隠したってわけか?」俺は些細なことでも思い出そうと、記憶を辿る。しかしながら、俺の記憶はどうも肝心な部分で霞がかってしまう。

「確かに、枝さんのように茂みに隠れて身を隠すって方法もあるだろうけど。そんなに長い時間は無理でしょ。この雨で気温も下がってきているわけだしさ。こんな山奥で長時間身を隠すっていうのは大変なことだぜ。まして、俺たちみたいにテント持ってるわけじゃないだろうし……」三国は腑に落ちないといった表情を浮かべた。

三国の言うことは正論だ。ここまで山深い場所で拠点を持たずに身を隠し続けることは自殺行為だと思う。櫻澤邑の土蔵のようにまだ原型を留めている建築物なんかが在れば其処で構わないだろうけど。若しくは、向こうのほうが頭が良くて、俺たちの後をつけてきているとか?嫌なイメージが過ぎる。うまく俺たちをやり過ごして、今こうして話している瞬間に虚を突いてくる……。

 

 

 

ぐじゅ、ぢゅぷ……。

足元が悪い。折角新調したトレッキングシューズが既に泥まみれである。こんなことなら最初からバーバリアンの長靴を用意すれば良かったのだ。

つい、溜息を吐いてしまう。まったく持って、儘にならない人生だと。

嗚呼…………あと一人。

たったの一人。

その供物を用意すれば、この苦悩からも解放されるのだ。

 

 

 

櫻の杜から櫻澤邑に行こうとすれば、俺たちが使った道しかないのだから……と考えていてハッとする。

「呉葉、櫻ノ海と櫻澤邑をつなぐ道って俺たちが今通ってきた道だけなのか?」思いついた疑問符を呉葉に投げかけた。

「まぁ、基本的にはそうだけど。でも手段を選ばなければいくらでも行き来できるわよ」呉葉は真面目な顔でそう言った。

「そりゃぁ、そうだよな。こんな山奥なんだから」菅沼は極当たり前のことを極当たり前に言う。

「つまり、何を言いたいんだ?」俺は菅沼に尋ねる。

「改めて聞かれると困るんだけど。人間の手が入っていない山なんだからさ。普通に森の中に入っちまえばなんだって可能だろうよ?」至極当然であるといった物言いで菅沼が答える。

「森に入って俺たちをやり過ごしたって言うのか?」俺は女性が森に一人で潜むなんて到底信じられなかった。

「人を殺すような人間だぜ。何をしたっておかしくないさ」菅沼が簡単にそう言った。「いや、殺したって確証はないだろ」俺はそこの部分に反論する。

「まぁまぁ。皆んな、そんなに熱くなるなよ。兎に角さ、皆んな無事な内に下山しようよ。こんな山奥で漫画かアニメの探偵みたいに推理ごっこの彼是を言い合って居ても仕方ないじゃ無いか。下りてから警察に任せればいいんだよ。流石に素人の俺たちが妙なことに首を突っ込んで、皆んなで仲良く野垂れ死ぬってのはありえない」三国がとても自然に極当たり前なことを言う。

言われてみれば、確かに生命の危険を冒してまで此の件に執着する縁も所縁も義理も道理もない。在るとすれば、自分の知的好奇心を満たす為。

「……え。あ。そうか。そうだな」異常な出来事が続く中で、俺は正常な思考が出来なくなってきているようだ。

「三国さんの言う事は尤もなんだけど。俺はもう少し残るぜ」高塚が俺と三国の会話に割って入った。其れもそうか。高塚の場合、自分の彼女が何やらしでかしているのだから。真偽を確かめたいのはとてもわかる。其れこそ、俺自身元カノとのアレやコレやの時に高塚には世話になっているわけだし。

「高塚には悪いけども、ワシ達はおりるよ」枝さんは申し訳なさそうにそう言った。まぁ、普通、そうだわな。妹が怪我している上に本人は単純に巻き込まれただけだから。至極真っ当な話だと思う。

「いや、俺の勝手だから。枝さんが気にする事はない」高塚は少し早口で言う。

「ふー……。俺も残るかな」菅沼が溜息を吐き、やれやれと言った感じで話す。「そもそも、テントの中の連中を置いていけないだろ」肩を竦めて見せた。

「えー。大丈夫じゃないかなぁ」俺は榊を覗き込んで言った。一瞬だが、榊の表情に戸惑いに似た違和感のある表情が浮かんだ。

「皆川の言う通りだ。此処は俺の庭みたいなもんだ。お前らが居なくなっても、俺一人でなんとかなるさ」太々しく笑うと、榊は吐き棄てるように言った。

「だそうですよ。此奴らに構わず行ったら?」俺は継寛に肩を竦めて見せた。

「で、そう言うお前さんはどうするんだよ?」継寛が直球をぶん投げてくる。相変わらず空気を読めないと言うか、何と言うか。

「継寛、俺は無論残るに決まってるだろう。こんな状態、生きている間に一度在るか無いかだぜ?滅多に経験出来きない状況を放っぽり出して降りるなんて出来るわけないだろう」俺は心からそう思った。死ぬのはゴメンだけども乗り掛かった船だ。終着まで乗り続けてやる、そう思えた。呉葉は無言で俺の手を軽く握り締めてきた。

ウォン、と甲高い音。そしてエンジンの音が鳴り渡った。

「!?」皆んな一斉に立ち上がる。菅沼が俺を押し退けて勢いよくテントを飛び出す。俺もそれに続いてテントから飛び出た。獰猛なその音は木霊し、厭なうねりを持って場を支配する。俺たちに続いて三国や菅沼、高塚、三枝がテントから出てくる。

「おい、この音って……」三枝が誰に言うでもなく呟いた。

「嫌な予感しかしない」高塚が誰に言うでもなく、呟いた。

「バイクではなさそうな。ワシに一つ心当たりがある」枝さんはポンと手を打った。

「あー。やめろ。こんな山中で、此のエンジン音は一つしか想像できねーわ」俺は左手で額と眉間を覆う。

「チェーンソーだな」高塚が冷静にその言葉に答えた。

「……こんな山奥で?有り得ないだろ」三国が疑問を投げる。

「人を殺して回ってるイカれた奴じゃね?」高塚が然も当然といった口調で疑問符を打ち返した。

「チェーンソーねぇ?どうも、俺的にチェーンソーってイメージ悪いんですけど……言っても良いかな?」と俺が言うと。

「サガか」

「サガだな」

「サガだね」

「サガかよ」

「……サガかい」

皆、俺の言葉に突っ込みを入れた。悪かったな……あのゲームはトラウマなんだよ。

「あー。取り敢えず、良太。枝さんと真夜ちゃん連れて一足先に下りてよ」俺は現状、其れが最善だと思った。

「ああ、分かった。神崎さんと加藤さんは良いのか?」間抜けな質問を投げかけてくる。

「……連れてって」俺は掌をぱたぱた振ってオネガイした。

「しかし、皆川よ?此れじゃ、反響して何処から聞こえてるのかわかんないぜ?」継寛が珍しく、説明的な長い台詞を吐いた。らしくない。

「確かに……これじゃ」三国が辺りを見回す素振りをする。

「近いという事だけは確かだな。おや、近付いてきているのか?」三枝が両耳に手を添えて位置を確認しようとする。

「ちっ……。面倒くせぇな。それどころじゃないってのに」高塚が不機嫌そうな声を出して、鞄から鉄の串を取り出した。

「高塚、お前……」俺はそれを見て突っ込もうとしたのだが「お前だって持ってきてるんだろ?」と返された。

「ナンノコトダイ?」片言で返すと、少し厭そうな顔をして「お前、あのナイフ持ってきてるんだろ」と尋ねる。

「え?」呉葉が目を見開いて俺の方を向く。

「いあ。まぁ。ね」と俺は呉葉の視線をうまく避けつつ、濁して答えた。

「これじゃ、チェーンソー相手で何処までやれるかは知らねーけど」と高塚はニヒルに笑う。と言うか、チェーンソーに鉄串でガチでやり合う気か、こいつ。

「皆川、お前。こんな所『まで』、あのナイフ持ってきてるのか……」と三国が苦笑する。

「こんな所『だから』、だろ。山に来るときは普通持ってくるだろ」俺はテントに入り、鞄の中から牛革の鞘に収まったそれを持ち出してきた。

「ゆたか、割とアブナイ人なんだねぇ」呉葉は呆れた顔をして俺を見る。

「で、一体、何処から聞こえてきてるんだ」と菅沼が拳を突き出したり、蹴りを繰り出したりして身体を温めながら呟いた。

「確実に近付いては来てる……よな?」三枝が身震いをする。

「まぁ、お前は真夜ちゃんを背負って下山する準備してろ」俺は三枝の肩を掴むと、テントのほうへ向き直らせた。

「……あ、ああ」と言って三枝はテントに入っていく。

「良太、悪いんだけどあの榊と加藤を取り敢えず、テントの外へ出しておいてくれないか?」俺は三国に指示を飛ばした。

「ん。わかったよ」と少し真剣な顔をして三国は首を鳴らした。

「んじゃ。俺と、継寛、高塚で迎え撃つとしますかね」俺は継寛と高塚の顔を交互に見た。二人とも無言で頷く。轟音が少しずつ近付いてくる。反響して方向が上手く分からないが、音は確実に大きくなってきている。そして、音に濁りが混じる。それは何かを伐っているように聞こえた。

「なぁ、おい、皆川。これ、拙いパターンじゃね?」高塚が冗談半分、焦り半分が入り混じった声で尋ねる。

「おい!枝さん、三国、ヤベェぞ。テントから出ろッ‼︎‼︎」俺は高塚の言わんとしている事を理解し、叫んだ。

「なんだ?どした?」三枝が真夜を背負ってテントから這い出してきた。

三国は素早く加藤を引き摺り出し、榊を引き摺り出そうとしていた。

取り敢えず、皆が見える場所に立った。霧雨は纏わり付くように視界を遮っている。全身ずぶ濡れの中、冷や汗が背中を伝うのを感じる。

唐突に濁った音が突然止んだ。

静寂が世界を包む。

俺たちは周囲を見渡す。

ノイズの葉にサァっと霧雨が舞う音、枝葉が擦れあう音と、どこかで鳥が鳴く音、人工的な音は何も聞こえない。自分の鼓動が気持ち悪いくらいに大きくドクドクと鳴っている。全身が鼓動に合わせて脈動しているような気になる。奇妙な緊張感が漂っていて……。

 


みぢ、みぢ、みぢぢぢぢ。と今まで聴いたことのない音が背後から聞こえた。ザザザザザザザザザザ、と台風の時のような凄まじい葉擦れの音が鳴り渡る。

何事かと振り返ると、ビルよりも高く伸びた、樹齢数百年と思しき杉の巨木がゆっくりと此方に向かって傾いてくるのが見て取れた。

「うわああああ!逃げろー‼︎」誰かが叫んだ。

俺は巨木が倒れてくる様に見惚れて、身動きが取れなくなった。大樹がゆっくりとのし掛かってくるのをただ見ていることしか出来なかった。ゆっくりとゆっくりと、そしてある角度から其れは加速し、覆い被さる様にして……。

ずどん、と言う音の表現がきっと一番似つかわしい。テントを巻き込みながら大地を揺らしたそれは一瞬の静寂を生んだ。

 

 

 

雨が鬱陶しく降り続いている。

地面を穿つ音が空間を満たした。呼吸することも忘れてしまったのではないかと思えるほど、茫然と奴らは立ち尽くしていた。

樹の根元に立てかけたチェーンソーをもう一度、確りと握り締めた。鋼鉄製の柄がひんやりと火照った身体を掌から侵食していく。

これで漸くあいつを贄に捧げる事が出来る。そして、私の罪は償われるのだ。今思えば、父親が此の櫻澤邑にのめり込んだのはきっと必然だったのだろう。自分のルーツを此処で見つけ、そしてあの書簡を持ち帰った。

あれを読んだときの衝撃は忘れられない。自分のルーツ。其れがまさか歴史の教科書にも載っているような人物であったとは。

其れと同時に、心の奥底からまるで泉が湧き出るように……何もしないで居るだけの自分。そして、書簡を持ち帰ったにも関わらず。其れを研究しているにも関わらず何の行動も起こさない父親が許せないという気持ちが私の心を満たしていった。

憎んでいた父親の死は思いの外、呆気なかった。

何かの時に役に立つだろうと、精神疾患を患った振りをして病院に通い、集めに集めたハルシオンを父親の食事に混ぜた。

彼が昏睡した隙に、両手、両足に所謂『粘着テープ』を巻きつけ、猿轡替わりにタオルを噛ませ、目隠しをした。これで彼はきっと意識を取り戻しても、自分の身に何が起きているのかを理解することなど不可能だろう。

彼の寝室は二階に在った。私は最早モノと化した彼を担いで急な階段を下る。当初、階段の天辺から転がり落とせば楽なのではないかと言う考えも浮かんだが、証拠に繋がる外傷は極力少ないほうがいい。私は彼を車に押し込むと、山へと向かった。

丁度、曇天が広がっていて。今にも雨が降り出しそうだった。そう、まるで今日みたいな日だった……。

書簡の中に描かれていた図を元に作り上げた地図を片手に、私は櫻澤邑へと向かう。泥濘に足を取られ、何度となく転んだ。その都度転がる67キログラムの荷物を何度投げ捨ててやろうかと思ったことか。でも、私は当初の志を挫かずに其処に辿り着いた。自分の起源。祖先達が過ごした其の地に。

私は、ぐにゃりとだらしなく弛緩した人形の束縛を解き、櫻ノ杜の社に横たわらせた。果たして、人形は目を覚ますだろうか。

闇に閉ざされていく世界の中で私は煙草に火を点けた。湿気と雨でなかなかうまく火が点かなかったけれど。一仕事を終えた後の煙草は美味かった。

私は、其の晩半壊した嘗て私の祖先が暮らした古惚けた家で眠りについた。

 

 

 

それは、深い深い森の中。

 


それは、忘れられた祭壇。

 


それは、血塗られた過去。

 

 

 

連句。私の敬愛するラブクラフトを彷彿とさせる。

 


久遠に臥したるもの死することなく

怪異なる永劫の内には死すら終焉を迎えん

 


打ち捨てられた廃都と落人の邑。では、私はどんな運命を辿るのだろうか。非業が織りなす此の現実に私は何を期待するのか。

 

 

 

白拍子が舞い踊る。

篝火に照らし出される其の姿は闇の中に在って際立って見えた。

炎の揺らめきに合わせて、衣装の色が妖艶に変化する。

ゆっくりと、まるでコマ送りのように私へ近付いてくる。

白拍子の顔が見えない。

輪郭すら確認出来ない。

顔の周囲だけ塗り潰されたように真っ黒で、ぽかん、と穴が開いている。其れはゆっくりと私の前まで来るとにたりと笑った。

何もない、黒で塗り潰された其れはにたりと笑ったのだ。

「……神崎。裏切り者の神埼。御主のところの倅を出さぬか」

老人のような、老婆のような、しゃがれた声がそう言うのだ。

「何を今更申すのか。是は定ぞ。我ら櫻澤の宿命ぞ」

苛立ちが混ざり、殺気立った声が静かに告げる。

「逃げ果せると思っているのか。定からは逃れられぬ。さあ、倅を出せ」

ドップラー効果。声が後ろへ飛んでいく。視覚的な走馬灯の様に聴覚的な其れがぐるぐると廻り始める。

嗚呼、此れは夢だ。明晰夢だ。何でこんな夢を見ているのだろうか。夢と認識出来る夢は果たして夢なのだろうか。此れは現実の続き。または拡張された現実ではないのか。

 


さくらさくら

さくらのうみのおには

いついつでやる

よあけのばんに

おにとかみがちぎった

 


独特のリズム。何処かで聞いた唄。でもこんな唄だったっけ。

澄んだ声。神秘的で。でも、とても不吉な其の唄が聞こえてくる。

「……おや、神崎の倅ではないか。こんな所に隠れて居たのか。さぁ、儂と参るのだ……」差し出された皺くちゃの手に手を伸ばした。酷く冷たい手だった。何もない、暗闇の道を先導されるがままに歩く。

暗闇の中を二つの足音が往く。やがて先ほどの篝火が見え、私は其処で…………。

 


「命だけは……」

「苦悩を背負いたいのか」

「この、裏切り者め」

「恥知らずめ」

「何処へ逃げても同じだ」

「櫻ノ杜のお地蔵様はすべてを見ていらっしゃる」

「神崎の嫁も居なくなったぞ」

「何処へ行った」

「何処だ」

「次は…………」

 


怒声が飛び交う。老人たちが口角に泡を立てて言い合っている。血走った目で此方を見てよく分からない事を言っている。

 

 

 

大きな雨粒が頭上に降り注ぎ、現実へと戻される。白昼夢、と言う表現がたった今自分に起きた現象にぴったりなのだろう。軽く頭を振ると、ゆっくり天を仰いだ。白く濁った世界。霧雨と時折枝葉に溜まった大粒の水滴が落ちてくる。そんな場。

 

 

 

「ったく。一体、何事だよ……」突っ伏していた高塚がゆっくりと立ち上がった。

「あっぶねぇ……死ぬ所だった」心の中でそう呟き、大木が倒れくる時にばら撒かれた枝葉を叩き下ろし、俺は立ち上がる。後五十センチ前に居たら樹に押し潰されていた。諤々と震える全身。此れは恐怖からか、それとも自分に殺意を向けた相手に対しての武者震いなのか。そう。明らかにこの樹は俺たちを狙って倒されたと直観が囁く。協力者である加藤、若しくは榊まで巻き込んでまでこの樹を倒した人間の考えている事が理解出来ない。「おい、皆無事か?」俺はなるべく大きな声で尋ねた。言葉尻が震えていて、少し情けない。でもよ、目の前に巨木が倒れてきて死に掛けてみろ、大体の人間は今の俺と同じかもっと惨めなことになるぞ。

「なんとか無事だな。それにしても危なかった。有り得ねーわ」高塚は倒れてきた樹を足蹴にして、そう答えた。

「み、な、が、わっ、本当に面倒なことになってきやがったな」菅沼が後ろから俺を羽交い絞めにして、笑いながら言った。

「こっちも何とか無事だ」三枝が真夜とともに樹の向こう側から姿を現す。

「はいはい、無事ですよ~」呉葉が俺から菅沼を引き剥がして、自分が俺に抱きつく。まったく、こいつは何を考えているのやら。

「あれ?そういえば、三国はどうした?」菅沼が呟く。確かに三国の姿が見当たらない。もしかして、樹の下敷きにでもなったか?

「ああ、ひっでぇ。また、ずぶ濡れになったじゃないか。携帯もぶっ壊れたし。畜生」非常に不機嫌な声を上げて三国が三枝の近くで立ち上がった。

「……何とか、皆無事か?」俺はそれぞれの顔を順に見た。

「そうでもなさそうだぞ」三枝が声のトーンを落として、顎で樹を指した。

樹に押し潰されたのだろう。上半身だけ地面から生えるようにして、上体を反らせた加藤が在った。

「生きては……さすがに居ないよな」俺は白目を剥いて虚空を見上げるその肉人形に生を感じなかった。そして、その状態で生きていたとしても、助かる道は何処にもない。携帯の電波も届かないし、助けようがない。此処はそういう場所だ。

「自業自得なんじゃね?」相変わらずの口調で高塚が言う。業か。加藤はどんな業を持っていたのだろうか。

「其れにしても。この人は何で俺たちを狙ったんだろう?俺たちは、ただこの廃村に来ただけなのに。此処に財宝でも在るとか?其」三国がそう言って倒れた巨木の上に座る。

「……そう言われればそうだよな?そもそも、俺たちが襲われる理由って何だ?」菅沼が珍しくハッキリとした声で疑問符を吐き出した。

「言われてみれば……」三枝が真夜を樹の根元に座らせると俺たちの話に参加してきた。

「おい、お前ら」俺たちの話を野太い榊の声が遮る。

「あ!」三国ははっとしたような表情で声の方向を見る。

「そう言えば、あいつの存在をすっかり忘れていたよ」高塚が真顔で呟く。

「榊、生きているのか?」俺は冗談半分で奴に声を掛ける。

「当たり前だ。早く拘束を解けよ。くそっ」ばしゃばしゃと泥濘の上で暴れる音が聞こえた。仕方ないので、俺は樹の裏側に回ると榊を泥濘から立ち上がらせた。全く、こいつの所為で服が泥まみれになってしまった。

「あ、ついでだから聞くけど。何で俺たちはこんな目に遭わされてるんだ?」俺は榊の襟首を逆手で持って持ち上げるようにする。襟で首が絞まり、榊の顔面が紅潮する。

「しら……ねぇ……よ」そう言うと榊は全身を使ってもがき始める。あまりの無様さに、俺は手を離した。腕を拘束されたままの榊はうまく立てずに、泥濘に突っ伏すようにして倒れ込んだ。

「おい、何してんだ、皆川?」三国が俺の肩を思い切り握り締めた。

「何って。お前らの言う通りさ、何で俺たちが襲われなければいけないのか。其れに興味が湧いたんだよ、俺も。だから手っ取り早く聞いてみたんだが、何も言わないからさ。言えるような状況を作ってやっただけだ」俺は榊の服を掴むと思い切り力を込めて立たせてやる。窒息しかけたことに追い討ちで、泥濘の水を多少飲み、榊は咳き込んでいた。

「幾ら何でも無抵抗な人間に対してやり過ぎだ。下手打てば殺してしまうぞ」三国は榊に大丈夫か?と声を掛ける。

「流石に殺人はしたくないわな。其れにしても、参ったね。この状況、泣きそうになってきたわ」俺は高塚、菅沼の顔を交互に見てなるべくにっこりと笑ってみせた。

「いつものことじゃないか」と高塚。

「取り敢えず、こいつの拘束、解いておくぞ」と菅沼が十徳ナイフをポケットから取り出すと、榊の拘束をおもむろに切り始めた。

「榊の事は置いておくとして。なあ、呉葉。お前は何か知らないのかよ」俺は詰まらなさそうな表情で水溜りを眺めていた呉羽に問い掛けた。

「何かって?ナニ?」本当に詰まらなさそうな表情で、彼女は俺を見る。例えるならば、何か計画を企てて、全てが計画通りに『進み過ぎている』時の様な。そんな時に感じる一種の倦怠を表す表情……其れを顔に貼り付けて、彼女はただ俺を見ていた。

「俺たちがこうして襲われている理由」俺は簡潔に答えた。

「ゆたか。前に言わなかったっけ?この櫻澤の地は呪われているわ。それこそ咎隠の村なんて呼ばれるくらいにね」最初は小さく、そして次第に大きく、彼女は笑い始めた。その笑い声が山々に木霊してわんわんと耳障りな残響を呼び起こす。

「お前……?」以前に櫻ノ海について尋ねた時と同じ様に、呉葉の様子がおかしい。俺は呉葉の肩を強く握り締めた。

「なぁに?」彼女は精気の抜けた眼で俺を捉えた。

「呉葉、お前がやったのか?」俺は彼女の両肩を掴み前後に揺さ振った。

「私が?何の為に?」呉葉は微笑を浮かべ、俺の両腕を掴んでゆっくりと力を込めた。

「おい。お前等、言い争ってる場合じゃねぇと思うんだが?」榊は俺と呉葉の腕を掴むと俺たちを交互に睨み付ける。

「…………」呉葉は榊を一瞥すると俺たちの手を静かに振り解いた。

「あ?部外者は黙ってろよ」俺は榊の襟首を掴む。

「ちょ、皆川。止めとけ」高塚が俺の肩を叩く。

「おい。皆川。止めろ」継寛が俺の腕を掴んだ。

「冷静になれって。皆川」三国が真剣な顔をして言う。

「どう考えても、此の樹を倒した『誰か』の仲間じゃないだろ、この二人は」高塚が俺の肩を握り締めて言った。

「……ああ。お前たちの言う通りだ」俺は地面を蹴り付けた。そして大樹に近付き蹴る。何で、こんなに心が乱れているのだろうか。自分の思い通りに行かない此の事態に苛立っているのか、俺は。両手を握り締め拳を作った。

「で、大将。さっきの通りで良いのか」菅沼がニヤリと笑う。

「ああ。俺と高塚、お前で少し此処に残る。三国と枝さん真夜ちゃん、呉葉は下山しろ」俺は腹を括る。此処まで色々巻き込まれたなら、最後まで見届けてやる。

「おい、お前ワザとだろ」榊が俺を睨む。

「え?だってお前、俺の言うことなんて聞かないだろ。つか、そもそも自分の身を自分で守れる系でしょ?」俺は少しだけ榊を煽る。

「ま、そんな事はどうでも良い。取り敢えず、根元に行こうぜ」高塚が俺たちを促した。

「根本?」菅沼が尋ねた。

「此の樹の根本だよ。だって其処ら辺に居るだろ、此れを倒した奴が」高塚が早々に歩き出す。「んじゃ、枝さん三国さん無事に降りて、警察に通報しといて」と右手を挙げる。

「あー、じゃー、行きますか」俺は高塚の背を追う。

「そいじゃ、其方はヨロシク」菅沼が三国に言う。

「お前らも無事でな」三国はそう言うと軽く手を挙げる。

「今生の別れというわけではないからな。んじゃ、またの」三枝が声を張った。

「ああ、またな!皆んな!今回は楽しかったぜ」俺は空に向かって声を張り上げた。今から対峙するであろう相手は何者なのか。どんな結末となるのか。色々と思考が巡るが、今更退く訳にも行かないだろう。

「ゆたか、あたしも行く」先程の呆けた状態とうって変わった呉葉が駆け寄ってくる。正直、足手纏いだし、邪魔。

「悪いけど、枝さんや三国と降りてくれないか」俺はキッパリと言った。

「あたしの庭みたいなものよ、此処は」呉葉は食い下がってくる。

「そんな事はどうでもいい。チェーンソー持った阿呆相手に立ち回れない奴を連れて行っても足手纏いだって言ってるんだよ」俺は先を行く高塚を追う。

「だから、そんなもの持った相手に地の利が有る訳ないでしょうが!」呉葉の叫び声が凛と響き渡る。

「あー。成る程な」高塚が立ち止まって振り返る。

「どういうこって?」イミガワカラナイ。

「地の利があるなら、単純な罠だけであたし達を全滅させられるわよ」物騒な事を呉葉が言う。罠だけって、ちょっと大言壮語じゃないか。

「あたしが、あんた達を助けてあげる。あんな部外者に此処を荒らされるの、癪に触るから」呉葉はそう言うとビシッと俺を指差す。

「特にゆたか!あんたは一応、あたしの彼氏なんだから」あのう。呉葉さん、こんな時にそんなこと言われると照れてしまうのと、それって死亡フラグと言うモノなのではないかと少し心配になるのですが。

「取り敢えず、分かった。呉葉を頼りにする」俺は胸の前で両手を上げて見せた。

「わかればよろしい」満面の笑みを浮かべる呉葉に、溜息を吐きたくなるのであった。

 

 

 

それは、深い深い森の中。

 


それは、忘れられた祭壇。

 


それは、血塗られた過去。

 

 

 

ツワモノタチガユメノアト。

其処に立った時に浮かんだのは、そんな言葉だった。既に打ち棄てられた廃村。嘗て此処に人の営みがあったなんて、崩れかけた廃屋を見ない限りは想像出来ない。よくよく観察すれば規則性を持って植えられた木があったりするのだけれども、最早自然の草葉に埋もれて痕跡が消えかけていた。

もはや原型を留めない廃屋。少し前まではきっと縁者が管理に来ていたのだろう。そうでなければ、此処まで形を留めて居る訳がない。そんな事を思いながら空を眺めた。

忘れられた祭壇。そうだった。此処は祭壇。儀式を行う場。士送りの儀を。

此の身に流れる血が、此の地の過去に繋がるのならば。完遂されなかった。数百年前に中断された儀式の続きを取り仕切ろうではないか。

文献によれば、士送りの儀式は十一人の人柱を捧げる事に依って成就される。人柱は各家が何らかの方法で準備をする。

各家とは、榊家(さかきけ)、神崎家(かんざきけ)、神代家(かみしろけ)、神薙家(かんなぎけ)、神山家(かみやまけ)、神村家(かみむらけ)、神堂家(じんどうけ)、神尾家(かみおけ)、神居家(かみいけ)、神塚家(かみづかけ)神田家(かんだけ)の十一の家の事である。

幸いにも此処が隠れ里で、既に人の記憶から忘れ去られた場所で在る事は幸いだと思う。

書物通りだと、現在五名の人柱が捧げられている筈だ。

 


はじめのひとつは男だった。

この神域を侵した愚かな男。

神罰は下され男は無に帰る。

愚かな男は何もわからないまま逝った。

 


ふたつめは退屈な女だった。

不届きにも神事を侵した女。

鉄槌を受けて女は事切れた。

あやつり人形は糸を切られ棄てられた。

 


みっつめは不幸な女だった。

家族の汚名を晴らすために。

無駄に短い命を削り取られ。

星空に手を伸ばし思いを馳せて散った。

 


よっつめはただ受け入れた。

運命をしきたりを享受した。

神刃は深く鋭く切り裂いた。

運命の歯車が厳かに廻りはじめたのだ。

 


いつつめは悲しきさだめに。

ただただ愛するものを追う。

幼い魂を託すと穏かに逝く。

来世を信じただもう一度廻り逢う為に。

 


残す六つの人柱を以て士送りの儀を完遂させよう。

と言ったものの、此処から如何始めたものか。そもそも如何したら生贄と呼べるのだろうか。矢張り、所謂殺人に手を染めなければ、人柱とはならないのだろうか。

だったら。手始めに此の人生の邪魔になりそうなあいつを贄にするか。足が付かない様に。誰にも分からない様に。

 

 

 

過去の狂気が現代へ繋がれる。

 

 

 

「何でだ!」思わず叫んでいた。万全の準備をしてきた筈。こんな僻地に此のタイミングで来る人間なんていなかった筈なんだ。其れが、何故。

「知るか」背後からきた男に寄って、立て掛けてあったチェーンソーが蹴り倒された。

「こいつ、一人……なのか?」猫背の男が周囲に目を配りながら睨み付けてくる。

「お前ら、こんな邪魔をして、ただで済むと思っているのかッ」此れは儀式なのだ。選ばれた者だけが参加出来る、儀式なのだ。

「ただで済まなかったから、お釣りを返しにきたんだろうが、此のアホが」チェーンソーを蹴り倒した男が駆け寄ってくる。

「え!?」虚を突かれた。男の蹴りが右脇腹を掠める。

「何が『え!?』だ。殺そうとした奴が、何だ、その鳩が豆鉄砲食らった様な顔しやがって」男は激昂している様で、とてつもない殺意を此方に向けてくる。

「ニナガワ、待て。なんかすげぇ嫌な感じがするぞ、其奴」更に湧いて出た男が、蹴ってきた男にニナガワと声を掛けている。成る程。此奴は蜷川と言うのか。覚えたぞ。

「蜷川くん」つい、声を掛ける。

「!?」名前を呼ばれて彼は飛び退いた。身体能力高いな、此奴。打ち出した右ストレートを避けられた。

「何だ此奴、反撃してきたぞ」蜷川がよく分からない事を言う。

「当たり前だろ」二番目に現れた男に突っ込まれている。

「なんか、やってるぜ」蜷川の名前を教えてくれた男が身構える。

「急に襲ってきた上に、三対一とは。何とも卑怯な」雨で抜かるんだ地面は、少々遣り難い。牽制しながら引くのが正解かな。

「何言ってんだ、あんなデケェ樹なんぞ倒しやがって。お陰様で死に掛けたぞ」蜷川が怒りをぶつけてくる。

「いやいや。生きているじゃないか。其れに邪魔をしないで頂きたい。歴史的快挙が目前なのに」不意に苛立ちが込み上げてくる。

「どけ、蜷川」二番目の男がラグビーのタックルの様に突っ込んでくる。

「何でそっとしておいてくれないかなぁ」男の体当たりに備えて、構えた。蜷川の様に接近戦で来るかと思いきや、男は急に立ち止まると隠し持っていた棒状の何かを投げ付けてくる。意外性が有って宜しいね。少し後ろに下がって、其れを避けた。

「危ないな。何だ、此れ」投げ付けられた其れを一つ拾い上げる。バーベーキュー用の鉄串。こんなものを投げてくるとか、此奴は忍者か。

「おい、避けられたぞ」蜷川が実況してくれる。賑やかしいと言えば肯定的だど、やっぱ否定的に五月蝿いと言っておこうか。

「お前ら、何だらだらやってるんだよ」また、なんかゴツい男が現れた。流石に面倒臭い。

「テメェも、チョロチョロ避けてんじゃねぇ」ガタイの良い男は其の体格に似合わず一気に距離を詰めてくると、腕を取られてた。

「あ」身体が宙に浮く。そう言えば投げられる経験って少ないよな。こんな時って、如何すれば回避出来るんだろうか。と、考えてみるも、ドッと言う衝撃と共に地面に叩きつけられた。肺から一気に空気が抜けて咳き込みそうになる。

「え!?意外と強い」鉄串の男が呟く。

「意外ととは何だ」ゴツい男の声が降ってくる。「取り敢えず、拘束するぞ」腕を掴まれ、後ろ手にされる。おいおい、あとひとつで終わりなのに。此処で終わってしまうのか。

「あれあれ。ついてきたのかよ。ま、良いや。取り敢えず、そのマスクを外そうぜ」蜷川が手を伸ばしてくる。

「ってか、こんなモノをリアルでしてる人間初めて見たぞ」呆れ声が降ってくる。失礼な。顔面を守れるから色々便利だと言うのに。目出し帽。

「ちょっと待て、此奴は」そう言えば、其の声聞き覚えがある。そうか、そう言う事か。本当に此処までやった来たのか、お前達は。あんな出来損ないの地図でよく此処まで辿り着けたものだ。

「ん?知った顔なのか?」口数の少ない男が尋ねる。

「知った顔、と言うか。此奴、藤堂……だよな?……いや、でも。櫻ノ社で死んでいた……。腹を斬られて、首を切り取られて死んでいた筈」此奴は高塚とか言ったっけ。散々話し相手にさせられて辟易したな。そして、アレを見ていたのか。

「でも、確かに死んでいたよな?腐りかけの匂いしていたし」ああ。蜷川ではなく、皆川だったのか。俺は覗き込んでいる男の顔を間近で見て漸く理解した。

「ああ、あの死体か。間違いなく死んでいたと思うぜ。で、此奴って何とかって言うホームページの管理人だったよな」此奴は菅沼。確か三国とか言う男と一緒にいた男だ。皆川と合流できていたのか。

「なんとか、じゃない。『神宿りの島』だ」つい、口を挿してしまった。

「そうだな。其れだ。流石は管理人だな」嫌味なのか天然なのか迷う所であるが腹立たしい事だけは間違いのない返答が返ってきた。

「どういたしまして」取り敢えず、嫌味にならない程度に。

「さて、それじゃ。櫻ノ海は見つけられたわけだし、引き上げますか」皆川がまるで俺の存在が無かったかの様に高らかと宣言した。

「ま、其れが妥当だろうな」高塚が皆川に同調する。

「おいおい、皆川。此奴、どうするんだよ」背後で大きな声を出すな。

「あ。悪い。縛り上げて、此処に放置……していきたい所なんだけど。流石にダメだよね?緊急避難って事になんないよね?」皆川。お前、何言い出すんだ。縛り上げられてこんなところに放置されてみろよ。多分、地獄見るぞ。

「流石にダメだろ。縛り上げた時点で殺人未遂にでもなるんじゃね?」高塚が肩を竦める。何と言う助けに船。流石に此処に放置はされたくない。

「何なら、このまま連れていくか?そもそも、縛り上げる方が面倒くさいし」此の筋肉ダルマ、何か言い出したぞ。

「でも、そうなると此処からどうやって下山するつもりだ?此奴も連れていくとなると、割と厳しくないか?」菅沼が口を挟む。確かに登山道に戻ってから、どうやって下山するつもりなのか。

「其れは大丈夫だ。此処は俺の庭のみたいなモノだしな」聞き捨てならない事を言う。

「此処が庭だって?どう言う事だ」俺の腕をキメている背後の男に尋ねた。

「書いて字の如し。此処は子供の頃から何度も連れられてきてるからな。先祖が土地を持っていたとかで、爺さんが元気な頃はよく此処に連れられてきてた」リアルな咎隠村の縁者かよ。子供の頃に連れられてきていただと。若しかしたら、此奴の祖父が士送りの儀を執り行おうとしていたのか。其れならば、やはり俺が完遂しないと。

「へぇ?嘗て此処には十一の家が在ったらしいね。其の内の一つが貴方の家系だと言うわけだ」彼奴が調べ集めていた情報が今、自分の中に息衝いている事に気づく。

「お、よく知っているな。爺さんの代までは家々で交流が在ったらしいけど、今はもう此処に戻る人間も居なくなったってさ。俺は麓に家が在るからな」筋肉ダルマが意外、といった声色で言う。

「其れで。お前は何処の家の人間なんだ?」筋肉ダルマに問う。

「ってか、お前。此処の事知っていたのかよ」皆川が口を挟んむ。

「ああ。知っているも何も、今言った通り地元だからな」至極当然と言う口振りだ。此奴もむっつりスケベと同じ匂いがする。

「ああ、そうか。呉葉と連んでいたのもそういう事か」皆川が何か悟った様に言う。

「あん?皆川。呉葉が何だって?」筋肉ダルマの意識が皆川に向いている。丁度良い頃合いかもしれない。俺は準備を始める。

「だから、お前も呉葉も咎隠村の出身者だから、だろ?」何だともう一人?此の咎隠村の縁者が居るだと!?

……呉葉?何処かで聞いた名前だ。あの女か。皆川の話に気を取られてしまう。

「其れは、初耳だ。あの女も俺と同じで此処の末裔だったのか」筋肉ダルマが驚いてみせる。肝心の何処の家の末裔なのか、其れを俺は聞きたい。故に。

「もう一度聞く。お前の家は何というんだ」と尋ねる。

「あ?榊の家だが。其れが如何した?」榊家。士送りの儀式を仕切ったとされる家か。もう一人の方も気になるが此奴で良いか。決めた。そうしよう。其れが良い。

俺は『そう決める』と、榊に掴まれている腕を解いた。榊が呆然とした表情をしている。其れから、榊の右手首を掴むと外側に捻る。「痛ッ、ぐあっ」短く悲鳴が聞こえる。構わず、其の儘捻りながら一歩踏み出すと、榊が自ら回転しつつ飛び退く。

「何ッ!?」一部始終を見ていた皆川が此方に駆け寄ってくる。と、同時に高塚が反応して駆け出してくる。更に其の後ろに菅沼が来る。ジェットストリームアタックか?反応が良過ぎな上に連携取れ過ぎていないか、お前ら。

皆川が左回し蹴りを打ち込んでくる。思わず俺は榊の手を離すと、皆川の足を受け流す。

流される事が前提だったのか、流された左足を軸にして皆川は一気に距離を縮めてくる。

右足が、俺の左脛を狙っているのが目視出来る。そして、其れに反応しようとしたのだが、「高塚!」と皆川が叫ぶので、思わず高塚の方に視線を向けてしまった。左頬に衝撃。高塚を追い抜いてきた菅沼の拳が俺に入った。

「継寛、どけ」高塚の声、と共に菅沼がバックステップで俺から離れる。高塚が突っ込んでくるのが見える。今度は武器じゃなくて本当にタックルかよ。と、思った瞬間に脇腹に衝撃を受けて吹っ飛ばされる。

「おい、榊。此奴を連れてでも本当に下山出来るんだろうな?」皆川の通る声。

「ああ。出来る」榊が視界の端の方で起き上がる。皆川が俺を見下ろしている。何とも不遜で腹立たしい。

「其れなら」皆川は倒れている俺に蹴り込んでくる。「うお!?ちょっと待て」俺は必死で皆川の右足を掴む。掴んだ腕ごと皆川は自分の左足を蹴り付ける。思わず手を離す。其れを見越していたかの様にがら空きになった腹部を蹴り付けられた。

「ぐぅっ」声が出ない。呼吸も出来ない。息を吸い込もうとするも其れすら出来ず必死に呼吸をしようと試みるが空気だけが身体の外へ押し出される様な感覚しかない。そんな俺の事など無視する様に、皆川は俺の太腿に踵落としを平然とやってのける。「!」悲鳴替わりに目一杯肺から空気が漏れた。暗く澱んだ目。其れが俺を見下ろしている。

「おい、皆川何やってんだよ」高塚の声。

「流石に遣り過ぎだって」継寛と呼ばれた菅沼の声。

「皆川。お前、本当にこんな感じなんだな」榊の呆れた声。

「色々煩い。そして、分かってる。取り敢えず、さっきみたいに暴れられても困るしな。流石に此れで抵抗は出来ないだろ?」皆川は平然とそう言ってのけると、俺の背中に更に蹴りを入れて「撤収しよう」と続けた。

「あのなぁ。いつもお前は遣り過ぎなんだよ」高塚の声が遠い。

全身が痛い。久々の打撲の痛みだ。其れよりも、呼吸が出来ない。呼吸をしようと喘ぐ。断続的に肺に酸素が取り込まれる。うまく呼吸が出来ない。皆川に蹴られた彼方此方が酷く痛む。全く、加減というものを知らんのか。仰いだ空から雨粒が降り注いだ。

「取り敢えず、榊。此奴は連れて行こう」皆川の声が遠く聞こえた。

「お前の言う事に従いたくはないけども、其れが最良だろうな」榊が俺を覗き込む。其れから、妙な浮遊感と共に視界が暗転した。

 

 

 

 


「こっちだよ」呉葉が叫ぶ。其の後を藤堂を背負った榊が走る。足元の悪い中、かなりハイペースで進めている。呉葉も榊も、此の森を庭の様なものだと言うだけの事はある。

「おう。助かる」俺は藪に足を取られながらも二人の後を追う。少し足場が良くなったところで、高塚と菅沼がついて来ている事を確認した。

「其れにしても、こんな道も在ったんだな」榊が少し感動した様に言う。

「まぁね。此処は特別。降り専用みたいな道よ。でも、皆んな無事で良かった。待つのって気が気じゃないから」呉葉は更に獣道の様な草むらに突っ込んでいく。

「ま、でも一緒に居なくて正解だったんじゃないか。此の気狂い、かなりキテいたからな」榊が背中の藤堂を指して言う。

「ホント、ある意味ヤバかったよな。完全に錯乱していたじゃん、此奴。そして呉葉、ご心配お掛けして、申し訳ないね」俺は榊を追い抜き、呉葉の後ろに付いた。

「其れにしても、此れが道か。道か」高塚がぶつぶつと言っている。

「如何した、あっちゃん」菅沼が軽口で尋ねる。

「ふと親戚の婆さんの家に行った時に迷い込んだ森を思い出したんだよ」高塚が懐かしそうに語り出す。

「前に言っていた奴か。山の上へ上へ向かっていって?」以前に高塚から聞いた遠野物語のマヨヒガの様な体験譚の事か尋ねた。

「あれ?話していたっけ。そうそう。川というか崖というか、そんなのを登っていった先に、なんか民家があったんだよ」山の中にそんな民家がある時点でかなり怪しい。

「へぇ。廃村じゃなくて?」菅沼が尋ねる。

「一軒だけ、ぽっつりとあってな。入ろうかと思ったんだけど、日が暮れそうだったんで、降りたんだよ」そうだな。日が暮れて山の中に居ると、碌でもない事になる。

「あ、降りたんだ」榊が少し笑いを堪えた様な声で話に絡んでくる。

「そうなんだよ……。降りてしまったんだよ。何度か其の民家を訪ねてみようと試みたんだけど、辿り着けなくてな」高塚がとても残念そうに言う。

「櫻ノ海、みたいなものね」呉葉がぽつりと言う。

「ある意味、櫻ノ海もマヨヒガの様なものか」俺は白く濁った風景の向こう側にあった呉葉と榊の祖先が暮らした地を思った。

「ま……、兎に角安全なところまで降りようぜ」高塚が追いついてきて、俺の肩を叩く。もう一度じっくりと櫻ノ海を探索したいと思いながらも、多分、もう二度と此の場所に来る事は叶わないのだと、直感的に理解してしまった。

「命あっての物種、か」来た道に背を向けて、一歩踏み出す。

「そんなに気を落とすなよ。富山県内だって此処みたいに怪しいスポット有るぜ」菅沼がフォローにもならない事を言う。

「こんな場所がそうそう在ってたまるか。大抵は昭和と平成の大合併で出来た村の抜け殻だ。此処みたいに成り立ちからして隠す満々の集落なんかおいそれと出てくるかよ」そう言って、ふと考える。山窩みたいなものなのかね、こう言う山の集落は。

嘗て俗世から追いやられて。そう、当時の治世に肌が合わない連中とかが落ち延びたこう言う集落が山々にきっと在ったのだろうな。

時代の移り変わりで山も開発されて、隠れ住む場所もなくなってきて。そうなった時に呉葉や榊の祖先の様に当たり前の様に社会に溶け込んで。今だに命を繋いでいる。

ある意味この山自体が墓ー陵墓ーなのかもしれないな。

「如何したの?ぼうっとして」呉葉が上目遣いで俺の顔を覗き込む。其の瞳を見つめると吸い込まれそうになる。焦茶色の瞳の奥。其の中心に落ちていきそうになる。

「いや。何でもない。ちょっと考えてしまったんだ」俺はそう言うと軽く呉葉を抱きしめた。何となくの罪悪感。何となくの愛情。何となくの行動。

「え?何?」呉葉は少し戸惑って一瞬硬直するも、身を委ねてくれた。もう一度、抱きしめると身体を離す。

「なんとなく、だ」俺はそう言うと、周囲を見渡した。所々に人型のシルエットが転がっている。櫻ノ海で見た地蔵の更に出来損ないの様なものが転がされている。

「先を急ごうぜ、日が暮れたら終わる」高塚が空を仰いで言った。

「そうだな。テントも何もかも破棄してきたからな」菅沼がふぅ、と溜息を吐く。

「此奴が生きている内に降りようぜ。殺人事件の重要参考人には成りたくないからな」榊が面倒臭そうにお荷物を背負い直す。

「其れなら、日暮れ前に森は抜けられるよ」呉葉が駆け出す。

「そんなに早く下れるのか?」榊が驚きを隠さず呉葉に尋ねる。

「本当にな。こんな道があるのなら、最初からこっちから来ればよかったのにな」高塚が呆れた様に呟いた。

「さっきも言った通り、降り専用だってば。脱出用と言うか……。其れに戸隠神社からだったら、普通に登るしかないけどね」呉葉はバッサリと言い切った。

「脱出用?」不穏な単語に反応してしまう。

「ほら、落人の村だからね。何かあった時に逃げだす為の道、よ」呉葉は目を細めた。

「榊ッ!」高塚の叫び声。

「カムイが!」菅沼の緊迫した声。

振り返る、枝葉が邪魔をして、何が起きているのか把握出来ない。

「うおおおおおおおおおお」誰かの叫び声。

「皆川、ヤバい!藤堂が!」高塚が何かをしようとしている。駆け上った先で、榊に馬乗りになり拳を振り下ろしている藤堂の姿と、其れに蹴りを入れる菅沼の姿が見えた。

「くそ、離れろ!」菅沼が藤堂の首に腕を回し引き剥がそうと試みている。

「何が在った!?榊は無事か?」俺は高塚に尋ねる。

「藤堂が突然暴れ出して、榊に噛み付きやがった」高塚の発言に俺は言葉を失う。

「継寛、退け!」俺は割って入ると、藤堂の背中に肘鉄を入れた。ドムっと肉に沈む感触がある。其れでも藤堂は榊に拳を振るい続ける。

「いい加減にしろ!」今度は横腹を思い切り蹴り付ける。其れで漸く体勢を崩して藤堂が榊から離れた。榊は首を右手で抑えている、其処から血が滴り落ちている。

「大丈夫か?」俺は榊に左手を差し出す。

「くそ。いてぇ。急に噛み付いてきやがった」榊が俺の手を掴んで立ち上がる。

「お前ら!何処まで邪魔をするんだあああああああああ!もう一人なんだよ!何で邪魔するんだよ!邪魔なんだよ!僕の邪魔をするなよおおおおおおおおお!」藤堂が身体を滅茶苦茶に揺さぶりながら叫ぶ。完全に正気の沙汰ではない。ってか、パワー系ナントカって奴だな。面倒なんだよなぁ、理屈が通じない系の奴を対処するの。

「もう一人って?」凛とした声が場に響き渡った。

「士送りだよ!咎隠村の悲願だろぉ!?何で邪魔をするんだよ!」藤堂が叫ぶ。

「貴方は村の子孫?何処の家の人間?」何処か冷たく突き放す様な口調で言葉が飛んだ。

「あハ。僕?僕はーーーー神崎の家の末裔だ。だ!か!ら!俺には儀式を完遂する義務があるんだぁ!」藤堂はゆっくりと立ち上がると呉葉を睨んだ。「そして、お前は何処の家のものだと言うんだ、女!」今にも飛びかかる勢いで叫ぶ。

「奇遇ね。あたしも神崎という姓を継いでいるの。そして、貴方?『藤堂』の姓(かばね)方が似合っているわ」もし、触れたなら切り落とされそうな位に鋭利に研ぎ澄まされた言葉の刃が見えた様な気がした。其れは呉葉から発せられ藤堂へ向かう。

「何でだッ!?何でだよぉ!?可笑しいだろ!何でお前も神崎の名を持っているんだああぁあ!?」藤堂が地団駄を踏む。

「何で?当たり前じゃない。あたしが正統な神崎の家長よ」呉葉は鋭い視線を藤堂に向ける。「何処かで別れた分家の事なんて、知った事じゃないの。そもそも、櫻澤の事も碌に知りもせずにお里帰りなんて、笑えるわね」呉葉が藤堂を煽る。

「分家だと……?其れが何だっていうんだ。士送りの儀も完遂しないで!代々の地を蔑ろにして!お前が家長を名乗っても俺は認めない!」支離滅裂。完全にイっている。

「士送りはもう、終わっているわ。だから、皆んな櫻澤から出たのよ」呉葉が語り出す。「でも、こうして貴方が居る以上、終わっていなかったのね」

「呉葉、如何いう事だ?」榊が場の空気を読まず、割って入る。

「榊の家にはあまり関係のない話なのよ。でも、巻き込まれた以上、話だけはするわ」

 


嘗て、国を二分した戦に於いて、敗者がとある山中に落ち延びた。水源豊かな沢のある平地で彼らは反撃の機会と余力を蓄える為、住居を作った。其れが櫻澤邑の起こりである。

中心となったのは神崎家、神薙家、神山家、神居家、神塚家の五つの家であったが、姻戚等で神代家、神村家、神堂家、神尾家、神田家を加え十の家々の集まりとなる。神事を扱う神崎家が中心にあった為、五行や十干の思想を取り入れた村造りが成された。

元々中心となっていた神崎家から、神事のみを司る家が分家され、榊家となる。榊家が出来た事により櫻澤村は十一の家々の集まりとなる。榊家は巫覡を生業とし、戦には関わらない家として村の中でも特異な存在となる。

神崎家及び榊家から士送りの儀が村に伝わる。士送りーー詰まるところ、村から侍を送り出すーー戦を放棄する策だった。

然し乍ら、未だ過去の遺恨を持った家も少なからずあり、一族繁栄の為の儀式として榊家が中心となって執り行う事となる。各家家に定期的に生贄を要求し、戦力を削ぎ、争いの意思を削ぐ為の儀式というのが本質的な士送りの儀だったと神崎家には伝わっていた。

時を重ねる中で、士送りは形骸化していき、単純に生贄が要求される村の儀式という禄でもない存在となった。

幾度目かの士送りの際にとうとう贄が揃わず、儀式が中断される事となった。つまり、生命を奪う行為を良しとせず、一族の繁栄という大義名分に対しても生贄を捧げることでは繁栄は無しとして、争いの宿業から櫻澤村は抜け出す事が出来た。

中途半端に記された此の時の士送りの儀の記録が神崎家残る事となった。やがて、神崎の家も櫻澤村から離れ、現代の一般的な社会の中に埋もれていったのだった。

血塗られた祖先の記憶は現代の平和に掻き消されて、櫻澤村もゆっくりと朽ちていくだけのはずだった。其れなのに、村の事を詮索する人間が増え、勘違いした輩が儀式の為!と声高らかに模倣殺人を始め、漸く安息の眠りにつきかけた村を起こそうとするのだ。

 


「そりゃ、今代の神崎家の家長として立腹しても文句ないわよね?」呉葉が当然でしょう?と言った表情をして皆んなの顔を一つ一つ眺めた。

「因みに、治外法権にはならんよな、此処?」高塚が空気を読まず尋ねる。

「ならんだろうな。此処は如何足掻いても、法治国家日本国の領土のど真ん中だ」俺は肩を竦めて見せた。

「うぁあああああああぁあぁ!!!もう良い。女!お前の言っている事は嘘だッ!俺が正統な末裔だ。血縁だ!だから、誰でも良いいいいい!!!!もう一人死ねぇ!」藤堂が呉葉に向かって駆け出す。誰でも良いとか言って、近くにいる俺や榊をスルーして呉葉を狙うか。とことん、此奴はクソだな。

「緊急避難って事で」俺は藤堂に駆け寄って、腰を蹴り付ける。前傾姿勢の為、藤堂はバランスを崩し転がる様に吹っ飛んだ。

「あ、ひでぇ」高塚が呟く。

「妥当じゃないか」菅沼が高塚に突っ込む。

「呉葉、行くぞ!道案内を頼む」俺は呉葉の背中に叫んだ。

「先に行って。このまま少し低くなっている藪を突っ切っていけば川に出るから。後は川に飛び込んで。そうしたら麓まで一気に行けるわ」呉葉はにっこりと笑って俺を見た。

「わかった。んじゃ、またな呉葉」榊が呉葉に告げる。「其れじゃ、皆川、お前ら付いてこい」榊が俺を押し退けて先頭に立つ。

「呉葉は?如何するんだ?」俺は呉葉に尋ねる。

「ゆたか、実はね。あたしにも此処に来た目的が一つだけあって……。其れだけ済ませたら降りるから。大丈夫!」呉葉はそう言うと元来た道を駆け上っていく。

「行くぞ」榊がそう言うと茂みを駆け降り始める。高塚と菅沼も其の後に続く。呉葉の背中は見えなくなった。多分、フィクションなら追いかけるのだろう。だけど、今、此れは自分の命が懸かっている。俺は、情けないが下山する方を選択した。

足の筋肉が悲鳴を上げている。歩けないと言っている。其れでも傾斜のある此の道は無理矢理にでも歩かせようとするのだ。藪の枝葉に引っかかって彼方此方に傷がつく。其れでも歩みを止めず、俺たちは降りていく。

何度か後ろを振り返ってみたものの、自分の望む駆け降りてくる呉葉の姿など見えもせず。只々、暗澹と此の世界を黒く覆う様な森と霧雨の白が視界を支配していた。

「ってか、川って此れか?」少し引いた様な榊の声。

「まぁ、大丈夫じゃないかな。子供の頃、母方の実家で此れくらいなら飛び降りて遊んでいたし。多分、大丈夫だろ」高塚が無駄に自信たっぷりにそう言う。

「いや、でも。此の高さは結構来るな」菅沼も少し引いている。

漸く、皆に追いついて、川とやらを見る。アパートメントの三階くらいの高さに俺たちはいて、其の三階くらいの高さを飛び降りろと言う事らしい。成る程、確かに此のルートでは櫻澤村に来る事は出来ないわな。

「じゃ、最初に行く人ー?」明るく元気に手を挙げてみたが、白けた目で皆んなに見られてしまう。酷くないか。

「んじゃ、俺から行くわ」高塚が短くそう言うと「んじゃ」軽く手を挙げて川へ飛び込んだ。躊躇ないな、相変わらず。水飛沫を挙げて流れていく高塚を眺めながらそう思った。

「ま、普通に降りても此処に飛び込んでも、無事かどうかなんてわかんないしなぁ」榊がそう言って溜息を吐く。其れから俺の顔をみてニヤリと笑うと飛び込んだ。

「あ、何だ。其れ!」俺は流れていく榊に問うも、返事は返ってこない。

「んじゃ、また後でな」菅沼が俺の肩を叩いて、飛び込んでいく。えっと?お前ら引いていなかったっけ?躊躇していなかったっけ?まぁ、良いか。

俺はもう一度だけ、降りてきた道を振り返った。呉葉は来ない。いっそ戻るかと思った其の時。ドンッという、名状し難い音とも振動ともつかない何かがあった。

「何だ!?」思わず叫んでしまう。そして其れの所在を探そうとキョロキョロと辺りを見渡すも何の変化もない……。と思ったのは一瞬で、無限軌道の重機が近くを通過する時の様な振動がする。何かとても重たいものが通過する様な、そんな感覚が……。

「うおおおおおおおおおお!?」木々を押し倒しながら、巨大な何かが押し寄せてくる。何か途轍も無くヤバいものが迫ってくる。俺は川へと飛び込んだ。

身を切る様な冷たい水。ゴボゴボという音。勢いのある水流に為されるがまま。次第に苦しくなってくる。呼吸をしなければ。

水面を目指して浮き上がる。なかなか身体の自由が効かない。顔だけでも出せれば。もがいて、何とか顔を出す。息を吸い込むと同時に多少の水も飲み込んでしまう。

必死だった。死にたくないと思った。生きて帰ると何度も心の中で叫んだ。無我夢中で顔を出したままの姿勢を維持しようとした。

子供の頃に習った筈の水泳だったが、こんな時役に立たねぇな。小学校低学年の時に習わされていた水泳教室の事をふと思い出す。そもそも身体が動かねぇんだもんな。

そう言えば。或る雪の日にドブに落っこちた事もあったな。

あの時は本当に死ぬかと思った。基地の屋根に登っていて。積もった雪で滑って三メートルくらい下のドブに落ちたんだっけ。あの時も今と同じで手とか足の感覚が無くなっていって、動かしている筈なのに思った以上に動いていなくて。

手が全然ダメだったな。壁を掴めないんだよな。肘から下が言うこと効かないんだ。何とか色んな段差や雪を使って二メートルくらいの壁を何とか登って。アパートの四階にある自宅へ必死で帰ったっけ。

ヤバいな。何でこんなに昔の事を思い出すんだ。

足をバタつかせて水面に顔を出し続ける。腕も動かしているが、感覚がもうない。息継ぎをする。命を繋ぐ。死んでたまるか。

 


自室とは違う天井。真っ白な枕カバーと布団。綺麗に洗濯されたコットンの香り。無機質な印象を受ける部屋。昔、嫌という程過ごした空間。

此処が病室である事は直ぐに分かった。でも、何故こんな所に居るのだろうか。起き上がろうと試みるも、全身が色んな意味で痛い。傷とか打撲とかそんな痛みがミックスされた状態である事に気付く。

「ぐ……う……。いってぇ……」喉から掠れた声が絞り出された。痛みを堪えて、身体を横にしてみる。痛みが無い所が無いレベルで全身が痛い。

何でこんな事になっているのか。思い出そうとしても、よく思い出せない。此処は何処で、今、何年何月何日なのか。痛みに耐えながら周囲を見た。枕元にナースコール用のボタンを見付けて、其れを押した。何か声を掛けられた気がするが、痛みの余り聞き逃した。程なくしてナースが医者を引き連れて遣ってきた。

如何やら俺は一週間ばかり意識不明の状態にあったらしい。問診され、明日からは精密検査などを行うとの事を告げられる。

医師が去って暫くすると警察が遣ってきて当たり障りのない事情聴取をされる。如何やら山岳事故の扱いになっている様だ。他の連中の安否について尋ねると、友人達は皆んな無事だったとの事で取り敢えず胸を撫で下ろす。

三国と高塚に至っては其の日の内に富山に帰っていたとの事であった。三枝兄妹は長野県内に少し滞在した後に富山へ戻り、菅沼は先日退院し、富山に戻ったとの事であった。

榊は重傷を負っていたものの意識がしっかりとしており、自宅の近い病院へ転院したとの事。呉葉については……。

「神崎呉葉さんですか?」警察は訝しげに俺を見る。

「確かに一緒にいた筈なんですが……」俺は食い下がって聞く。

「遭難当時、あなた方と一緒に居た大学生のパーティは未だ誰一人見つかっていないので……」警察は申し訳なさそうにそう言った。

呉葉は見つかっていなかった。藤堂をはじめとする大学生の集団も此の事故で行方不明とされていた。

人が去った病室で一人残されて天井を見つめる。登山中に起こった山岳事故。登山ルートから外れた場所で想定外の土石流が発生し、俺たちは其れに巻き込まれた。事件性は皆無。其れが公に発表された『事実』だと言う。

鎮痛剤のお陰で痛みはかなり抑えられていた。思考を巡らせる余裕があるくらいには。

櫻澤村から下山する際に最後に見えたアレが土石流だったのか。

木々を薙ぎ倒して、更に木よりも高く聳え立つ壁。其れが押し迫ってくる。無我夢中で飛び込んだ川。生きたいと何度も願った。

「……流石に生きてはいないか」あの事象にまともに巻き込まれて生きているのならば俺はもっと軽症だったのでは無いかとも思いさえする。

あの時感じたであろう恐怖は既に自分の中になく、記憶を思い返しても出来の悪い映画を見た後の感覚に似ていて、あの現実の中に自分が在ったと言う実感がない。

更に言えば、其の前に体験した櫻澤村や櫻ノ海の記憶すら、何かそういう映画でも見たのでは無いのではという感覚になってくる。

現実感の無い記憶。一週間も意識を失っていた弊害なのかもしれない。今此処にある自分にさえも此れが現実であると実感が持てないのだから。そう考えると、不意に眠気がやってきた。俺は思考する事を手放す事にした。

 


結局、退院するまで意識を取り戻してから四日掛かった。入院中する事がなくてテレビや新聞を読んで過ごしたが連日、土石流発生から何日だとか、行方不明者は依然見つからずだとか自分が当事者と言う以外は普通の報道が為されていた。遭難した人数が多かった為か、捜索は未だに続けられているとの事だ。

そう、自分も当事者だったのだが、終ぞ自分がメディアに囲まれてマイクとカメラを向けられる事はなかった。退院の日、そうした事も想定しながらビクビクして外に出たのだが、穏やかな陽光が燦々と降り注ぎ、夏の匂いが少しだけ混ざった風が吹いてくるという状況だった。

「お。足がついてる。ちゃんと生きてるな」くだらない冗談を高塚が投げかける。

「お陰様で。悪運だけは強くてね」ゆっくりと歩き出す。

「結局、何だったのかね?」高塚が何とも言えない疑問符を宙に投げた。

「其れは俺が聞きたい。大規模な地滑りと其れに因って起きた土石流による遭難事故って」俺は空を仰ぎ見た。ゴールデンウィークも過ぎて、此れから初夏に入る空。

「完全にカムイってか藤堂の殺人は闇の中か。寧ろ、事故に巻き込まれた哀れな大学生ってポジションになってしまった」高塚が肩を竦める。

「そう言うお前こそ、事故で恋人を失った悲劇の青年になったじゃないか」

「煩い。そうせざるを得ない状況じゃないか。多分、俺たちが何を言ったとしても、事故という流れを変えられないだろ。だったら、流れに乗っておけば良いんだよ」尤もらしい事を高塚が言う。

「そうだな。俺が色々話したところで、土石流に巻き込まれた際に強く頭を打って、記憶が混濁しているのでしょうとか言われたからな」淀みのない真剣な眼差しでそう告げる医師の顔を思い出して辟易する。

「俺たちの話の方が突飛で現実的ではないからな」高塚は仕方ないさ、と続ける。

「経験した事実がまるまる世間では一切無かった事にされているっての、なんか気持ちが悪いもんだな」そう言ってからふと、真理が降りてきた気がした。「あ、でも……そうか。俺たちが此の捻じ曲がった『事実』を事実にしておけば良いのか」呉葉の事を思う。

「あん?如何した?皆川」訝しげに高塚が尋ねる。

「いや、俺が櫻澤村に行こうと思ったキッカケだよ。都市伝説ってこうやって生まれるんじゃないかって思ってさ」入院中から少し考えていたのだが、真実の方を都市伝説にしてしまえば、咎隠村ー櫻澤村の事すらも都市伝説にしてしまえるんじゃないかと。

「は?」高塚が何言っているんだお前は?という視線を向けてくる。

「現時点で今回の出来事は山岳事故だったという事が世間では『事実』な訳だろ。其処に当事者である俺たちがアレは事件だったと、そう言って回れば其れが都市伝説のフレーバーになっていくんだろうなって」幽霊の正体見たり枯れ尾花、みたいなモノだな。ぼんやりと考えていた事が突然しっかりとした輪郭を持った。

「ああ。何処かの廃ホテルの都市伝説みたいなものか」高塚は納得してくれた様で、適切な例を上げてくれる。

「そそ。都市伝説では、オーナーがホテルの事務室で首吊った事になっているけど、事実はオーナーは関東の方で普通に生きている、と。まあ、今回の件は完全に事実と都市伝説が逆転しているんだけどね」俺はもう、此の話は終わりだと感じた。多分、誰一人として真実を掘り返す事で良い思いをする人間はいない。

無論、法治国家日本国に住む以上違法行為に関して通報はしなければいけない。でも、通報しても其れが通らなければ、其れ以上、何が出来るというのだろうか。

「……其れじゃ、真っ直ぐ帰るって事で良いか?」高塚が歩き出す。

「問題ない。ってか、悪いね」俺は高塚の肩に凭れ掛かる。

「いつもの事だ。飯くらいは奢れよ?」高塚が肩組をする。

「……へいへい」俺は高塚から肩を解くと、思い切り背伸びをした。未だ未だ痛みはあるものの、幾分かマシになっていた。

 

 

 

それは、深い深い森の中。

 


それは、忘れられた祭壇。

 


それは、血塗られた過去。

 

 

 

あの歌が聞こえてくる様だ。

 

 

 

さくら

さくら

さくらのうみの

おには

いついつでやる

よあけのばんに

おにと

かみが

ちぎった

 

 

 

むっつめは求道の者だった。

自らの起源を探し求める者。

継ぐものに刃を向けられた。

為す術もなく何も分からぬままに逝く。

 


ななつめは殉教の者だった。

己の信じた愛する人の手で。

愛する者に与えんがために。

自らの命を嬉々として贄に差し出した。

 


やっつめは無辜の者だった。

何も知らぬ儘分からぬ儘に。

数合わせの為凶刃に伏した。

其の骸は尊厳を剥ぎ取られ棄てられた。

 


ここのつめは強欲者だった。

自らの欲に駆られ掬われて。

哀れ力及ばず刈り取られた。

身の丈に合わない強欲は御身を滅ぼす。

 


とおでさだめがひとまわり。

己が最愛の者を手に掛ける。

全ては儀式完遂の為と偽り。

士送りの儀として無駄な血を流させる。

 


さむらいさんは去っていく。

さくらの澤から去っていく。

村は山に沈んで消えていく。

櫻ノ海ノ鬼ハ命ヲ賭シテ救世ヲ願ッタ。

 

 

 

先日の土石流に伴う遭難事故の捜索が打ち切られる事になりました。

依然行方がわからなくなっているのは

 


金川 千秋さん 埼玉県(27)

藤堂 朋宏さん 東京都(21)

竹中 徹哉さん 東京都(21)

加藤 愛美さん 千葉県(19)

加持 麗華さん 東京都(19)

神崎 呉葉さん 長野県(23)

 


の六名です。

此の面子の名前がニュースで流れるのは何度目だろうか。正直、辟易してきた。ヘリからの映像がバックで流れている。在り来たりの報道。

俺は何の気無しに画面を眺めていた。被害の酷そうな所をカメラが捉えて、ズームする。焦茶色の泥の間から一本の白百合が生えている。一瞬、其れが見えた気がした。直ぐに映像は別のシーンに移り変わり、刻々と変化を繰り返していく。

其れでも何故か荒れ果てた泥まみれの世界に一本だけ生えた白百合のイメージは網膜に焼き付いて離れない。

何処かで見た事のある其れは。

果たして、其れは百合だったのだろうか。

櫻ノ海 六章

櫻ノ海

 

―陸章―

 

櫻華-オウカ-

 

 

 

 

 

第陸話

 

終極。-そして始まる-。

 

 

ひらりひらりと何処からともなく、雪のように白い櫻の花が一片舞い落ちてきた。それを非常にけだるく視界に捕らえながら竹筒に入った酒の最後の一滴を口内に滴らせた。

 

四日。

 

そう、この森に入ってから四日もの間これと言った獲物もなく、相棒も俺も疲労が限界に来ていた。それでも獲物を獲って帰らなければ一家が飢え死にしてしまう…。

重い腰を上げて生い茂る青櫻の枝葉の隙間から見える青空を見上げた。

 

-先程の何処から櫻の花はどこからやってきたのだろう?

 

ふと疑問が浮かんで消えた。突然相棒が「猪だ」と叫ぶ。俺は地面に転がった弓を掴むと駆け出した。

 

 

ざんざんと木々の枝葉が身体や服に容赦なく当たる。それでも俺は弓を構えて猪に向けて矢を放った。ひゅん、と風を切り矢は猪の後ろ足に命中した。

ザン、と茂みを震わせて猪は体勢を崩し転がる。斜面になった山の中、猪の黒い塊がゴロゴロと転がっていく。見失わないように目を凝らして必死でそれを俺たちは追いかけた。

 

地面に転がったそれは、痛みによるものか突然動かなくなった脚に因るものか、暴れまわり茂みを打ち震えさせた。2尺はあろうかという大物だ。ここの山の主かもしれない。

久し振りの獲物に心臓はドクドクと高鳴っている。相棒が遅れてやってきてなにやら大はしゃぎをしている。俺は相棒を微笑ましく眺めると、腰に縛りつけた手斧を解き、頭上高く掲げ…。

 

 

振り下ろした。

 

 

一際、『おと』が大きく響き、静寂が訪れた。

 

 

静寂を破って「やったな」髭面をくしゃくしゃにして相棒が俺の肩を叩いた。

「ああ」俺はぐっと力を込めると猪の首から斧を引き抜いた。血糊がべっとりと地面に這いずり出して、そして消えた。

血を抜き、手頃な枝を斧で切り落とすと、猪の四肢を縛り上げた。これだけあれば半月は食い繋げるだろう、と相棒が笑った。そうだな、と俺は適当に相槌を打っておいた。

 

 

 

―四日。

 

たった四日の距離を俺達は彷徨い歩いた。森は開ける様相もなく、ただ深淵の闇をその身に湛えて俺達の前に立ちはだかるのである。

 

猪を獲ってから七日目ようやく、見知らぬ村に辿り着いた。その時には猪の半分は無くなっていた。

「こんなに深い森の中に村があるとは」相棒は信じられないようなものでも見る目で村の全容を見渡した。それにつられて俺も同じようにして開けた視界を確かめるようにして見た。

それは長閑で、今まで俺たちが越えてきた山の不気味な雰囲気など一つもないきれいな世界だった。そして、桜の木がたくさん植えてあることに気付く。

 

 

「どうされたかな?」不意に声を掛けられ、声の主のほうを見る。畑仕事をしている好々爺が俺たちを不思議そうに見ていた。まるで、自分の村に戻ってきたような錯覚に惑わされてしまうが、俺たちの村にこんなに桜の木はない。

「道に迷ってしまいまして…」相棒が好々爺の質問に答えた。

「…それは難儀じゃったな。迷ったとはいえこの村までやってこられたのは何かの縁じゃろう」ほっほっほ…と一際高く笑うと、好々爺は「ついてきなされ」と鍬を畑に突き立てて、俺達に手招きをする。

俺と相棒は顔を見合わせてどうしようか、と戸惑ったが、好々爺はそんな俺たちに構わずすたすたと歩き出してしまった。俺と相棒はもう一度、顔を見合わせてから、意を決して好々爺の後を追いかけた。

 

 

どうやらこの邑は【櫻澤邑】と呼ばれているらしく、【戸隠山】山中の奥深い所に位置しているらしい。

好々爺は「よくもまぁこんな辺鄙な村に辿り着いたものだ」と笑っていた。

それにしてもこの邑は俗世から隔離されたような感覚を覚える。修験者たちも寄り付かないらしいこの邑に運がいいのか悪いのか俺たちは獲物を求めるうちに山を一つ越えて迷い込んでしまった。

暫く歩いた先にある翁の家に案内され、酒を振舞われた。濁醪じゃよ、と翁は笑ったが、今まで飲んできたどんな酒よりもそれは美味く、俺達は酔い落ちていった。

 

 

日もとっぷりと暮れた頃、妙な物音に目を覚ます。

自分が何処に居るのか解らなくなり、少し慌てるが、隣で眠る相棒の顔を見て翁の家に招かれた事を思い出し、身を起こす。春とは言え山中の村だ、非常に冷え込みが激しく、俺は囲炉裏のほうへ這って進む。未だ囲炉裏には火が燻っており、それなりの暖を取れそうであった。

そう言えばあの物音が何処から聞えてきたのだろうと、ぶすぶすと燻る火を見つめながら思った。

 

 

ずるずると何かを引き摺る音。

 

ずるずると何かを啜る音

 

ずるずると何かを…。

 

 

暗闇に目が慣れ、俺は翁が居ない事に気付く。軽く頭を振ると、芯のほうに思い痛みを感じた。酒にのまれていつもよりも思い身体を引き摺り起こして立ち上がり漏れる星明りを頼りに、窓まで不安定な足取りで歩く。

燦の隙間から外を覗き見た。暗闇に満たされたそこはただ真っ黒で、のっぺりとしていた。

しばらくその風景を眺めていると、ずるずる、とまたあの音が聞えてくる。何事かと音のする暗闇をじっと見つめるが何も可笑しなところはない。なんだろうと思っているうちに音が此方に近付いてくるではないか。

俺は怖くなって窓から離れると相棒の隣に寝転び、息を殺して音が過ぎ去るのを待つことにした。

 

 

ずるずる。

 

ずるずる。

 

ずるずる。

 

 

 

 

ガタン。

 

 

引き戸がガタガタと鳴って、板戸が開けられる。冷気が流れ込んできて身体に纏わりつく。

『笑顔の張り付いた』翁がずるずると何かを背負って戻ってきたようだった。声を掛けようか、掛けまいか迷ったが、俺は敢えて声を掛けることにした。

「やぁ、翁。こんな夜更けに何事かな?」俺は目を擦りながら、出来るだけにこやかに笑いながら声を掛けた。

「これはこれは、起こしてしまいましたかの。お客人に申し訳ない事をしてしまった」翁は能面のように『張り付いた』笑顔を崩さずに答えた。

 「朝餉の用意をして居ったのじゃよ」そう言うと背負っていた麻袋の中から幾つかの野菜を取り出して見せた。

「そうでしたか、お手伝い致しましょうか」俺は起き上がると、相棒を起こさないようにして土間のほうに向かった。

火を起こして竈(かまど)にくべ、鞴(ふいご)で煽る。半刻位そうやって台所の準備をした。うっすらと辺りが明るくなり始めたのを感じて顔を上げる。朝日が今にも山頂から顔を出そうとしているのが見て取れた。

一刻経つ頃には窓から朝日が差し込み、家の中でもはっきりと相手の顔が見えるくらいに明るくなった。

朝餉の準備を調えて、2里ほど歩いたところにある井戸から水を組み、翁の家に戻る。ほとんど言葉を交わす事無く俺と翁は黙々と仕事を続けた。

朝餉の準備が出来たので相棒を起こし、自分たちで作った朝餉を頂く。

それから畑仕事を少し手伝い、一宿一飯の恩を返す。そろそろ起とうと挨拶をし、村の出口まで案内してもらった時、突然天候か崩れ大荒れになる。

翁は張り付いた笑顔で「こりゃぁ、あかんな」と空を見上げたのだった。

 

 

 

 

ぼうっと、闇に櫻の樹が浮かび上がる。

 

その櫻の美しいこと美しいこと。

 

枝垂れたその櫻の華は艶やかに桜色に染まり、人の心を奪うようだった。

 

ゆっくりと歩を進める。

 

櫻に妖力でもあるのだろうか、妙に興奮してならない。

 

ゆっくりと視界が櫻色に埋め尽くされていく。

 

まるで彼岸のようだ。

 

ゆっくりとゆっくりと一歩一歩を踏み出していく。

 

櫻の香りが鼻腔を突く。

 

くらり、と頭が白む。

 

濃厚な香り。

 

気付けば目の前に櫻の華がある。

 

櫻の枝がある。

 

視界は薄紅色に。

 

視界は櫻色に。

 

視界は…。

 

 

 

 

思えば妙な夢だった。

夢であるにも関わらず匂いがあり、感触が在った。俺は幾日目になるだろうか、翁の家で目を覚ました。

外は未だ大荒れの天気だ。この邑はまだ櫻は咲いていないのだろうか?ふと、夢の出来事を思い出す。

 

「翁や、この邑で一番の櫻の樹は何処に在るんだい?」俺は草鞋を編みながら、それとなく翁に尋ねた。

翁はなんの躊躇いもなく「それは【櫻の森】の社の大櫻だな。煉獄櫻とも言われている」と窓から見える山野の方を指差して「あそこから行けるのだよ」と俺に教えてくれた。

「【櫻の森】?」俺は翁の指差すほうをぼうっと見て呟くように尋ねた。

「ああ、いつからかそう呼ばれているんじゃよ」翁は煙管に葉を詰めて火を点けた。煙草の香ばしい香りが立ち込める。

「それにしても煉獄櫻と言うと、妙におどろおどろしいな」俺は雨に煙る風景の向こう側にある櫻を思い浮かべた。

 

ふと、我に返り相棒を見れば、囲炉裏の火をじっと見つめなにやらぶつぶつと呟いている。ここ数日、相棒はそうやって天候が回復するのを待っていた。呪いでも唱えているのかもしれない。

「翁、そう言えば他の連中を見かけないのだが、この邑は翁一人なのかい?」俺は毎朝翁が用意してくれる朝餉の味噌汁を啜りながら尋ねた。

「ああ、この時季はみんな【櫻澤祀】の準備をしているじゃ。【櫻の森】に行けば邑の衆にも会えるはずだ」翁は飯を口に含むともそもそと口を動かした。

「毎日草鞋編みばかりでは身体が鈍ってしまう。後でその【櫻の森】とやらにいってみるとしよう。良いかな、翁?」俺は朝餉を平らげると翁に尋ねた。

「ふむ、おぬしであれば良かろうて。この麻袋を持っていくといい」そう言うと翁はあの晩背負っていた麻袋を俺に差し出した。

「ありがとう、これは?」俺は麻袋を覗き込んだり、引っ繰り返したりしてみたが、極普通の薄汚れた麻袋に違いなかった。

「通行手形みたいなものじゃよ。帰りに野菜も貰ってきておくれ」翁はそう言うと囲炉裏に薪をくべ、横になって眠ってしまった。

俺は支度を済ませると、一応相棒に出かけるか尋ねた後、櫻の森に向かった。

 

 

外に出ると連日降り続いた雨の所為か、ねっとりと湿気が身体に纏わり付く。雨はシトシトと降り続いていて、足元はぬかるんでいた。くすんだように生気のない風景の中を俺は一人【櫻の森】に向かって歩く。

邑の中に転々とある樹がよくよく見れば全て葉桜であった。

まばらに立った家屋の数からして五十人程度の人間が住んでいる村だろう。俺の村から比べれば少し小さいと言った程度か。

しばらく歩くと、石に櫻社と掘られた石柱を見つける。そこから先はうっそうと茂った木々が在り、木々の間を縫うように獣道のような申し訳程度の道がクネクネと山頂を目指すように続いているのが見えた。

道を進むことを躊躇うが、ここまで来た以上は行くしかないと覚悟を決め、歩を進めていく。何度か泥濘に足をとられて転びかけるが、それでも俺は櫻の杜の社を目指す。

途中から砂利が撒かれ、歩きやすい道になる。但し、草鞋と足の間に砂利が転がり込んだ時の痛さは涙が出るほどだ。

どれくらい歩き続けただろうか、人の話し声が聞え始める。

 

-社は近いのだろうか?

 

俺は若干歩を早めて、掛けるようにして社を目指した。

唐突に視界が開け、人々が現れる。ざわめきが一瞬大きくなり、それから静寂に変わる。突然の来訪者に村人の視線が一斉に突き刺さる。視線だけならまだマシなところ、男共が各々手近に在った桑や鎌、鉈に斧等の獲物を構える。

「あ、待って。この人」その声に皆振り返る。獲物を構えた男共の中の一人が「どうした?」と声の主を急かす。

「持っているの、その麻袋」と右肩にかけて持った麻袋を指して言った。

「ん?おお、与一の翁の麻袋だな」一番近くに居た男が俺の肩にかかった麻袋を手に取るとそっと尋ねた。

「ああ、村外れの爺さんから預かった麻袋だ」俺はしどろもどろで答えた。

「…それならば歓迎しよう」男の一声に、それまで恐ろしい形相をしていた連中が皆一斉に笑顔を貼り付けると俺を社まで案内してくれた。

 

その社は非常に古く、いつの時代から在るものかと尋ねても皆、『知らない』と首を横に振る。社の中はきれいに整頓されており、奥まったところに書簡がいくつか詰まれていた。その中の一通を手にとって開いてみる。

書いてある文字は幸い俺の知識の範囲の中で解読できる程度のもので、内容を紐解くと、祀られているのは【櫻緋比売】(おうひのひめ)と呼ばれる櫻の神様で、建久元年にこの社が建てられ、そのときに奉納されたものがこの古文書と言うことらしい。

鎌倉の時代か…。昔、親父から習った歴史を思い出してみる。

「大昔の出来事だな」俺は呟き、その書簡を畳んで、括った。それからもとあった位置に戻し、他の書簡を手に取った。

「あんた、それが読めるのかい?」巫女の格好をした女が手に持った書簡を指して尋ねた。よく見れば、その女は先ほど殺気立った邑の連中に待ったをかけた女だった。

「ああ、昔、おっとうから読み書きを習ったからな」俺は手に取った書簡を元在った場所に置くと、櫻緋比売の彫像に手を合わせた。

「へぇ、あたしも長老に教わろうかね」屈託なく笑うその女は他の村人とは異質に思えて仕方なかった。

「教わってみると良いよ。さて、俺も皆の手伝いをさせてもらおうかな」そう言うと俺は神楽を舞う為に組んでいると言う、櫓組みを手伝う為に社の外に出た。

 

凛とした空気がそこには在って、自分の立っている場所が聖域である事を思い知らされる。大きく息を吸い込むと目を瞑り、静かに吐き出した。神が我が身に宿ったような錯覚をおぼえた。

 

櫓を組む為に用意された木材はどこから用意してきたのだろうか、非常に材質が良く、高値で取引できそうなものであった。

それを担ぐと、社を囲むように配置された六つの土台に運ぶ。十尺程の高さにまで組み上げていく。

雨が小降りになり、作業がしやすくなると、何処で雨宿りをしていたのだろうか、村人が集まってくる。俺もそんなみんなの中に混じって黙々と櫓を組む。

 

湿った木材の匂い、土の匂い。

そう言えば畑仕事なんてどれだけやっていないんだろうか?両手にこびり付いた土の色を見つめた。

 

結局、二基の櫓を立て、その日は酒盛りになった。この酒盛りも祭りの一部らしい。【櫻澤祀】まであと六日。それまでに櫓を後七基立てなければいけないらしい。この雨で作業は遅れているとの事だった。

「それなら、俺も手伝ってやるよ」無意識について出た言葉が俺を誘う。

「それはありがたいのぅ。明日もお天道様が昇りそうもないから、手伝ってもらえないものかな?」少し貫禄のある男が俺の杯に酒を注ぎながら言った。

「わかった。明日も来よう。おっと、そろそろ日も暮れる、翁のところに戻らねば」俺はそう言うと麻袋を持って立ち上がった。

「おうおう、気を付けて行きなされ。行きは良い良い、帰りは怖い…だからのぅ。ほれ、これを持っていくといい」そう言うと男は麻袋に野菜を詰め込んでくれた。

「かたじけない。それではまた明日…」俺はそう言うと暗く濁った世界に実を投じた。

 

雨は昼間に比べて強くなっており、雨粒が身体に当たると痛いくらいだった。それでも、俺は山道を駆け下りる。足元の道はもちろんぬかるんでいて、何度も転びそうになるが、獲物を追いかけて駆け抜ける山野に比べればまだまだましなものだ。半刻かけて帰り着いた翁の家では翁が夕食の準備をして俺を待っていてくれた。

 

「どうじゃった?」翁はすっかりと白くなった髭を撫でながら尋ねた。

「明日も手伝いに行く事になりました。翁、宜しいでしょうか?」俺は何故か翁に伺いを立てた。

「構わんぞ、おぬしの相方もほれ、草鞋を巧く編めるようになってきたわい」翁は嬉しそうに一角に積み上げられた草鞋を見て、目を細めた。相棒に声をかけようと思ったが、既に横になっていて高鼾をかいていた。

翁と夕食を食べ、眠りに落ちる。こんな日々が当たり前に成りつつあった。

 

 

 

 

随分と前から、妙な頭痛が続いていた。そして、全身を覆うように停滞する倦怠感。いよいよこの身体も終わりなのかもしれない。手を伸ばせば届きそうなくらいに空が近い場所。そこで終わりを迎えようとしている。何故こんなところに居るのだろうか?疑問符が浮かんで消える。

 

-一体、どれ位の間、ここに留まっているのだろう。

 

痩せ細ってしまった自分の左手首を右手で掴んでみた。指と手首との間に出来た空洞が気持ち悪いほどに大きく開いてしまう。そして、ぜぃぜぃと言う自分の呼吸音がやけに耳に付くのだ。

本当にこのもう、何の役にも立たないであろう手を伸ばせば空に散った星を掴めそうな、そんな錯覚を憶えて両手を精一杯に伸ばした。星は掴めるわけもなく虚しく両手は空を切った。

 

村祭りは無事に終わったのだろうか?だとしたら、今年は豊作だと良いな。おとんも、おかんも優しく成ってくれるかもしれない。そんなことを考えていたら視界が涙で滲んだ。叶うことの無い願いだと知っているから。

 

ぜぃぜぃ…肺が焼けた針で突き刺されたように痛む。さっきよりも視界が朧になって星だかなんだかわからなくなる。ゲホ、ゲホッ…鉄の味が口の中を満たす。嗚呼、どうして。

 

どうして。

 

どうして。

 

どうして。

 

どうして…。

 

どうして、こんなにも苦しいのだろう。

 

 

 

 

櫓の上には白拍子。鼓の音と、笛の音と、櫻の木々のざわめきが一つになって呪詛を練り上げていく。

 

【櫻澤祀】-【地蔵憑き】の儀が始まった。

 

白拍子を舞う女はこの間から俺に話しかけてくる気さくな女だった。今は般若の面を着けているので表情はわからないが、醸し出す雰囲気からして相当に真剣な顔をしている事だろう。

女が天に向かって扇を翳した(かざした)。鼓と笛が止み、木々のざわめきだけが残る。

「紅葉様。【地蔵憑き】の儀を執り行います」恭しく翁が紅葉様と呼んだ白拍子の女に頭を下げると、俺に「さあ!」と声を掛けた。

俺は前日に打ち合わせた通り棺に入った地蔵を担ぎ上げる。そして、それを櫓の上まで運ぶのだ。連日の雨でぬかるんだ地面に草鞋ごと足が沈み込む。一体どれくらいの重さのものを俺は担いでいるのだろうか?

一歩一歩、櫓に続く道を踏み締める。担いだ地蔵が意志を持っているかのように重くのしかかってくる。腕が痺れ始め、間接が悲鳴を上げる。

漸く俺は梯子の前に辿り着いた。見上げる櫓はやけに大きく聳え立っていた。ここから先足だけで不安定な梯子を上らなくてはいけないらしい。俺はその貧弱に構える梯子に足をかけた。ギシィと嫌な軋みをたて梯子は反った。

「何をしている?早く上がって来い」いつもの温厚な翁の顔はそこに無く、儀式を取り持つ神官としての役目を担った悪鬼羅刹の顔をした老人がそこに居た。俺は一歩一歩を踏み締めながら櫓の天辺を目指す。

ギシ、ギシ、ギシ…俺の踏み込んだ段の梯子が歪み、厭な音を出す。それでも俺は歩を休めずに一歩一歩を踏み込む。漸く、翁の足元と白拍子の女の姿が見える。あと少しだ。既に肩や腕の感覚は無くどうしようもなく重たい丸太二つを身体全体で抱えているような錯覚を覚える。

一歩一歩が妙に長く感じる。重さに耐えられなくなりそうだ。でも、何とか力を振り絞り櫓の上に立った。

「そこに置け」翁が白拍子の女の前に建てられた祭壇を指して言った。俺は翁に従い、棺を祭壇に置いた。

「紅葉様、このものに御霊は篭っていましょうや?」通る声で翁が問う。

「否、蛻(もぬけ)の殻じゃ」怒りに満ちた声で白拍子の女は答える。

「このものに御霊を篭めましょうや?」翁は若干声を押し殺して問う。

「贄を、このものに篭める御霊の主をここへ!」髪を振り翳し、扇を煽って白拍子の女は叫んだ。村人たちがざわざわと騒ぎ出す。

「今年の贄は誰だ!」翁が叫ぶ。ざわめきが一際大きくなり「あ、逃げたぞ」と誰かの叫ぶ声。見下ろせば確かに誰かが背を向けて山裾のほうに駆け出していくのが見えた。

「追え!追うんだ!紅葉様の…【地蔵憑き】の儀式を止めた報いは大きいぞ!」翁が真下に居た神崎家の党首に指示を出した。

「逃げたのは今年の贄の神谷の家の須惠じゃ!神谷のものよ、お前たちの一家で捕まえここに連れて来い!さもなくば、邑の掟で…」掟と言う言葉を聞いて神谷の家のものの顔色が変わる。

「榊様、他のものは?」神崎が翁に尋ねる。

「神堂家、神尾家、神居家、神塚家、神田家は神谷を追え!捕らえた家は今後、神谷家と入れ替えて地蔵守として迎えよう!」翁はそう叫ぶと俺と白拍子の女に向き直った。「見苦しいところを見せてしまったな」翁はそう言うと俺の肩を叩いた。

「どうなさるおつもりです?」白拍子の女はひどく不機嫌そうに翁に尋ねた。

「神谷の女は勿論、贄として差し上げましょう。加えて、神谷の女の中でももっと若い多恵も贄として差し上げましょうぞ」翁はそう言うと恭しく女に一礼をした。

「承知した」女は酷く冷たい声でそう言うと祭壇の前に置かれた棺を愛おしそうに眺めて、再び舞を始めるのだ。俺は雨風の中で揺ら揺らと揺れる白拍子に見とれていた。

 

さくら

さくら

さくらのうみの

おには

いついつでやる

よあけのばんに

おにと

かみが

ちぎった

 

白拍子の女の透き通る声が歌い上げる悲しい唄。それを何度も繰り返し歌うのだ。聞きなれてくるうちに疑問が浮かぶ。

 

櫻ノ海の鬼って何だ?

鬼と神が千切るって?

 

「これは何の儀式だ?」思ったことが口から零れてしまった。拙いと思ったときには既に遅く、翁が俺の隣に立っていた。

「夢枕に立たれた紅葉様が教えてくださった、この村を災厄から守るための儀式じゃよ。【地蔵憑き】。紅葉様のお姿を地蔵にし、地蔵を作ったものの家から地蔵に成るための儀式なのじゃよ」翁の顔には狂気とも恍惚ともつかない表情があり、俺は背筋が寒くなるのを覚えた。

「そしてのう、今年は特別な年なのじゃよ。先祖の代から執り行ってきたこの【地蔵憑き】の儀式も各家が十回ずつ持ちまわったのじゃ…」翁は目を細めて言った。

「これで【地蔵憑き】は終わるのじゃよ。これで我々にも平穏が訪れる」妙に柔らかい笑顔になって翁は空を見上げた。

 

 

暫くしてから逃げ出した女とその妹が櫓の上に連れてこられた。逃げた女は二十歳も済んだ頃合か、肌蹴た胸元が雨に濡れ、妙に艶かしい。妹のほうは年端も行かない娘だった。二人は後ろ手に縛られていたが、翁の命で俺がその縄を解く。姉のほうは錯乱し、猿轡された口からなにやらモゴモゴと叫び続けていた。妹のほうは既に諦めているのだろうか、抵抗一つせずにまっすぐに祭壇と棺を見つめているように見えた。

「【地蔵憑き】の儀を再開する」翁は櫓の下に集まった人々に叫んだ。

 

鼓と太鼓と女の唄と風と雨と木々のざわめきと人々のどよめき。

 

その一つ一つが吸い込まれていくように祭壇に置かれた棺の窓は暗く深いのだ。半刻ほど舞を踊り、白拍子の女はようやく静かになった姉の前に仁王立ちに立つ。どこから用意したのか、その右手には扇はなく、とても不恰好な斧とも鉈ともつかないものが握られていた。

「~~~~~~~~~~~~~~~~~」

なにやら経のようなものを唱えて白拍子の女は鉈を静かに掲げた。そして、かすかにその先端が揺れたかと思うと神谷の姉を袈裟斬りにした。

雨風の中に血飛沫は舞い、白装束に禍々しい赤い斑点を残した。妹はただ祈るように手を合わせ、ガタガタと震えていた。

「秘薬をここへ」白拍子の女が翁に静かに命じた。

「…はい」翁は女の命を受けると、既にその秘薬を持っていたらしく懐から紙に包まれた何かを手渡した。

「神谷の女、そなたの姉は紅葉様を裏切り、邑を裏切った。その罪は重く、そして深い。そなたの家の悪徳を雪ぐにはそなたにこれを飲んでもらう」女は妹の口を無理矢理抉じ開けるとそれを注いだ。

「う…、げほっ、げほ…」粉薬を注ぎ込まれて妹は咽るが、女は構うことなく最後まで薬を注ぎ続けた。

妹は白目を剥き、だらしなく緩んだ口角からは薬と唾液の入り混じったものが垂れ落ちている。なんとも怖気のある光景だろう。

「【地蔵憑き】の儀はこれにて終わった。今年も災いなく平穏が邑に訪れるであろう」翁は痙攣を起こす妹を横目に、櫓の下に向かって叫んだ。

白拍子の女は静かに妹の傍に屈み込むと妹を抱き上げた。

「約束通り、この娘は…」そう言うと櫓の梯子をゆっくりと降り、彼女は俺と翁の視界から完全に消え去った。

「翁…」俺はただ、そう呟くしかできなかった。

 

 

幾日が経ったのだろう?

相棒は今日も山に出かけている。俺は天井を見ていることしかできなくなってから、どれくらい経ったのだろうか?

軽く拳を作ろうとして右手に力を入れるが手の感覚がない。これはどういう事なのだろう?

ガラガラと引き戸が開き、見知らぬ女が入ってきた。ひたひたと妙に耳につく足音でその女は俺の枕元に跪いた。

「…お前は?」俺は何とか言葉を振り絞り尋ねた。

「解き放ってあげるわ」女はそう言うと懐から何かを取り出した。

 

 

熱い。

 

灼けるように熱いのだ。

 

俺の胸が熱いのだ。

 

ああ。

 

 

 

 

それは、深い深い森の中。

 

それは、忘れられた祭壇。

 

それは、血塗られた過去。

 

 

この三連句を何処で聞いたのか、既に記憶が薄れてしまっている。

 

「…世界を呪って逝くといい」冷たい言葉が頭の上から落ちてきた。

「どうして、あたしが!」天に唾を吐きかけるように、それは虚しい行為だとわかっていた。わかっていたが、そうしないと気が済まなかった。あたしはじたばたともがいて見せた。

クスっと笑い声が聞こえ「…どうして?自分の血に訊ねればいい」人を馬鹿にするようなその声はどこかで聞いた声だった。記憶を辿るが思い出せない。胸に何か尖ったものが押し当てられる。

何の冗談だろう?

あたしの皮膚はその冷たく尖ったモノが痛いと悲鳴を上げている。痛みは鼓動に合わせるようにして一定感覚であたしの痛覚を刺激し続けている。ゆっくりと生暖かい何かがあたしの身体を伝ってくる。

「ほら、教えてくれない?」耳元で囁いたその声は酷くざらついていた。

酷い痛みがやってきて。

酷く苦しくなって。

もがいて、暴れて、そして真っ暗になった。

 

 

「脆いものね」もう、動かなくなったそれは涙と涎と鼻水と、その他諸々を垂れ流して転がっていた。思ったよりも事はうまく進んでいる。手にしたアイスピックからぽたりと、赤い汁が床に滴った。

 

地蔵守は未だに続いている。

あのときの過ちを償う為に。

 

はじめのひとつは男だった。

この神域を侵した愚かな男。

神罰は下され男は無に帰る。

愚かな男は何もわからないまま逝った。

(過去-翁の家に閉じ込められた相方)

 

ふたつめは退屈な女だった。

不届きにも神事を侵した女。

鉄槌を受けて女は事切れた。

あやつり人形は糸を切られ棄てられた。

(過去-神谷 須惠)

 

みっつめは不幸な女だった。

家族の汚名を晴らすために。

無駄に短い命を削り取られ。

星空に手を伸ばし思いを馳せて散った。

(過去-神谷 多恵)

 

動かなくなったそれを蹴ってみる。弾力の無くなったサッカーボールのように、鈍く爪先を飲み込む。地獄のような現実から抜け出せて良かったね。不愉快に虚ろな眼をしたそれをもう一度蹴りつけた。

 

 

「これは儀式なのだ」血の臭いの密度が増した小屋の中で呟く。

 

-なんて言ったっけ?

 

これらふたつのヒトカタの名前。確かに自己紹介をしたはずなんだけどな。もう、思い出せないや。

暫く煙草を吸ったり、お茶を飲んだりして気持ちを落ち着かせていたがどうにも鼓動が収まらないのだ。

小屋の片隅に置かれた一際大きなビニールの買い物袋。その中から新品のゴム手袋を取り出した。マスクも在ったほうが良いかもしれない。花粉症用のマスクを取り出して装着する。ゴム手袋をし、一緒に買っておいた雨合羽を着込む。一見すれば非常に怪しいのかもしれないが、こんなところにこれる人間なんて先ず居ないのだから。

若干覚束ない足取りで先日動かなくなったほうに近付いた。恐怖の張り付いたその顔を見下ろす。眼はもう乾いて窪んでいた。視点は定まっていない。足元に転がった鋸を手に取るとそれの首の部分に宛がった。そして、少しずつ力を込めていく。

最初はプツリと、それからぐちゃぐちゃと、そしてゴリゴリと。やがてゴトンと音を立ててそれはボーリングの玉のように床に転がった。

同じ要領で腕と足を分解する。それから腕と足をひとまとめにしてゴミ袋に放り込んだ。頭と胴体は引き摺って外に放り出す。

失敗した、と若干後悔する。やはりこれらを運ぶには無理がある。分解してみたものの頭だけでもかなりの重量があり、これらのパーツを櫻ノ海まで運ぶにはかなりの手間がかかってしまう。頭だけ持っていくことにしよう。小屋に戻りスーパー袋の中から安物のリュックサックを取り出すと頭を突っ込んだ。宵のうちに櫻ノ海に置いてこれば連中に気付かれる事も無いだろう。

後は窓の外にだらしなく放り出された胴体をどこか目立たないところに置いておかなければ。運ぶ気力も失われていたので、茂みの後ろに蹴り転がして小屋に戻った。相変わらずの血液の臭いと少しの腐敗臭。スーパー袋の中からファブリーズを取り出すと部屋中に撒布した。

 

あと一人。

あと一人で儀式は完遂される。

長かった。

これで救われるのだろう。

たましいが。

 

よっつめはただ受け入れた。

運命をしきたりを享受した。

神刃は深く鋭く切り裂いた。

運命の歯車が厳かに廻りはじめたのだ。

(過去-翁の家に迷い込んだ猟師)

 

いつつめは悲しきさだめに。

ただただ愛するものを追う。

幼い魂を託すと穏かに逝く。

来世を信じただもう一度廻り逢う為に。

(過去-白拍子の女)

 

そして狂気は現代へ持ち越された。

 

 

 

 

「しかし、皆川」三枝が俺の後ろから言葉を投げかけた。

「何だよ?」俺は息を切らしながら次の一歩を踏み出した。

「二人で大丈夫なのか?」不安そうな声を出すな、そんな事わかってる。

「いや、ダメだろ」俺はあっさりはっきりとそう言い切った。

「ダメって、お前…」嘆息しつつ、俺の後を追いかけてくる。

「アレだ、『男には負けるとわかっていても闘わなければいけないときがあるんだ』」俺は冗談交じりにそう言うと最後の一歩を踏んだ。

「あのなぁ、そんな宇宙海賊…」と言いながら俺の隣に並ぶ三枝。

「相変わらず厭な雰囲気が漂ってるな」俺は桜の樹に埋め尽くされた其処を指して言った。四分咲きくらいだったはずの桜はいつの間にか八分咲きほどになっていて薄紅色が視界を満たしている。

「皆川、アレ!」三枝が俺の肩を揺さぶって指差す方向に二つのヒトカタが見えた。

「…千秋と真夜ちゃんか」俺は二人の姿を確認する。濃厚な朝霧の向こうに見覚えのある服装。間違いなく千秋と真夜だ。

「行こう、皆川」言い終わるよりも早く三枝が駆け出す。

「ちょっ、枝さん!?」俺は三枝の背中を追いかける。結構な勢いで坂道を駆け下りてきたので肺が痛い。鼓動に合わせてジクジクと鈍痛が広がる。それでも歯を食い縛り歩を進める。

「真夜!」三枝が二人の前に飛び込んだ。

「あら、早かったわね」まるで俺たちが来る事を見越していたかのように千秋はにっこりと笑顔を作って見せた。

「…なんだと?」俺は三枝を除けると一歩千秋に近付く。

「この娘で最後なのよ」手には包丁。それを危なげに持っている。

「最後?何のことだ、千秋ちゃん」三枝が叫ぶ。

「貴方たちには関係のない事よ」そう言うと包丁を持った手を構える。俺は千秋と間合いを取りながらジリジリと真夜に近付く。近くで見る真夜は惚けたような表情をして突っ立っていた。

「関係ないってのは頂けないな?此処まで巻き込まれちまったんだ。この精神的苦痛、どうオトシマエつけてくれるんだ?」俺は千秋と真夜の間に入り千秋を睨み付けた。

「知らないわよ、そんな事。邪魔するなら排除するわよ」低く構え、千秋が猫が獲物を狙うように俺を睨み付けた。

「やれるものならやってみればいい」内心とは裏腹に余裕たっぷりの台詞を吐いてみた。

 

「後悔させてあげるわ」

 

ひゅ、と風を切る音と共に千秋が間合いを詰めてくる。手に持った包丁を大振りで振り下ろした。

俺は後退してそれを避けた。刃物を持った相手に対してってどうやってやりあえばいいんだっけ?

ふと、昔読んだ漫画を思い出す。こんな時に漫画かよ…自分の思考のチープさに苦笑しながら俺は構える。

「皆川っ…」三枝が心配そうな顔をして俺の名を呼ぶ。悪いが、そっちに構っている余裕など無さそうだ。

「枝さん、真夜ちゃんを連れて行け。少しだけ、こいつを足止めする」俺は地面の土を千秋に向って蹴り上げた。少量ながら顔面に到達したらしく、千秋は土を振り払う。

「真夜ッ、真夜、行くぞ!」まやを三枝は呆けた表情をしたままの真夜の手を取るとのろのろと歩き出す。

「馬鹿、おぶっていけ!」俺は三枝に向って叫ぶ。

「あ、ああ」そう言うと三枝は真夜を背負って歩き出した。後は俺がこいつを何処まで引き付けられるか…。

「あ…」

千秋が俺を無視して三枝に向って躍りかかる。そりゃそうだよな…。

俺はそんな千秋の背中目掛けて走る。もう少しで手が届く位置を追いつけない。千秋が包丁を振り翳し、無防備な真夜の背中に突き立てようとしている。

「こんちくしょう!」俺は地面を蹴り跳躍する。

風を切る。

音が無くなる。

見えているのは千秋の背中。

左足を曲げ、膝を突き出し、その背中に叩き込む。

ドン、と柔らかい肉に膝がめり込む衝撃。「ぐっ」少なくとも女性の上げる悲鳴ではない何かを吐き出して千秋は体勢を崩し前のめりによろけた。俺はそのまま慣性の法則と地球の引力に身を任せ千秋諸共地面に倒れこんだ。

どこか懐かしい土の匂いが鼻腔をくすぐる。俺は上半身を起こし、俺の下敷きになった千秋の背中に肘を落とした。

鈍い感触が肘を伝う。そして「ぐぅ」と言う肺と声帯を空気が抜け出る音。それでも、この女は手に持った包丁を離そうとしない。

俺は転がっていた手頃な石を掴むと、包丁を持つ右手の甲に叩き付けた。

ゴッ、ゴッ、ゴッ…。

三度叩き付けてようやく包丁を手放した。

「…ッ。はぁ…はぁ……」俺は包丁を拾うとダーツの要領で数メートル離れた櫻の樹に投げつけた。コン、と乾いた音を立てて、包丁は樹に突き刺さった。

「なんて事をするのよ…」千秋は右手を擦りながら俺を見上げた。

「武器は無いだろ、武器は」俺はそう言うとポケットから煙草を取り出した。

「どうしてくれるのよ、あの娘で最後だったのに…」千秋は憎々しげに俺を睨み付ける。千秋の事情なんて俺の知った事ではない。

「ええと、何だ。今までの大学生どもはお前の仕業なわけか?」俺は千秋から視線を逸らすと尋ねた。

「さぁね。そんな事…貴方に話しても意味無いじゃない」千秋はゆっくりと立ち上がる。俺の下敷きになって地面に直に倒れこんだ所為か服は泥だらけだった。泥も払わずに千秋はゆっくりと視線を俺に向ける。

「千秋ちゃんにとって意味が無いかもしれないけど、俺にとってはとても重要なわけさ。聞かせてもらえるよね、『全部』」俺はそう言うと千秋に近付く。

千秋の目は相変わらず憎しみを湛えている。その強張った顔が一瞬緩み、口元を吊り上げて千秋が笑った。

「あはははははは、皆川君。本当、君って良いキャラクターだわ。こーくんの言う通りね」一体、高塚と千秋の間でどんな会話があったのか想像する気力も沸いてこないが、大体の察しは付く、千秋の言葉を無視して俺は煙草をふかした。

「怖い顔しないでよ…」わざとらしい怯えた声で千秋は一歩後ずさった。俺はその一歩を詰める。

「…ねぇ、皆川君。もし、こうしているあたしの他に誰かが三枝君を狙っているとしたら?」千秋が不敵な笑みを浮かべる。コレは陽動だろうか?俺は千秋の意図を読みかねていた。

「どういう事かな?千秋ちゃん以外にもやっぱり誰か協力者が居るっていう事かな?」俺はできるだけ柔らかい言葉で尋ねる。『協力者』と言う部分にアクセントを置いてみたが、千秋の表情はピクリとも動かなかった。

「協力者、かぁ…どうなのかな」千秋は人差し指を唇に当てて考える振りをする。その態度が妙に様になっていて、高塚じゃなくても惚れるんじゃないか?とか思ってしまう。

「で、どうするのかな。み、な、が、わ、く、ん?」千秋が腰に左手を当てて、右手の人差し指を立ててポーズをとってそう言った。現実でこんな挑発をされると、非常に頭にくるという事が今回の件で良ぉく分かった。

「どうするも、こうするも無いだろ。俺が枝さんを追ったところで千秋ちゃんと協力者に挟み撃ちにされるだけだ。それなら、こうやって君の足止めをして置く方が幾分かマシじゃないかな?」俺は煙草を一気に吸うと、煙を千秋に向って吐き出した。

「そう言うところ…。本当に良いキャラクターだね」千秋の顔から笑みが消え、ゆっくりと二歩、後ずさる。

「皆川君、でもね。君、詰めが甘いね」千秋は俺がしたのと同じに足元の土を蹴り上げると、三枝たちが向った道へ背中を見せて走り出した。

幸い土は目には入らず、俺は木々の間にちらちらと浮かんでは消える白いトレーナー姿の背中を追いかけた。

 

 

そう言えば、起きてから、どれくらいの時間が経ったのだろう?

酸欠状態に近くなって意識が朦朧とし始めて、そんなどうでも良い事を考える。俺の前を行く千秋は思いのほか足が速い。少しずつしかし、確実に距離を離されていくのが分かる。

 

-…参ったな。

 

現状が如何に悪い方向へ転換しようとしているのか如実にわかってしまう。

 

-くそ、何とかならねぇかな…。

 

俺はぜぃぜぃと空気が肺を抜ける音を聞きながら千秋の背中を睨んだ。

「よう」

唐突に脇道から三枝が真夜を背負ったままで顔を出した。

俺は呆気に取られて暫く言葉を出せなかった。そんな俺を見て「どうした?皆川?」と不思議そうな顔で三枝は尋ねた。

「え、お前…」俺は自分が何を言いたいのかわからないくらいに混乱して三枝と真夜を交互に見ながら何とか言葉を発した。

「いや、疲れたから。そこの茂みで休んでた」俺の意志を感じてくれたのか、三枝は簡潔に状況を報告してくれた。

「あ、そう…」俺は切らした息の中から何とか溜め息分を確保すると、深くそれを吐き出した。

「…つか、追っかけないと、拙い…」俺は枯れた声でそう言うと、一歩前進した。

「だな。千秋ちゃんに、加藤だっけ、後は榊とか言う奴だろ…。前途多難だな」まるで他人事のように三枝は言うと俺の肩を叩いた。

「ちょっと、待て。お前…」俺は三枝を睨む。

「ああ、ワシはここで待機。後はお前の領分だろ?荒事出来ないし、真夜もこの状態だし。何とかして来い」三枝はそう言うと「ほれ、コレでも食べて体力を回復するといい」キシリトールのガムをポケットから取り出して俺に渡した。

「なんだよ…」俺はそのガムを受け取りつつ尋ねる。

「仙豆」多少、間を置きつつ、三枝はそう言った。

「へいへい…」俺はガムを三つ口の中に放り込むと、乳酸が溜まって重くなった足を上げ、櫻澤邑へと向うのだった。

 

 

 

 

皆川達が飛び出していってどれくらいの時間が経ったのだろうか?

時間の概念は薄れ、俺は気だるそうに寝ている三国と継寛を見た。まぁ、幻覚キノコを食べたのだ、多少は気だるいだろうよ。随分と小さくなった焚き火の傍で呉葉が膝を抱えて、虚ろな表情をして焚き火に見入っている。どうしたものか。その傍らには皆川が捕縛した加藤が両手両足を縛られて転がっている。この状況、耐えるのは少々厳しいな…。

「ねぇ」スッと顔を上げて呉葉が俺を見た。妙に鋭い視線で俺を見ている。

「なんだ?」俺はその視線の鋭さに内心身震いすると、呉葉に注目した。

「裕は大丈夫かな?」視線をそらすと、不安そうな声色でそう言った。

「あいつの事だ、胸に杭を打ち込まれても生きて帰ってくるさ」俺は思ったままに答えた。根拠のない答えだが、今まであいつと釣るんできた数年間を振り返ると、あいつは常識の規格外から何らかの結果を齎してきた。

「まるで、化物ね」クスっと笑って呉葉は立ち上がる。

「言えてる。あいつは化け物みたいなものだよ」俺は率直な意見を述べた。

「ふぅん。あたしと同じかぁ…」焚き火の照り返しが呉葉の表情を鬼の形相に変化させる。それに気付いてか、気付かずか、ゆっくりと呉葉は視線を回りに向ける。

「どうした?」俺は妙な汗が噴出してくるのを感じつつ、のっそりと、立ち上がった。

「どうもしないわ」呉葉は加藤を見下ろせる位置に立ち、ゴミか虫けらでも見るような目で彼女を見た。

 

「………」

 

妙な沈黙が俺たちの間に流れる。

なんだろう、この胸騒ぎは。多分良くない事が起きる。それは間違いないが、それを喰い止めれるかわからない。

「高塚さん」呉葉は俺の名前を静かに呼んだ。

「改まって、なんだよ?」俺は呉葉の一挙一動から目を離さないように注意し、足元に転がっていたバーベキュー用の鉄串を拾う。

「裕を探しに行ってくる」呉葉はそう言うと、踵を返し、櫻ノ海に続く道を駆け下りていった。俺は成す術もなくその小さな背中を見送った。

それにしても、この妙な胸騒ぎは何処から生まれ来るものなのか?消えた呉葉の背中が最後にあった場所から視線をはずすと自分の鼓動に合わせて震える鉄串の先端を見つめた。

 

ドクン、ドクン、ドクン………。

 

静寂の中に自分の鼓動だけがやけに耳障りな騒音となって響くのだ。

 

ドクン、ドクン、ザッ、ドクン………。

 

「ん?」その違和感に気付いて視線を向ける。

「よう」そいつはそこに立っていて。何事もないように俺に声をかけた。

「榊…」俺はその妙にがたいの良い男の名を零した。

一瞬、自分の名を呼ばれたことに対してだろうか、不思議そうな表情をしてから、「ええと、あの時皆川と一緒に居た奴だな。皆川は何処だ?」と俺を睨み付けた。

「しらねーよ」俺は榊を睨み返して言う。

「隠すなよ?ただ、俺は借りを返しに来ただけだ」そう言うと、一歩踏み出す。は、こんな山奥までご苦労なこった。

俺と榊の距離は14,5m程か。よっぽどの達人ではない限り、そう簡単に間合いを詰めれるような距離ではない。俺は榊がもう一歩踏み出すのをゆっくりと観察する。

「本当にしらねーんだよ。ちょっとな、『櫻ノ海』まで出かけてるってこと位しか俺にはわからないんだよ」俺は右手の鉄串を袖口まで引っ込める。

「『櫻ノ海』だと?」榊は表情を曇らせると歩みを止めた。

「ああ。ってか、俺たちに用が無いなら、皆川を追えよ?」俺は榊を睨み付けた。

「………。此処で待たせてくれって言っても、断られそうだな」にやっと口元を歪ませて榊は笑った。

「もちろん、断るさ。あんたと皆川のいざこざだろ?俺には関係ない」俺はきっぱりと言い切ると榊を睨み付けた。

「…やっぱ、待たせて貰おうかな?お前あたりを血祭りに上げてさ?」言い終わらない先に、榊は俺との間合いを詰めてくる。全く、予想通りの莫迦だ。俺は隠し持った鉄串を榊の太腿に向けて放った。と、同時に足元に転がっている鉄串を何本か掴み取ると、左手に持つ。

「うおっ」榊の驚愕の声。ギリギリで避けたのか、鉄串は榊の足元の地面に刺さっている。俺の腕も鈍ったものだな…。自分の衰えに若干落胆すると、左手から一本鉄串を右手に持ち替えて構える。

「この、へなちょこっぽいくせに…」榊は妙に俺を苛立たせてくれる。ってか、へなちょこっぽいって何だ!

「ってか、寄るな!」俺はもう一度榊の太腿に狙いを定める。足さえ押さえておけば大体どうにかなるものだと、何処かのライトノベルで読んだような気がしたからだ。

「物騒な奴だな」榊は肩を竦めてみせる。

「どっちがだよ!」俺は榊の足元に狙いをつけて鉄串を投げた。今度は狙い通りに榊の右足の側に突き刺さる。

「危ねぇな…」榊はその鉄串を引き抜くと俺に向って投げ返すが、見当外れの方向にすっ飛んでいく。

「何したいんだ、お前?」俺は投げたままのモーションで固まっている榊に哀れみの眼差しを向ける。酷いノーコンだ。コレじゃ、どうしようもない。

「うるさい、エモノを使うのは苦手なんだよ」榊は掌を握り締めたり開いたりして拳ならいくらでもやれる、と言うことをアピールして見せた。

「だからなんだ?こっちは狙いを定めれば、お前を行動不能に出来るんだぜ?」俺は鉄串を榊の顔面に向けて見せた。

「………あのなぁ、それ、洒落になってねぇぜ?」榊は苦笑いを浮かべる。

「何言ってやがる。現状だって洒落に成っちゃいない。この邑で何人の人間が死んでるんだよ。ここは日本だぜ?」俺は引こうとしない榊とガンの飛ばし合いをはじめる。こう言うとき、皆川との冷戦をしておいて良かった等と馬鹿げた昔話を思い出すわけで。

「そんなこと知った事か。俺はただ、皆川にリベンジしに来てるだけだ。誰が死んでいようが俺の知った事じゃない」榊はそう言うと、どっかりと地面に腰を下ろす。

「おい!?」俺は榊の意外な行動に戸惑う。

「好きにすれば良い。俺はここで皆川を待つ。お前らには何もしない」榊はそう言うと俺に背を向けた。

「良い度胸だな」俺は榊の背中に蹴りを入れた。

「うお!?お前!?」前のめりに突っ伏す榊。その表情は引きつっていた。俺は問答無用で鉄串を榊の首に宛がう。

「動くなよ?動いたら、全体重を乗っけてお前に倒れ込んでやる」俺は榊の腰からベルトを引き抜くと、手首を縛った。

「なんて、へなちょこっぽいのに卑怯なんだ…」榊は失礼な事を堂々と言う。

「お前の勝手な思い込みだろ?しらねーよ、そんなこと」俺はそう言うと榊のクソ重い図体を引き摺り、加藤の横へ転がした。

「皆川に負けるならまだしも、お前なんかにやられるなんてな」自嘲気味に榊が笑う。

「背中向けてりゃ、誰だってやられるだろ。お前、莫迦だろ?」俺は加藤の靴紐を解くと、榊の親指を縛る。こうしておけば、ベルトの縛りを解くことなんて出来はしないだろうからな。

しかしながら、どうしたものだろう。三国も菅沼も起きそうに無い。皆川と三枝も帰ってきそうに無い。

なんだ、この中途半端な孤独は!ええと、ストックホルム症候群?すんげぇ、目の前の莫迦が昔からの知り合いみたいな?ああ、胡散臭い。

「ああ…莫迦な事をしたものだ」榊はちくしょうと呟き、目を瞑った。

「まぁ、俺で良かったよ。皆川を相手にしてたら、身が持たないからな」俺は哀れみの眼差しをもって榊を見る。皆川に関わらなかったら、こんな山奥でしかも、俺にふんじばられる事は無かっただろうに…。

「ん…?」榊が何かに引き寄せられるように視線を空に向けた。つられて俺も暗く濁った空を見上げる。いつの間にこんなにも曇っていたのだろうか?

「雨が…」榊の呟きが聞こえたかと思うと極大の雨粒がボタリと地面を穿った。妙に不吉な滴だった。数秒、間をおいて、まるで弾丸のような雨粒が降り注いだ。

「うお!?何だこれ!?」俺は当たると痛い、その雨粒に驚愕した。

「おい、これ、解けよ!」榊が雨の穿つ土に塗れて俺を見上げた。

莫迦か、お前を自由にしたら俺があぶねぇわ」俺はそう言うと、テントに駆け込んで、くたばりかけの三国と菅沼を叩き起こした。

「…ひっでぇ夢だ」菅沼がこめかみを抑えつつテントから顔を出す。

「何事だよ、これ」続いて三国がテントの中から外の様子を伺う。

「突然振り出した。ってか、妙な奴まで紛れ込んで、今大変なんだが。お前ら取り敢えず自分の身は自分で守ってくれ。俺は自分の身を守るので精一杯だから」そう言うと俺は榊のところまで駆け戻る。水道から水を撒いているかのように絶え間ない雨粒は数秒で俺の全身をずぶ濡れにする。

「何だってんだよ、この雨は」視界が一気に狭まる。

「ってか、その女、早く起こさないと死ぬぜ?」榊の言葉にハッとなって加藤を見ると、恐ろしいことに雨粒が跳ね上げる水飛沫で陸上で溺れかかっていた。哀れにも口を塞がれている為、榊のように言葉を出せずに居るのだ。急いで上半身を起こしてやると猿轡代わりのタオルを解いてやった。

「げほっ」いきなり咽ると、そのまま喘息のように咳き込む。なんだか痛いところに水が浸入したらしい。ま、死ぬってことは無いだろうけど、死ぬほど痛いんだよなぁ…。なんて加藤が咳き込んでいるのを他人事として見守ると、一向に収まりのつかなさそうな空を見上げる。

「おい、お前」榊が俺を睨んでいる。しかし、そんな榊の表情すらはっきりと見て取れないほど雨は激しく降り続いている。

「『お前』は止めれ」俺は榊を見下ろす。

「んだとぉ?」俺の口調にムカついたのか、榊はさらに鋭い視線を持って俺を睨み付けた。

「高塚浩志だ。苗字でも名前でも好きなほうで呼べ、榊」俺は榊の視線に態々視線を絡ませるとそう言い切った。榊は一瞬戸惑いの表情を浮かべたように見えた。そして、俺から視線を逸らすと一呼吸置いてから「高塚、この状態だと殺しまくってる奴に不意打ちでもされたら終わりなんだがな?どうだ、お前らのテントに避難しないか?」とはっきりとした声で言った。

「ち。この際仕方なさそうだな…」俺は榊の提案に舌打ちしつつ応じると、榊の脚の拘束を解いた。

「全く…。けち臭いな?腕のほうも解けって」榊が不満そうに顔をしかめて見せるが、俺はそれを無視した。

「って、あたしは少しも解いてくれないわけ?」加藤はいつの間にあの咳き込みから復帰したのか、涙目で俺を見ている。無論、こんな危険な女に同情する余地も無く「当たり前だ」と言い放った。

 

 

「で、こいつを運べば良いわけか?」菅沼が面倒臭そうに加藤を担ぎ上げた。

「よろしく頼むわ」俺はそう言うと千秋、皆川や三枝。そして呉葉が消えた道の先に目を凝らしてみる。雨のカーテンが、厚くかかっていて深い森がさらに深く感じられた。誰か帰ってこないものかと暫く立ち尽くしてみたがただ雨が降り続くだけで何の進展も見せようとしない現実がそこに横たわっていた。

「こー君、何してんの?」菅沼が振り返って俺に声を掛けた。

「いや、なんでもない」俺はそう言うと、菅沼の後を追う。

本当に鬱陶しい雨だ。足元は既に小さな川のように降り注いでいる雨がまとまって流れ始めている。ぐちゃぐちゃとずぶ濡れになった靴が音を立てる。全く、なんだってこんなときにこんな勢いで雨が降るんだよ。

「お帰り」テントに戻ると三国がニコニコと笑いながらタオルを手渡してくれた。

「サンキュ」俺はそのタオルを受け取ると、ずぶ濡れになった頭を拭いた。

「それにしても、酷い降りだねぇ」他人事のように三国はテントの外を覗いて言った。

「ってか、この状態だと、暫く身動き取れそうに無いな…」菅沼が加藤をテントの隅のほうに転がすと溜め息混じりに言った。

「確かにな。で、彼は?」三国は榊を一瞥して俺に尋ねた。

「皆川の知り合いらしい」俺は榊を見ながら三国に説明した。

「へぇ?で、何で縛られてるの?」三国は榊の腕を指して小声で俺に尋ねる。

「いや、真っ当な知り合いじゃないからさ」全く、皆川め、厄介事ばかりを増やしやがって…。こう、少し落ち着いてくると苛立ちが募るわけだが。そして、千秋は無事なんだろうか?何て人の心配さえできるようになる始末。割と俺の心は頑丈に出来ているものだな、と感心してみる。

「で、この状況、どうするんだよ?」榊が口を開く。

「どうするって言われてもな?皆川達が戻ってこない事にはどうにもならないわけで」俺は三国、菅沼を顔を見合わせた。三国も菅沼も無言で頷き、取り敢えず俺たちの意思は皆川達が戻ってきてから、と言うことでまとまったらしい。

 

 

 

 

雨が降ってきた。

とても大きな雨粒がボタッボタッと地面に落ちる。

血液も雨も同じように地面に痕を遺すんだなぁと、少し感心する。

妙に足が軽い。

既に獣道となった山道を駆ける。

あたしの目的地まであと少し。

彼等はどんな表情をするのだろうか?

彼等はあたしを怨むだろうか?

でも。

でもね。

これは仕方なかったのよ。

うん。

 

髪を伝って雨があたしの顔を濡らす。

雨とは別の暖かいものが頬を伝った。

 

それは顎の先端までゆっくりとあたしを這いずり回って、そして微かな熱を残して落ちた。

 

 

何であたしは泣いているのだろうか?

 

 

雨が強過ぎて視界は灰色にぼやけて見える。

地蔵の列が黒い人影となって辺りに立っている。

その間を縫うようにあたしは山道を駆けるのだ。

このひどい雨の所為で全身がずぶ濡れで、一歩踏み出すたびに靴はぐちゅぐちゅと不快な音を立てるのだ。

泥濘に足を取られて無様に転んだ。

幸い傷や痛みを伴う要因はなく、泥だらけになるだけで済んだ。

この雨が洗い流してくれるだろう、この程度の穢れなど。

あたしは起き上がると再び走り出した。

 

視界が悪いったら…。

 

あたしの行く手を遮るのが、地蔵だか、木だかわからない。

それを巧みにかわしながらあたしは山道を駆け下りたのだった。

唐突に開けた視界。

しかし、そこはまだあたしの目的地ではない。

そして、人の気配。

 

「あら、貴女は…」その人物は意外そうにあたしに声をかけた。

「あれ、皆は?」あたしは言葉を返す。

「皆?なんの事かしら?」雨の所為ではない。背筋を冷たいものが伝う。一瞬、『惚けて(とぼけて)いるのだろうか?』なんて考えも過ぎったが、雨のカーテンにぼやかされた彼女の眼は真剣そのものだ。彼女は少し何かを考える素振りをしてから「ちょうど良いわ。貴女も…」とあたしとの間合いを詰める。

「…な、に?」あたしは泥濘に足をとられつつ、彼女の一閃をかわした。

「あら、外しちゃったか」彼女は舌を出して照れ臭そうに笑うと、再び猫のように身体を丸め、あたしに狙いを定める。

まったく、災難もいいところだ。

雨に霞んで、彼女がどんな表情をしているのかわからないが、多分とても残忍な表情をしてあたしを狙っているに違いない。

ため息を吐きつつ、彼女の出方を見る。

ゆっくりと彼女のシルエットが縮まっていく。どこまで彼女は小さくなる気なんだろうなんて、間抜けな思考が頭を掠めた。

 

刹那。

 

彼女があたしに向かって走り寄る。あたしは身を捩じらせて彼女の突進をかわし、彼女の脊髄を狙って肘を打ち下ろした。

 

『ずむ』と妙に間の抜けた衝撃が肘越しにあたしの身体全体に伝わった。そして地面に崩れ落ちる彼女。申し訳ないけど。

 

 

あたしはそれを地蔵の裏側まで引き摺った。軽くもなく、重くもなく、それは緩やかに地面を削りながらあたしに追従し、そして地蔵の裏側に置かれたそのときもただ雨に打たれ続けていた。

 

 

 

 

 

先ず。

 

踵を振り下ろした。

肉の感触がランニングシューズ越しに伝わる。若干咳き込んだように思えたが、雨音が五月蝿くてわからない。咳き込んだ割にはそれはピクリとも動かず、わたしはそれから布を引き剥がした。

布を剥がれた、生白いそれにわたしの降ろした踵のあとだけが赤く無様な文様を作り出していて、心の奥でなんだか清々しい気持ちになるのだ。

剥いだ布を近くの地蔵にかけると、その足元に転がっている地蔵の頭を持ち上げ、生白い肉塊のところまでけり転がす。

地蔵の顔が世界中を舐めるように見回して肉の塊に当たって止まった。

わたしはその地蔵の頭を持ち上げると、肉塊に向かって自由落下させた。

時間がゆっくりと流れているような錯覚、雨粒の一つ一つが止まって見える。

今度はこんなに酷い雨の中にも関わらず、グシャ、と骨が砕け肉を伴ってひしゃげる音がちゃんと聞こえた。

中に溜まっていた赤い液体がじわじわと染み出してくる。まるで地蔵と頭を取り替えたように地蔵の頭はその肉の塊にうまく重なっていた。

少し乱れた呼吸を整えると、わたしは一度深呼吸をして、足元を見る。土の色に濁った水溜りをあれから染み出した液体が朱色に染め上げていくのだ。

空からは今尚、大きな雨粒が狂ったように降り注いでいる。

そして、降り止みそうもなく、黒い雲が頭上一杯に広がっているのだ。

 

わたしは着替えると、山道に戻った。

最後のときを迎えるために。

 

 

 

 

どれだけ

 

どれだけこの雨は降れば気が済むのだろうか?

 

どれだけ

 

どれだけこの世界を悲しみで満たしていくのだろう?

 

 

もう、雨は地面に染み込むことを止め、脆い大地の上を流れていく。

俺は土砂降りの雨の中を走り続けていた。まったく、この間新調したばかりの革靴は泥と水で酷いことになっている。異常なまでに降り注ぐ雨粒が眼鏡にこびりつき、ただでさえ悪い視界を尚更悪くする。

千秋の足に何故、追い付けないのか。

「畜生」言葉を吐き捨てると立ち止まる。普段使っていない所為か、足が上がらない。まったく持ってここまでなまるなんてな。自分が情けなくなる。それでも、千秋をとっ捕まえないとやばい気がする。俺は走ることすらままならなくなった足を必死であげると、地蔵が整然と並んだ道の先を見上げた。

「あれ?」ふと人影がこちらに向かって降りてくる。

「あれ、ゆたか」呉葉は意外そうに俺を覗き込んだ。

「お前、こんなところで何してんだ?高塚達は大丈夫か?」俺は矢継ぎ早に質問を投げかけた。

「うん、大丈夫だと思うよ」呉葉はにっこりと笑うと俺に抱き付いた。俺はそんな呉葉を抱き締めると「あのさ、千秋に遭わなかったか?」と尋ねた。

「ううん、遭ってないよ?何かあったの?」千秋は俺から体を離すと俺を見上げるようにして尋ねる。

「いや、千秋が俺よりも先に皆のところへ向かっていたはずだから…」俺は千秋の後ろに続く山道を見上げて言う。

「そっかぁ。でも、あたしが降りてくるとき。誰にも擦れ違ってないよ」呉葉は俺と同じように山道を見上げて言った。

「そうか。で、お前…なんでこんなところに居るのさ?」俺は一人で雨の中を走ってきた呉葉を見た。

「ん、そりゃぁ。ゆたかに逢いたかったからだよ」呉葉はにこりと笑って俺の頬にキスをした。

 

妙に冷たいキスだった。

 

「嬉しい事を言ってくれるね」俺は呉葉を抱き締めると強引にキスをした。呉葉はゆったりと俺に体重を預けた。しばらく唇を重ねたままで立ち尽くした。

「ゆたか、そろそろ…」呉葉は俺に絡ませていた腕を解くと、俺から身体を離した。お互いの唇から唾液が糸になって伝う。雨粒に糸が切られたのがスローモーションのように見えた。

「ん」俺は呉葉の顔を覗き込んだ。

「そろそろ、行こう?」呉葉は照れたように俯くと、俺を促した。

「ああ、そうだな…」空を見上げても雨は降り止みそうになく、暗澹とした情景が広がっている。雨は一向にその振りを弱めずに俺たちに降り注ぐのだ。

「うーん、それにしても千秋はどこに行ったんだろう?」俺は首を傾げる。俺は千秋の後を追って、この山道を駆け上がってきたはずだ。

それなのに、一番最初に出会った呉葉が千秋を見ていないという。

確かに、この山道であれば立ち並んだ地蔵の後ろか、または回り道でもすれば追っ手をやり過ごすことなんて容易なわけだし、この雨だ、身を隠すにはこれほどのロケーションもないだろう。

つまり、千秋が身を隠したとすれば、この雨の中で千秋を探すことはほぼ不可能だ。無闇に探し回って体力を浪費させるよりもどうせ現れるであろう俺たちのテントに戻って待ち受けたほうが得策かもしれない。

「うーん、わかんないよ。ええと、三枝さんと真夜ちゃんは?」呉葉は俺の腕に手を絡ませると詰まらなさそうに俺の腕を振って遊んでいる。

「…ああ、下のほうに居る。どうしようかな…先に枝さん達と合流したほうがいいか」俺は遊ばれていた腕の振りを止めると、呉葉を抱き寄せた。

「どうしたのよ、急に」呉葉は俺の行動に戸惑いながらも体重を俺に預けた。

「なんとなくだよ。なんとなく、呉葉を抱き締めたくなったんだ」そう言うともう一度、俺は呉葉に唇を重ねた。

 

 

三枝達とは何の問題もなく、すぐに合流できた。

相変わらず真夜は三枝の背におぶられていて、ぐったりとしていたが、先ほどのように話せないほどではなかった。

呉葉は真夜を心配そうに覗き込み、二言三言話をしていたようだ。俺はその間に少しでも雨の当たらない場所を探し、煙草に火を点けた。運よく火が点き、俺はしばらく振りの喫煙を堪能した。

 

「で、皆川」三枝が少し離れた場所に居る俺に話しかけてきた。

「なんだよ、枝さん?」俺は煙草を地面に落とし、爪先で踏み付けた。

「高塚たちは無事なのか?」三枝は少し心配そうな表情で尋ねる。

「しらねぇよ」俺は即答する。

「は?」三枝が声を裏返らせて疑問符を投げ付けてきた。

「いや、だってさ。こいつと合流したの千秋を追ってた途中だったし、結局、この道ってさ一本道だろ?こいつに聞いたら千秋と出会ってないって言うから、どこか地蔵の裏か、木の陰に隠れたんだとしたら探しようがないじゃないか?」俺の言葉に三枝は納得したらしく「まぁ、どうでも良いけど、早く高塚たちと合流したほうがよさげだな」と山道の上を見上げた。

「しかし、こーくんも災難だなぁ」俺は思わず漏らす。

「ん?」三枝と呉葉が俺の顔を見る。

「だってさ、ようやくできた彼女があんなサイコさんだなんて、災難だなぁって思ってね」俺は心底高塚に同情しつつ二人の同意を求めた。

「まぁ、あれはあれで厄介ごとを引き込む性格してるから、当然と言えば当然だろう」三枝は身も蓋もないことを言う。俺より酷いことをサラッと言ってのけることが出来る彼はやはり俺の師匠だなぁ、と実感した。

「二人とも結構酷いね」呉葉が苦笑して俺と三枝を交互に見た。

「枝さんほどじゃないや」俺は三枝をジト目で見てカラ笑いをした。

「何を言うか、お主ほどではないさ」三枝は半ば笑いながら俺を指した。

「二人とも、仲良いねぇ」呆れたように真夜は俺たちを見て呟いた。

「そうでもないだろ」俺はサラッと言ってのける。

「うむ」三枝も俺に同意したように頷く。

「そういう所が仲の良い証拠なんだけどね…」呆れた顔をして真夜は呟いた。

「ねね、立ち止まってないでさ。皆のところに急ごうよ?」呉葉が心配そうに俺たちの間に割って入ってきた。

「ん、確かにそうだな」呉葉の言うとおり、高塚とラリッた二人じゃ非常に心配なわけで…。

「それじゃ、歩きますか」三枝はやれやれといった感じで背中の真夜を背負いなおした。

 

 

 

 

滞りなく、計画は進んでいる。

何の心配もする必要はないだろう。

先ほどから振り始めた雨。

大粒の雫が屋根を打つ音が室内に響いている。

静寂の中では非常に落ち着かないので、この雨は非常に有難いものだ。

簡易的なテーブルに投げ出したままの煙草のソフトケースを手に取ると残り少なくなった中から一本おみくじでも選ぶようにして慎重に引き摺り出す。

そして、またほとんどガスの残っていない100円ライターでそれに火を点けた。

煙草の味って、こんなだったっけ?

遠い昔に初めて煙草を吸ったときのように、何か新鮮な味がした。

神経が覚醒していくようなイメージ。

全身の神経が研ぎ澄まされる。

この空間を支配したような、そんな覚醒。

簡素なパイプ椅子から立ち上がると、窓の外に目を向けた。

まるで滝のような雨が大地に降り注ぎ、それは天罰でも下ったかのような一種異様な風景だった。

「仕上げのときは近いのかな」誰に尋ねたつもりだろうか。

自分の口から漏れた言葉に驚く。

こんな声をしていたのか。

随分と言葉を発していなかったような気がする。

この声はとても落ち着き払っていて自信に満ち溢れていた。

高くもなく低くもなく、ただ心身に響く安定した音色。

雨はただ真直ぐに地面を穿つ。

風もなく、停滞したままの雨雲。

その中にどれ程の水分を持っているのだろうか?

一向にその雨足を弱めるつもりはないらしい。

記憶の中の類例がないくらいに激しいその雨をただ見つめていた。

いつまでもいつまでもそれは降り注ぎ。

いつしか、この世界の罪を洗い流してくれるんじゃないかって。

いつしか、このわたしの罪を洗い流してくれるんじゃないかって。

そんな絶望に似た希望を雨の向こうに夢見ていた。

世界の犯した罪。

わたしの犯した罪。

どれ程の違いがあるのだろうか?

然程の違いもあるまい。

それならば。

もう一度だけ。

そう、もう一度だけ。

罪を犯そうではないか。

 

 

否。

 

 

これは罪ではなく。

 

正当なる――だ。

 

 

銜えていた煙草を吐き捨てる。

プレハブの床にそれは小さな小さな音を立てて落下した。

害虫を踏み潰すようにジワリと爪先に力を込めてわたしは煙草を踏みつけにした。フィルターの微かな弾力が靴底を通して爪先に-わたしに伝わる。

 

同じことなんだ。

 

『イノチなき』煙草を踏み潰すのも。

 

『イノチある』害虫を踏み潰すのも。

 

そして、ヒトを殺すのも。

 

 

雨はただ怒りの矛先をわたしたちに向けるように、降り注いでいた。

 

 

 

 

先ずは、この神域に踏み込んだ彼らを贄に奉げた。しかしながら、彼らには贄たる資格が無かった。士の血筋を継いでいなかったからだ。

わたしは血塗られた両の手に軽い絶望を感じたが、これは宿命だと思い直した。私に課せられた死命なのだと。

 

櫻ノ海 五章

櫻ノ海

 

 

―伍章―

 

煉獄-レンゴク-

 

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第伍話

 

終極へと。-士送りの儀-。

 

 

【櫻ノ海】に着く頃にはお天道様は一番気分の良さそうな位置に座していて、俺達は春だと言うのにびっしょりと汗をかいているのだった。

視界が開け吐き気がするほどに美しい桜の樹海が現われる。本当に【櫻ノ海】とはよく言ったものだ。先頭を行っていた枝さんは取り敢えず一番近くにある盛り土まで歩くと腰を下ろした。真夜と千秋もそれに習ってリュックサックを下ろし、樹に凭れ掛かる。俺は呉葉と並んで少し離れた所に座り込んだ。三国と継寛が俺を見下ろすように俺達の前に立った。

「どうした?」俺は2人を見上げた。

「休憩、取るんだろ?」継寛が腕組みして尋ねる。

「おう、体力が持たないだろ」俺は笑いながら答えた。

「それじゃ、昼にするか」三国が相変わらずのマイペースで話を切り出す。

「そうだな」俺が相槌を打つと2人は枝さん達のほうに歩いて行った。

 

そんな2人を意味も無く眺めていると「ね、ゆたか。一緒に来て欲しい所があるのよ」と呉葉が上目遣いのお願いモードで攻め込んできた。女の子がこんな表情でお願いする時は非常に面倒臭い事に巻き込まれる可能性が非常に高いという事を経験則からわかっていたが、OKと言う以外の選択肢は今の呉葉を前にして口に出す事が出来なかった。

「で、何処に来いって?」俺は呉葉の頬に口付けをして甘々な2人の空間を発生させつつ尋ねた。少し匂う汗の匂いが情欲をそそる。身体の中心に血液が集結しそうになったので、呉葉から身を放し立ち上がった。

「んっとね。【櫻ノ杜】と対を成す【閻魔堂】って言う所が在るんだけどそこに一緒に来て欲しいの」流石は地元民、ただ、こう言ってくるという事は何かキチンとした理由が在ることだけはなんとなく解った。俺は仕方なさそうに「わかったさ」と言うと、呉葉は極上の笑みを浮かべて「大好き!」と、俺に抱き付いた。俺は宥めるように抱き締めて「行くのなら、皆に言ってから出発しよう」と6人が集まっているところに呉葉を連れ立って歩き出す。

 

「おー、ちょっと出かけてくる」俺は枝さんに話し掛ける。

「ん?何処に行くんだ?」不思議そうに俺を見る。他の連中の視線は痛いほどに冷たい。

「【閻魔堂】とか言う所」俺はシレっと言った。

「ふむ、どれくらいで戻ってくるんだ?」枝さんは俺と呉葉を交互に見て尋ねた。そう言えば聞いてないな。俺は呉葉に目配せをすると「ええと、往復で1時間位かな?」と呉葉は答えた。

「まぁ、丁度ご飯だし、行ってこいよ?」枝さんは快諾してくれた。

「んじゃ、ちょっと行ってくるわ」俺は左手を上げてパタパタと振ると、枝さん達に荷物を預け、呉葉の先導で【櫻ノ杜】の入口と真逆の南側に位置する【閻魔堂】入口に向かって歩き出した。

 

 

「もう直ぐよ」呉葉は道の先を指差して言った。俺はうんざりとして急勾配の坂の先を見た。そして厭な人影を見てしまう。

「何だ…」俺はその人影に見入る。こんな辺鄙な場所に人が居るなんて誰も考えないだろう。何らかの意図があってそいつはそこに居るのだろう。そして、その意図は間違いなく何か如何わしいものに違いない。不安そうな顔で呉葉が俺の腕にしがみ付いて来た。

 

俺は行く手を遮る、そいつの顔を睨みつけた。

 

気の強そうな眼差しと、小さな鼻、薄紅の唇-それなりに整った顔。ショートカットヘアと、少し小麦がかった肌が快活なイメージを見るものに植え付けるだろう。しかし、今ではそのイメージは粉々に砕けて消えた。

 

「お前が藤堂を殺ったのか?」

息の詰まりそうな沈黙。そいつはただ微笑を浮かべていた。

「ゆたか、こいつ…」

呉葉の手に力が篭る。腕が痛いわけだが、そうも言えないな。

もし、藤堂達を殺したのが、目の前に居るこいつであれば非常に危険だ。幸い飛び道具は手にしていないが、分不相応な片手斧を手にしている。視線は俺を見ているのか呉葉を見ているのか、それとも別の何かを見ているのか、狂気的な現実の前に妙に静かな瞳をしていた。

「うふふ、またあたしを邪魔するのね?」紡ぎだす言葉は狂気以外のなにものでもない。俺達に完全に向き直り、斜め下、5時の方向で片手斧を固定して構える。拙いな、こんな時に限って継寛も高塚も居ない。SUPER-LEDのライトも役に立ちそうにない。電動ガンは【櫻ノ海】に置いてきたリュックサックの中だ。冷たい汗が背中を流れ落ちる。

こんな所で真相の断片に出くわすとは、嬉しくも何ともない。俺は小説や漫画の中の探偵でもなければ、ましてや正義のヒーローでもない、勿論、命懸けで戦う公務員でもない。

 

「逃げるぞ」妥当な線で結論を出し、呉葉に耳打ちする。マジな目をして呉葉は頷くと今来た道を駆け下りるように走り出した。俺も少し遅れて呉葉の後を追う。恐ろしい事に俺達を追うように足音が聞こえる。振り返る気はなかったが本能が俺を振り返させた。

ああ、見なければ良かったね。両手で斧を構えながら走ってくるうら若い女なんて漫画やゲームの世界だけで充分だ。殺す気満々で目をギラ付かせて俺達をタゲって(標的として捉えて)いる。ほんと、止めて欲しいものだ。

「ええと、呉葉。マジで逃げるぞ。捕まったら多分、殺される」俺は走りながら足元に転がっていた人を殴るのに割と手頃な枝を拾うと、投げつけてみた。ヒュンヒュンと良い音を立ててそいつの顔面に吸い込まれるように飛んでいった。コーン、と乾いた音を立て、斧に弾き返された。

「おいおいおいおい…」俺は呆然と明後日の方向に消え行く棒を眺めた。まったく、なんでこうなるんだよ。泣き出したい気分を押さえつつ、俺は必死で走り続ける。

「畜生、畜生、畜生、畜生…」一定の間隔を置いて後をついてくる。あー、もうダメかな。…つか、やっちまうか?

 

俺はもう一度手頃な枝を拾うと、おもむろに投げつける、それと同時に反転し、蹴りかかった。枝に気を取られたそいつは俺の蹴撃に気付くのが遅れ、鳩尾に俺の蹴りがクリーンヒットする。

女の子の胎を蹴っちゃいけないって?知るか!こっちは命を狙われてんだ。

と言うか、鳩尾を蹴り付けられてまったく咳き込まず平然と立っている奴を俺ははじめて見た。本当に何事も無かった様に平然と立っている事実は何だ?

それでも多少は眉間に皺を寄せている。それから、般若のように醜く俺を睨む。一応、痛かったって事か?

「この野郎」斧を振り上げる、俺は振り上げた手を蹴り付ける。振り上げた勢いと俺の蹴りの勢いで思いっきり後ろに向かって転ぶ。それでも斧を手放さない根性に感嘆しながら俺は斧を握った右手を踏み付け、斧を奪い取った。呉葉は少し離れた場所から俺達のやりとりを不安そうな表情で見ている。

 

油断しなかったと言えば嘘だな。一瞬の隙を突かれた。足を薙がれ、俺はよろめく。そいつは立ち上がり、踵を返し今来た道をすごい勢いで駆け上がって行く。追い付けるか、まったく…。緊張が解けたか、呉葉が俺に駆け寄る。

「なんだったわけ?」と目を皿のように真ん丸にしてそいつが走っていった方向を凝視していた。俺は俺で斧を手にしたまま呆けていた。状況を知らない誰かに現状を見られたら、絶対に何か大きな誤解を招くんだろうな、と思考回路が凍結した頭の片隅で考えていた。しかし、折角の武器だし棄てるわけには行かない、皆のところに戻るまで、また襲われないとは限らないからな。

「取り敢えず、皆の所に戻ろうぜ」俺は呉葉の手を引くと【閻魔堂】の道をゆっくりと下り始めた。まったく、散々な目に巻き込まれ始めたな。

現在の段階で太陽はまだまだ高く、今日中に櫻ノ海を脱出する事は可能だと思えた。腕時計や携帯電話は全部置いてきてるので時間はわからないが14時くらいじゃないかと思う。俺達が【閻魔堂】向かったのが大体12時30分くらいだったはずだから、そんなもんだろう。あー、思考ばかりしてて段々と気が滅入って来るが、呉葉が居てくれるので滅入った気は若干の回復傾向に向かう。

「あーん、【閻魔堂】に連れてってあげたかったなぁ」残念そうに目を伏せて呉葉は俺の手を握った。まったく、甘えるの巧いなぁ。俺は呉葉に向き直ると頬に口付けをした。呉葉は目を瞑り、唇に口付けを促す。長く伸びた影が重なる。柔らかな感触が唇を伝う。

「あはは。優しいキスだね」呉葉はにっこりと笑うと俺の手を引き歩き出す。【閻魔堂】を見ることは出来なかったが、ま、いつか見る機会はあるんじゃないのかって、永遠に在り得ない期待を胸に【櫻ノ海】への帰路についた。

 

 

俺達が【櫻ノ海】に戻った時には若干太陽は傾いていた。状況を皆に報告し、なるべくバラバラにならないように注意を喚起した。

「ってか、マジで襲われたのか」枝さんが若干の焦燥の色を隠せずに尋ねる。俺は無言で頷き、皆を見渡す。

「多分、加藤とか言う女だな」俺の話を聞いて高塚がその女の名前を口にする。多分そんな名前だったような気がする。むしろ自己紹介されたっけ?

霞のかかったような記憶を辿るのを断念し、現状の打開に話題を戻す。

「この時間から一不動に戻るのは危険なような気がするんだけど、どうよ?」俺は全員を見渡し、同意を求める。此処に止まるのもそれなりのリスクを負うが、ある程度の防御は出来ると思う。しかし、移動中に襲われれば先程のように割と広い道であれば迎え討つ事も可能だが、急勾配を登っている最中であればかなりの危険を伴うと俺は判断した。

「確かに」短く三国が言う。

「明日から会社なんだけど」高塚が呟く。

「俺は進んでも構わないぞ?」継寛が腕組みをして言う。

「早くお風呂入りたいなぁ…」真夜が前髪を弄りながら頬を膨らます。

「あたしは、皆川君の意見に同意かな」千秋は眼鏡に隠れた目を細めて俺の意見に賛同してくれた。

「あたしも裕の意見に同意」呉葉は俺に抱き付くと俺の顔を覗き込みニッコリと笑う。少しでも自分の意見に同意してくれる人が居るとこんなにも気が楽になるものか。

「枝さんはどうなんだ?」俺は難しい顔をして黙りこくっている枝さんの意見を求める。最年長者の意見というものは得てして周囲を説得するには非常に有効な手段と成り得るから。

「俺も皆川の意見に同意する。流石に、昨日の三国と菅沼が襲われたようにやられたらひとたまりも無いからな。ま、移動中にしろ、そうでないにしろ。少なくとも場所を決めてキャンプすれば割と襲撃してくる方角を誘導できるし、此処でもう一泊するのが良いかと思う」と長口上を述べた。

「何処でテント張るかに因るな」俺は櫻ノ海を見渡す。ふと思い付きを口に出す。

「櫻ノ杜の入口なんてどうよ?」昨日、三国達が襲われては居るが、今日襲われたのは閻魔堂のほうだ。で、あれば櫻ノ杜のほうは安全だと言う推測だ。

取り敢えず俺達は櫻ノ杜の方角に向かってゾロゾロと歩き出す。各々疲れ果てた表情が滑稽だ。人の事が言えないような表情をしているだろうけど、背に腹は代えられないからね。何とか櫻ノ杜に続く道まで辿り着くと若干茂みに入る形で荷物を下ろす。三国、継寛、枝さんの三人はテントを組み始める。

 

俺と高塚は手持ち無沙汰を解消する為に、偵察と銘打って櫻ノ杜に続く石段を上る事にした。実際問題、何処で道が途切れているのかも見たかったし、好奇心ってやつは押さえる事が出来ないもんだね。まったく。

 

地蔵が延々と並んでいるのは櫻澤邑に続く道と指して代わり映えしない。高塚とバカを言い合いながら息を切らせつつ石段を上がっていく。

桜の樹ではないが、結構な広葉樹の大木が回りを囲んでいて、俺達が上がってきた所はもう見えなくなってしまった。

電動ガンを持ってきたのと、高塚が自慢の暗器を忍ばせているので丸腰ほどの恐怖は無いが、いつ襲われるかなんて考えると、やはり怖い。先程の加藤にしても正気の沙汰では無さそうだったし、かといって錯乱しているようにも見えなかった。薬をしていての副作用だとは考え難い。何か目的のある、意思の篭った行動だったと思う。

「おい、何してんだよ?」思考に意識を取られたのか高塚から遅れ始めた俺に不機嫌そうな声を上げる。

「ああ、悪い悪い」そう言うと駆け足で高塚の真後ろまで追いつく。

「何を考えてた?」高塚が思わせぶりな科白を吐く。似合わないから止めておけって…と出かかった言葉を飲み込むと「いや、この状態で襲われたらどうなるかなぁ、なんてシミュレートしてた。」と笑い飛ばした。

「あのなぁ、お前がそんな物騒な事を言うと現実になるぞ?」ジト目で高みから俺を見下ろす。

「そうとも言うな」カラカラと二人して笑い声を上げる。

「しかし、大学生の連中、どんな理由が合ってあの部長を殺したんだろ?」高塚が今朝見つけた死体の事を話題に出した。

「仲間割れか?でも、昨日の夕方の時点で全員生きている事は三国達が見てるんだぜ?それから三国達と寸分違わない時間で櫻澤邑まで辿り着いて、そこで部長は死んでいる」俺は自分の言葉に思考を廻らせる。妙な違和感を感じる。何だろう?

 

 

櫻ノ杜まで三国達は行ったわけだけど、このルートを辿ったんだろう。17時くらいから上り始めたと言っていたはずだ。頂上についた時には日が暮れていたらしいから、相当の時間がかかったのだと推測できる。

しかし、裏ルートで俺と呉葉が櫻ノ杜まで登った時は1時間弱で上る事が出来たはずだ。あの分岐点までも1時間程度で辿り着ける。

と言う事は大学生の連中は三国と継寛が出発した後からでも充分に追いつける訳だ。そして襲撃されて逃げる際に一人を攻撃(?)している。

その際に相手が発した声は男の声だったことから藤堂か竹中のどちらかだったのではないかと推測する。無論、第三者の介入も考えられるが、加藤が俺と呉葉を襲った事実を考えるとそれは考えにくくなってくる。無論、よくあるパターンの加藤の恋人などの第三者介入の線も捨て難いが、大学生パーティー内でのいざこざと考えたほうが楽なような気がする。真相は知らんよ。当事者じゃないから。

なんて事を考えていると、朝嗅いだ深いな鉄の臭いが鼻腔を突いた。高塚は既に立ち止まっていて、再び遅れた俺が追いついてくるの待っている形だ。しかし、待っていると言う表現はニュアンスが異なるのかもしれない。固まっている、と表現したほうが正しいような気がする。

「どうした?こーちゃん?」俺は高塚に密着寸前のところで小声で尋ねる。

「おい、顔近い」若干押し退けて「この血の臭い。」と短く言った。

「ああ、わかってるさ。今度は誰が死んでるんだろうな」俺は脳裏に浮かんだ最悪のシチュエーションを思い浮かべて言った。

 

 

静寂の中を木々のざわめきが駆け抜けていく。そして、それが途切れると耳を突く静寂が世界を支配する。

 

此処は何処だっけ?

 

わんわんと鳴る静寂の中に思考は薄れていく。ここは-櫻ノ杜に続く階段。一瞬失いかける意識を立て直して、辺りを見る。

 

この胸糞悪い臭いは何処から来る?

 

遠いようで近い、そんな感じがする。俺は石段の淵に残った泥の後を発見し、高塚にそれを告げる。タイミングをずらして生唾を飲み込む音が聞こえる。

「じゃ、行くぜ?」俺は高塚に問い掛けると、意を決して石段から脇に反れた。腰くらいまで草が伸びており、よく見れば人の歩いた後がある。それを辿るようにして少し奥まったところまで行って俺は立ち止まった。何と言うか、怖気と吐き気が入り混じって交互に俺の中を駆け巡る。

 

 

そこに在ったのは、酷く精巧に作られた青褪めた肌をした人形だった。その人形は長く伸びた髪を枝垂れさせ大樹を背にして項垂れていた。枝垂れた髪は手入れが行き届いていて非常に滑らかな感触を思わせる光沢をしており、髪の間から覗く顔は整っており、ガラス球のような瞳で虚空を見つめていた。

遠目から見ても顔に外傷は無い事はわかった。

 

「おい、コレ…」高塚が動揺を隠せず震えた声で人形を指差した。

「人の死体だろ」俺は在りのままの事実を述べた。と言うか俺にはそれくらいしか口に出す余裕が無かった。

「一体誰がこんな事をするんだよ?」高塚が足元に気を払いながら死体に近付く。用心だけはしてくれよ。お前がやられたら、俺の盾がなくなるんだから。

「しらねーよ。奇人変人ジャンキーオタヒキの類じゃないのか?」俺も先行する高塚に続いて死体に近付いて行く、アンモニア臭が鼻を突く。

「窒息死かな?」昔、何かで読んだ気がするが、絞殺されると糞尿を垂れ流すらしい、あくまで本の知識で実際殺した事も無いのでわからないが。

「俺が知るか」高塚は顔を背ける。

「可愛い顔が台無しだな。こうなってしまったら、面影なんてもう無いね」遠めに見れば整っているように見えた顔も、近付けば非常に無残にその断末魔が表情として刻まれていた。口は半開きで死後硬直が進んでいて、その口元から涎の跡が2筋垂れていた。ガラス球のように見えた眼は開きすぎている為、眼孔は少し窪んだように見える。

こうやって見ると、生前はかなりの美人だったんだろうな。今のこの顔じゃ誰も近付かないな。哀れだな。

「首筋に絞めた跡があるな」俺はその人形の首の周りについた筋状の跡を見て言った。その部分だけ青紫色に肌の色が変色している。吐き気は不思議と催さない。オブジェとして目の前にあるヒトガタの物体を認識する事が出来れば非常に冷静に現状を分析できると言うものだ。

「何、探偵の真似事してるんだよ」高塚は肩を竦めて、呆れたような口調で俺の行為に対して言葉を投げた。

「現状を分析しただけなんだけど。昔、探偵のバイトしてたことあるしね。無論、こんな人が死ぬような状況に巻き込まれた事なんて無いんだけど」俺は溜め息混じりに高塚の言葉を投げ返した。

「どうでもいいさ。これで2人死んでいるのを確認したわけだけど。まだ死んでるんだろうかねぇ」高塚は何処からともなくペットボトルのお茶を取り出すと喉を鳴らして飲み干した。

「この状況でよく飲み物なんて飲めるな、お前」俺は呆れて高塚を見た。

「思考を切り離すんだよ。そうすれば何だって大丈夫だ」最初の死体のときは吐きそうになっていたくせに、今回はさらっととんでもない事を言いやがる。俺には無理だな思考の切り離しなんて芸当、高塚みたいな螺子が一本ぶっ飛んでいる奴だから出来る芸当だな。

「さて、取り敢えず」俺はポケットから携帯電話を取り出して開く。ま、当然の如く電波なんて届かないし、電話としての機能は使えない。電話の機能を使いたいわけではない、デジタルカメラ機能を起動させ、死体を様々な角度から画像データとして取り込む。液晶画面から見ると、本当に何処か遠くの世界の事に思えてくるから不思議だ。『死体』ってものがこんなにも『普通』だとは思わなかった。異常な事態に精神が麻痺しているのかもしれない。

「死体なんか写真に撮ってどうするんだ?」高塚が不思議そうに俺を見る。

「一応の証拠ってやつさ。警察にいちゃもんつけられた時のためにな」俺は6枚画像データを増やすと死体の側を離れた。

「ふむ、取り敢えず皆の所に戻るか?」高塚はそう言うと俺の後に続いた。

「そうだな、これ以上は進んでも意味が無さそうだしな」そう言って櫻ノ杜に続く石段の先を見た。妙に空気が濁っている感じがして背筋に寒気が走る。身震いをし、焦点が合ったとき俺は見たくは無いものを見てしまった。

 

「よぉ」そいつはゆったりと木陰から姿を現すと、俺達に、むしろ俺に鋭い視線を投げ掛けた。そいつが誰だか識別するまでに若干の時間を要したが、そいつが誰であるか理解すると俺は身構える。

「ん……、誰だ、アレ」高塚がすっと一歩前に出て、俺と肩を並べた。

「なんでお前が此処に居るんだ?」俺は高塚の質問をスルーすると、ガタガタと身体の心から来る震えにガチガチと歯を鳴らしてそいつを睨みつけた。

「ふん、相変わらずお前は、平静の時に比べると豹変するんだな?冷静なその顔の下に隠した激情ってか?・・・名前を聞いておこうか?」怒気を含んだ声を出すと、そいつは俺を見定めるように視線を上下させる。

「皆川、裕だ。名前なんて聞いてどうするんだ?また、砂利を噛みたいのなら今度は腹一杯砂を食わせてやるぜ?」吐き出すものを吐き出して、全身の震えが止まる。

もう一度、1人で目の前の奴を叩き伏せる自信は無いが、高塚も居るわけだし、なんとかなるだろう。そんな考えが浮かぶと、冷静に目の前に居る奴を観察する心の余裕ってやつが出来た。

身長は180cmオーバーだろうか?がっしりとした体格の男が腕組みをし、俺を睨みつけている。その眼は殺気を含んでおり、一対一では勝ち目の無いように思えた。この間は夜だったのでそういった諸々の先入観が無かった為、何とか勝てたのだと、認識できた。無地で濃紺のTシャツの下にある胸板は相当鍛えられたもので、俺とかなりの体格差が有る事は容易に想像できた。よく、こんな奴に勝てたものだと、冷や汗が背中を伝った。

「『今は』丁重にお断りするよ」ニヤリと笑うとそいつは踵を返した。

「まて。因みに、其処に転がってる女を殺ったのはお前か?」俺はそいつの背中に言葉を投げつけた。

「さてね?」歩き出そうとした足を一度止めて、振り返り答えた。

「皆川、一体、こいつは誰なんだよ」高塚がそいつを指差して俺に尋ねる。

俺は高塚の疑問に答えようと一瞬記憶を辿る。数秒、真剣に思い出そうとするが、それでもそいつの固有名詞を思い出せないので「ああ、そうそう。お前、何て名前だったっけ?」と真顔で尋ねた。ここ数日の間に色々と有り過ぎていて、すっかりとそいつの名前の事なんて忘れてしまっていた。

不機嫌そうに後頭部をわしわしと掻くと、そいつは「【榊 総司】だ。覚えておけ皆川、お前には借りが有るからな」声を張り上げ、榊は櫻ノ杜へ続く道の奥へとゆっくりとした足取りで消えて行った。

重苦しい時間がのったりと過ぎ、俺と高塚は蛇に睨まれた蛙の如くそいつが立ち去るまで、身動ぎ一つ出来ない時間を過ごした。榊の姿を見送った後、妙な脱力感に襲われる。何だって言うんだ…。

 

 

「貸りって何があったんだ?」高塚が尋ねる。

「色々さ」俺はそう言うとタバコを銜えた。なんて言うか、ここにきて榊まで出てくるとは全く持って予想の範疇を超えている。

「色々ってなぁ…」高塚は榊の消えて行った道を見て呟くように言った。俺は銜えたタバコに火を点けると、一気に吸い尽くした。味なんて感じなかった。ただ、緊張さえ解せれば良かったのだ。

「さて、こんな所にいると俺達が犯人にされかねない。皆の所に戻って状況を報告しようぜ」俺は高塚にそう言うと石段を一段降りた。不服そうな顔をして高塚は渋々と言った感じで俺に続いて歩き出す。

「まったく、ついてない。」高塚が呟く。高塚の言う通りだ。今晩が明けたら速攻で引き返そう。こんな胡散臭い事件に巻き込まれたくないし、自分の命が大切だ。無論、一緒に来ている友人の命もな。

「まぁな。ついてねぇ。それにしても、携帯の電波がねぇし。警察に連絡のしようが無いな。どうするよ?」俺はお手上げのポーズを取って高塚に尋ねる。

「つうか、今から帰るにしても登山道に戻るまでにも時間がかかり過ぎるしな。どうしたものかな」眉間に皺を寄せて高塚は考え込んだ。

高塚の言う事はもっともだ。この時間から登山道に戻るにしても獣道を登らなければいけない。女性3人を連れて、なおかつ襲撃される危険性も在る中ではほぼ無事に登り切るのは無理なように感じた。

思考がぐるぐると頭の中を廻る。沈黙の中2人の足音だけが耳につく。そして、そんな沈黙を高塚が破る。「で、それで、榊の言ってた『借り』って何なんだよ?」好奇心剥き出しで高塚が尋ねる。まぁ、無言の帰り道と言うのも手持ち無沙汰なので、公園での一件を語りながら石段を下る事にした。

 

しかし、榊も絡んでくるとなると呉葉を信用していいものかどうか疑わしくなってくるわけだが、あの一件以来呉葉が携帯電話を弄っているところを俺は見ていない。

無論、トイレや風呂に入っている間に榊と連絡を取っていた可能性は否めないが、俺達を狙うのであれば直接的に俺達を殺しに掛かれば良い訳だ。

【閻魔堂】に向った際に俺と呉葉が加藤とか言う女に襲われた。その時の呉葉の怯え方は本物だった。

だから、今回の一件に関して、呉葉が関係していると考えるのはどうも俺の中で納得がいかない。納得はしては居ないものの、『呉葉と榊の関連性』と言うキィワードが思考に妙なしこりとして残った。無論、コレは俺の心の中に留めておく、高塚を信用していないわけではないが、何かの拍子に伝播すれば協力できる部分も出来なくなってしまう。こう言うときはパニックになるのが一番怖いから。何て思考しているうちにいつの間にか麓に辿り着いていた。

 

 

「ゆたか~。何かあったの?」待って居ろと言っておいたのに呉葉が石段の麓から俺達に手を振っていた。俺は額に手を当てて、高塚を見た。高塚も苦笑しながら俺に何も喋るな、と言う目配せをした。

いつもの様に呉葉が俺に抱き付いてくる。違和感はない。此処で違和感があったら、速攻で叩き伏せるところだが。

「なんにもねぇ」俺は若干叫ぶように呉葉に向かって言うと高塚と並んで石段を下り始める。呉葉は詰まらなさそうに俺達を見上げていた。

「呉葉、他の連中はどうしてるんだ?」俺は呉葉を抱き寄せると尋ねた。

「皆でご飯作ってるよ。でも、今日の分でまともな材料は無くなっちゃったっぽいわ」若干暗い表情を見せ、呉葉が俺の問いに答えた。まぁ、明日下山するわけだから問題は無いだろう。・・・軽く考え過ぎていた、この時は自分の浅墓さに気付かなかった。

「まぁ、明日帰るわけだし、大丈夫だろ」高塚が軽く言う。その言葉に納得してしまった自分が居た。

「そうだな、取り敢えず皆の所に戻ろう」俺は2人に言うと石段を駆け下りた。高塚と呉葉も遅れずについて来た。宵闇が地を支配し、闇の帳が世界を暗黒の舞台に演出した。

 

「ねぇ、ゆたか。本当は何かあったでしょ?」帰りの道程で呉葉が再度尋ねてきた。高塚といい、呉葉といいどうして、こんなにも好奇心裕かな連中に囲まれてるんだろう、俺。

「何にもないよ」そう言うと俺は笑って見せた。

「うーん、目が笑ってないですよ。お兄さん」呉葉が俺の目を覗き込む。妙なところで鋭い女だな。って言うか、女ってこんなものか。俺は返答に困って高塚に目配せをした。高塚は軽く瞼を閉じ、それから頭を左右に振った。つまり話せってことらしい。

もう直ぐキャンプに辿り着く。つまり、此処だと他の連中に話が伝わってしまう可能性があり、余計な負担を掛けそうなので、後から話すという事で一時皆の所に戻った。夕食の味噌汁の匂いが食欲をそそる。皆は分けられた分だけ食べ、昼までお代わりをしていた継寛も食料が底を尽き掛けている今は適度に明日の分の食料を残していた。

 

 

飯を食い、多少気分が良くなったところで、呉葉の詰問に答えるべく、河岸を変える事にする。枝さんに『野暮用でちょっと』、告げると俺は呉葉を連れ立って櫻ノ海に入った。闇に包まれた深い森って言うのもなかなか趣があっていいものだな、何て事を考えてしまう。

桜の花が暗闇に浮かんで見える。陰鬱なイメージが強い。話を切り出したのは呉葉だった。

「ねぇ、ゆたか。さっき高塚さんと何を見たの?」深遠たる森の中、祭壇と呼ばれた杜の中、俺は呉葉と2人きりで居る。呉葉の口から発せられた言葉は酷く静かに俺の中に浸透していく。

「死体だよ。大学生の連中の女の子が1人死んでいた…」俺はなるべく冷静を装って呉葉の質問に答えた。

「えっと、【閻魔堂】に向かってる時に会った人?」呉葉が身体を一度震わせて尋ねた。そんな呉葉を可愛いなんて思いながら、俺は一度区切った言葉を繋ぐ。「いや、あの女じゃない。もう1人居ただろ?」と。

「えっと、加持さんだっけ。あの清楚な感じのする娘だよね?」呉葉は考え込むような素振りをして、『加持』と言う固有名詞を出した。そう言えばそんな名前だったかもしれない。今と成っては単なる人形だけどな。

「名前は忘れたけど、そんなイメージでいいと思う。事実、綺麗な死に様だったよ。糞尿さえ垂れ流しになってなければね」俺はあの惨めな人形を思い出して、小声で言った。

「そうなんだ…死んじゃったんだ」呉葉のシルエットが俯く。辺りは完全な闇である。星明りの所為か、呉葉のシルエットはかろうじて見て取る事ができた。俺に石段の帰り道に考えたように呉葉が裏で糸を引いているようには到底思えなかった。

俯き肩を震わせる呉葉のシルエットを見て『ふぅ』と短く溜め息を吐く。ポケットから押し潰されたタバコのソフトケースを引っ張り出す。妙な形に変形したタバコを一本引き摺り出し、火を点ける。腕にはめたGショックを振ってLEDを点灯させ、時間を確認する。早いものでもう19時を回っている。

改まって辺りを桜の樹が暗鬱なシルエットを作り出し、俺は妙に不安な気持ちに襲われる。若干風が強くなって来たのか、枝葉がざわざわと音を立てる。

榊の事を話すべきか悩むところだ。しかしながら、ここで呉葉が何らかのアクションを起こせばそれはそれでしめたものだ。高塚もそれを目論んでいるのかもしれない。そうでなければ無駄に状況を混乱させる事を『話せ』と目配せするわけが無いからな。そんなにも長い付き合いではないが、奴の行動に無駄はないから、何かあれば動くつもりだろう。それにしても、もし、何か一番最初にアクションを起こす時に出くわすのが俺って理不尽だな。タバコを吸い尽くすまで彼是と思考した上で、覚悟を決めた。

俺はゆっくりと、そして、悟られる事無く呉葉との間合いを確保する。一度気付かれないように深呼吸をすると「そしてね、ええと、加藤だっけ、その死んでた女子大生が遺棄されていた場所の近くで榊に遇った」榊と言う単語に身体をピクリと動かし、呉葉は身体を強張らせたのが分かった。

俺は話を続ける。「特に榊と争う事はなかっんだけど、女子大生の件に関して、あいつは否定も肯定もしなかった。多分、関与はしているんじゃないかと思うんだ」呉葉がよろよろと俺に近付く、そして俺に凭れ掛かった。一瞬刺されるんじゃないかなんて思ったが、今、目の前に居る呉葉はただ声を押し殺して泣いている様にしか見えなかった。

俺には呉葉の胸中は分からなかったが、素直に呉葉を抱きしめてやる事すら出来ずに立ち尽くしていた。

 

どれくらいの時間をそんな馬鹿げた格好で立ち尽くしていたんだろうか。お互いに何も切り出せず時間だけがジリジリと過ぎていく。

そんな状況を打破したのは枝さんの声だった。「おーい、皆川。」割と間抜けな呼びかけとともに枝さんが懐中電灯を片手に現れた。

呉葉はずっと俯いたままで、俺はそんな呉葉を目の端に捉えつつ枝さんのほうを見た。逆光で枝さんの後ろに千秋と真夜が連れ立っている事に気付いたのは3人が間近まで近寄ってからだった。3人も連れ立ってここに来るなんて何事だろうか?

「枝さん、何かあったのかい?」俺は呉葉から視線を逸らし、枝さん達3人の方に振り返る。

「いや、何にも無いわけだが…。お主達の戻りが遅いから、探しに来たわけだよ」安堵の笑みを湛えて枝さんは俺と呉葉を交互に見た。枝さんが『遅い』と言った事で俺はGショックで時間を確認する。20時と22分、確かに心配するに事足りる時間だ。俺は一度目を瞑ると、一呼吸置いてから「心配掛けて悪かったな。そろそろ戻ろうと思ってたところだ。」と言うと呉葉に向き直り、呉葉の右手を軽く握った。呉葉は力なく俺の手を握り返した。そんな呉葉の手を引いて枝さん達3人を先頭に俺はキャンプへと向かう。

「それにしてもこれだけ暗いと不気味さも増すもんねぇ」感心したように辺りを見渡しながら千秋が呟く。

「そうですよね。1人じゃ絶対こんな所来れませんね」真夜が相槌を打つ。

「桜の花とか、妙に浮き上がって気持ち悪いわね」情緒もへったくれも無い。目に入る現実をただ素直に解釈しているだけなんだろうけど。まぁ、高塚の彼女らしいと言えばそうだな、お似合いだろう。クールなカップルってのは2人で居る時どんな会話をしてるんだろうね。案外、熱烈なセックスでもしてるんじゃないだろうな。想像付かないけど。

俺は何度か呉葉を振り返り、暗がりで表情を確認する。しかしながら、闇は深く、輪郭が微妙に浮かび上がるだけで呉葉の表情を掴み取る事が出来ないでいた。多分、強張った表情をしていたのだろうけど、呉葉の態度は落ち着いているように思えた。

帰りの道中は鬱々としたものだった。千秋と真夜の漫才も長くは続かず、誰一人として口を開かない状況になる。5人分の足音が重苦しく付き纏い深遠の杜は静かに俺達を嘲笑うのだった。

 

 

俺達がキャンプに戻ると、三国と継寛が駆け寄ってきた。全く、何だって言うんだろうか。

「なんだよ、お前ら?」俺は2人を睨むように見た。

「なんでもないさ。思ったより、時間が掛かっていたみたいだから、お前達まで殺られたんじゃないかって…」三国が申し訳なさそうな表情で言う。

「こいつは殺したって死なねぇよ。」失礼な事を継寛はさらりと言う。全く、この野郎、俺を何だと思っているんだ。

「酷い事を言うねぇ?」俺は継寛に向かって左の拳を突き出す。継寛はスウェーバックで避けると、俺に向かってフックを繰り出した。それを右手で弾くと左足で脛の辺りに蹴りを入れる。半歩体軸をずらすと継寛はそのまま回転し後ろ蹴りを繰り出してきた。俺はギリギリで避けて、左手でその足をぽん、と叩いて言った。「鈍ってんな」継寛はニヤリと笑って「お前もな。」と右手の中指を立てて見せた。

「何じゃれてるんだ、お前等」高塚が半ば呆れたような表情をして俺等2人を交互に見た。

「いや…」俺は言葉に詰まり、継寛は肩を竦めて見せた。

「体力は温存して置けよ~」枝さんがそう言うと焚き火の近くに腰をおろした。何処から掻き集めて来たのか、薪がパチパチといい音を立てて燃えている。料理を作っていた時は持ち合って来た備長炭だったわけで、俺と呉葉が場を離れている間に総出で集めたのかもしれない。

「今夜は長くなりそうだな」三国がボソッと言うと空を見上げた。星が近かった。久し振りに透き通った気持ちの自分の居る事に気付いた。

皆で話し合った結果、交代で『寝ずの番』をする事にした。何か在った時に対処し得るバランスを取る為に、俺と呉葉、継寛の3人、が21時~24時。高塚に千秋そして俺の3人が24時~3時。枝さんと真夜、継寛と三国の4人で3時~夜明けまでと言う構成となった。

 

 

「それにしてもでかい事になっちまったな」俺は継寛に話し掛けた。継寛はストレッチをしながら「そうだな」と短く答えた。

「ねぇねぇ、ゆたか。コーヒー飲む?」呉葉がインスタントコーヒーの入ったマグカップを2つ持ってきた。

「サンクス」継寛がマグカップを受け取る。呉葉が自分のコーヒーを啜る。

「俺のはまだ用意して無かったってことか…。ブラックで濃いの頼むわ」俺は呉葉のマグカップを受け取り、啜る。砂糖とミルクたっぷりのそれはもはやコーヒーと言う飲み物ではなかった。

「はいはい、手間のかかる人ね」呉葉は面倒そうな顔をしてテントへマグカップとコーヒーを取りに行った。

「襲撃とか来ないかねぇ?」物騒な事を言い、継寛はマグカップを地面に置くとシャドウボクシングを始めた。

「来られても困るわけで。どう対処するんだよ」俺は継寛を目の端で見た。

「大学生の連中が2人死んでるわけだから、仲間割れだとしても残り2人じゃん。2人なら俺達で楽に行けるだろ?」その根拠は何なんだ?相手は武器を持っているし、昼間の事を考えると連中は此方の攻撃が効かない。何故効かないのか俺にはさっぱりとわからないのだが。事実、若干の嫌悪を感じるようでは在ったが痛みとして認識しているようには思えなかった。

「何事も無いに越した事は無いさ」俺はタバコを加えて空を仰いだ。満天の空何処までもノイズのように星が広がっていて、俺は空に落ちていくような感覚にとらわれた。

「ほい、お待ち」呉葉がマグカップをくれた。並々と注がれたそれは琥珀色を通り越して真っ黒に濁って見えた。

一口、口をつけると、苦味に眠気が一気に引いていく。脳味噌が覚醒していく―わけは無い。カフェインなんてとうの昔に効かなくなっている。利尿効果しか作用しないはずの液体は俺の胃袋を刺激し、空腹感を高めた。普通はコーヒーを飲んで腹が減るなんて事は無いだろうけど、俺は減るのだ。

「腹減ったな…」俺はタバコを引き摺りだして咥えた。妙に草臥れたタバコに俺は鞭打って火を点ける。ゆっくりと紫煙が沸き立ち空に消えていく。

「もう、腹が減ったのかよ」呆れ顔で継寛が俺のタバコを奪い取り焚き火に放り投げた。

「あ、なにすんだよ、お前」俺は継寛を睨む。「身体に悪いぜ?吸い過ぎだ」継寛は悪ぶれた振りもせず笑った。

「ぁー、全く…。タバコで空腹を紛らわせようとしてるのに、何するんだよ」俺はもう一本タバコを引き摺り出す。

「まてまて、何か作ってやるから」継寛はニヤリと笑ってテントに入り、自分のリュックサックを持って這い出してきた。

「なんだよ、食材を隠し持ってたのかよ」俺はジト目で継寛を見ると継寛は「いやいや、現地調達さ。リョータとこっちに来る途中にキノコを摘んできたのさ」とリュックサックから透明なビニル袋に詰まったキノコを引っ張り出した。

「キノコかよ…俺はパス」俺は右手をヒラヒラと振って拒絶の意志を伝えた。どうも、昔からキノコと言うとその毒性を先にイメージしてしまう為、食べると言う行為は非常に勇気の居る事なのだ。椎茸ですら俺は食べるのを躊躇する。ナメコやシメジなんて見ただけで怖気が差す。

「まぁ、良いや。他の連中が夜食で食べるだろうから調理しておくさ」継寛はそう言うと若干の調味料を用意し、炒めたり、焼いたり、スライスしたりして見るだけで俺を恐怖に陥れるその食材を見事にキノコサラダに仕立て上げてしまった。流石は料理人の卵だな、まったく。

「美味しいね」呉葉が3つに分けられた大皿のうちの1つを手に取り盛り付けられたキノコを頬張っていた。

「皆川、食えないのはミニトマトだけだったんじゃないのか?」継寛がクックックと笑う。

「キノコは食材じゃない。俺の中では!」なんだか馬鹿らしくなってきたので、俺は咥えたままのタバコに火を点け目を閉じた。いつもより濃い目のタバコの味が俺の全身に染み入っていくような感覚にブルッと身を震わせた。しばらくそうやって俺はタバコの味を深く味わっていた。

 

「そろそろ、交代の時間じゃないか?」俺はゲーム機械と化した携帯電話で時間を確認すると2人に告げた。

「ん…そうだな」継寛が腕にはめたスウォッチで確認し、小さく頷いた。呉葉は俺の隣で寝息を立てていた。

「ふう、継寛、高塚達を起こして来てくれ。それと、濃い目のコーヒーを一杯頼むわ」俺は呉葉の頬を抓ったり引っ張ったりしながら継寛に言った。呉葉は、俺に頬を抓まれるたびに「うにゃむにゃ。」とか、言葉にならない言葉を吐き出し、夢の世界を旅し続けた。まったく、暢気なものだよ、このお姫様は。俺は軽く空を仰いで、立ち上がる。呉葉は俺が寄りかかっていた大きな樹に預けた。ミシミシと全身の腱が鳴き、俺は身体を左右に振って解した。

「あと、3時間か」俺は小さく呟いた。

 

 

深い海の底から水面を望むように、鏡面の境界を俺は臨んだ。しょぼくれた顔を貼り付けした俺が居た。それは波紋によって崩れ去って、ワンワンと耳鳴りが世界を支配していった。

 

「おい、起きろ」無粋な声で俺は目を覚ます。暗がりに輪郭が浮かぶ。見慣れない輪郭だ。誰だっけ?俺は軽く頭を左右に振る。

「お、起きたか。皆川が起こして来いって言うからさ」そいつは感情を捉え難い表情をして俺に俺を起こすに至った理由を説明した。

「ああ、サンキュ」俺はシュラフから這い出すと、首をコキコキと鳴らして見せた。

「そうそう、これ、皆川に渡してやってくれ」そう言って見るからに濃いだろうコーヒーが並々と注がれたマグカップを手渡された。

「ういよ、んじゃ3時間の夢路を愉しんでくれ」俺はそう告げるとテントの入口を閉じた。

真夜中の森の匂いって言うのも中々、オツなものだ。普段嗅ぎ慣れないすんだ空気を2、3回深呼吸で思う存分肺に送り込むと眠気も何処へ消えてしまった。パチパチといい音を立てている焚き火の側に皆川の姿を確認すると、先程手渡されたマグカップを皆川に渡した。

「お、おはよう。眠れたか?」皆川が屈託の無い笑顔で俺に問い掛ける。

「それなりに」俺はそう告げると皆川の傍らに眠っている呉葉の姿を見つけた。「此処で寝かすの?」と短く聞いた。

「いや、どうしようかと悩んでいるところ」皆川は少し困ったような表情を浮かべて、呉葉に視線を落とした。

「起こせば?」俺はそう言ってから大きな欠伸をした。

「起きないんだ」皆川は静かに言った。

「そうか、じゃ、そのうち目を覚ますだろ」そう言うと俺は皆川の隣に腰を下ろした。

「千秋ちゃん、起こさなくて良いの?」俺は高塚に尋ねる。

「枝さんの妹も一緒に寝てるだろ。どうしろと?」俺は皆川を睨んだ。

「大丈夫だろ、起こしてこいよ。延々3時間お前の顔を見続けてるって言うのも気分が悪い」失礼な事を言う奴だ。

「はぁ、しゃぁ無いな」俺は腹を括って千秋を起こしに今這い出してきたテントの隣に向かった。俺達が寝ていたブルーのテントの隣に一回り小さなモスグリーンのテントが張られている。俺は一瞬躊躇ってからテントの入口のファスナーを下ろした。そこに在ったのはあられもない格好をした2人・・・ではなく、きっちりとシュラフに身を埋めた2人だった。俺は入口近くに眠っていた千秋に屈み込むと、肩を揺すってみた。思いも因らぬ事に、3,4回揺すると千秋は目を覚まし、起き上がった。

「おはよ」眠たそうに目を擦ると千秋は枕元に置いた眼鏡を手に取り、シュラフから這い出した。いつものように裸同然の格好ではなく、珍しく、ジーンズとトレーナーで武装していた。確かにこれだけ山深い場所であれば冷えるからな、流石の千秋でもそれなりの服装で眠っていたのだろう。

俺はテントから出ると、皆川の所に戻った。相変わらず呉葉が眠っており、その長い髪を梳くようにして皆川が頭を撫でていた。

「早かったな」呉葉から視線を外さずに皆川が俺に言った。

「ん、思ったより梃子摺らなかった」俺は焚き火に視線を落としていった。焔の揺らめきを見ていると何処か遠くに連れて行かれるかのような錯覚にとらわれた。何故、人はこうやって思考を解放すると、自我を霧散してしまうような感覚にとらわれるのだろうか?古の哲学者達はこうやって自らの存在を何者かに問うたのだろうか?くだらない思考がグルグルと頭の中を駆け巡る。それは走馬燈のように揺らめきながら、同じ場所を永遠に回り続けるのだ。

「おまたせ」凛とした声に我に返る。声の主は確認するまでもなく千秋だ。

「おはよう」皆川が社交辞令の笑顔を貼り付けて千秋を見ていた。

「おはよう。寒いねぇ」千秋は上下が対になった黒色のトレーナー姿で寒そうに立っており、両手で身体を包み込むようにして一度大きく身震いをした。

「まぁ、夜中だからな。こんなもんだろ」俺はそう言うと自分の羽織っていたジャケットを脱いで千秋に渡した。

「そうそう、さっき継寛が作ったんだけど、腹減ったなら食え」皆川は傍らに置かれた皿を俺に差し出した。

「何だこれ?」俺はそう言って手渡された皿を覗き込むとそこにはキノコサラダの盛り付けられていた。

「サンキュ」俺はそう言うと、ラップを剥がして、キノコを1つ摘んで口に放り込んだ。可も無く不可も無い味だった。

「お前は要らないのか?」俺は皆川に尋ねた。「キノコは喰わない事にしているんだ」皆川は若干の不機嫌を言葉に乗せて言った。

「そか。千秋、喰おうぜ?」俺は千秋にキノコの盛り付けられた皿を差し出したが「ん、おなか減ってないからあたしは良いよ」と断られた。仕方無しに俺はキノコを腹八分目くらいまで自分の中に放り込む羽目になった。

 

「それにしても、死んでた人達って、なんでこんな所で死んだんだろうね?」千秋がミルクたっぷりのホットコーヒーを啜りながらそう言ったのは俺がキノコなんてもう当分見たくないと思ったと同時だった。

「さてね?人生に疲れたとか、恋人に振られたとか、借金取りに追われてるとか、そう言う類では無さそうだな」皆川が短くなったタバコを焚き火の中に吐き棄てると同時にそう言った。

「確かに、こんな所を自らの最後の場所にするには聊か森が深過ぎるな」俺はそう言うと熱いだけで美味しくも無いコーヒーに口を付けた。

「それに―、例の大学生のお兄ちゃんの死体は明らかに害意を持って破損させられていた。殺された時にされたか、死んだ後でやられたか、俺はプロじゃないからわからないが。腹を裂かれて死ぬって事は中々思い付きで出来る事じゃない」皆川はシリアスな顔でそんな事を言う。

「何が言いたいんだよ、お前」俺は皆川が何かとんでもない事を言い出しそうな予感がして、その不安を拭おうと尋ねる。

「簡単な事じゃないか、大学生の連中に対して何らかの意思を持った奴がいて、そいつがあの兄ちゃんと…あ」皆川はそう言って言い澱む。この莫迦、千秋が居る事を忘れていたんだろう、余計な一言を言いやがって。

「え…?『と』って?」案の定、千秋が皆川の発言に鋭く疑問を抱いたようだ。間髪を入れず、「え、俺、何か言ったっけ?」皆川は柔和な笑みを浮かべながら千秋を見て言った。然しながら千秋にそんなポーカーフェイスは通用せず「こーくん、言ったよね?」と俺に同意を求めた。俺は友情と愛情の鬩ぎ合いの中で愛情を取る事を即決した。「言ったな」俺は皆川から視線を逸らし、パチパチと音を立てながら燃え続ける焚き火を見ながら言った。一瞬、皆川の鋭い視線を感じたが、無視する事にした。

「言ったか?」そう言って、皆川は肩を竦める。しばらく沈黙が俺達の間に漂い、皆川は観念したように「仕方ないな」と話す意志を固めたようだ。深い溜め息を吐き「何処から話せば良いんだよ?」と疑問符を投げつけてきた。

「えーと…、『と』の続きからで良いよ?」千秋が自分の膝に頬杖を突き、子悪魔っぽく笑って見せた。皆川は本当に気だるそうに溜め息を吐くと夕方の出来事を話し始めた。

 

皆川の声のトーンは嫌がらせのように、落ち着いていて、自信に満ち溢れている。聞いていて妙に安心してしまう声なのだ。

そんな声を10分程度聞いていると、意識が飛びかける。体力と精神を限界まで切り詰めた時、睡眠へ至る道程は単純だ。ただ、シャットダウンされるだけなのだから…、現実と言う名の泡沫が。

俺はうつらうつらとこの世の揺り籠に身を委ねながら、そんなくだらない事を考えていた。焚き火の放つ遠赤外線効果が心地良い。

皆川と千秋が何か話しているのが遠くに聞える。何を話しているんだ?妙な胸騒ぎがする。皆川に限って友人の女に手を出すなんて事は無いだろうが。

枝さんを呼んで来ないと…そんな強迫観念に襲われながらも、俺の意識が無常にも飛ぶ。

 

時間軸が細切れになる。

 

断絶した世界が展開される。

 

コマ落ちした世界が続く。

 

千秋の姿が無い。

 

何処へ行った?

 

意識を保つ為に俺は太腿を殴打した。「痛っ…」俺は痛みで覚醒する。然しながら、思考はまだ半分くらいダウンしている。それでも、何とか立ち上がり、頭を左右に振ることによって俺はそれなりの覚醒状態になる。

足元に転がった飲みかけのペットボトルを手に取ると温くなった中身を寝惚けた体内に流し込んだ。

空になったペットボトルを地面に置くと、コンっと乾いた音がした。皆川がその音に気付き、ゆっくりとこっちを向く。俺のほうを向いたのかと思ったが、高塚の視線は俺の後ろに向けられている事に気付き、俺はとっさに身を翻した。

「ち、気付きやがったか」枝さんがにこやかに笑ってそこに立っていた。

「驚かすなよ、お前等」俺は枝さんと皆川に文句を言った。

「こんな時くらいしかお前を陥れられないだろ」枝さんがからからと笑い、俺にお茶の入ったペットボトルを投げて寄越した。

「ん、今、飲み干したところなんだが…」俺はうんざりとしてタプンタプンと透明な檻の中で踊るその液体を眺めた。

「茶なら俺が飲むぞ」皆川がヒラヒラと手を振った。俺はそんな皆川に向かって500mlのペットボトルを弧を描くようにして投げた。皆川はキャッチしそこない鈍い音が聞えた。皆川はペットボトルを拾い、栓を開けると喉を鳴らしてお茶を身体に流し込んだ。

「んじゃ、代わりにこれをやろう」一息ついた皆川がブラックの缶コーヒーを投げて寄越した。

「サンキュ」俺はコーヒーを受け取ると、プルタブを引いた。水っぽいコーヒーだったが、無いよりはマシだった。

「もう、交代の時間か?」俺はコーヒーに口を付けながら、そう言うと枝さんを見た。

「うむ、さっき千秋ちゃんが起こしに来たからね。三国と菅沼もそろそろ来るよ」そう言うと枝さんは皆川の隣に腰を下ろした。

「さて、そろそろ俺も寝るかな」皆川が大きな欠伸をすると、立ち上がった。その意見に関しては俺も同意だ。皆川は呉葉を抱き上げると、枝さんにおやすみと言って、テントへと向かった。俺ものったりと立ち上がり、テントへと向う。途中で三国と菅沼と擦れ違った。2人ともやけに眠そうだった。まぁ、当たり前と言えば当たり前なのだが。

そこから先は覚えていない。極色彩が視界を多いつくし、俺は妙な世界へと堕ちて行った。聞き覚えの在る声がわんわんと鳴ったり、妙な衝撃を受けたりしたが、それはそれで俺を愉快にしてくれた。

 

 

自分に遅れる事5分ほど。三国と菅沼が連れ立って現れた。三国は相変わらずにこやかな顔をして、菅沼は少し仏頂面で現れた。

「おふたりさんおはよう」僕は軽く右手を上げて挨拶を交わす。

「おはようございます」よく出来た手本のような笑顔で三国が僕に会釈をする。僕は皆川の昔からの友人にしては良く出来ているなと、感心してしまった。一方、菅沼は「おはよう」と仏頂面のまま言って、焚き火を前にしゃがみ込んだ。これが、菅沼の個性なんだろうなと、1人で納得して僕は2人に缶コーヒーをアンダースローで投げて渡した。

「サンキュ」と菅沼。

「ありがとうございます」と三国。

しばらく3人で皆川の悪口とか、今回の登山の事とか色々と話して、ハタと気付いた。

「ありゃ、真夜が起きてきていない」僕は2人に申し訳なくなって立ち上がるとテントに向かった。…そもそも、向かうとか向かわないとか言う距離でもないわけだけど。

ファスナーを上げ、テントの中に顔を突っ込んで様子を窺う。真夜が気持ち良さそうにすぅすぅと寝息を立てていた。妙な違和感を憶えながらも僕は真夜を起こし、三国と菅沼の所に戻った。

「空気が美味いなぁ」三国が深呼吸をしてそう言った。

「確かに美味いな」菅沼が相槌を打つ。

「ふぅ、このまま何事も無く過ぎてくれよ…」僕は祈るようにして空を見上げた。星星が頼りなく瞬いていた。

「ふぁぁぁぁぁ、おはよーございます」大欠伸をかましながら、ボサボサになった髪で真夜が現れた。

「…おはよう」一瞬、言葉が遅れたが三国は何事も無かったかのように挨拶を返した。ある意味、達観しているのか、他人に興味が無いのか。

「おなか減ったー。お兄ちゃん、何か食べるもの無いの?」眠そうに目を擦りながら真夜は僕に尋ねた。

「…ん」菅沼がラップをかけた皿を差し出した。

「ほえ?」僕はそれを受け取るとラップを剥がした。

「わー、美味しそう」真夜がスライスされたキノコを口にした。しばらく無言で口をもごもごしていたが、「美味しい~」と皿に盛り付けられたキノコをバクバクと平らげ始めた。

「ほう、じゃワシも」僕はそう言うと真夜の横から皿に手を伸ばした。キノコ自身の味は兎も角、菅沼が作ったソースは美味しかった。

「こりゃ美味しい。なんて言うキノコなんだ?」僕は2人を見た。

「ん?さぁ?」菅沼がサラリと言う。

「まぁ、日本には数千種のキノコがあって、そのうち毒キノコは50種類くらいだっていうから、大丈夫だよ」三国がカラカラと笑って見せた。

「ふむ、確かにその中で毒キノコに当たったらすごい確立だな」僕はそう言ってもう一皿用意されたキノコの盛り合わせに手を伸ばした。一瞬、妙な感覚にとらわれたが、寝起きだったし、大した事は無いと気に留めなかった。

「キノコ自身はそんなに美味くないけど、ホント、ソースが美味しいよな」三国がそう言うとキノコを頬張る。

「まぁ、調理方法とかも在るだろうからな」不機嫌そうに菅沼が言った。

「美味しいじゃないですか。すごいですよ」満面の笑顔で真夜が菅沼を誉めるが、菅沼は余面白そうな顔をしない。食材とソースのハーモニーがキチンと出来ていない事に不満なようだ。流石はプロの卵といったところか。僕は1人で感心しながらほんのりとした気持ちで皆の遣り取りを眺めていた。

 

『ぐにゃり』と、世界が傾いだのは暫くしての事だった。真夜の笑い声がやけに耳につく。極色彩が飛び交う世界に僕は居た。菅沼が無機質になっている。三国が笑っている。僕も笑わないと。

「よう、景気はどうだい?」赤色が語りかけてきた。

「上がり傾向」僕は答えた。

「そいつはいいや」赤色は笑った。

「ホント、いいね」僕も笑った。笑い声は1つになり空に巻き上がっていく。星星に僕らの景気の話が聞かれない用に僕は耳を塞いだ。

「楽しそうね」黒いのが言った。

「楽しくはないさ」僕は答えた。

「そう?じゃぁ、愉しませてあげる」黒いのはそう言った。

「是非」僕がそう言ったか、僕は覚えていない。視界が暗転した。

 

 

 

 

夜中の冷え込みで浅いまどろみのような世界を漂っていた。

 

妙な笑い声が聞えたような気がして耳を澄ましてみる。

 

しん、と一瞬静まり、それから大きな笑い声が束になって聞えた。

 

なんだろう?

 

俺はもぞもぞとシュラフから這い出し、隣で眠っていた高塚と呉葉を起こさないようにしてテントから出た。

少し離れた所に焚き火が放つ赤色が揺ら揺らと揺らめいており、そこから笑い声は聞えてきた。何を騒いでいるのかと、俺は寝惚けた頭を揺さ振ってから歩き出した。近付くにつれ、笑い声に混じって鈍い音が聞えた。

「あーあ、こんなところで起きて来ないでよ」舐めるような視線を俺に向け、加藤が手に持った特殊警棒に似せた獲物を継寛に振り下ろした。継寛は何の抵抗もなく、それを身に受けていた。

「ちょっとまて」俺は加藤に蹴りをかます。加藤は相変わらず、避ける事もせず俺の蹴りを太腿で受止めた。

「なぁに?あんた、相手にして欲しいの?」にやりと笑って加藤が俺に向き直る。この間のように鉈じゃない分、何とか立ち回れそうだ。

ちらり、と俺は横目で継寛を見る。継寛は情けなく薄ら笑いを浮かべ、焦点の合っていない目で虚空を見ていた。

「何だ…?」俺は思考する。

「誘っておいて何よそ見してるのよっ」ブンっと空を斬り警棒もどきが俺の髪を掠める。どう対処すればいいんだよ…こんな奴。俺は仕方無しにもう一度蹴りを入れる。それを腹で受止め、加藤はよろめく。

「ち、効かないか…」俺は周りを見る。ぶつぶつと何か言いながら樹と向き合っている三国、地面に突っ伏している枝さん。そして、何かに誘われるようにして真夜が茂みに姿を消した。真夜を追おうとしたが、加藤が邪魔で行くに行けない。夜明けまでもう少しだろうに、何だってんだ…。心の中で舌打ちをすると俺は加藤に向き直った。

「仕方ないな、相手、してやるよ」俺はそう言うと加藤の持っている獲物を狙って蹴りを入れた。ゴっと厭な感触が靴底を通して足の裏に伝わる。若干のタイミングがずれて、カラン、とジュラルミン製であろう、それが地面に落下した音が聞えた。

「うわ、酷いな」加藤がヘラヘラと笑って焦点の合わない目で睨む。俺は無言で加藤に近付く。加藤は抵抗する素振りも見せなかった。俺は鳩尾に思い切りボディブローを決めた。「ぐぅ」と人間らしからぬ呻き声を上げて加藤は地面に突っ伏した。俺は自分のベルトをズボンから引き剥がすと加藤の手首を縛り上げた。足の自由も奪っておかないと事だな…。俺は枝さんのベルトを拝借すると、加藤の足首にも巻き付けた。それから、なるべくラリった継寛と三国が影響を及ぼさないように茂みに転がした。

「さて、と。どうしたものかね?」俺は目の前に広がる惨状に頭を抱えた。まったく、まともな人間が一人も居やしない。俺だけか…。そこではっとなって気付く。「あ、真夜ちゃん」俺は真夜が姿を消した茂みに走った。しかし、どれだけ探しても真夜の足取りは掴めなかった。どうしたものかとしばらく途方に暮れ、高塚と呉葉を起こすことにした。

 

 

吸い尽くした観のあるタバコのソフトケースから本当に草臥れて疲れきった中年のような最後の一本のタバコを引き摺り出すと火を点ける。夜明け前の空にか細い幾何学模様を描き、タバコの煙はサヨナラを告げるでもなく、その姿を消した。

「まったく」俺は今まで眠り扱けていたテントに戻ると、俺は俺が出たときのままになったテントの入り口を潜り抜けた。呉葉が心地良さそうに転がっていて、高塚も同じようにして転がっている。俺は吝かながら高塚の肩に手を掛け揺さ振った。

「ん…、なんだよ…、もう朝かよ?」気だるそうに高塚が目を開ける。

「非常事態って奴だよ。起きれるか?」俺はタバコの灰を落とさないようにして、一息に吸った。

「非常事態?何言ってんだ?」不機嫌さに拍車を掛けて高塚は俺を見た。

「冗談でも何でもない。拙いんだ。起きてくれ」俺の声に真剣さを見出したのか、高塚はのったりと起き上がり胡座をかいた。本当に面倒臭そうにして、俺を睨んだ。

「お前がそこまで慌てるって、なんだよ。連中が襲ってきたのかよ?」高塚は額に手を当てながら冗談交じりに話した。

「ご名答!」俺はタバコをテントの外に投げ捨てると高塚に向き直った。

「ほう、…ってか他の連中は?全員やられたとか?」高塚は音もなくすっと立ち上がった。

「いや、やられたのは菅沼だ」高塚に続いて立ち上がった。

「ふむ。他の連中はどうしてるんだ?」高塚は屈むとテントの外に出た。俺も無言で高塚に続く。肺を突くような冷たい空気に身を震わせて俺達は暖のある焚き火の元へと急ぎ足で歩いた。

「見ればわかるさ」そんな俺の態度を訝しげに一瞥すると高塚は小走りで俺の視界から消えた。そんな高塚の背中から視線を外すと「まったく、どうしろと言うんだよ」俺はタバコの煙か、それとも単に息が白いのか。わからないけど、目視できるその気体が消えていくのを見ていた。

 

「皆川、これはどうなってるんだよ?」高塚がそれはもう呆れました、と言う表情で俺を振り返った。

「俺が聞きたい」俺はそう言うと焚き火の前でしゃがみ込んだ。

「つうか、これ何したんだ?」高塚は地面に突っ伏してぐんにゃりしている枝さんの腕を取り、ぶらぶらと振り回しながら尋ねた。

「なんだろうな?」俺は何気なしに、足元に転がった平皿とスライスされたキノコを見た。まさか、な?「なぁ、こーちゃん。キノコに詳しい?」俺はスライスキノコの一片を摘み上げると目の前でぶらぶらさせた。

「んー、さっき喰ったやつだろ?」面倒そうに高塚が俺の持っていたキノコを奪い取った。一瞬、表情が険しくなる。

「なんだよ、こんな時に冗談は通じないぞ」俺はごそごそとタバコを求めて上着を漁った。内ポケットからサラのタバコを引っ張り出すと封を開けた。その間にも沈黙は続いており、高塚はキノコの断片からそれがなんと言うキノコであるのかを割り出そうと頑張っていた。

「んで、わかったのか?」タバコに火を点けて暫くしてから尋ねた。

「まーな。テングダケだぞ、これ」高塚はキノコの断片を火の中にくべた。

「それって毒キノコだろ?」俺は皿を蹴った。

「最近じゃ、マジックマッシュルームって呼び名も定着してるけどな」高塚は枝さん、三国、継寛を一通り見渡して「これの所為で間違い無さそうだな」と俺の蹴った皿から零れたキノコを踏みにじった。

「つうか、死なないのか?」俺はドン引きになりながら高塚に尋ねた。

マジックマッシュルームだからな。大量摂取しない限りはそうそう死に至らんよ。症状は…まぁ、今みたいな幻覚が見えるのと、吐き気と下痢くらいだったと思う」言い切った高塚を見上げて俺は此処に来て何回目になるだろうか、溜め息とタバコの煙がハイブリッドされたものを吐き出した。

「どれくらいで正気になるんだ、こいつら」俺はさっきの高塚のように一通り見渡した。三国は変わらず樹木となにやら難しい会話をしているし、枝さんは地面と熱烈恋愛中だ。継寛だけがなんとか正気を取り戻せそうな位置に居るようだった。

「しらねぇよ喰った量によりけりだろ」高塚は枝さんと三国は無理だろうな、と俺と同じ見解を示すと、継寛を揺さ振った。と三国は無理だろうな、と俺と同じ見解を示すと、継寛を揺さ振った。

「う……あ……」呻き声を上げると継寛は仰向けになった。

「こいつもダメっぽいな」高塚が半ば諦めの表情をして俺に振り返った。

「どう見てもダメっぽいね」俺もその意見には賛同したので高塚の言葉に無為に頷いて見せた。

「うー、気持ち悪い」突然、枝さんが起き上がるとよろよろと木陰に向かって歩き出した。

「起きたぞ?」

「起きたな?」俺と高塚は顔を見合わせた。

しばらくうんうん唸っていたかと思うと一瞬の静寂が訪れ、刹那、吐瀉音がそれはもう盛大に鳴り渡った。

「おいおい…」俺は枝さんの背中に視線を向ける。高塚も同じように枝さんの背中をただ、見ていた。

「あー、スッキリした」枝さんは口の端に吐瀉物をちょっぴりつけて、満面の笑みを俺達に向けた。

「そうかい」高塚はかなり引いた顔をして聞き流すように答えた。

「まぁ、それで…。枝さん、大丈夫なのか?」俺は平然と笑っている枝さんに驚異を憶えながら尋ねた。

「大丈夫って?ああ、多分、食べ過ぎたんだな」そう言うと先ほど倒れていた場所まで戻り、ペットボトルの蓋を開けると、吐いた分だけ飲むような勢いで喉を鳴らしながらお茶を飲み乾した。

「つーか、枝さん。お前が美味そうに食ってたのテングダケだぞ」高塚が薄ら笑いを浮べ続ける継寛と樹に優しい言葉を囁きかけている三国を指差して言った。

「ほえ?マジか…」軽く項垂れると、枝さんは急に顔を上げた。そんな行動に一瞬、身を引いた。「そう言えば真夜は?」と枝さんは辺りを見回すような仕草をした。

「あ」その言葉で俺は真夜が茂みに消えたのを思い出した。

「何?」高塚と枝さんが同時に俺を見る。

「そうそう、ふらふらとそこの道を歩いていったんだよ」と俺は枝さんの真後ろに続く道を指差した。

「ほう」高塚が相槌を打つ。

「んで…。あ」俺は放置しっぱなしだった加藤の事を思い出す。茂みから両腕と両足を縛り上げた加藤を引き摺り出した。「こいつに邪魔されて追いかけられなかったんだよ」と加藤の茶髪をはたいた。

「ってか、キノコの話に逸れててすっかり忘れてた。こいつに継寛がやられてるところに出くわして、そして、真夜ちゃんがその茂みの道に歩いていってさ。それを追いかけようとしたんだけど…あー、時間軸が安定しな」俺は自分の説明しようとしている事と口を吐いて出る言葉の相違が非常にもどかしかった。

「落ち着けって」高塚が足元に転がっていた缶コーヒーを投げて寄越した。

「ってか、真夜はどうなってんだよ?」枝さんが俺を急き立てる。

「ちょっと、待てって」高塚が枝さんを宥める。そして俺に向き直り「ゆっくりでいいから正確に説明しれ」と言った。

「ああ…、そうだな」俺は俺が目を覚ました経緯、加藤と対峙した事、真夜を追いかけれなかった理由を混乱した頭の中で何とかフローチャート状にして説明した。俺の言葉が途切れると「そんなもの、お前じゃなくても追いかけれるわけがないじゃんよ」と微妙なフォローを高塚がした。

「真夜を探さないと」枝さんがおたおたと立ち上がる。

「この現状でまだバラバラになるってのか?危険過ぎるだろ」高塚が声を荒げた。

「つか、どうするよ?」先ほどの説明で混乱から立ち直った頭をフル回転させて俺は現状の把握と、これからの考察を行った。

「まぁ、千秋と神崎を集めよう。真夜ちゃんを探すのはそれからだ」妙に落ち着いて普段「面倒だ」とか言って、あまり進んでしようとしないリーダーシップを取る高塚に妙な違和感を感じつつ、その指示に従った。

 

枝さんと2人で千秋と呉葉を起こしに向かう。昼間でさえ不気味さを持った道が深淵の帳に覆われ、静寂に包まれ、名状し難い恐怖を俺の心に植え付けた。

「呉葉」俺はテントの中で眠りこけている呉葉の身体を揺さ振った。

「う…ん?」呉葉はうっすらと瞼を開け、再び閉じた。

「呉葉、起きろって」俺はもう一度呉葉の身体を揺さ振る。そのとき触れた手が妙に冷たくて、一瞬死にかけているんじゃないかってそんな不安を覚えたが、次の瞬間、呉葉は完全に覚醒した。

「おはよー。もう出発時間?」本当に今まで寝ていたんだろうかと疑いたくなるような明朗さで呉葉は俺に微笑みかけた。髪についた寝癖だけが、たった今まで眠っていた事を告げていた。

「ああ、おはよう。よく眠れたかい?」俺は出来る限りの笑顔でその愛しい女に優しさを振りかけた。

「まぁ、ね」両手を本当に気持ちよさそうに天高く伸ばすと、呉葉は俺に抱きついてきた。俺はそんな呉葉を優しく抱き締めると、軽く唇を合わせた。

「おい、千秋ちゃんが居ないぞ」全く、ラブシーンを台無しにする男だな…。俺は慌ててテントの入口を全開にした枝さんを少しだけ睨みつけると「居ないって?」と呉葉を抱き締めたまま尋ねた。

「そのままの意味だよ。テントに居ない。居た形跡もない」形跡って何だよ、お前、刑事か探偵か…なんて突っ込みを心の第6層くらいに隠して枝さんの言い分を聞いた。

「テントを開けたら誰も居なくてさ、妙に気になったから全員のシュラフに手を突っ込んでみたんだけど、どれもこれも冷たくて…」なんとなく言いたいことは理解できた。そんな俺と枝さんの遣り取りを不思議そうに見ていた呉葉が「何か合ったの?」と口を挟んだ。

「ああ、歩きながら話すよ」俺はテントから這いずり出し、呉葉も俺に続いた。呉葉の右手を取って立ち上がるのを手伝い、「で、枝さん。千秋さんは居なかったんだね?」と尋ねた。

「ああ。真夜といい、千秋ちゃんといい…何処に行ったんだ」妙に焦燥感に駆られたような表情で枝さんは俺の肩を掴んで揺さ振った。

「俺が知る訳無いだろ」俺は枝さんの肩を掴み、揺さ振り返した。

「……う、……まぁな」そう言って枝さんは俺の肩を掴んでいた両手の力を抜いた。俺は軽く枝さんの肩を握り、「まぁ、話していても仕方ない。高塚達と一度話して対策を練ろう。今、俺達がバラバラに探しに行っても収拾が付かなくなるだけだ。今は落ち着け」と小声で言った。枝さんは小さく頷いて納得してくれたようだ。

 

 

 

 

うっすらとお互いの輪郭が見えるくらいに世界は明るくなったように感じた。

深層の森の中、僕ら3人は取り合えずテントから這い出し、状況の確認をしていた。僕と皆川の持つ懐中電灯の灯りだけが無限に広がる暗黒の中で頼りなく燈っていて、何だか妙な不安を煽られた。

「へぇ…そんな事があったんだ」皆川の誇張だらけの長くて詰まらない話を聞き、何の感情も現さないようにして呉葉はそう言った。僕にはそう聞えた。

「うん。ってか、よく毒キノコを喰って生きてるものだな」皆川が珍しいものでも見るような顔で僕の顔を覗き込んだ。シルエットだけだった皆川の存在がキチンと表情を持った。時の経過を感じながら僕はちょっと空を仰ぐ。

「ほとんど吐き出したしね」僕は皆川の言葉を気にしないようにして答えた。歩きながら話すとか言いながら立ち話をし始めた皆川の踵を蹴って言った。

「ふむ。運が良いなぁお前。いつぞやガソリンを頭から被ったときもよく、引火しなかったよね。今回もよく死ななかったもんだ」皆川は非常に残念そうな表情をして僕を見た。まったくもって失礼な男だ。

「ナンダヨその顔は」僕は皆川の顔を押し除けると歩き出した。皆川と呉葉も僕につられたのか、歩き始める。

「真夜ちゃんも千秋ちゃんもどうしちゃったのかなぁ」後ろから聞えてきた呉葉の声には確信的な何かが含まれているように感じた。

 

「おせぇぞ、お前ら」高塚が仏頂面で僕達を迎えてくれた、なんてありがたくないんだろう。

三国と菅沼は何処から用意してきたのか、頭の下にタオルを敷かれ寝かされていた。高塚はこういうところに関して、異様なまでにマメな男だ。復活する様相もないので僕等は彼等を見て見ないことにした。加藤に関してはバスタオルらしき長めのタオルがかけられていた。高塚が意外とフェミニストなのだと思うと僕は吹き出しかけた。

「すまんすまん」皆川がカラカラと笑いながら高塚の隣に腰を下ろした。

「千秋はどうした?」高塚が僕達3人を見回して尋ねた。

「一応、探したんだが、テントには居なかったぞい」僕は皆川と向き合う位置に座り込んだ。

「ふむ…」高塚はそう言うと黙り込んだ。

「何だ?居ない事がわかっていたみたいな反応だな」皆川は高塚の言葉に矛を突きつけた。

「…なんとなくな」高塚は伏せ目がちにそう言うと、立ち上がって白み始めた空の一点を見つめた。

「なんだよ、思わせぶりだな」皆川がバツが悪そうに高塚を見上げた。

「いや…あいつ。最近、仕事がうまくいってなかったみたいでさ。それもあってのんびりさせてやろうかと思って連れてきたんだが。こっち来たらさぁもっと酷くなって、消えてしまいたいとかわけのわからん事を言ってたんだよなぁ」そう言うと高塚は額に手を当てて屈みこんだ。

「軽い鬱ってやつか?それにしてもこんな危ねー時に消えなくてもいいじゃんかよ?」皆川は羽織ったジャンバーのポケットから新品のタバコを取り出すと封を切る。面倒臭そうにトントンとタバコの頭を叩くと、一本タバコが競り上がってきた。それを抜き取ると皆川は咥え、火を点ける。相変わらずの咽返るような臭いが周囲を満たし、僕は一度顔を背けた。

「それで、どうする?」僕は2人の遣り取りが延々と続くような気がしたので思い切って切り出した。

「どうするって、何を?」高塚が僕を不思議そうに見る。

「真夜ちゃんと千秋ちゃんの捜索だろ」皆川は面倒臭そうにタバコの煙を吐き出すと僕の目を見た。眼鏡の奥にある切れ長のその目は静かな光を湛えていた。

「うむ」僕は頷くと立ち上がった。

「そうだな」皆川は1人で納得したように呟くと「じゃー、こーくん。お留守番ヨロシク」そう言い、皆川は「かったりぃな」といつもの口癖を呟き僕に目配せをした。

僕はそんな皆川に「サンキュ」と口の中で言うと、皆川は理解したのかにっかりと笑った。

「んじゃ、呉葉。お前もお留守番だ」呉葉に笑って皆川は立ち上がった。

「えー、あたしも行きたいー」呉葉は地団駄を踏んだが、皆川は頑として許さなかった。

「お利口にして待ってるんだぞ」皆川は駄々を捏ねる呉葉の頭を撫でると「行こうか、枝さん」と俺に向き直る。

「ああ」短く返事をすると俺達は朝霧の立ち込める森に一歩を踏み出した。

「んじゃ、直ぐ戻るわ」皆川が軽くそう言うと左手を振って、先に歩き出した。

こういう時の皆川は妙な行動力を持っているので非常に頼もしい。

「んでは行ってくるのう」僕は高塚と呉葉に手を振ると既に10mくらい先を歩く皆川のところまで駆け出した。

朝靄の立ち込める獣道を2人、無言で下っていく。

皆川は真夜が櫻ノ海の方に歩いていくのを見たらしいので僕はおとなしくそれに従った。まぁ、冷静に考えれば真夜が櫻ノ杜に向かうにはキャンプの中を抜けなければいけないので、櫻ノ海に向かった以外は選択肢はないはずだ。

「しかし、わからんな…」皆川がやっと追いついた僕に話し掛けた。

「ほえ?何がだ?」僕は皆川の意図するところが掴めなかったので尋ねた。

「千秋が俺達の前から消えたのは鬱っぽい心の病気の為だとしても、真夜ちゃんが消えた理由が見当たらない」皆川は顎に手を当ててなにやら考え込む振りをする。

「何か不審な点でも在るのかい?」僕は皆川の隣に並んでみた。皆川は僕に気を止めるでもなく前方のただ一点を見つめたままで歩く。

「不審な事だらけだ。考えても見ろよ。あのキノコでラリったとして、女の子が素面の俺達が探せなくなるくらい遠くまで歩けるものか?枝さん、どうよ?」皆川はそう言って僕を見た。

「確かに、僕の場合は妙に気だるくなって歩けたもんじゃなかったなぁ」僕はあの時の事を思い出した。気分はハッピーだったが、妙な倦怠感が身体の中を渦巻き、その場で寝転ぶ事しか出来なかったからな。皆川の言う通り、そんなに遠くまで移動する、と言うのは不審なのかもしれない。

「あとは、都合よく加藤が襲ってきた事か。お前等がキノコを喰ってトリップするのを見計らって来たような感じがしないでもない。まぁ、それでなくても戦力が一番ない奴らが当番している時に来るなんて、何かしらの意図を感じてしまうんだよ」皆川は急に立ち止まる。そして「『厭な予感』がする」と強調して皆川は呟いた。

「なんだよ、冗談なら止めとけ」僕は皆川の肩を揺さ振った。シンと静まり返った世界に息吹くものの気配は2つだけ。昏い光を目に点した地蔵が立ち並ぶ異世界で僕と皆川だけが生きている。

「この臭い……わからないか?」手をかけた皆川の肩が緊張の所為か、硬直していく事に気付く。

「…何の臭いだ?」僕は皆川の言う、臭いを確かめる。

 

それは鉄の臭い。

そして、魚の生臭さ。

今まで嗅いだ事のない胸糞が悪くなる臭いに僕は気付いた。

 

「冗談…血の臭いじゃないか」皆川は立ち止まったまま周囲に目をやる。僕もソレに合わせて臭いの元を探す。

「割と近いな」皆川は鼻を鳴らして左右の地蔵の間を行ったり着たりした。

「こっちじゃないか?」僕は左側の地蔵の方向を指差した。皆川はもう一度だけ左右に向かって鼻を鳴らし「そうだな」と僕の指した地蔵の間を抜け、茂みに身を投げた。

僕は躊躇い地蔵の所で立ち尽くす。夜は完全に明け、懐中電灯の必要性などもう何処にもなく、陰影により邪悪なイメージを呼び起こさせる地蔵の朗らかな顔を見た。その顔に生えた苔を見つけ、灰色に見えていた世界に色が戻る。霞が掛かっていたような思考が鮮明さを取り戻し活動をはじめる。

僕は深呼吸をすると、皆川が進んでいった地蔵と地蔵の隙間を睨んだ。

 

 

 

 

その場所だけ妙な密度を持った臭気が立ち込めていた。

妖気や邪気の類と言ったほうがしっくりと来るのかもしれない。

兎に角、不吉な澱んだ空気がそこには在った。

ごろごろと海辺の石のように丸い地蔵の頭が優しい微笑を思い思いの方向に投げ掛けて、打ち棄てられていた。

そんな中で一体だけ原形を止めた地蔵が丁寧に掘り込まれた袈裟を半分朱色に染め、穏やかな微笑を湛えていた。

不吉を纏った地蔵…そんな名前が似合いそうなくらいにその地蔵に俺は不吉を感じていた。

俺は足元に転がった地蔵の頭を踏み越えて不吉を纏った地蔵に歩み寄り、袈裟を穢している艶やかな朱色に恐る恐る手を伸ばす。震える手が数秒かかって触れたそれは俺の想像に反して血液ではなかった。それはペンキか何かで、すべすべとした感触だった。その事実に胸を撫で下ろしたのも束の間、地蔵の影に隠れてその足元に転がる哀れな亡骸を見つけてしまった。

 

その亡骸は地蔵の足元に在って、肩から胸まで一太刀で袈裟切りにされ、地蔵の背中に寄りかかるようにして項垂れていた。よくよく見ると、それは項垂れているのではなく、袈裟切りにされた挙句に首が胴体から切り離され、膝の直線上にちょこんと置かれているのだった。その顔に張り付いた断末魔は驚愕と恐怖と絶望を美味くブレンドさせた表情をしており、大きく見開かれた眼には昏い闇が燈っていた。

その表情は角度を変えて見るとどう見ても蘇生のしようのない自らの亡骸に絶望しているようにも見て取る事が出来た。

一瞬、俺の中の全てが静止し、次の瞬間に一気に流れ出す。

 

鉄と魚の腐ったような臭いが俺を満たした。

 

俺は込み上げてくる酸っぱいものを自分の喉を思い切り握る事によって押さえつけると、逃げ出したいと叫ぶもう一人の自分に「逃げるな!」と一喝し、現状を把握する事に意識を傾けた。

間違いなく、それは単なる野次馬根性から来るものであったし、そうでもしないと狂気に飲まれてしまいそうだったのだ。

俺はまるで小説やドラマ、漫画の中の探偵のように振舞おうとイメージする。とりあえず、それを様々な角度から見てみた。どこからどう見てもそれは人間の屍骸で、痺れかけた脳髄はさらにその機能を停止させようとしていた。妙にゆっくりと時間が流れる。妙に意識がはっきりと在る。それで居て、意識はスパークし、火花を撒き散らし、落ちかける。

 

バチバチと火花が散るイメージが目の前で展開される。

 

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」三枝の絶叫で我に返った。その時俺が何をしようとしていたのか、さっぱりと思い出せないが網膜に焼き付いているのは姿勢を正してただずむ首なし死体だった。どれくらいの間俺は現実から目を背けていたのだろうか、俺の傍らで三枝は死体を見たまま立ち尽くしていて、死体を中心に地面に染み込み切らなかった血液が、得体の知れない赤黒いゼリー状の物体になって点在していた。冷静さを取り戻した所為で正常に機能し出した嗅覚が魚のような生臭い臭いを正確に脳髄に伝え、再び吐き気を催した。逆流してくる胃酸を何とか咽喉で堰き止める。

「う…あ…」俺は三枝に話し掛けようとしたが、口から出るのは吐息に混じる声にならない声だけだった。まったく、自分が情けない。俺はくらくらとする視界を何とか正常に保ちつつ、一歩前に出た。

夥しい量の元・血液が飛び散り、彼方此方に付着し、どす黒いアーティスティックな領域を演出していた。よくよく見れば朱色に塗られた地蔵にも血液は飛んでおり、妙に気持ちの悪い斑模様を作っていた。

視線を死体に移す。切り口は流石に直視したくは無かったが視界に飛び込んでくる。割と時間が経っているのだろうゼリー状の膜が傷を覆っている。

一度大きく息を吸い込んでから「血液の飛び散り方からいって、きっと此処で殺されたのだろう」と、言い切ってみた。根拠は無い。しかしながら、いい大人が2人して震えているわけにもいかないからな。

それにしても、まだ気温の低い季節、そして山間で良かった。死体は腐敗しておらず、生臭さ以外の異臭はしなかった。ここで腐臭がしていたらそれこそ阿鼻叫喚の地獄になっていたに違い無い。

「皆川…、此処で殺されたって…、凶器はなんだよ?」三枝は若干震える声で尋ねる。知るか、そんなもの!

俺はデジカメを取り出そうとポケットに手と突っ込んでから舌打ちする。そう言えば、鞄の中にしまった事をすっかりと忘れていた。仕方なしに通話できない携帯電話を引き摺り出し、カメラ昨日を作動させた。

電池は2ゲージ、写真は撮れる。

携帯電話の液晶モニタに切り取られた『世界』は俺の立っている場所から数メートル先なのだが、まったくの『別世界』に見えた。その『別世界』の中に在ってその死体は膝の上に自らの顔が置かれ、その顔は無残に鬱血し、黒ずみ、腫れ上がっている。その惨たらしい顔から生前、誰であったかを特定するのは困難を極めるんじゃないか、何て思ったりした。

 

一枚目。

ピロリロリン、と電子音。

『別世界』からまた隔絶されたそれはアートのように見るものを惹き付ける何かを持っていた。

 

二枚目。

ピロリロリン。

顔のアップ。黒く濁った肌。人のものではない。大きく見開かれた目の焦点はズレ、視線は左右で違っているように見える。正面から見たらどれほど吐き気がする表情をしているのだろうか?髪は綺麗に切りそろえられたショートカット。きっと、生前は快活な人物だったのだろう。

 

三枚目。

ピロリロリン。

また、死亡してから間もないのか、蝿こそ数匹死体の回りを飛び回っていたが、蛆は湧いていなかった。首の傷のアップ。黒く変色した切り口の肉がグロテスク。肉料理は暫く控えたい。

 

四枚目。

ピロリロリン。

肩から腹にかけての傷。着衣に見え隠れした肉。よくよく考えたら、ローストした時の牛の肉に似ていないでもない。警察にこの写真を提出してやれば何らかの証拠として捜査の役に立つのではないか?

 

五枚目-。

「おい、皆川。止めろよ、死者を冒涜するなんて真っ当な人間のする事じゃないぞ!」三枝が強い口調で俺の肩を掴み、抗議の声を上げた。

「真っ当な人間じゃないって部分は認めるが、死んだやつを冒涜する何てことは俺には出来はしないさ」俺は三枝の腕を振りほどくと、強めの口調で言い返した。

三枝は意外そうな顔で「じゃあ、携帯で写真を撮るなんて何の真似だ?」と尋ねる。

俺は誤解を招かないように、懇切丁寧に写真を撮った理由を説明してやった。

「それにしても、人の死体なんて初めて見たよ」と三枝は既にモノと化したソレをまじまじと観察し始めた。

「何だよ、枝さん。爺さんや婆さんの死体ぐらい拝んだことあるだろ?」俺は数枚写真を撮りつつ尋ねた。

「いや…。うちのは両方の爺さん婆さん健在だ」何かこう、自信満々で答えられてもねぇ?

「ああ…わかった。しっかし、こいつは肩から胸までのダメージで死んだんだろうな~」俺は液晶画面越しの死体を観察して言った。飛び散った血液が木々の枝葉に付くに至っていない。首などの動脈を斬られたのであれば、血液は勢いよく噴出し、辺り一面を血の海に仕立て上げているところだろう。現状を見る限り、そうなっていない事を考えると肩から胸にかけて斬られた後で首を斬られたと考えられる。

「それにしても、何で斬ったんだろ?」三枝が切り口を見る。スッパリと切れてるよ、この傷口。

「刀…、な訳ないよな」俺は更に数枚写真を取りつつ言う。

「鋭利じゃないけど、こういうところで入手できる刃物と言ったら鉈とか、斧かね」三枝は日常使うような道具の名を更々と上げる。

「でも、斧ならともかく、鉈で肩から胸まで一太刀で斬るなんてゴリラ並の腕力が要るだろう。刀でもそうか」俺はカメラから視線を外し、現実の死体を直視した。人もバナナも同じか。時間が経てば黒く変色して腐っていく。

「包丁って訳でもないしね。包丁だと骨を切ることが出来ないもんね」三枝はそう言って「斧あたりが妥当なところじゃない?」と〆た。

「後は…誰がやったんだ、コレ?」俺は周囲の状況を確認する。この死体は咎隠村のあちこちに点在している極普通の地蔵の陰に『設置』されていた。間違いなく殺した奴がわざわざ首を切り落として、膝に乗せたのだろう。趣味が悪いにもほどがある。しかしながら、俺達の足元は砂利とそれなりに固い土で覆われており、特に争ったような跡はない。状況証拠だけを集めれば、彼女は不意の一撃を喰らった瞬間にその機能を停止したのだろう。そうそう『彼女』と言ったのにはキチンとした理由がある。身体つきと服装だ。パニックに陥っていた先程は全く気にも留めなかったが、ジーンズにパーカーを着た格好で、ジーンズの尻の部分は女性特有の膨らみがあり、斬られたパーカーの隙間から見える身体には小振りの胸の膨らみが見えたから間違いないだろう。

 

肩口から斬られた為、吹き出す血液は広範囲に渡った。

殺すのに使われた凶器は無造作に放り投げられた斧か鉈のどちらかだろう。

どちらの凶器にしても柄の部分にまで血液が固着しており、一概にどちらを使用したのか、はたまた別の凶器を使用したのか、判別できそうもない。

「それにしても、コレ、誰だろ?」俺は死体を指差して言った。

「誰って…」三枝はそう言ったきり言葉が続かない。

「竹中とか言う奴の死体って言うのはナシ、な?」俺はパーカーの隙間を指す。三枝は納得したように頷いた。

「じゃぁ、コレ、誰の死体なんだ?」三枝は先程の俺と同じ疑問に至る。

「少なくとも俺達の知らない誰か、だね。少なくとも千秋ちゃんでも、真夜ちゃんでもないね」俺はきっぱりと言い切る。

「その自信たっぷりな発言の根拠はどこから来るんだよ?」三枝は胡散臭そうに俺を見ている。「なぁ、皆川。そこに転がってるのって?」不意に三枝が俺の後ろの茂みを指差す。

「ん?柄…か?」三枝が言っているのはそれなりに太い木を使って削りだしたと思える大人の腕の太さほど在る柄だった。俺は茂みを足で掻き分けると柄の先を探した。乱雑に打ち捨てられたその柄の先には鉄製の大きな半円が付いており、それの名前が『斧』であることを認識するまでに若干の時間を要した。

「斧…だよな」三枝が俺の肩越しに覗き込む。

「ああ、斧だ。ご丁寧にも血液が付着してたりするぞ」俺は半円を覆う赤黒いぬめりの正体が血液であると判断した。

 

今では無言の『ヒトカタ』となった彼女。

肩口から一気に斬りつけられた傷。それが表すは広範囲に渡って飛び散った彼女の残り香、死の象徴たる自身の血痕。

 

-現実感が消失している。

まるで出来のいいコンピュータグラフィックスで出来た世界に迷い込んだよう。

 

-本当に出来のいい世界だ。

ここには現実的な何かが欠落している。無造作に打ち捨てられた斧と鉈。凶器がこんなに簡単に放置されているなんて現実では考えられない。きっと彼女を殺すのに使われた凶器はこの無粋な道具のどちらかだろう。どちらの道具にしても柄の部分にまで彼女の体液が付着しており、素人の俺には一概にどちらの獲物を使用したのかなんて、…はたまたこの二つの道具以外に別の何かを使用したのかなんて判別できそうもない。

「で、皆川どうするんだよ?」三枝が擦れた声で尤もな疑問を投げかける。全くお前の言うとおりだ、俺が知りたい、どうしたらいいわけだ?

「…どうするったってなぁ」俺は浅葱色に染まりつつある空を見上げた。

鳥の一匹も飛んでいない春の空。

ポケットからタバコを取り出して銜える。タバコを一本ソフトケースから引っ張り出す。そしてその時、恐怖からか、好奇心から来る高揚感からか、自分の手が震えていることに気付く。

カタカタと寒さにでも震えるように頼りなく俺の手は震えていて、うまく火を点けられない。タバコ一本に火を点けるのに莫迦みたいに時間を掛けている。

 

 

目を瞑る。

フラッシュバック。

櫻澤村に在ったカムイの死体。

彼女-名前も覚えていない女子大生の死体。

そして、今目の前に転がっている無残な誰かの死体。

これだけの人間が俺達の目の前で殺されていて、関連性が無いわけが無い。三国と菅沼が襲われた事実、榊の存在。加藤の後ろ盾。

榊が之をやっているのか?何のために?

精神衛生上宜しくない自問自答を繰り返す。

 

 

息を吸い込み、吐き出す。真夜や千秋は大丈夫だよな…。

俺は悪い予感を払拭するためにやっと火が点いたタバコを一気に吸うと、空に向かって吐き出した。

「…取り敢えず、これはこれ」俺はなるべく軽めにそう言うと三枝に向き直る。

「え?」三枝が呆然とした表情を俺に向ける。

「簡単に言うとだな、『櫻ノ海』に行こうってことだ。…気分が悪いが、最悪、『櫻ノ杜』まで行くことになるんだろうなぁ」俺はそう言うとこの先に何やら不吉な空気を感じて頭を抱えてその場に蹲った。

「何やってんの、お主?」三枝が俺の頭上から覗き込む。その仕種がやけにむかついたので立ち上がると無言でゲシゲシと三枝の脛を蹴ってみた。

「おっ?おっ?おっ?」俺の蹴りの回数だけ間抜けな言葉を発する。そんな三枝を見て、俺は若干心の中を渦巻く不安が消えたことに気付く。「ふぅ」と、言葉だか溜め息だかわからないモノを吐き出すと道の先に広がる白と薄紅とで満たされた禍々しく、忌々しい『さくらのうみ』を睨み付ける。朝霧に包まれた幻想的なその世界は俺達の居る世界とまるで勝手が違っているように思えた。

 

 

 

 

「これは儀式なのだ」そう、自分に言い聞かせる。手にした包丁を自分を模した何かに突き立てる。それはモゴモゴと言うばかりで言葉が通じない。少し苛立ちを覚え、振り上げて自由落下させた。

ガラス球は潤い、一筋のラインがすっと大地に吸い込まれていった。

とすん、と静かに音を立て、包丁は贄から生えるようにして静止した。

バタバタと騒がしかったモノが電池の切れた玩具の様に緩慢に動きを弱めていく、そして、耳が痛くなるほどの静寂。

 

「これは儀式なのだ」もう一度口に出して自分に言い聞かせる。その筈なのにどうしてこうも鼓動が煩いのだろうか?

自分の胸に手を当ててみる。

ド、ド、ド、ド、ド、ド、ド、ド、ド、ド、ド…。

規則正しく、まるで精密な時計のように鼓動は自分の中で鳴っていた。

興奮しているのだろうか?

妙な高揚感が心を満たしている。

 

 

どれだけの時間をそうしていたのだろうか、カタン、と包丁の転がる音でソレを見る。折角生えたのに、それは身体の一部を床に投げ出していた。静かに転がった包丁を手にすると、自分の分身…その『ヒトカタ』の首に当てた。

スッと、真一文字に引いてみる。赤色の染みが一直線に広がる。動いていた時のように無粋に飛び散ったりしない。静かに、しおらしくそれはゆっくりと床に赤い水溜りを作り始める。

 

 

-これは儀式なのだ。

 

 

手にした斧を狙いを外さないように首に目掛けて打ち下ろす。ゴリッと硬いものにあたる感触を経て、斧は床に刺さった。音も立てずに、『ヒトカタ』の頭部がその反動で転がる。ガラス球は鈍く窓からの光をその中に湛えて天井を見上げるようにして止まった。

窓から外を見る。桜の花々を朝露が枝垂れさせている。視界一面の桜色。本物の桜色。

 

『そこは深い深い森の中にある』

 

『そこはすでに忘れられた祭壇』

 

『そこは血塗られた過去をもつ』

 

 

だから、儀式を行う。この地に幸をもたらす為に。

 

 

小屋から外に出て、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。生きている実感があった。あと、半分。

 

それで儀式は完遂される。

 

士送りの儀式が。